ホーム 新着情報 月下独酌 中国音楽フェスティバル 中国・音楽の旅  中国香港台湾催し案内
アジア音楽演奏会紹介 モモの音楽日記  アジアの微笑み 上海コレクション 演奏家の世界

モモの音楽日記二胡&その他の楽器


  うちのルームメイトを紹介します 05.6.27
 モンゴル人のルームメイト、名前はオドノ

 やっと試験のごたごたが過ぎ去って時間も出来たので、よっこらしょっと重い腰をあげて日記を書いてます。なんてったってもうすぐ帰国だもんね。演奏会レポートやら書きたい事いっぱいあるのに! ピッチをあげて書き進めてまいります。

 さて。寮に戻って来た2003年9月から休学を経た今も、ずっと共にいるモンゴルのルームメイト。毎回「モンゴルのルームメイト」と書くのももどかしいので、ここで大々的に紹介してしまいましょう。(って本人の同意ぜんぜん得ていませんが大丈夫かな?)

 彼女の名前は・・・モンゴルの名前は長過ぎるので何度聞いても覚えきれません。が、モンゴル人たちはみな「Odnoo」と呼んでいるので、私も真似してそう呼んでいます。これ、カタカナで表記すると「オドノ」と読めますが、実際は「オットノー」もしくは「オッッノー」という感じに聞こえます。・・とにかく、日本人にはとっても難しい発音なのであります。

 中国名は、名前の後半部の音をとって、「童楽」と名乗っています。いい名前だよね、と言うと、「でもね、以前道ばたで私の名前を呼ぶ人がいたの。その人、私を呼んだんじゃなくて、飼っている犬を呼んでたの」・・・う、うーむ。

 専攻は二胡、でも弾き方や教材で悩む

 彼女はモンゴルの音楽大学を卒業後、一年間南京で中国語を学んだのち、上音に本科生として入学しました。専攻は二胡。え?モンゴルに二胡ってあるの?と思われるかもしれませんが、現在のモンゴルの二胡は、社会主義(モンゴル人民共和国)の時代に中国から入って来たものだそうです。

 中国の二胡は、近代からめざましい発展を遂げ現在に至っていますが、同じ二胡でもモンゴルでは別の方向に発展した様です。モンゴルの二胡の教師は、ロシアで学んだバイオリンの概念でもって二胡に取り組んだようで、教材もほとんどがバイオリンをはじめ西洋の曲(もちろん民族のものも多いですが)。中国では地方の風格がとても重要だし、曲の改編がとても多く、演奏者すなわち副作曲者、といった感がありますが、モンゴルでは西洋と同じく、楽譜にかなり忠実でなくてはなりません。

 ですから彼女にしてみれば、中国の二胡の弾き方はクセが強すぎて受け入れがたいらしく、しょっちゅう「・・・なんで楽譜に書いてない装飾音や滑音を勝手に入れるの?」とぶつくさ言っております。ま、そうだよね。当然の如く地方色の濃い曲はあまり好きでないようで、いつも西洋の曲を好んで弾いています。

 モンゴルでは数字譜ではなく五線譜なので、中国で学ぶ今でも首を傾げながら数字譜を読んでいます。でも彼女は自分が努力する前に人に努力させるのが上手いので、いつも老師に「この曲の五線譜を下さい」と要求しているらしい・・・おーい、それじゃいつまで経っても数字譜読めないじゃないの。


  ルームメイトのオドノ

 日本にも来たことのあるいい同学です

 モンゴルの音楽学校の先生は、学生に対してとても厳しいけれどとても熱心に教えてくれていたそうです。彼女は上音では著名二胡教育家・W老師に師事しているのですが、この先生、学生が多いので忙しくてレッスン時間が短いので有名。その上ひっきりなしに他の学生やらが出入りするので、じっくり細かく教えてもらえることがほとんど無いそうです。

 ある日私が「今日のレッスンは一時間半ずっとしごかれた〜」と言ったら、「え?専門のレッスンって、ホントは一時間半なの?」なんて聞く始末。そしていつも教学VCDを見ながら、「私の先生はね、このVCDよ」なんて言ってるのを聞くと、なんだか可哀想・・。中国人学生たちはこんな状況には慣れっこでしょうが、モンゴルでちゃんとした教育を受けて来た彼女には我慢できないでしょうね。そういや同じく二胡で去年卒業したモンゴルの同学も、ずっと不満そうでした。いかんよなあ、有名な大学の教育家がそれじゃあ・・・。

 彼女は昔、男の子のように活発で歌と踊りが大好きな子供で、しょっちゅうテレビに出ていたそうです。日本にも交流活動で来たことがあるらしく、当時の写真を見せてくれたことがあります。はじめて出会った時、「日本の歌も歌えるのよ」と、"アリさんとアリさんがごっつんこ〜♪"をフリ付きで披露してくれました。可愛いんだこれがまた。

 私が休学中、私の後に来たルームメイトはなぜかみな日本人。いちど韓国人の新ルームメイトが来るはずで、荷物もすでに部屋に置いてあったらしいのですが、どうも相手が「モンゴル人」と聞いただけで嫌がったらしく、顔も見ないまま立ち消え。これって差別ですよね。そーいや私がはじめてオドノと同じ部屋になった時も、別の同学から「モンゴル人には気をつけた方がいいよ」なんて言われて、不愉快な気持ちになったことがありました。気をつけるどころか、そのへんの同学よりよっぽど分別も常識もある、ちゃんとした子なのに。

 作曲やジャズにも大いに興味を持つ

 そんなオドノも、もう来学期から四年生。今までの3年間、いろんなことを積極的に学んで大きく成長したようです。二年生から2年間、第二専攻に「民作」、つまり民族音楽作曲を学んだ彼女。民作の先生はとても良心的かつ熱心な老師で、彼女自身も才能があるので可愛がられて、おかげで一時期専攻を変更しようかどうしようか、なんて迷っていた時期もありました。

 もともと二胡一辺倒なわけでなく、いろんな方面に興味があり、特にジャズやポピュラーミュージックが大好き。私が部屋に居ないときに、よく大音量でCDやDVDをかけ、音楽に合わせ踊っていたのも私は知っているぞ。そして今年一年は学費を払ってジャズピアノなんかも習っておりました。

 歴史なんかも教えあったりして

 以前にも書きましたが、彼女はとても気を使ってくれるいい子です。どの授業を受けるべきだとか、授業でわからない所だとか聞けるし、ありがたい存在です。こっちも彼女の知らない、中国音楽の歴史や伝統うんぬん、とりあえず自分の知っている範囲内では教えてあげられるので、まあ少しは役に立ってるかな?

