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モモの音楽日記雑感・その他

 
 第73回正倉院展 今年は螺鈿紫檀阮咸!! 21.11.23
 
 皆さまお久しぶりです。サボりすぎてすっかり年報と化したモモ日記であります…

 コロナで外出を控える毎日ですが、先日、奈良国立博物館で開催されていた正倉院展へ行ってきました。

 ここ数年ほぼ毎年観覧している正倉院展、毎回なにかしら楽器の展示があり、今年はなんと!! 螺鈿紫檀阮咸が出陳ときた~!!

 阮咸といえば、私が演奏する阮のご先祖さま。正倉院には二棹の阮咸が収蔵されており、うち桑木阮咸は碁を打つ文人が描かれた撥受け部分が特徴的な、シックな装飾の一品。前回は2014年に公開されました。

 そしてもう一種は今回の、華麗な装飾を施された螺鈿紫檀阮咸。奈良では1996年以来の公開とのことで、私にとっても25年ぶりの対面となります。


博物館ロビーのタペストリー


ポスターがたくさん並んでいるだけでテンションUP!!

 入場すると真っ先に目に飛び込んで来たのが、ロビー正面にかけられたタペストリー。わあ、阮咸が主役になっているではありませんか!!
 
 阮咸の両脇にプリントされているのは、刻彫尺八。竹に花鳥や人物などの文様が細かく彫刻された、美しい尺八です。楽器が揃ってクローズアップされているのは嬉しいなあ♪

 さて、実物の紫檀螺鈿阮咸と久々のご対面。

 家には正倉院楽器の図版本があり、また以前にも明治に制作された再現模造品を見ているので、自分の中では頻繁にお会いしている感覚があるんですが(笑)。

 それでも例えばサイズ感、現代の阮に比べ半分ほどの胴の厚さに華奢な印象を受けたり、例えば色彩、1200年余りの年月を経てなお鮮やかな色が残っていたり、逆に劣化してくすんだ色もまた深い味わいを醸し出していたりと、実物だからこそ感じられることも多いです。

 聖武天皇のご愛用の品だったという割にはフレットが全然減っていないなあ、とか、変に突っ込みたくなります(後世に補修しているのかな?)。

 あと今年は笛吹襪という、楽舞用の錦の足袋とその再現模造品の展示がありました。東大寺の大仏開眼会で笛の演奏者が履いた靴下らしいのですが、1200年余り前のイベントで、しかも「笛奏者の」とわざわざ資料を残しているのがすごいですね。他の楽器の奏者のはなぜ残らなかったんでしょう?



阮咸グッズの数々、これはほんの一部

 展覧会ではミュージアムグッズの蒐集も楽しみのひとつ。今回は阮咸が主役ということで、グッズが山ほど販売されていました。

 定番のA4ファイルはもちろん、一筆箋やメモにチケットファイル、マグネットにクリップにストラップ、くらいで止めておけばいいのに、今ならではのマスクケースやお薬手帳ケース、また眼鏡クロスに紅茶入り缶まで、こんなに買ってどうするん!!
 
 ま、たぶん勿体なくて使えず、時々取り出してはニヤニヤするのが関の山、なんですけれど…それが分かってて蒐集する、アホな私です。

 正倉院に収められた宝物は,整理済みのものだけでも約九千点という膨大な量であるのだとか。保護のため、正倉院の宝物は一度展示されると次の出陳まで十年ほど間をおいているようです。

 今回見た品々は、もしかしたら次回公開時にはもう自分はこの世にいないかもしれない。そう思うと、できるだけ多くの物を見たい、体験したい。そう感じる年齢になってきました。コロナの流行を経て、余計にそう実感させられます。

 と、いうことで死ぬ間際に「やっぱりあの時食べときゃよかった~!」と後悔しないよう、高速餅つきで有名な中谷堂へ。つきたての柔らかいよもぎ餅、ウマ~い♪


中谷堂のよもぎ餅


 

 
 《よみがえる正倉院宝物》展 20.8.7
 
 皆さま、お久しぶりです。元気でお過ごしでしょうか。

 あわただしく過ごすうちに、前回の日記更新から1年以上経ってしまいました。その間、新型コロナウィルスの流行によりこれまで当たり前だと思っていた日常が失われ、一日一日を大切に暮らそうと感じるようになった方も多いと思います。

