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月 下 独 酌

月下独酌(2017年)

   
 18年8月10日
 先日中国・上海で働いている友人が一時帰国していたので、納涼も兼ねた食事会がありました。まあ暑い中なので話題はついつい暑さに対する愚痴になってしまうのですが、最近の現地の事情についてもいろいろ聞きました。

 その一つが、日本でもよく話題になってきていますが、買い物や食事などほとんど現金を使わない生活についてでした。つまりキャッシュレス、スマホ決済が徹底しているという話です。スマホに支付宝(アリペイ)、微信支付(ウイチャットペイ)のアプリを入れれバ払えるわけですが、何せ実施する時は早くしかも徹底するという社会ですから、日常の物品購入や飲食店の支払いはもちろん、割り勘支払いは簡単にできるし、子供や孫へのお年玉もこのアプリを使うとのことです。

 ですので、コンビニや屋台で現金を出すと、手間がかかるということで非常に嫌がられるということです。非居住の観光に中国にきた外国人はそんな場面に遭遇すると困ることになるわけです。国内でも、友人曰く、上海など華東地区は支付宝(アリペイ)を使う人が多く、広東など華南地方では微信支付(ウイチャットペイ)が主流で、国内で他の地方に行ったときなど違うアプリを出さなければならず、いささかバタバタするとのことです。

 で、問題はここからですが、筆者などはこれらのスマホ機能はあまり使いたいとは思いません。なぜならこの機能によって個人の24時間の生活パターンがすっかり丸裸にされるからです。もともとスマホの位置検索機能もありますので、ある個人がいつどこで何を買って何をしたのか、を支払いからも明らかにされるわけです。しかも、街中に監視カメラが多数あり、顔認証機能などAI(人工知能)を使って、ある特定の時間に何処にいるのかも瞬時に判明できる社会になりつつあるのです。

 現金を持たなくて便利だ、などと言う意見もありますが、個人のすべての情報がある特定の場所、つまりは政府という時の権力に集中するわけです。ですのでその権力がある特定の個人を、例えば実際に起こっていることですが、人権問題を扱う弁護士を拘束しようと思えばすぐに彼の現在場所を特定し、公安職員を派遣して捕まえることができるのです(というより実際にそれがおこなわれています)。反政府活動というような大きな活動ではなく、ただ市民としてのささやかな権利のあり方を主張しただけで、24時間の監視と行動の把握がおこなわれているというわけです。

 しかもこの状況が決して他国の話で終わることはないということです。様々な名目で個人情報を収集し、あるいは“マイナンバー”で個人を特定してその使用で個人生活の動向を掌握しようとする、日本でも着実にそんな既成事実が積み重ねられています。この国の司法の在り方を見ても、「森友・加計学園問題」に見られたように、後ろ盾が外れた個人に対しては犯罪捜査として襲い掛かりますが、強い権力と組織論理に守られた人間(偽証や文書廃棄をおこなっても)に対しては、犯罪としての立証を放棄します。

 ですので、余計に個人の情報を守ることが必要なのです。“何も悪いことをしないからいいじゃない”という話ではなく、日常生活において、常に監視されているような社会でいいのかという話ですね。身を守るために、個人でできることは確かに限られているかもしれませんが、“最新の機器”に疑問を抱いてもいいのではないかと思います。
 

   
 18年7月26日
 サッカーW杯ロシア大会はもうすっかり遠くの出来事のように思いますが、試合とは別に起こった出来事を2つ紹介します。スポーツと政治に関するものです。1つはTVで見た方も多いと思いますが、偽の警官制服を着た数人がピッチに乱入し試合を一時中断させるという事態が起きていました。彼らはロシアの女性ロックバンド「プッシー・ライオット」のメンバーで、プーチン大統領の強権政治にこれまでも批判活動を行ってきたグループで、今回の事件で「15日間の収監」という判決を受けました。

 このような行為に対して日本ではすぐに「試合が台無しだ」「スポーツに政治を持ち込むな」など彼らの行為をただ断罪するような主張がなされましたが、欧州のメディアではもちろん試合を台無しにした事実は述べるとともに、彼女ら「プッシー・ライオット」のこれまでの主張や行動、つまりプーチン政権の思想弾圧を批判し、政治犯の解放、国内における自由な政治競争の容認、不当逮捕の停止などを要求している、ことなどを紹介しています。

 少し考えてみれば分かることですが、スポーツは常に政治に翻弄されてきました。例えば古くは、1980年のモスクワオリンピックはソ連のアフガニスタンに反発したアメリカ・日本など西側諸国がボイコットし、次の84年ロサンゼルスオリンピックはソ連と東欧諸国が参加をボイコットしました。オリンピックやW杯を“国威発揚”のために開催すると言ってはばからない国や政治家は当たり前のようにいます。サッカーW杯も、開催国の選定をおこなうFIFA(国際サッカー連盟)においては政治とお金が絡む様々なさまざまなスキャンダルも出ています。今回のロシア大会はプーチン大統領の威光をPRするために行われたものだ、また22年のカタール大会はオイルマネーにまみれたものだ、という批判があるのも事実です。