 先日の試験でも、彼女同学から借りたノートのコピーを見ながら「編鐘って何?え、楽器なの?」とか「西周とか春秋とか何の事?」・・笑いそうになりましたが、無理もない。歴史なんて概論くらいしか習ってないでしょうから、知らなくても仕方ないですよね。それでなくとも彼女らにしてみれば、漢字なんて訳わかんない絵文字みたいなもんですもん、本を読むだけでも大変なことです。私達日本人は漢字を見るだけで大体の意味がわかりますから、とても簡単ですよね。

 最近、彼女は某ホテル内にある日系のバーで週末に二胡弾きのバイトをしております。カラオケCDに合わせ、流行歌なぞ弾いてます。私も伴奏で中阮か古箏を弾けと頼まれてましたが間に合わないので辞退・・。でも先日撮影係として(帰国した時に先生に成長した姿を見せたいらしい)行ってまいりました。上海在住のみなさん、彼女の舞台姿を見かけたら、ぜひチップを渡してあげて下さいね♪

 ウイグルの同学 05.2.8
 新疆音楽との出会い

 
ウイグル族とふとしたことから知り合う


 シルクロード。・・・この言葉を耳にするだけで、駱駝に乗って砂漠を行く隊商、緑豊かなオアシス、そんな光景が脳裏に浮かんできます。西洋と東洋の文化の交わる所、我々日本人の憧れを誘う遥か異郷の地。最近もNHKで"シルクロード"シリーズを放映していましたが、懐かしくご覧になった方も多いのではないでしょうか。

 新彊ウイグル自治区は中国の西北部、タクラマカン砂漠や天山山脈、崑崙山脈などに囲まれた、いわゆるシルクロードの中心地に位置しています。民族も多様で、最多のウイグル族などは顔立ちも漢民族と違い、彫りが深い中近東系です。音楽に関しても、音階からしてすっかり中近東の匂いがぷんぷんする、ちょっと怪し気な、でも心地よい旋律で、私のまわりでも新彊音楽のファンはとても多くいるようです。

 彼らは大部分がイスラム教を信仰しているせいもあり、漢民族とは随分違った独自の文化や習慣をもっていて、民族の独立運動も盛んです。その為、同じ中国の中でも住み分けがはっきりしているというか、漢民族と交わることも少なく、一般にはなかなか出会う機会もありません。そんな中、ふとしたきっかけで、ある新彊人と知り合うことになったのです。

 出会いは洗濯室

 それは私が上海に来て間もない頃。寮での生活にまだ慣れず、中国語もおぼつかないまま、不安と期待が入り交じった毎日を送っていた、そんなある日のこと。寮の廊下で、知らないおじさんから声を掛けられました。「洗濯機はどこにありますか?」留学生にしちゃあ年くってるな、中国語すごく下手だし旅行者(寮はホテルも兼ねているのです)かな?、と思いつつ洗濯室へ案内してあげました。その後も洗濯機の前でフリーズしている様子なので、使い方も説明し(ったって喋れないからボタンを指差すだけなんだけど)、・・・そしてどちらからともなく「どこから来たの?」と自己紹介が始まりました。

 その人は新彊のウルムチに住むウイグル族の学生でした。「日本から来ました」と私。「え、日本?僕、この間行ったよ演奏で」・・・よくよく聞けば、私の留学する少し前に、奈良で新彊ムカーム芸術団の来日公演があったのですが、その時にアイジェクという楽器(膝に立てて置いて弾く擦弦楽器の一種)のソロを弾いていた奏者らしいのです。私がとても新彊の音楽が好きで、その演奏会も聴きに行ったことを伝えるととても喜んで、「良かったら後で部屋に遊びにいらっしゃい。アイジェクも聴かせてあげるよ」と言ってくれました。うわー嬉しい!!

 お言葉に甘え、同じく学校の敷地内にあるDさんの部屋を訪問。でも私達の寮とは違い、広くて落ち着いてていい感じ。話を聞いていると、このDさん、ただの学生ではなく、国から特別に派遣されてこの上音で作曲を学んでいるのだそう。国に奥さんと子供をおいて来ているんだ、と話す表情は少し寂しげでした。

 彼も私も上海に来たばかりで日も浅く、どちらの中国語も下手くそで、ちょっと話してはお互いに首をかしげて考えて・・・という、とてもスムーズとはいえない交流でしたが、その日はお茶やお菓子でもてなしていただいて、もちろんたっぷりとアイジェクの演奏も聴かせていただいて、短い間でしたが楽しい時間を過ごしました。
 
 しばらくは会えませんでしたが


 その後も上音の狭いキャンパスの中、時々ですが顔を合わせることもありましたが、私自身中国語が下手なので気後れして、「また今度ゆっくり会いましょうね」と挨拶を交わすくらいでした。そうこうしているうちに1年が経ち、私は寮を出て外に暮らし始めたので、Dさんと出会う機会もなくなりました。以前「いつまでここにいるんですか?」と尋ねた時、「次の夏まで」と言ってたので、きっともう学習期間を終えて帰ってしまったんだろう、最後に会えなくて残念だったな、なんて思っていたのです。

 ところがところが。私が再び寮で暮らし始めた2003年の初秋、またまたばったりDさんと出会ってしまったのです。「あれ?まだいたの?」とお互い笑ってしまいました。少しだけ上達した中国語で再度尋ねてみると、どうやらこの1年で最後、つまり2004年の夏で学習期間が終わるとのこと。課題も増え、とっても忙しい毎日を送っておられるようです。


  新彊レストランにて飛び入りでアイジェクを弾くDさん

 手鼓のレッスンをしてもらうことに

 私は新彊の音楽がとても好きなのですが、実は少し前に、念願の新彊の手鼓を手に入れておりました。この手鼓という打楽器は丁度タンバリンをでかくしたようなもので(大きさも色々です)、木の枠に羊皮もしくは蛇皮が張ってあり、枠の内側には金属の輪が沢山ついていて、叩く度にその輪がシャラシャラと鳴り、それがまた情緒をかもしだすのです。複雑なリズムパターンが特徴のひとつである新彊の音楽とは切り離せないもので、かねがね習得してみたいと思っていたのでありました。(写真では左側に写っていますね)

 自分なりに色々叩いてみましたが、なかなかあの厚みのある独特の音が出ません。やっぱりちゃんと習わないとな、と思っていたのですが、学校の打楽器専攻の学生が叩いているのを聴いても、あまり上手ではないので習う気にもなれず、どこかの新彊レストランで演奏しているウイグル人をつかまえて無理矢理弟子入りしようか、なんて考えたりしていました。

 丁度またDさんに出会ったのも何かの縁、「手鼓叩けますか?もしくは誰か叩ける人を紹介してもらえませんか?」と聞いてみました。すると「いいよ。もちろん僕は専門じゃないから上手くはないけど、基本くらいなら教えてあげられる」と言ってくれたではありませんか!!