 私自身もいちおう音楽関係者のはしくれですから、やはりコロナの影響は避けられません。緊急事態宣言を受けてレッスンが数か月間お休みになったのを始め、夏に予定していた名張の二胡発表会が開催できなくなり、依頼を受けていたコンサートも中止や延期となりました。

 それでも元々出不精な私には引きこもり生活は性に合っていて、緊急事態宣言期間中ずっと音楽の勉強をしたり、楽器練習ひとつとっても曲の解釈や指使いなどの再考ができたり、忙しかった時には後回しにしていた事にじっくり向き合え、自分の学習貯金とでもいうべきものが随分と蓄えられたように感じます。

 ただ、そんなこんなで勉強に時間をかけていたせいで、日記は放ったらかし、しようと思っていた断捨離もほとんどできずじまい・・・政府からの定額給付金も、まるでそれを待っていたかのようなタイミングでパソコンが壊れてしまい、そっくりそのまま新しいパソコン購入代金へと消えてしまいましたよ、まったく!!

♪《よみがえる正倉院宝物~再現模造にみる天平の技》展♪

 さて現在もコロナの勢いは衰えがみえない中、遠出は避けつつ、せめて同じ奈良県内を一人で行動するならばリスクは少なかろうと、奈良国立博物館へ行ってまいりました。元々は春に公開予定だった《よみがえる正倉院宝物》展、会期を7月~9月4日までに変更して開催されています。



 毎年秋には正倉院展が開催されており、千年以上も前の貴重な宝物を目の前で見ることができます。しかし長い年月を経た宝物はすっかり傷み、明治から現在まで修復と並行して模造が進められているそうです。

 今回の展示はその明治以降に製作された模造品の数々が出展されています。模造品といっても姿かたちをそのまま真似るだけでなく、現在は途絶えてしまった当時の技術をも再現したものだとか。

 実は以前にもこの再現模造品展を見た記憶があり、探してみると当時のチラシと出品リストが出てきました。1999年のことですから、何と21年前!! 探す際には保管していた同時期の展覧会やコンサート他のパンフ類も出てきました。東京などにも積極的に出かけていた当時の自分の元気はどこへ消えた(笑)



1999年開催時のチラシと出品リスト

 1999年、兵庫県立歴史博物館での出品リストを見てみると、出品数は70点。今回の出品数は128点(前後期で展示替えあり)。もしかしたら1999年は東京など他の博物館も巡回していたでしょうし、各館で出品数が違っていたかもしれませんね。

 今回の展示の目玉である「螺鈿紫檀五絃琵琶」などは、明治時代に製作された模造品があるにもかかわらず、新たに2011年から18年にかけて製作されたものが展示されています。

 会場では製作過程が映像やパーツなどの分解展示で紹介されており、どのような技法をもって作られたかが詳しく解説されています。琵琶に張られた絃ひとつとっても、皇室で飼育された小石丸という蚕の糸を使っているとのことでした。

 模造品はあくまで模造品であり、本物の持つ歴史の重みにはかないませんが、それでも現代の職人たちが研究を重ね、失われた当時の技術を再現して今に伝えることに大きな価値があると思います。

 特筆すべきは展覧会会場のグッズ。今回出品の五絃琵琶や古琴、排簫などといった楽器のチャームが販売されていました。全部で6種類あり、なんと螺鈿紫檀阮咸のチャームも!! (これって、奈良では阮咸は出品されていなかったけれど、他の会場では出品予定ってこと?)