 もう一つの出来事は、ドイツ代表でトルコ系の選手であるメスト・エジルが人種差別への失望でドイツ代表から引退することを表明した問題です。優勝候補であったドイツは予選リーグであっけなく敗退し、国内のサッカーファンから批判を浴びていました。そこにドイツサッカー連盟の会長がエジルのサッカー外での行動も含めて敗退の責任について批判したことがきっかけです。じつはエジルは今年5月にロンドンでトルコのエルドアン大統領と面会して記念撮影をおこない、SNSに掲載した件について、それが同大統領への支持に該当するとの批判をドイツ国内で受けていました(トルコでの政治弾圧、人権抑圧などが西欧諸国で批判されています)。

 エジルは、その行動は「家族の国に対するリスペクトなんだ」と語っています。確かにSNSに掲載したことは軽率だと思いますが、彼は「自分たちが勝った時は僕はドイツ人だし、負ければ移民ということになる。自分はドイツで納税をしているし、ドイツの学校に寄付もしたし、2014年にはドイツ代表でW杯を制した。にも関わらず、自分は未だに受け入れてもらえない。“異なる者(different)”として扱われているんだ」と、ドイツにおける人種問題について心情を吐露しています。

 つまりどのように説明しようが、やはり政治問題となることです。“スポーツに政治は無縁だ”という現実離れした態度をとるのではなく、政治的自由があるからこそスポーツや芸術が躍動できる社会であることを常に意識することが必要なのでしょう。つまりはその自由を押さえつけるような力に対しては、スポーツにおいても政治的と言われようがきちんと反対する態度を明らかにすることがです。

   
 18年7月18日
 サッカーW杯が終わり、その熱気も徐々に冷めていますね。日本チームに関しては、マスコミやファンの間でもそうでしたが、当初は冷ややかに何の期待もできないとしつつ、決勝トーナメントでベルギー相手に3対2の接戦を演じたことで今度は正反対に賞賛の嵐となりました。そしてサッカー協会もこの間の監督交代劇などに見られた行動を深く検証することなく、次期監督は日本人でいく、〇〇が候補だと、もう何の問題もなくなったというように次へ進んでいます。

 一協会のことにいちいちくちばしをはさんでも仕方がない、ということかもしれませんが、しかしサッカ―だけでなくその時の事実関係をじっくり検討することなく終わったことにしてしまうのは、自分たちの生活面では避けるべきだと認識する必要があるのではないでしょうか。

 例えばマスコミでもいろいろ報道されましたが、つい先日の西日本集中豪雨時の対策や行動についてです。これほどまでの被害は予測できなかった、と言えばそれまでですが、果たして対策を行う力と金を持っている政府や国会の動きはどうだったのでしょう。相次いで警報が出されていた7月5日に、総裁選を睨んで内輪の「赤坂自民亭」なる飲み会で首相はじめ関係閣僚が酒盛りをしていたのみならず、その写真をSNSにアップして喜んでいた官房副長官ら官邸の幹部たちがいました。そんなのんびりした意識が8日まで非常災害対策本部を設置しなかったことなどで、災害発生で重要な初動対応が遅れに遅れたと批判されています。

 また国会は7月10日に、野党の要請を拒否し「カジノ法案」の審議を優先するために内閣委員会を開催し、災害対応の先頭に立つべき国土交通省を委員会に出席させたということもおこりました。被害が拡大しつつあり、対応すべき事態が次々と起こっている状況でしたので、それこそ国会は何日間か休会にして、与野党議員こぞって対応に取り組み知恵と力を出すべきでした。しかし政府は「カジノ法案」優先の姿勢を示したのでした。

 緊急性が必要とされる災害対応でこのような有様なら、日常の国民生活での対応策はおして知るべきです。様々な危機に鈍感な組織では、“国民の命と生活を守る”は建前の言葉になってしまいます。もちろん為めにする批判では意味がありませんので、自分たちの身を守る知識や知恵を自分たちで蓄えつつ、地域のハザードマップ(土砂災害・水害に関する危険予想箇所図)を確かめるなど行動を起こすべきでしょう。

   
 18年6月15日
 歴史的な米港首脳会談がシンガポールで開かれましたね。その後の共同声明について、「完全で検証可能、不可逆的な非核化」(CVID)のうち「検証可能」と「不可逆的」の語は消えていたということで、各方面からの批判や疑義の声が上がっています。しかし非核化には時間と作業が必要なことは当然で、トランプ大統領にとっては首脳会談を行ったこと、中間選挙に向けて成果を誇れること、などで十分だったのでしょう。

 残念ながら日本政府はこの首脳会談にほとんど関与できませんでした。日本政府のコメントでは事前に安倍首相がトランプ大統領にきっちり物申したとしていますが、まあトランプ大統領はあくまでも自国利益第一主義なので実際にはほとんど考慮してなかったと考えるべきでしょう。それよりもこの後北朝鮮の非核化と経済支援に日本からお金を出させることが主題で、“対米追随姿勢”が強い安倍政権に圧力を加えてくる算段だと考える方が実際のところでしょう。

 いずれにしても外交の立ち居振る舞いでは、アメリカをはじめとしてこれまで6か国協議の枠組みということで関与してきた中国やロシアの方が日本以上に緻密で大胆な行動を行うでしょう。考えてみれば、日本を取り囲む各国は、米、ロ、中、北朝鮮(韓国を除いて)とすべて核保有国です。友好的か非友好的かということとは全く関係ありません。これらの国は核をもって交渉できるということです。それなら本来対抗すべき日本は“非核”の立場を鮮明にすべきですよね。