 折しも、秋口から私の母の具合が悪くなり、来学期から1年間休学することを決意。Dさんの学習期間が終わるのは2004年の7月、私が再び上海に戻れるのは1年後の2005年2月。戻った時にはもうDさんは上音にいません。今学期もあと数週間を残すのみ、習うなら今しかない! ・・・という訳で、間もなく私はDさんのにわか弟子となり、手鼓のレッスンをしていただくことになりました。

 乾いた独特の音を出すのは難しい

 まずは手の平全体を使って「ドン」という音を出す打法。自分で練習していた最初の時のヘナヘナの音に比べれば大きな音が出始めていたのですが、Dさんの叩く音と根本的に音質が違い、私の音は何だかとても硬いのです。その後45分間、「ドン」「違う違う。力が入り過ぎ」「ドン・・・こんな感じ?」「・・・(無言で叩いてみせるDさん)」「あっ、全然違いますね(汗)」・・・こんな風にずっと、この「ドン」ばかり叩いていたのですが、結局つかみきれないまま時間切れ。「ま、次回までにとにかく沢山叩いておいで」

 短いながらも毎日練習を重ねるうち少しずつ成功率も高くなり、2回目のレッスンでは「少し良くなって来たね」とのお言葉を頂き、次に鼓のへりを薬指で叩いて「カン」という音を出す打法を教わりました。・・・でもこれがまた難しいの何のって。薬指だとあまりに力が弱くちっとも歯が立たないので、独断で中指に変更。それでもまだ力が足りなくて、あの乾いた独特の「カンッ」という 、木が響く感じがちっとも出ず、いかにも皮の上っ面だけさわってます、という音しか出ません。

 むむう、音が出るようになるまで次のレッスンをお願いできん・・・と悩んでいるうちに、最後のレッスンはDさんの帰郷4日前になってしまいました。基本のリズムパターンをいくつか教えてもらったのと、最後にDさん自身に数分間ソロを叩いていただきました。「専門じゃないけど」と言いながら、そのバリエーションたるや、こちらの目も耳も釘付け状態。「新彊人って皆そんな風に手鼓が叩けるんですか?」「うん、だいたいの人はね」・・・うーむ、このリズム感は天性のものなのですね。

 それでも慣れというのはすごいもので、時々取り出して練習しているうちに、苦手だった「カン」のへり打ちが、左手の薬指でもちゃんと音が出るようになりました。お陰さまで休学中の今年、演奏に呼んでいただいた際に、念願の手鼓デビューを飾ることもできましたし。

 縁あればウイグルへ行きたいものです

 まったく縁というのは不思議なものです。あの日、私がたまたま寮の廊下に出ていなかったらDさんと知り合うこともなく、またこうやって手鼓の手ほどきをしてもらうこともなく、せっかく手に入れた手鼓もうまく叩けないままお蔵入りしていたことでしょう。

 期末の忙しい時期、自分の課題だけで大変だっただろうのに(何たって作曲ですもんね)、時間を割いて教えて下さったDさんには本当に感謝しています。せっかくのご縁、機会があればウイグルまで修業に行き、もう一度ちゃんと学んでみたいものだ、と思っているのですが、さてそれが叶うかどうか・・。ま、どうせ行くなら葡萄の季節に行きたいものです。昔トルファンで食べた白葡萄は、本当に美味しかったので。

 【青島二胡コンクール・その2 】 04.3.19
 ♪コンクール2日目♪

  ちょっと余裕の青島観光

 予選の結果が出るのは2日目の夜。ま、やるだけやったし、どーせ私のレベルでは、あの成人組の味ある面々には勝てっこないわ、とあっさり諦め、2日目は朝から青島観光に出かけることにしました。しかも前日までの曇天とはうって変わって、この日はまぶしいほどの青空。部屋でじっとしているなんて勿体無いもんね。

 青島といえばビール。ビールといえばドイツ。青島はドイツの粗借地でもあった為、街には異国情緒あふれる建物がいっぱい。・・・と聞いていたのですが、残念ながら我々コンクールの開催地は街外れにあり、いわゆる観光地域からはかなり遠く離れています。交通機関はバスのみ。むむ、不便・・。

 宿舎の近くのバス停で、海水浴場に行くらしいのを発見したので、とりあえず乗っかってみました。バスが到着したのは、青島には7つあるうちの第1海水浴場。海岸に出ると人がいっぱい! 10月だというのにみんな泳いだり、海パン一丁でビーチバレーなんてやってるよ〜元気だねえ。確かに暑いくらいの天気だったけど。

 まばゆく光る波、爽やかな風、遠くから聞こえて来る人々の歓声。久々に見る美しい風景に、日頃たまっていたストレスがリセットされてゆく感じ。都会上海ではこういう場所がないもんね。そしてぶらぶらと海岸沿いに歩いて八大関景区へ。そこからなんだか奈良公園みたいな(鹿はいないけど)中山公園まで歩き続け、近くでバスをつかまえて宿舎へ戻って来ました。
 

青島市内を望む
 審査員の講義と宋飛の人気

 この日は午後から審査員らによる講議があり、私達も会場へ。しかし審査員の先生方が登場するなり、子供達が通路に壇上に押し寄せ、さながらサイン会もしくは撮影会場に早変わり。おいおい、普通そーいうのって終わってからするもんではないの? それでなくとも段取りが悪くて予定より遅れているのに、まったく。

 講義の内容・・・は完全に聞き取れたとはいえないけれど(というかすでに大部分が忘却の彼方に去ってしまってますが)、許講徳の「下去容易、上去難。技術容易、味儿難。」ではじまる十原則とか、宋飛の「もっと強弱をだして、対比をはっきりさせること」等々、内容的には特に新鮮な事柄を説いていたわけではないのですが、やはり対象がアマチュア、特に子供が多かった事もあり、基本を再度強調したかったのでしょう。
 
 最後に宋飛が「みなさんおさまらないようですから、ここで1曲」と言った瞬間、割れるような歓声と拍手。うーんアイドル並みだなあ・・。でも確かに彼らにとってはアイドルも同じなのでしょうね。「空山鳥語」を弾く宋飛の一挙一動を見逃すまいと、喰い入るように身をのり出して見つめる子供達。演奏会を聴き慣れ、席を立ってふらふらしたりする上海のガキ共とはえらい違い。・・しかし講議終了後は、やはり撮影会に早変わりしたのでありました。

 ありゃ、予選に通ってしまった

 夕方。予選の結果が張り出されるのを今か今かと待っている人達で、宿舎のロビーは溢れかえっています。諦めたといいつつも、気になって見に行った私・・。あれ?あるよ私の名前も。ありゃまあびっくり。成人組の中では、私が一緒に審査を受けたグループが他のグループに比べ予選通過者が多く、おじさま達と「うちのグループは優秀だなー」なんて言いながら喜びあっておりました。

 まさか予選が通るとは思っていなかったので、他の曲なんて全然練習しとらんってば。しかも翌朝に審査が行なわれるらしい。うーん、こんなことなら観光に出かけずに部屋で真面目に練習しておけばよかったかなー、と後悔しつつ、作戦の練り直し。

 聞くところによると、決勝で弾く2曲のうち1曲は、予選の時の曲をふたたび弾いてもOKとのこと。んじゃ「花儿紅」はそのまま弾いてしまおう。あともう1曲はどうしようかな。何だか「空山鳥語」なんて弾いたら浮きそうな雰囲気だったしなあ・・。明日の審査は早朝だということで、きっと頭も耳もまだボケボケのはず。そんな状態で静かに始まる「月夜」を弾こうもんなら、盛り上がる前に途中でストップかかりそうだしなあ・・。などなど、色々悩んだ結果、「江河水」を弾く事にしました。この曲、三年くらい弾いてないけど、日本の先生からすごく長い時間をかけて習ったので、はっきり覚えているし。・・・たぶん。

 私の部屋は、委員会本部のある部屋の隣だったのですが、この日隣には親がつめかけ、「うちの子はどこそこのコンクールで2位だったのに、予選にも入らないのはおかしいじゃないか!」などと口々に叫んでいます。むむ〜すごいなみんな。それの影響かどうか、予選通過者の結果発表は何度か変更があったようであります。そんなんあり?