 あと、螺鈿箱を模した丸缶がなかなか良くできていて、手元に置いておきたくなる美しさ。中にはちゃんとアメが入ってます。値段が安ければまとめ買いしてお土産に配るのだけど…。





 奈良国立博物館での会期は9月6日まで。その後は長野、名古屋、沖縄、福岡、新潟、北海道、東京と巡回する予定だそうです。お近くの会場へ、ぜひ足を運んでみてくださいね。

 そうそう、コロナ流行で観光客激減の奈良公園。鹿せんべいをもらえなくなった鹿たちは、真面目に草を食んでいました。この鹿せんべいの売り上げは愛護協会の活動資金になりますので、奈良公園へお越しの際はぜひお一つご協力くださいませ。




奈良公園の鹿たち

 
 はじまりは三国志・その4 24年の時を経て 18.10.23
 
 芸術の秋。あちこちでイベントが行われるなか、わが長弓の会はこの秋も沢山のご依頼を受けて演奏をさせていただいております。丁寧におもてなし下さる主催者の方々、そして笑顔で歌いながら演奏を聴いて下さるお客さまには、演奏しているこちらも嬉しくなりますね。この場を借りて感謝を申し上げたいです。

 さて私的「中国音楽事始め」、前回から少し先に跳びますが、二胡を始めて間もない頃、自分にとって忘れられない演奏会がありました。

♪敦煌古楽演奏会♪

 今を去ること24年前の1994年(阪神大震災の前年ですね)、兵庫県伊丹市にあるアイフォニックホールにて「莫高窟壁画からの復元楽器による敦煌古楽演奏会」と題したコンサートが開催されました。

 タイトルにある通り、敦煌壁画を元に多数の楽器を復元し、それらを使って古楽合奏をするという、ものすごく贅沢な演奏会だったのです。
 


  


当時のプログラムと演目
       
 当時の私は93年の秋から二胡を習い始め、それから数カ月経って柳琴の手ほどきも受けており、ちょうど撥弦楽器への興味がいや増していた時期でもあったため、この演奏会は私にとってかなり衝撃的でした。

 なかでも琵琶や阮など複数の楽器をあやつる若き日の方錦龍氏に、もう目も耳も釘付け状態。琵琶演奏よりも阮で演奏された(はず。)曲の「惜惜塩」や「惜琼花」に感銘を受け、いつかこんな風にこの曲を奏でることができたなら、と思った記憶があります。

 それからというもの、中国で「方錦龍」のクレジットがあるCDを見かけては購入しておりました。おかげで家には氏のCDが多数あり、なかにはキーボードとのデュオでポップスを演奏しているなんてレアなものも(ぜひ衣装にご注目!!)。
   
  

CDの数々。若き日のお姿が写っていますね
      
♪日本華楽団演奏会♪

 先日10月7日、留学前に私が所属していた中国音楽オーケストラ、日本華楽団の演奏会がありました。この「千年絶響 盛唐遺韻 五弦琵琶スペシャルコンサート」、ゲストはなんと、方錦龍氏!!これはもう、何が何でも聴きに行かねば!!




 舞台ではしっとりとした古曲の『春江花月夜』や『霓裳曲』など楽団との協奏の他、氏の収蔵されている楽器の解説コーナーが設けられ、8,000年前のものだという骨笛、そして口琴、古琴(七弦琴)など演奏を交えながら、楽器への愛をそれはそれは熱く語っておられました。

 古琴の「酒狂(実体験酔いどれバージョン?)」、それに五弦琵琶で巡る世界音楽ツアー、中国に始まり日本の三味線やインドのシタール、スペインのフラメンコなどの音楽を模倣して聞かせて下さったりと、観客へのサービス精神の旺盛なこと!!いやあ、氏の生演奏が再び聞けるとは。生きてて良かったと感慨にふけりました。

 振り返ってみれば、昔は今と違いインターネットも無く、中国音楽に関しても限られた情報の中で学ぶより他ありませんでした。それだけに学習の初期に本場の奏者による生演奏を聴く機会を得たことは本当に貴重であり、その時の純粋な驚きが原動力となって今まで中国音楽を続けて来られたんだろうなあ、と思います。

 終演後、会場で購入した新しいCDのほか、家から持参したものにもサインをしていただいた上、こんな機会もう二度とないだろうと、厚かましくもツーショットまで撮らせてもらいました。

 初めてお見かけしてから24年の年月を経て、髪はすっかり白くなり(といってもまだ50代のはず)、体型もすっかり円満になられましたねえ(笑)。ますますのご活躍を、日本からこっそり応援しております。
 