 しかし残念ながら、昨年国連で採択された「核兵器禁止条約」に日本は賛成しませんでした。理由は、核保有国が出席していない、非核保有国だけで決めても現実的ではない、核保有国と非核保有国との対立が深まる、などというものでしたが、あれれ、これでは日本周辺の核保有国に対して何も言えないということを吐露したようなものです。もちろんこれにはアメリカの軍事的核の傘の下にいるという理由からだ、とは表立って言えないからですが。

 結局はなから日本は何もできない、ということを示されただけのようなものです。かつてアメリカと中国が電撃的な国交回復をおこなったときに日本はカヤの外で、それから慌てて日中国交回復を行いましたが、ここでもまたその轍を踏むかもしれません。一番近くで(海ではあれ)国境接する国との外交に独自の方策がないというのは恥ずかしいものです。

   
 18年5月31日
 前回の欄で話題に上げた日大アメリカンフットボール部への処分が発表されましたね。大体は予想通りでしたが、チームへの処分は思ったより軽かったですね。今季を限っての試合停止で、学生への教育面を考えるということのようですが、関東リーグの監督会の中で意見があったようにまずは無期限でなければ改革を待つという趣旨にそぐわないでしょう。すでに問題は学生スポーツの範囲を超えて日大の組織そのものの問題になっているのですから。

 厳しい言い方かもしれませんが、旧軍隊のような上意下達としごきの組織のなかにいたコーチや部員がそれこそ全員が替わらなければ組織の発想も変わりません。なかなか組織の中で反対意見を言うことは難しかったかもしれませんが、部員たちが自分たちは何か被害者だけであったというような考えでは、1年たっても部の発想は変わらないでしょう。上級生の中には監督やコーチの発想に従って下級生に上と同じような対応をしていた人間がいただろうということは、容易に想像できます。

 それらの検証については厳しすぎるほどの対応があってもいいのではないでしょうか。関東1部リーグのほかのチームにとっても他人事ではないでしょう。組織の在り方について多くの論議が巻き起こることに期待したいです。
 
 一方こんなニュースもありました。大阪地検特捜部は、森友学園をめぐる決裁文書改ざん問題で佐川・前国税庁長官らを不起訴とする方針を固めた、とのことです。この問題をめぐっては、市民団体が佐川・前国税庁長官らを虚偽公文書作成などの疑いで刑事告発していたのですが、それが受け入れなかったということですね。また、売却価格が8億円余り値引きされた問題の背任容疑についても、財務省・近畿財務局の担当者らを不起訴とする、とのことです。

 ううむ、国民に損害を与えた行為に対して法的に罰することができない、ということです。当事者は嘘をつこうが税金を無駄に使おうが何の責めも負わないことになりました。これが今の日本の国の組織論です。行為が正しいか間違っているかではなく、権力への追随や忖度の度合いによって功績が上がるというような構造になっているということでしょう。

 日大の組織を笑えませんね。それも日大は曲がりなりにも“私企業”ですが、こちらは国民が投票で選んだ政党によって運営される政府です。批判は自分のところに戻ってくるということを身にしみて感じなければいけませんね。

   
 18年5月18日
 関学と日大のアメリカンフットボールの定期戦で、日大の選手が悪質な反則をしたということで、スポーツにおける暴力の問題あるいは強い権力を持つ指導者の在り方などが議論になっています。この試合に限って言えば、日大の当該選手は明らかに関学の選手を“傷つける”目的でタックルに行っています。

 幸いにもこれらのシーンの映像が残っていて、その悪質さが鮮明になっています。一昔前でもし映像が残っていなければ、加害者の方が言い逃れをしてうやむやになっていたかもしれません。関学側は謝罪と真相究明を求めていますが、日大側は監督が雲隠れ、さらに最初の回答文書で選手が監督の指示を勘違いしたかのような、つまりは軽い問題のような対応をして、フットボール界だけでなく各界から非難を浴びています。

 これももう、監督の指示による選手潰しであることは明らかです。選手本人及び選手周辺も“監督に命令された”との発言をしていますし、映像を見ても、退場してきた選手にコーチ陣が叱責もせずよくやったというねぎらいの行為をしている場面がしっかり残っています。ひどいものです。結局これ以降の練習試合は相手校が拒否してなくなりましたが、ここは重い処分をすべきです。

 本来なら日大アメリカンフットボール部の廃部・永久追放、監督のフットボール界からの追放でしょうが、少なくとも秋のリーグ戦への出場停止(来年は2部から参加)、というような厳しい処分をすべきでしょう。もしここで関東学生連盟が軽い処分をするとしたなら、リーグ戦の対戦校は負けとなってもいいから日大戦は拒否すべきだし、もし甲子園ボウルに出てきたら関西のチーム(関学でなくとも)は対戦を拒否すべきです。勝ち負け以前のスポーツや組織の在り方、学生の自主的なスポーツの存在、そのものの問題が内包しているからです。

 日大の現監督の指導はスポーツの指導というよりは、権力者が自在にふるまえる場をスポーツという名で構築している、というようにしか見えません。もちろん日本の学生スポーツが必ずしもメンバーの創造性を伸ばしたりする場となっていないことはあるでしょうが(体育会系といわれる酷い上下関係や無意味な長い練習など)、ここでは組織を理不尽に私物化し構成員を力によって押さえつけようとする体質が蔓延していることが怖いですね。