 ♪コンクール3日目♪

 決勝も気持ちよく弾けました

 我々成人組の決勝審査は、朝の8:30から開始。う〜ん練習する時間がないよう。同室のお嬢さん達は残念ながら予選を通過しなかったものの、斉奏とやらがあるとのことで(団体戦かなあ?)、共に早起きしてちょこちょこっと練習。でも寒いし時間も無いし、練習といえるほどちゃんとした練習なんてできません。不安・・。

 今回、順番を決めるくじ引きでは、なんとトップバッターを引き当ててしまいました。げげ〜やだなぁ、と厭な顔をしていると、2番手の、例の膨張劉明源おじさんが「大丈夫。1番目ってことは1番、つまり優勝間違いなしってことさ」と慰めてくれたけれど、そんなの無理無理(笑)

 本番では、「も〜ええわい!!」っと捨て身で弾いたら、予選と同じく案外緊張せず、間違いもなく気持ち良く弾けました。後で思えば、この日の審査は朝一番だったので特に会場が寒く、暖房もなかったので手が凍え、もしも順番が後の方だったら間違いなく指が動かずヒサンな出来になっていたはず。予選といい決勝といい、順番が最初の方だったお陰で、待ち時間の緊張もなく、余裕を持って他の人達の演奏を聴く事が出来ました。

 予選で「あっ、この人すごく上手い」と思った人達はもれなく決勝に残っていました。でも決勝では朝からという事で練習時間が無かったせいか、はたまた予選での集中力が持続しなかったせいなのか、みんな予選に比べ演奏に精彩を欠いていたのも事実。けっこう音をはずしたり、止まって弾き直したりする人続出。コンクールで停止は御法度なのでは・・・? アマチュアだから許されるのかなあ。

 パフォーマンスもあったりして

 審査を待つ間、とある大連のおじさんが、立奏用の金具を宣伝しておりました。ひとつひとつ手作りで、ベルトにS字金具を引っ掛け、二胡の琴托の幅に合わせて底板の長さが調節できるというスグレものでしたが、値段を聞いたら70元もしたのでちょっと・・・しかも北京の二胡なら琴托がまっすぐなカマボコ板型なのでいいのですが、私のは蘇州ものなので琴托が丸いため、底板がきっちり嵌らず固定できないのです。かのおじさんはその金具を使って立奏で「葡萄熟了」を演奏し、もろ「表演(パフォーマンス)賞」狙い、という感じでありましたが、すごく楽しそうに弾いていて、それはそれで面白かったです。

 審査がすべて終わったらもうリラックスし放題。近くのカルフールに観光(?←いや、スーパー大好きなので・・)に行って、同じカルフールでも青島と上海では商品が違うなあ、と北と南との嗜好差を確認したり、近所を散策して自由市場を冷やかしたり、名物餃子とやらを食したり。あとせっかくこの地に来たからにはと、アルコール苦手なクセに青島ビールを買って歩き飲みしたりなど・・・といっても上海で飲む青島ビールとちっとも変わらないんですけどね(笑)。ま、めずらしく緊張せず弾きたいように弾けた自分に乾杯! ってことで。

 ♪コンクール4日目♪

 特別賞をもらいました

 予定では3日目に審査を終え、この日の昼に結果発表のはずだったのに、何だか予定を超過して4日目の午前中まで決勝審査をやっているようす。・・・ちょっと待ったぁ!! 私はこの日の夕方に飛行機に乗って上海に帰らないといけないのに、一体結果はいつになったら発表されるわけ!? 委員会に問い合わせると、結果公布は夕方6時頃とのこと。おいおーい、私間に合いません!!・・・ということで、事情を話し、結果が出た時点で先に個人的に知らせてもらえるよう、交渉しました。

 すべての発表公布の前に、昼頃にいちど、この日の表彰式で演奏する人、つまり各部門で最も優秀だった人の発表がありました。張り出される前、おじさん達の「まあ、一位はダントツでまずアイツだな」「しかしあの○○を弾いた若いヤツもなかなか見事だったぞ」などの下馬評をロビーで聞きながら、待つ事しばし。結果は、やはり予想どおり、「まあ、アイツだろう」のおじさんでありました。

 委員会に聞きに行くと、もうすでにすべての結果が出ているという事で、私の成績も教えてもらいました。結果は、「特別賞」。やたー!! とはいえ、まあ外国人だし、思うにちょっとオマケかなあ、参加賞くらいのものかなあ、と謙虚に受け止めるべきでありましょう。

 普通、プロのコンクールでは、始まる前からすでに誰が受賞するのかほとんど決まっている、という話はよくききます。実際、音楽院の中においても、学内予選に残れる学生はいつも同じだし、いくら本人の実力があっても名のある先生の生徒でなければ、コンクールに参加する事さえできないというのも半ば公然の事実。 そういった、実力よりもコネ、先生同士の力関係で成り立っている不公平なプロの世界に比べ、今回のアマチュアコンクールでは、ちゃんと実力のある人がそれを認められ、公正な審査結果にあらわれているように思いました。委員会で結果を訪ねる際、実は他の成績もちゃっかり見せてもらったのですが(こらこらっ)、順位はほぼ予想通りで、アマチュアの世界はまだまだ健全だなあ、と感じました。

 私自身、このコンクールに参加してみて、中国人の基準からしたらまだまだの実力だろうけど自分としては上出来の演奏が出来て、オマケだろうけど賞をいただいて、少しばかりですが自信がつき成長したように思います。これを機に、もっともっと努力して、皆のレベルに近づいていきたい、そして次の機会には外国人としてではなく、審査員に「お、コイツは」と思わせる、そんな演奏ができるようになりたいですね。(←大きく出たなぁ・・)

 同室の煙台の親娘はその後もちょくちょく電話をくださり、手紙のやりとりなども続いています。こうやって交流ができたこと、また観光も楽しんだこと、今回のコンクールに参加して良い経験をさせてもらったなあ、無駄にならなかったなぁ、とつくづく思います。

 呉強先生の言葉にホロリ

 さて最終日、次の日に中阮のレッスンにそなえるために、夜からの受賞式にも参加せず、審査員および受賞者の演奏会も泣く泣く諦めて、夕方の飛行機に乗り青島を後にした私。・・・ところがレッスン当日、呉強先生から「ごめーん、レッスン日変更してくれるー?」と電話連絡が。う、うそぉ・・・!?こうなるんだったら無理矢理上海に戻らなくても良かったのに〜。

 そして中阮のレッスン日、最終の時間だったのでゆっくり雑談をする時間があり、呉強先生に今回のコンクール受賞をご報告。ついでにちらりとレッスン日の変更の事で泣き言をいったら、「私はあなたが二胡を学ぶことに反対はしていないよ。それどころか、こういった、あなたにとってプラスになる機会には積極的に参加してほしいと思う。中阮のレッスンの為に演奏会が聴けなかったのは、すごく勿体無いこと。次からは内緒にしないで、ちゃんと言ってね」と、逆に諭されてしまいました。・・・先生、めずらしくいい事おっしゃるではありませんか。自分が恥ずかしくなった、一瞬でした。

 【青島二胡コンクール・その1 】 04.2.13
 中国の国慶節(建国記念日)は10/1。この前後は学校も会社もお休みで、上音も一週間授業がありませんでした。練習室も空いていないし、遊びに行くにもどこも人でいっぱい。で、私はその間何をしていたのかと言うと、実は青島の二胡コンクールに参加していたのでありました。
 さあ青島に到着

 生来ものすごいあがり症の私、人前では緊張のあまり手足が震え頭が真っ白状態。それを何とかしなくてはと、留学生の演奏会など、機会があるたびに参加してきましたが、なかなか克服できません。このコンクールも機会のひとつとして、少しでも経験を積んで慣れようと思い、参加を決めました。・・・でも本音を言うと、「参加することに意義がある」と無理矢理自分に言い聞かせ、予選で玉砕したらその時はゆっくり青島観光だあっ!!・・・てなノリであったことも事実(笑)。

 コンクール・・・といってももちろん専業(プロ)参加のではなく、業余(アマチュア)のです。なおかつ、年齢層で組が分かれており、私は30才以上の成人組(ああ年がばれてしまう)。アマチュアといってもバカにできないほど最近はレベルも高く、特に中学から高校あたりなどは技術ばかりだけでなく音楽性もしっかりしているし、初めから勝負にならないのはわかっているので、今回年齢別というのを知り、「ひょっとしたら一縷の望みくらいはあるかも」と参加を決めたわけです。なおかつ上海だと審査員に知っている先生がいそうだけど、北京系の審査員ばっかりだから安心(?)だった、ってのも。

 このコンクール、本来は五月に行なわれるはずだったのが、SARSの影響で延期に。元々は北京のS小姐が知らせてくれたもので、その時は2人で参加する予定だったのですが、当時SARSの影響というのはすさまじく、北京では留学生がみな帰国してしまいました。その際S小姐もやむなく帰国、以降日本で就職することとなり、コンクールには参加できなくなってしまったのです。仕方ないので寂しいけどひとりで参加することにしました。

 今回のコンクールでは課題曲がなく、全くの選曲自由でした。Y老師に相談して曲を決める際、「今弾いてる曲にするか?」と言われたけれど、極度に緊張するとめちゃくちゃになるのが自分でも予想できたので、昔に習った中から安全確実な曲を選択することになりました。結果、予選用に「花儿紅変奏曲」、決勝用に「月夜」と「空山鳥語」の計3曲を準備。といっても予選を通らない可能性大だとも思い、実際には「花儿紅」しか練習していかなかったのですが・・・。

 10/2から始まる予選に間に合わせる為、1日に飛行機で上海から青島に。本当は列車で安く済ませたかったのですが、帰りの切符が取れるかどうかわからなかった(中国では往復のチケットは買えないのです)ので泣く泣くリッチな飛行機で。というより、コンクールの日程は10/2から5までなのですが、学校の休みが1日からで前日まで授業があったのと、翌日6日には中阮のレッスンが控えていたので至急上海に戻らなくてはならず、20時間近くかかる列車ではちょっと日程的かつ体力的に無理が・・コンクールに参加するってのにコンディション最悪なのも情けない話だし。

 10/1の夕方に青島空港に到着。何だかとっても寒いぞ〜! 上海を出る時にはとても暑かったので半袖を着用していたのに、青島に着くと皆長袖に上着まで着ている! やっぱりここ青島は北方、南方の上海とは全然違う気候なのですね。タクの運ちゃんによると、昨日から急に冷え込んだとのこと。そんなあ・・ここまで寒いとは思わなくて、上着なんて持って来なかったよーん。

 事前に問い合わせていた住所を頼りに、S旅行社という所へ。着くと早速建物から二胡を持った子供達が出てくる出てくる。この旅行社が今回のコンクールの事務局&宿舎になっているそうで、その場で参加証や注意事項などを受取り、部屋も手配してもらいました。

 コンクールの日程としては、1日目と2日目の午前中まで予選、2日目の午後から専門家の講座、3日目に決勝、4日目に結果発表、その日の夜に審査員の先生方および受賞者による演奏会、というスケジュールでした。まず参加証を受取った時にすでに予選の時間が記載されており、私は1日目の午後から。よかった〜午後からなら練習する時間の余裕がありそう。

 このコンクールに参加した外国人は私の他に日本人がもうひとり。S小姐と同じ先生に習っているU小姐で、以前ちらっとS小姐からお互いの名前だけは聞いていたので、早速部屋番号を聞いて会いに行きました。彼女は早くに北京から列車でやって来たそうで、聞くと道中ずっと審査員の先生方と御一緒だったようで・・・ああなんとうらやましい。許講徳や蒋巽風とかとお近づきになれたなんて。

 山東省の親子と同室に

 私が泊まった部屋は3人部屋で、私の他に2組の親子が一緒でした。そう、3人部屋だからベッドは3つ、彼らは1つのベッドを親子2人で使って宿泊費用を安くあげているのですねー。でも1ベッドあたり1日70元もするこの部屋、まあまあ広くトイレもシャワーも部屋内にあるのですがすーごい汚くて、トイレは流れないしその天井からは雨水のごとく水が漏って来るし(上水か下水か考えるのも恐ろしい・・)で、さすがの私もちょっと使う気がしなくて、結局最後まで一度もフロに入らなかったのでした(笑)。

 この同室の親子達は、山東省の煙台からやってきたそうで、コンクールの間とても親切に接してくれました。11才と13才の女の子達で、特に13才の子は四六時中喋りっぱなしで楽しいこと・・・といっても山東訛りがきつくて、すごく早口だし声調がひっくり返っていて、私にはあんまり聞き取れなかったのだけど。到着早々、「弾いて聴かせてー!!あたし達も弾くから!」とせがまれ、すごく恥ずかしかったけど「これも練習!」と弾き合いっこしているうちに、だんだん慣れて来て緊張も解け、その後コンクール期間中も、宿舎内に人がいようがおかまい無しにばんばん弾いてました。

 

会場の前に立つモモ
 コンクール1日目

 さてコンクール予選開始。宿舎から歩いて15分ほどの、コンクール会場である大学へ移動、まず十数人の班ごとに分かれ名前を読み上げられ、抽選で出場の順番を決めます。私はいきなり2番目。げー。審査は大学の教室の一室でいくつかの班が平行して行なわれるようで、私達の班も呼ばれて会場に入場。むむドキドキ。審査員の先生方が来られるまでの待ち時間の長く感じられること。早く始まってさっさと終わってくれ〜!