 思えば政治や社会の場では、例えば「森友学園」への国有地売却に関する決裁文書の改ざん問題で佐川・前国税庁長官は不起訴になりそうだし、「加計学園」問題で便宜をはかろうとした官僚たちが国会で平気でうその答弁をしても罪にも問われないし役職にも影響しない、などという現象が日常茶飯事となっています。まっとうな批判などどこ吹く風、自分が所属するグループに利益をもたらすためなら、国家財産を損ない税金を無駄使いするなど何とも思わないという層が組織の上にいるということですね。

 結局はやり得、少しでも権力を持った者が理不尽な行動をしようとも、それが正されない社会に更になりつつあるのです。そんな意識と同様に、このアメリカンフットボールでも、“やったもの勝ち”で済まされることであってはならないでしょう。
 

   
 18年4月27日
 このところいろんな映画を見てきました。もともとジャンルにはこだわりがなく何でも見る方で、だから映画館も繁華街にあるシネマコンプレックスから単館やアート館にも行きますし(十三の第七芸術劇場や神戸の元町映画館など)、大阪アジアン映画祭のように普段は映画館で見られない映画も見に行きます。ということで上映はもう終わっている作品も多いのですが、どこかで見るチャンスがあるかも知れませんので、いくつか紹介します。

 まずは大林宣彦監督の「花筐(はながたみ)」です。ガンで余命数か月と宣告されながら作品を作ることでそんな数字を吹き飛ばしている大林監督ですが、自身のデビュー作以前に書き上げていたという脚本を40年の時を経て映画化したものです。太平洋戦争の勃発前夜、佐賀県唐津に生きる若者たちの青春群像劇ですが、もちろん一筋縄でいく映画ではありません。

 もともとカルト映画として有名な「ハウス」でデビューしただけあって、画面の切り取りや様々な材料の挿入、ストーリーの突飛な展開、などは当たり前のことなのですが、映画上の役柄の設定が17歳や18歳なのに出演している役者がほとんどが30歳以上で、それにもかかわらず少年少女の役を平然とこなしているところが面白いですね。自分たちの「生」を自分の意志で生きようとする純粋で自由な日常が、戦争の渦に巻き込まれていくという時代ですが、その忍び寄る戦争の足音とそれに自らの意思で抵抗しようとする彼らの姿が描かれています。

 「殺されないぞ、戦争なんかに!」その言葉は大林監督の姿勢そのものです。自由な心を持つ若者が戦地へ赴き、そして多くの尊い命が戦場の露と消えた、その記憶を今を生きる人々にこそ記憶してほしいという、監督の願いです。一貫して戦争につながる時勢の流れを批判してきた彼の姿勢ははっきりしています。

 続けては偶然ですが、今年のアカデミー賞を受賞した作品が続きました。別にアカデミー賞作品だからといって見ようとは思っていないのですが、内容が今の社会の在り方と声高には出さないけれどそれへの批判的精神にあふれ、深く考えさせる作品であることは間違いないですね。

 まずは作品賞と監督賞を取った「シェイプ・オブ・ウオーター」です。1962年米ソ冷戦下、アメリカ政府の極秘研究所に勤める主人公の女性の前にアマゾンの奥地でとらえられた不思議な生き物が運ぶこまれます。いわば男の人魚なのですが研究所はその能力を軍事的に利用できないかとひどい実験を行うのですが、主人公はその生きものと言葉ではなくコミュニケーションを通わせ、やがて一緒に逃げる決意をするのです。

 基本的には2人のファンタジ―物語なのですが、作品の中ではロシアのスパイが暗躍し殺人事件も起こりますし、米国内の黒人差別の様子もきちんと表現していて、決して絵空事のファンタジーにはなっていません。見た目た言葉が通じないというだけで敵対していく社会性への批判がきっちりと描かれています。

 そして主演女優賞と助演男優賞をとった「スリービルボード」です。アメリカ南部ミズーリ―州のある町で、娘が暴行された後に焼かれて殺されるという凄惨な事件をうけて、その母親が一向に進まない警察の捜査を批判して通りに大きな3枚の意見広告看板(スリー・ビルボード)を出します。しかし町の人々はその母親に批判的であり、警察署長を敬愛してきた人々との軋轢がおこります。そこに警察署長を敬愛しているが自身が人種差別主義者として知られる警官が勝手に母親を脅すような行動をとります。

 ここから物語は発展していくわけですが、実は物語は犯人が最後につかまるなどというハッピイエンドでは終わらず、また母親が過去を忘れて新たな生きがいのもと生きていく、などという風にも終わりません。実は母親も含めそれぞれの人物の家庭の影の部分が母親の行動によってどんどんあぶりだされてきます。それが人物の行動にも影響するわけですが、物語の永ゴロでショックな出来事が起き、またラストも予想外な展開になります。

 いずれにしても思ったことは、よくこんな脚本が書けたなあということでした。上の作品も含めて一見ありそうにない事件が起こるのですが、その背景の社会的事象をきちんと書き込んでいることが賞に値したということでしょう。国家であれ警察であれ、大きな事件であれ小さな事件であれ、その時代の持つ権力の背景を押さえていることが作品に現実味を持たせます。

 ひるがえって、ここのところ日本における政治家と官僚の関係性がよくわかる事件や出来事が多かったですが、ジャニーズ系や芸能人の事件が起こるとマスコミの関心は直ぐそちらに移ります。しかも力のある芸能事務所に抗することのない加工された情報をたれ流すという方法ですね。まだまだ終わっていない事件をその背景とともにきっちり伝えるという本来のマスコミの役目は遠くに追いやられています。