 やっと予選開始。名前が読み上げられると前に出て、審査員に曲目を自己申告します。一番目のお兄ちゃんが弾いたのは「一枝花」。しかし弾き始めて・・調弦がずれてる! 彼もしまったと思ったらしく、焦った結果とんでもない演奏になってしまいました。 か、可哀想・・・ 控え室でちらっと練習してたのを聴いたけど、結構いけてたのに。
 
 で、次はさっそく私の出番。前に出て曲目を言ったのですが審査員からは「何?もう一度」・・3回くらい繰り返して言いましたが、わかってもらえません。見かねて後ろの人が「花儿紅変奏曲だよ」と審査員に向かってフォローしてくれました。どうも私の南方なまりの発音では「儿」の舌の巻き方が悪いんだろな。くっすん。

 演奏は・・前の人が恐ろしく緊張しすぎたのを見たせいか、かえってリラックスしてしまいました。会場はコンクリ打ちっぱなしでよく響くし、審査員にストップをかけられることもなく(実はこの曲、良く似た曲「牧羊女」に比べ北京ではあまり一般的ではありません。きっとどこでストップをかけたら良いかわからなかったのでしょう)、最初から最後まで思わず陶酔してノリノリで弾いてしまいましたよ。人前でこんなに気持ち良く弾けたのは初めて。弾き終わった後、自分自身では精一杯弾けたから、別に予選通らなくても後悔せんわ〜と、とっても満足でした。

 いろんな演奏があって楽しかった

 私が参加した成人組、みると50代60代のおっちゃんもかなり多数。この年代のアマチュアってどんなんかなーと思っていたけれど、なかなか皆さんすごかった。もちろん若い子達に比べれば技術的には安定していない部分もあるけれど、風格というか味があって、ひとりひとりの個性がめいっぱい表れていました。聴いてても見ていてもとても面白い!!

 たとえば劉明源(言わずと知れたずんぐりむっくり体型)を1.5倍に膨らませたようなおっちゃん、用意された椅子が少し高く、足が短かくて地面に届かないため、どこかからちり取りを持って来て足元に置き、おもむろに弾き始めた曲は「蘭花花」!!もぉー選曲がぜんぜん外見に似つかわしくないっ! (ちなみに決勝では「新婚別」・・これもすごいな)でも左手の滑音の何と柔らかく幅のあること。しかし口を半開きで演奏するのは見た目がよろしくないなあ・・。

 山東省でのコンクールだからでしょうか、殆どの人が「一枝花」を弾いていましたが、若い人達の画一的な処理に比べ、成人組は多種多様な「一枝花」があって、下手にプロの演奏会聴いているよりよっぽど楽しめたし、勉強になりました。あと低胡の曲専門のおっちゃんとかね。「タシュクルガン」なんかも結構弾いている人が多くて、男性が多かったので全体的にとても力強く大胆な演奏だったのが印象的でした。

 でもひとりだけ「こ、この人には勝てるかもしれない」と思った、すごいおばさんがいました。「二泉映月」を弾いたのですが、メリハリも感情もなく、審査員もストップをかけられずに(この曲って段落はっきりしないからストップかけにくいですよねー。しかも長い)、最初から最後までずーっと平坦な演奏で、まるで外国人が弾いてるみたいな演奏でした。すごかった・・。この人が予選通って私が落ちていたら絶対文句言いに行こうと思いましたが、このおばさんはこの日限りの登場でした。やっぱし。

 予選が終わって、宿舎までの帰り道、3人のおじさん達に声をかけられました。「君はどこから来たんだ?」
「私、日本人です。いま上海に住んでいるんです」「何?外国人か?そうだったのか。いやー発音からして南方人だとは思ってたけど」「・・・笑(いや、南方どころか外国人ってバレバレだと思うんだけど・・)」おじさん達は3人とも青島に住んでいる人たちでした。途中、他の出場者たちも合流してきて、北京から来た人だの大連から来た人だの、いろんな人達と知り合い、ずっと喋ってました。

 のちにU小姐に聞いた話によると、青年組なんかは全然こういった参加者同士の交流がなかったもよう。やはり人生経験が豊富な年配組ならではの、楽しい交流のひとときでした。

コンクールレポート、次回に続きます。

 【レッスン近況・二胡編】 03.10.16
 さあて、新学期が始まりました。・・といっても、授業は9/22からやっと開始。しかも一回目の授業は班分けだとか説明だとかで、実質の授業は10/1の国慶節の休み以降10/8から、という感じです。新学期からの様子はおいおいご紹介させていただきますね。
 
 Y老師との出会いまでの経緯

 今でこそ「柳琴専攻です」なんて看板をかかげていますが、元々は二胡をやっていた私です。・・というより日本でまともに習ったことがあるのは二胡だけというか。柳琴や中阮に関しては、日本で誰ひとり専門奏者がいないのではるばる上海に来て学ぶしか方法がなかったわけです。

 私が偶然二胡を手に入れた頃なんて、関西ではまだはしりの時期で、学生もほとんどいませんでした。現在、二胡に関しては「流行」とも言い切れるほど、先生も学生も日本中に山のようにおられますよね。だもんであまのじゃくな私、皆がやってるのでアホらしくて嫌気がさし、折からその低音の美しさに惹かれて中阮を手にし、オケに参加し始めたのでした。・・でもいつの間にか柳琴パートになっちゃったんですけどね。

 私が日本で習っていた二胡の先生は、中国音楽に関して、各地方の風格とか二胡の微妙な演奏法、例えば滑音やビブラートの緩急や密度の違いに始まり、いろんな事にとてもこだわりをもって教えて下さった方でした。その時に得た知識や考え方が現在とても役立っており、先生にはとても感謝しています。たぶん、二胡しか学んでいなかったら、私は中国に留学しようとまでは考えなかったかもしれません。
 
 柳琴で上海に留学しようと決心した際、二胡に関しても長年やっているのに、ここであっさり切ってしまうのも勿体無いなと思い、同時に二胡もしっかり学ぶ腹づもりで、楽器だけは日本から持参していました。当初の予定では、大学の著名な二胡教育家、W老師に学ぼうと思い、学生に頼んで紹介してもらおうとしましたが、「紹介してもいいけど、あなた柳琴専攻でしょ。第二専攻でなんて・・・」と、著名なW老師に対して失礼ではないか、というニュアンスで断られてしまいました。

 当時、私も中国語がほとんど話せなかったし、確かにそういう状況下では紹介してもらった人に迷惑をかけるだけかもしれないと思い、とりあえずは断念。以降、いろんな人からの話で、どうもW老師は私が学びたい内容とは違った方向性のようだということがわかり、今となってはそれも良かったのかもしれない、と思えます。

 紹介は次々に断られる

 次に、音楽学専攻の学生が二胡をWZ老師に習っているとききつけ、紹介してもらう機会をうかがっていました。WZ老師はすでに音楽院を退職された方で、授業内容には定評のある老師でした。私はちょくちょくその学生をせっつき、紹介してくれと頼んでいましたが、結局無視されて、結果として他の二胡の学生をWZ老師に紹介してしまいました。

 理由は尋ねていないのでわかりません。でも後に、紹介された当の二胡の学生から「だってあなた二胡専攻じゃないじゃない。誰だってそう思うわよ」とまで言われ、「ああ、またこの、第一専攻かそうでないかの問題か」と、本当に口惜しい思いをしたのが忘れられません。

 仕方なく(っていったら失礼ですが)、日本の先生に「とにかく誰か先生を紹介して下さい〜」と泣きついた時には、上海に来てすでに半年以上が過ぎていました。長い空白期間に焦りが加わり、自分でちょくちょく二胡の練習はしていたものの、弾いてても訳がわからなくなっていた状態でした。
 そしてY老師とのレッスン開

 Y老師との初対面の様子は以前にも日記で書きましたが、とにかく物腰がやわらかで、その雰囲気だけで和んでしまいます。レッスンの時も同じで、学生を千尋の谷に突き落として鍛え上げる呉強先生とは、対照的といえます。

 最初のレッスン。ざっと私が弾くのを聴いて下さり、「うーん、特にすぐさま直さなくてはならない問題もないようだ」と、とりあえず二ヶ月ほどずっと練習曲を宿題に出されました。その後、私が日本で独奏曲をほとんど習った事がないというのを知り、「じゃあ曲をやっていこう。その過程で大きな問題がでてきたら、それはそのつど解決していけばいい」と、まず先に劉天華作品の中から、よく弾かれる7曲を順に、それが済んだ後は考級曲目を順にクリアしていく、そういう方針でいくことになりました。

 先にも述べたように、日本での二胡の先生はとても曲に対するこだわりの大きい方であったため、1曲を習う際は1レッスンに4小節とか8小節単位で、滑音だとかの区別等を徹底的に教えてくださっていました。おかげで1曲仕上げるのに1年や2年かかったこともあります(まあ私自身も不真面目でほとんど練習なんてしてなかったから進度が遅かったのかも)。

 ですから、中国の先生というものは、そうやって学生にみっちり教え込むのだと思いこんでいました。だものでY老師から最初に曲を宿題として与えられた時、まさかいきなり全部通しで弾かされるとは思いもよりませんでした(一応準備してはいましたが)。宿題を与えられたら次のレッスンでは全部弾けていて当たり前。今までそんな経験がなかったので、最初はとまどいました。どうやって弾くか、曲の構成から何からもちろん自分で考えなくてはなりません。日本ではいかに過保護であったか、痛感しました。

 CDなどの音源があるものは、それを聴いて考える事も出来ますが、困るのは音源が無い曲。上海の考級曲目集にはちょいちょいそんなのがあって、どう弾くべきなのか、とても悩みました。今までそういう経験をしていませんでしたから。でも何曲かこなしていくうちに慣れて来て、次回レッスンで初めて答え合わせをする時、まあまあ近い所まで(いや、そーでもないか・・)もっていけるようになりました。

 去年は田舎に住んでいたので、やれ柳琴や中阮のレッスンだ、やれ公安に行くだのと、外出の度にとても時間がかかり、帰宅しても疲れて練習にならなかった事もありました。そのたびにしわ寄せが来るのはたいてい二胡の練習時間。でもそれはそれで、短い時間のうちに曲を仕上げる、いい訓練になったと思います。

 最近はできるだけ前もってCDなどを聴かないようにし、先に自分で楽譜を見て色々考え、何度も弾いて自分なりの処理ができてから、最後に答え合わせとしてCDを聴くようにしています。先にCDを聴くと影響されるし、自分でまず曲を把握してから聴いた方が、耳に残りやすく細かい所まで確認できるような気がします。というより二胡だと音源が多いので便利だけど、柳琴や中阮だと聴いたことがない曲がほとんどなので、自分で考えるしかない。これはとても良い思考訓練になるので、二胡でもそうしているのですが・・・。

 教え方さまざま

 Y老師は、日本での二胡の先生や呉強先生と違い、ひとつひとつを細かく(うるさく?)言うわけではありません。技術的な問題に関しても、「自分で何度も弾いているうちに、身体が自然な形で習得するもんだ」と、手の形がどうだとか、特にああしろこうしろと言われません。逆に、形について強制する事は生徒の自然な成長を妨げるからと、不自然な形でない限り注意もしません。

 その代わり、音については「必ずこの音を出せ」と要求されます。例えば最近ずっと陜西の曲、「迷胡調」「紅軍哥哥」「秦腔」を続けて習っているのですが、陜西の曲のあの独特の激しさと味を出す為に、例えば「迷胡調」ではいきなり最初の音から、破裂音のようなアクセントと圧弦を同時に行なわなければいけません(先生の弾き方ではね)。

 破裂音アクセントについては、日本での先生に他の曲でもさんざん言われ続けていましたし、昔唯一習った陜西の民歌「翻身道情」でもそーいや口酸っぱくいわれたなあ、なんて思い出しながら必死でその音を出そうとするのですが、いまいち迫力に欠ける音しか出て来ません。Y老師は「まーだまだ」と微笑みながら、私が確実にその音を出せるまで我慢強く何度もトライするのを許して下さり、やっとそれらしき音が続けて出るとにっこり笑って「それだ! 後は自分でやっておいで」。

 地方の風格性が比較的少ない曲については、あまり老師も細かくどうこう言われません。もちろん曲全体のバランスを整える為の指摘や、あまりに懸け離れていたりすると「ここはこうすべきじゃないか」と注意はありますが、細かい処理については「僕のとはちょっと違うけど、君のは君ので悪くないから」と、敢えて学生の感性をそのまま生かそうという方針のようです。

 しかし地方の風格が濃厚な曲についてはかなりこだわりを持っておられて、滑音の種類やちょっとしたタイミングについては厳格で、こちらは模倣しているつもりでも「・・・不好」とぼそりと声がかかります。同じ「不好」でも、呉強先生の場合「!」マークが後ろに三つくらい付くので、「ヘタクソー!!!」と言ってるようにしか聞こえないのですが、Y老師のやや間延びした言い方だと「うーん、もうちょっと何とかならんかなあ」くらいに優しく聞こえ、「先生、どう不好なんですかねぇ」とこちらものんびり尋ね返す。こんな感じで毎回和やかな雰囲気でレッスンが進んで行きます。張りつめた空気で一瞬とて気を許せない呉強先生とのレッスンと比べると大違い。ただ生徒にとってはどちらが良いのかはわかりませんが・・・。

 これもひとつの縁

 Y老師の親戚には有名な人が多いのですが、はっきりいって御本人は無名です(・・でも某考級曲目集にはY老師の作曲されたのが1曲だけ載っているのですがね)。昔に音楽学院を卒業されているのですが、「僕はかなり大きくなってから二胡を始めたから、技術に関してはあんまり上手いとは言えないんだ」と、御本人自らおっしゃっています。