 きちんとした社会的事象として事件を忘れないという姿勢は、もちろん社会を構成する自分たちでまず持つことが必要ですね。映画に負けてしまうようなことは避けたいものです。

   
 18年4月11日
 サッカー界の話です。ロシアで開かれるW杯まであと2か月というところで、ハリルホリッジ日本代表監督が解任されました。後任には協会の西野・技術委員長が就任し、コーチスタッフなどもハリルホリッジ前監督が連れてきたメンバーから日本人のコーチに完全に変更されるようです。

 まあ、たかがサッカー界の人事ではあるんですが、何せサッカーのW杯といえば世界一規模の大きな(予選からしてですが)スポーツイベントであり、そこで動くお金も莫大なものがあります。まあ欧州の各クラブなどでも成績不振になれば、一番先に監督の首が挿げ替えられるわけなのですが、なにせW杯では1次リーグで4チームが争い2チームが決勝トーナメントに進出する仕組みなので、その各国も対戦相手国の監督が代われば戦術も変わると新たな対策を講じなければならなくなるから、注目されるわけです。

 ただ今回のW杯で対戦相手国はコロンビア、ポーランド、セネガルでは日本よりレベルの高い国ばかりで、実は日本の監督が代わってもどうということはないと考えているかもしれません。そうなんです、そこが問題なのです。

 マスコミやネットでは、ハリルホリッジ監督の言動や試合戦術や選手選考なども含め解任は当然どころが遅きに失したという論から、逆に日本サッカー協会の無責任体質を問う意見、さらに裏事情としてスポンサーからの圧力があった(宣伝媒体としていま選ばれていない中心選手が必要な事情からなど)という論調など、様々な意見が出されています。まあスポーツのどの世界でも指導者は結果を出して当然なので、試合で負けがこめば解任されるのもやむを得ないと考える方が大半でしょう。

 しかしあくまで目指すのはW杯での勝利なので、4年前とは違った戦い方を本番では行ったはずだ、と前監督を擁護する意見もあります。そこでに日本サッカー協会が持ち出した解任理由が「選手との信頼関係が薄れている」ということでした。 まあここに一番の問題が含まれているのではないでしょうか。要するに選手が言うことを聞かなくなったのは監督が悪いからだ、というような意味でしょうが、果たしてどれだけ日本代表選手が自ら切磋琢磨して個人の技術を上げるとともに、戦術を理解してそれを試合で体現する努力をしたでしょうか。

 近年のサッカー日本代表の試合は本当につまらない試合が多かったですね。パスのスピードは遅い、競り合いで負ける、挙句は負けている試合でも平気でバックパスや横パスを続ける、ドリブルなど自ら局面を変える動きをしない、などなどです。監督の責任はもちろん重大ですが、実際に動く選手がそれ相手以上の努力をしなけれな結果は見えてしまいます。前回のブラジル大会以後この4年間に新たな戦術で進めようという積極さが選手にあったかどうか問われるでしょう。

 ドタバタ劇は決していい結果を残さないでしょうが、サッカー界でも“別に代表の試合はどうでもいい、身近な地元のチームの面白い試合が見られればそれでいい”、“欧州の試合の方が面白いので、日本の試合は見ない”といった別の見方をするファンが増えていますので、協会の組織と運営自体を変えなけれな日本サッカーはじり貧になっていくかもしれません。

   
 18年3月31日
 証人喚問があっても「森友学園」問題の真実は明らかにされず(というか大体の筋書きはいろんな形で漏れ聞こえてきますね)、だれもが大きな不満を持ちつつも、国会では来年度(2019年度)の予算が決まり、現政権は何事もなかったかのように新年度を迎えるようです。しかし安倍首相のお友達の関係者の愛媛県の「会計学園」問題でも、認可過程でのご都合主義的な審議や、その内容についての“改竄、隠蔽”の疑惑がまだまだくすぶっているなど、国政を揺るがすような問題は解決していません。

 一方で北朝鮮の核問題は、米朝会談や中朝会談、そして南北会談と様々な形で新たな状況が進みつつあるのですが、トランプ大統領との蜜月をアピールしていた日本(安倍首相)には、まったく情報が入らないどころか、日本抜きが既定の路線のようにまとめられつつあります。独自の外交手段を持たないがゆえに、言葉だけが勇ましく空回りし振り上げたこぶしも落としどころがどこにもない、といった状態に安倍政権は陥っています。

 誰の利益を守るのか、といった根本の問題がますます薄くなってきていますね。

 そんな状態の中で迎える4月1日。会社や学校で新人が生まれるときです。市民生活では新年度になってまた値上がりする物品も多いと思いますが、とりあえずは新しい目で身の回りや社会の諸事象を見つめなおすいい機会です。言葉通りに受け取れることがどれほどのものになるのか、自身の体験を通じて積み重ねていくしかないでしょうね。

 そして今問題となっている社会の様々な事象に時には鋭い突っ込みを入れるのもありだし、徐々に見る目を養っていきたいものです。陳腐な言葉ではありますが、“若い力に期待したい”ものです。

   
 18年3月13日
 この数日間いろんなニュースが伝えられました。国内外とも、一見すると直接日常の生活に関係ないような話題にも見えますが、実は今一番我々の生活、それも未来にもかかわる出来事ではないでしょうか。