 ですがY老師の演奏には、流暢とはいえませんが一種独特の風格があります。その辺り、日本での先生と共通するところがあり、今まで日本で習っていた内容と方向性が似たような感じで、また、いろんな楽器にはじまり、多方面に興味があるってこと自体がちょっと自分と似ているかも、と思ったり。

 ある日、常々頭のスミにあった、こんな質問をぶつけてみたことがあります。「私は二胡が第一専攻ではありませんから、全ての精力を二胡にかたむけているわけではありません。先生にとってはこういう生徒を教えるのは、あまり嬉しくないのではありませんか?」

 その質問に何の躊躇も無しに「そんなの全然関係ないよ。僕だって昔は古琴やら琵琶やらバイオリンにトランペット、他にも色々習ってたからね」と笑いながら即答してくださった老師。先に述べた専攻の問題で口惜しい思いをしてきましたが、こうやって私をひとりの二胡の学生として受け入れて下さる、そのことがとても嬉しく感じられます。決して有名ではないけれど好意的なY老師と出会えて、これはこれで良かったのかもしれないなぁと思えるようになりました。

(03.1.10)
  
 Y老師のこと

  みなさま、明けましておめでとうございます。 といっても中国のお正月は旧暦で祝いますから、元旦はちっとも新年という感じがし ません。

 今年の春節は2/1だそうです。中国のお正月って、一度体験してみたいな。してみようかな・・・。

○心強い相談相手

 前回の日記でちらりと御紹介した、「ある人物」。この方のお陰で、現在の生活面で の不自由さが、どれほど解消されていることか。もともと私の日本での二胡の先生(上海人)のお友達で、先生が上海に帰られた際に紹介してくださった方です。少し日本語を話されるので、当時(いや、今もか・・)あん まり中国語が話せなかった私にとって、心強い相談相手でした。この方、二胡教師で もあるので、Y老師と呼ぶことにします。

 日本の先生からの紹介・・といっても、実は先生の時間が合わなかった為に直接ご紹介していただけなくて、泣く泣く苦手な電話をかけ、これまた苦手なバスに乗り、単独お宅まで押しかけて行ったのでありました。お家の場所は、○○四村(村とありますが、これは住宅の区画の名称です)という団地街の一角。バスを降りて、まずその「村」を探すのに尋ねまわり、区画の中に入った後も、その棟を探すのに一苦労。日本と違って表示が極端に少ない為迷ってしまって、うろうろすること約30分。後ろから「モモ・・さん?」と日本語が。よかった見つけてもらえて〜。

 どちらかというと小柄。物腰柔らかそう。50才前後。これが、Y老師の初印象でした。昔、日本に行こうかなと思って勉強した、とおっしゃる日本語はとても美しい発音で、私の中国語より語彙が豊富かもしれない(笑) 。上海人にありがちな、怒ったような言い方がかけらもなく、時に日本語の単語を交えてゆっくりとお話しされ、また私のわけわからん中国語も理解しようとしてくださいました。

 それまで自分の中国語にコンプレックスを抱いていて、何度も聞き返されると極端に萎縮して話せなくなっていた私でしたが、この時はじめて、中国人と長時間の会話らしい会話が成立した気がします。自信を与えてくれた点でも、Y老師にはとても感謝しています。

○部屋の手配もてきぱきと

 練習室のトラブル等いろいろあり、外に住むことを考え始めた頃のこと。最初、日本の先生の実家が借りられることになっていたのですが、諸事情あり、結局その話は消えてしまいました。Y老師に相談を持ちかけたところ、「だったらこの近くに住めばいい。空家はいっぱいだし、なにより家賃が安い。学校の近くだと家賃は高いし、人が多いから練習するにも気を使うんじゃないか。今度こっちに来た時、一緒に不動産屋を見に行こう。」

 これを聞いた時、言葉では感謝しつつも、実は心の中で「でも中国人きっと口だけなんだよなー」などと不届きなことを考えていました。しかししかし! なんと次の朝(朝ですよ朝!!)、さっそく電話をくださり、「あれから色々物件を見てみたが、だいたい800元程度で全配(トイレ・シャワー・電話・家具などついていること)のがあるぞ。それから手続きだが、公安に問い合わせたら、パスポートを持参して派出所に登記するだけで、金はいらんしいちいちビザセンターなんぞに行かなくてもいいそうだ」・・・Y老師、そこまで詳しく聞いて下さったんですか!?まあなんと手回しの良いこと・・。

 で、結局Y老師のお宅から約5分の、同じ区画の団地の一室に住むことに決定し、それ以降も家の契約に付き添って色々交渉して下さったり(実は契約書はY老師が保管している)、物が壊れたりといった問題が起きるたびに相談したりと、言い尽くせない程お世話になっております。現在楽しく(?)、しかも安全に一人暮らしができるのも、すべてはY老師のお陰であります。

 ○人の親切が身にしみる

 Y老師もいい人(呉強先生のお墨付きです)ですが、奥様と9才になる娘がいらして、またまたいい人達なんですよ、これが。奥様は引っ越し当時あちこち買い物に付き合ってくださって、どこの店はどういうのが安くて、またゴミはどういう風に分別して、などなど細かい事を教えていただきました。そして少し肌寒い秋のある日、「練習する時、寒いでしょ。これ履きなさい」と、奥様手編みのスリッパを頂戴してしまったのですよ!!「手編みのスリッパ」なーんて日本ではあまり見かけませんよね。

 時々市場なんかで、白く分厚いゴムの靴底を売っていて、これどういう時に使うんだろう、なんて思っていましたが、それを底にしてスリッパを「編む」のが中国(上海だけかな)で流行っている(?)らしく、以降道端などでおばさんが実演販売しているのも見かけるようになりました。「かぁさんが、夜なべーをして・・」の歌を思い出して、ちょっと感激してしまいましたよ、これには。スリッパには2種類あって、ひとつは普通の形で、ひとつは「真冬用ね」と足首まで高く編み上げてある形。これはいまの寒い時期、丁度重宝しておりまして、足を入れる度、奥様の気遣いが嬉しく感じられて、とてもあたたかい気分になれるのです。

 9才の娘は、なかなかにこまっしゃくれた、でも性格がとても素直で朗らかな子です。昔バイオリンを習っていたそうで、今はY老師に二胡を習っています。以前「今何習ってんの?」と聞いたら、「美しきタシュクルガンの陽光」をさらりと弾いてくれちゃいました。く、くやしいけど上手いんだわ。彼女は「犬の散歩」のついでに、時々うちの家に遊びに来ますが、彼女いわく、「私が助けてあげなくちゃ!」と、頼んでいないのにいろいろ整理などしてくれます。でも彼女のお目当ては、うちの家にある楽器の数々であるらしく、いつも一通りさわって満足して帰っていくのでした・ ・。

 とまあ、そんなこんなで外でもどうにか暮らしておりますが、異国で暮らしていると、人の親切がとっても身にしみて嬉しく感じます。日本に暮らす外国の人たちも、きっと同じような気持ちなんでしょうか。

 

ページトップへ戻る

inserted by FC2 system