  「森友学園」問題に関連した公文書の改竄は、官僚組織ならやりかねないと考えている人にとっても大きな衝撃を与えたかもしれません。1年以上も前から“忖度”という言葉で表れていた森友学園への不当に安い価格での国有地土地払い下げ疑惑。簡単に図式を考えれば、教育勅語を園児に覚えさせるような時代錯誤の教育であからさまに安倍首相の政治姿勢を支持する森友学園(首相夫人を名誉校長にする)に有利になるように、官僚にそれとなく指示を出し、何人かの国会議員も絡んで、ほとんど無償に近いようにして土地を払い下げようとした、ということですね。

 それを体現しようと、当時の理財局長だった、現・佐川国税庁長官(突然辞任してしまいましたが)疑惑を追及されても、それに相当する文書はないと国会で強弁していました。答弁ともつじつまを合わすために安倍昭恵夫人や国会議員の名前を消去、特別な計らいであったという内容の部分も消去、などとまあ見事に改竄したものです。

 結局、野党の追及や今は拘置されている籠池側の証言、などが正しかったということですね。一部の政権にべったりのマスコミは他の新聞社名や個人名を挙げて、疑惑はでっち上げだなどとキャンペーンしていたものですが、追及側の通りに資料が出てきたわけです。安倍政権は、これは当時の佐川理財局長と一部の財務省職員が勝手にやったことだと、佐川国税庁長官の辞任で幕引きを図ろうとしていますが、まあ誰が見てもそんなはずはないと思いますね。

 財務官僚にとってももちろん自己論理と政策を実現するために政権側と駆け引きをし、1つの政策を実現するためにバーター取引として政治家側からの利益が絡んだ要求を呑み込むことは当然あると考えるのは自然なことですね。しかし疑惑があるだろうと国民が注視し、TVでも中継される国会審議であれだけ露骨に問題はないと隠蔽するような行動に出ることは、決して一部の官僚だけでできることではない、と考えるのもまた自然なことです。

 官僚組織とはいえ、今は政権政党に人事も含めて首根っこを押さえられているような形になっていますので、“上からの指示”があれば従わざるを得ないでしょう。事は安倍政権に限りません。時の権力者のいいなりに政策が曲げられ、国民に損失をもたらすことが罪の意識なしに行われてしまえば、国会での審議など必要なくなります。ましてや文章の改竄で事実隠しに走る行政組織は、国民の利益を大きく損なう無法な組織ということになります。

 しかし考えなければならないのは、こんな事態をもたらした原因は何なのかということです。その大きな原因の一つはやはり政権の政治姿勢に問題や危惧があらわされていたにもかかわらず、選挙で絶対多数の議席を取ったということです。森友学園問題は選挙時でも問題であったはずです。外交や憲法にかかわる課題もそうでした。しかしそんな政権を選んだのは前の選挙で投票した有権者です。

 時の政権を厳しい目で見つめる事はやはり有権者に必要ではないでしょうか。もちろんいつもあら捜しをするというのではありません。具体的な政策が実際の生活に本当に役立つものとなっているのかを、ごく当たり前の生活感覚で見直そうということです。まだ“誰が、何故”という具体的内容が本当に明らかになっていない森友学園問題ですが、今度こそ尻切れトンボの幕切れは許されないでしょう。

   
 18年2月23日
 平昌冬季オリンピックが開かれています。競技外の話題でのほうが先行している感もありますが、競技の運営(例えば競技開始時間など)についての批判や避難は納得できるものもあります。ジャンプ競技など欧州で人気のある種目は欧州でTV観戦しやすいように(時差を考慮して)深夜に競技をおこなって、観客はほとんどいないという異様な光景でしたね。そもそもIOCはTVの放映料という“打出の小槌”で莫大な利益を生み出すようになったので、これまでもそんな問題を起こしてきましたね。

 今さら言っても仕方がないということですが、他の競技団体にしても同じようなこと(TV放映時間内に終わるよう競技ルールを改正など)を繰り返しているので、TV抜きでは大きなスポーツは見ることができなくなるかもしれません。まあ、自分たちが住む地域で開かれるスポーツは、やはり直接見に行き楽しむという習慣を持つことがいいかもしれません。

 TVと言えば競技終了後のインタヴューがありますね。これがまたほとんどの場合、当のスポーツの面白さや楽しさ、そして当該選手の技術や研鑽など興味のある話題がたくさんあるにもかかわらず、なぜか“感動を広める”話に持って行こうとするのですね。例えばメダルを取った選手に、“この喜びをだれに最初に伝えたいですか”“メダルをかけてあげるとしたら誰ですか”などとほぼ同じような質問をします。まあ明らかに「親」や「祖父母に」、などの答えを期待して、家族の感動物語にしようとの意図が見え見えなんですね。

 しかしあまりにも見え見えなので、最近はそれに乗っからないで自分の考えをしっかりと話す選手が増えましたね。例えば男子フィギュアで銀メダルを獲得した宇野選手は、“誰にメダルをかけてあげたいですか”という質問に、「いあや誰に掛けてもらっていいですよ」とさらっと答えていました。今回だけのメダルを特別視せず、競技者としてもう次の活動に目を向けている(あるいは本当に物に執着しない性格ということかもしれませんが)という姿勢で、感動と涙なるものを無理に前に打ち出さなくていい、と言いたげでした。

 またスピードスケートの小平奈緒選手や他の選手にしても、アナウンサーが欲しがる決まり切った答えではなく、失礼質問にも動じることなく、しっかりと答えていたのではないでしょうか。TVに慣れすぎない事が肝要ですね。
 

   
 18年2月2日
 続けて2本の映画を観賞しました。寒い日々続くので、ここはスカっとアクションものなんかで気分転換、というノリではなく、割とまじめな映画を見てきました。ロードショーではなく名画館での観賞です。

 1本目は「ヨコハマメリー」です。「かつて、ひとりの娼婦がいた。彼女の名前は“ハマのメリー”。歌舞伎役者のように顔を白く塗り、貴族のようなドレスに身を包んだ老婆が、ひっそりと横浜の街角に立っていた。本名も年齢も明かさず、戦後50年間娼婦として生き方を貫いたひとりの女。・・・その気品ある立ち振る舞いは、いつしか横浜の街の風景の一部ともなっていた。“ハマのメリーさん”、人々は彼女をそう呼んだ」映画の説明にはそう紹介されています。

 この映画はドキュメンタリーで、制作は2005年です。つまり今から12年以上も前に作られた作品です、監督は当時30歳で、この作品がデビューとなった、中村高寛です。実は彼は2016年に「禅と骨」という映画(1918年横浜でアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた日系アメリカ人で、天龍寺の禅僧でもあるヘンリ・ミトワの波乱に満ちた人生を、ドキュメンタリーの手法のみならず、ドラマ、アニメなどで描いた作品)を制作しており、件の映画館でその上映があることから旧作の「ヨコハマメリー」が上映されたようです。

 ですのでたまたま時期がよかったということですが、それだけでは見に行っていなかったかもしれません。実はほんの少し前に中村高寛・監督がこの「ヨコハマメリー」の制作をめぐる過程を描いた著作「ヨコハマメリー:かつて白化粧の老娼婦がいた」(2017年・河出書房新社)を読んでいたのです。原稿自身は10年前に完成し著者の考えでお蔵入りしていたとのことですが、いずれにせよ著者の方法論や監督でもある著者とカメラマンだけでなく、著者やカメラマンといったスタッフと取材対象者などとの葛藤などにも触れられており、そんな中で完成した映画を一度は見たいという思いはありました。

 しかしまあ考えてみれば、ドキュメンタリー映画だからといって“真実の記録”が必ずしも画像として残されるものでもありません。監督が厳然として存在しており、やはり監督の意思や意図が表に出るからです。この映画でもメリーさんに対するインタヴューはありません。メリーさんがいた当時に周りで触れ合った人々(クリーニングさんやなじみの喫茶店などなど)へのインタビューや、戦後の横浜の変遷を酒場やそこに出入りした人々の生活を描くことで市井の生活も描こうとしたのでしょう。

 特に中心となったのがメリーさんと親交のあったシャンソン歌手の永登元次郎への取材です。すでにガンに侵された永登が準主人公のように長い時間画面が割かれています。実は最後にメリーさんが故郷の老人ホームにいることが判明し(映画ではその場所や施設名は一切出しません)、永登とメリーさんが“100歳まで生きようね”と指切りげんまんするところで終わるのですが、人によってはドキュメントなら嫌がられてもメリーさんの肉声を取るべきだという人もいるでしょう。

 もちろんこの映画の中でも、メリーさんを題材にした一人芝居で評判を得た女優の五大路子も紹介されており、メリーさんの扮装をした五大路子が街中を歩いて人々がどのような反応を示すかという場面を俯瞰ショット・ロングショットで撮っている場面も出てきます。考えてみれはこれはあくどいやり方です。メリーさん本人でないわけですから、単なる“いたずら”とその周りの反応を見るだけとも言えるからです。だからこそドキュメントであっても、その監督に対する批評はきちんとおこわれるべきなのでしょう。“ああ、記録を取っただけね”と言われないためにもでしょう。

 2本目は16年に制作された米映画「否定と肯定」です。歴史学者デボラ・リップシュタットの書籍『否定と肯定ホロコーストの真実をめぐる戦い』を原作としたもので、2000年にホロコースト学者のリップシュタットが、ホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングに名誉毀損で訴えられた実在の裁判事件を描いたものです。結論から言うとデボラ・リップシュタットの勝利になるわけですが、その間の苦労が丁寧に描かれています。

 実はアメリカや日本などでは名誉棄損を訴えた者(つまりこの映画ではホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィング)が、“これこれこのような嘘を言われたので名誉を侵された”と証拠をもって立証しなくてはならないのですが、イギリスの裁判では訴えられた方つまり被告側が“嘘じゃない”ことを確固たる証拠とともに示さなければならないことになっているのです。ですので訴える方ははっきりとした事実を示さなくても直ぐに裁判に持ち込めるのです。しかも立証責任は相手に押し付けながら。

 ということで被告側は本当にしっかりした証拠を提示しなければならなくなります。弁護側の裁判方針として、本人の歴史学者デボラ・リップシュタットは証言台に立たせない、そして収容所の生存者の証言を求めない、こととします。本人は猛反発しますが、弁護団はこう諭します。“相手は事実や裁判の勝ち負けとは関係なく、貴女を貶めることだけを求めて追及するからです。それに絶対にはまってはいけないからです”と。

 また生存者の証言を求めないのは、同じように生存者を徹底的に貶めようとするからです。高齢化した生存者が証言台に立った時、建物のドアが右側についていたか左側についていたかといった本質とは関係のない些細な質問をし、老齢ゆえに記憶があいまいで記憶違いということもあり一つでも間違った答えをすると、まるで鬼の首でも取ったようにだから全体の証言は信用できない、彼らは嘘つきだと傷つけようとすることがみえるからです。ですので弁護団は原告デイヴィッド・アーヴィングの著作や発言から、徹底して事実の歪曲をしていることを探し出し明らかにしていきます。

 考えてみれは歴史の事実を否定する人物は日本でもいます。第2次世界大戦でのアジア諸国へは“侵略ではなかった”などという発言は、時々の政府高官や政治家でも平気でおこなっています。問題なのは上記の映画のホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングのように、悪意と確信をもってそれを流布していることです。

 アメリカのトランプ大統領の就任以来、フェイクニュースが大きな話題になっています。互いに相手がフェイクニュースをまき散らしていると非難していますが、ささいな嘘や中傷が害を与える、などというレベルを超えていますよね。どちらを信用するかではなく、どういう意図がそれが流されているのかを見ると意外と真相もわかるはずです。日本でも他人事ではありません。

 

   
 18年1月17日
 年末に「1年はあっという間に過ぎていきますね」などという常套句を相変わらず使ってしまいましたが、もう1月も中旬が過ぎました。今日は23年前の「阪神・淡路大震災の日」ですね。朝から雨ですが各地で慰霊の催しが行われています。神戸の小・中学校では炊き出しもあり、当時の様子に思いをはせる教育も行われました。地震はいつやってくるかもしれません。ですので非常用食料と水はリュックの中に入れておくなどの準備はしているのですが、常に意識を持つことがやはり重要ですね。

 さて、話は変わってアメリカンフットボールのい話題です。アメリカ4大スポーツ(他に野球、バスケットボール、アイスホッケー)の1つですが、TV視聴率などを含めると一番人気がやはりこのアメリカンフットボールで、今はプレーオフの試合になっています。AFC、NFCという2つのカンファレンスそれぞれに16チームがあるのですが、プレーオフに進出できるのはそれぞれ6チームだけ。そしてその決勝がスーパーボールとして2月4日に行われます。

 実は筆者が応援しているチームはプレーオフには進出したのですが、その最初の試合で敗退してしまいました。まあ残念でしたが、プレーオフはいずれも白熱した試合ばかりで、TV中継ですが見ていて気持ちの良いものでした。スーパーボールも期待できるでしょう。

 実はアメリカンフットボールの選手たちはこのように人気なので、その普段の行動にも大きく注目されることが多いのです。昨年、アメリカの人種差別や黒人への警察の暴力に抗議して、多くの選手が試合開始前の国歌演奏時に膝をついて抗議したのです。これに対しトランプ大統領が、支持者集会で「我々の国旗に不敬な態度をとる奴に、NFLチームのオーナーが『あのクソ野郎をすぐにグラウンドからつまみだせ。出てけ。クビだ』と言ったら最高じゃないか」と発言しました。ツイートでも「お前はクビだ。何か別のことをしろ!」などと書いたことで、今度はトランプ大統領に抗議する行動が一挙に広まりました。

 選手やコーチが腕を組んで抗議の意思を表すのはもちろん、あるチームのオーナーは国歌演奏中に選手たちと腕を組んで抗議もしました。また国歌を歌った歌手が演奏後に膝をついたりこぶしを上に突き上げるなどの行動も行われるなど、大きなうねりができました。

 アメリカンフットボール(NFL)のコミッショナーは、「このように分断をあおるコメントは、残念なほど敬意を欠いている」とトランプ大統領の発言を批判しましたし、選手協会の会長は、大統領発言が「公民権のために闘った過去の英雄たち、今も闘っている英雄たちを、正面から平手打ちした侮辱行為に等しい」と批判しました。つまり、それぞれの社会的立場はありつつも、大統領という最高権力者に対してきちんと意見を表明し、その行動が不適切であると批判したのです。

 スポーツ界ではありませんが、1月7日開かれたTVと映画の優秀作品を選ぶ「ゴールデングローブ賞」の受賞式で、ハリウッドを揺さぶったセクハラ問題に抗議するため、出席者の多くが黒い服で登場しました。これは、性的暴力の被害者と連帯する「#MeToo(私も)」運動や、性的暴力をこれ以上容認しない、沈黙していられる時間はもう過ぎたという「Time’s Up」運動への連帯を示すものだったのです。

 日本ではこれらの行動に対して揶揄するような言葉を吐く人がいましたが、スポーツ界であれ芸能界であれ、きちんと自らの立場を表明するという行為が普通に行われていることは素晴らしい事だと認めるべきでしょう。もちろんアメリカでの行動がなんでもいいというわけでもありませんし、スポーツや芸能における契約のシステムが違うなど社会的な蓄積の相違があるので、その行動をすぐ真似ることには難しい条件があるかもしれません。

 しかし今の日本では、例えば1強といわれる安倍首相の発言や行動をおもしろおかしくギャグにしたり、批判したりする風刺さえもが、TVなどでは許されない風潮となっています。そもそもそんな発案さえ出されない“忖度”が蔓延しているのでしょう。政治家に対する話だけでなく、世の中の不公正で不自然な仕組みに対して、社会的影響力が大きいスポーツ選手や芸能人の発言があってもいいはずです。そしてそれを素直に受け止め、理があるなら広げていくようにすることが求められているのではないでしょうか。
 

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