ツーショットで撮っちゃいました♪

 
 はじまりは三国志・その3 16.10.17
 
 再び、私の中国音楽事始めの話に戻りたいと思います。

 初めての中国旅行で、偶然の出来事から手に入れた二胡。嬉しくてその晩さっそく「キラキラ星」やら簡単なメロディを遊び弾きしてみたものの、正式な弾き方も何も全く分かりません。

 このまま遊んでいるだけだと「単なるおもちゃ」で終わってしまう。まともな楽器店で買った物なのだから、ちゃんと「楽器」として扱ってやりたいな。旅行中の数日間に、そんな思いを抱くようになりました。

 帰国後、情報を求めていくつかの施設をまわりました。当時はインターネットなど無い時代でしたので、自分の足で探すより他ありません。アジア図書館に行き蔵書にあった「京胡演奏法」なんてのを見つけて借りてみたり、大阪国際交流センターに行き音楽関係の映像資料を閲覧したり。

 そんなある日、施設に置いてあった一枚のチラシに目が留まりました。「留学生アジア・アフリカミュージカルチーム」による音楽や舞踊のコンサート。その中には中国の音楽もあり、他にも色んなものが体験できそうだな、と軽い気持ちで見に行きました。
 

   
 このチラシはその時のものではなく95年のですが、ウーファンさんや楊興新さんなどもゲスト出演されていますね。当時はこういったコンサートが頻繁に開催されていて、それを見ることで自然と沢山の曲を覚え、感覚を身につけていったのだと思います。最近は日本の曲ばかりで「中国音楽の」ではなく「中国楽器の」コンサートと化したものも多いですからねえ(人の事は言えませんが)。

 ♪エンキさんとの出会い♪

 そのコンサートは「各国就・留学生助けあいの会」が主催したもので、詳しくは覚えていませんが歌あり踊りあり楽器ありの多彩なプログラムでした。中でもひときわ目(耳?)を引いたのが、中国の琵琶。そう、エンキさんの演奏です。

 今にして思えば「十面埋伏」を演奏されていたのでしょう、琵琶の様々な奏法を駆使して項羽と劉邦の戦いを表現したこの曲を聴き、「うわ~カッコいい!!こんな音楽があるんだ」。驚愕とともに、西洋とは全く違う、中国の音楽世界に魅了されました。

 終演後、会の世話人である久保田東作さんに声を掛け、二胡を教えてくれる人がいないか尋ねました。すると先程まで琵琶を弾いていたエンキさんが「私、二胡も弾けるよ~」と。ならばぜひ、と早速教えていただけることに。

 こうして私の中国音楽における第一歩が始まったのです。中国で二胡を買った時から一年余りが経った、93年秋のことでした。


 
 はじまりは三国志・その2 16.6.20
 

♪西安の民族楽器店にて♪

 三国志に触発されて旅行した、初めての中国。西安のホテル前で出くわした民族楽器に心惹かれた私は、何とか手に入れられないかと、タクシーに乗り音楽学院の横にある楽器店へとやってきました。

 店内には様々な楽器が並んでいます。ホテル前で見た中阮(だったはず)の姿を探しながらも、持ち帰るにはちょっと大きいな、と思って傍らに目をやると、小さくて可愛らしい、琵琶に似た楽器が壁に掛かっていました。

 今ならそれが柳琴だと認識できますが、当時の私には初めて見る楽器。どんな音がするんだろう。「音が聞きたいから弾いてみてくれませんか」と四苦八苦しながらゼスチャーで店の人に伝えました。

 楽器から出てきた音は想像よりずっと金属的で、しかも張りがなく痩せた感じがしました。無理もありません、店の人は楽器を弾けないし、そもそもチューニングも合っていなかったかもしれず、そんな状態で楽器本来の音がわかる訳もないのです。

 柳琴に対して一瞬で興味を失った私は、あらためてじっくり店の中を眺めました。柳琴や琵琶は二台ずつくらいしか無いけれど、二種類の楽器だけは、やけに沢山の数が壁に掛かっています。数が多いってことはつまり、それだけの需要があるということ。きっとこの国ではこの二種類の楽器が特に愛されているのだろうと考えました。

 ひとつは笛。そしてもう一種類は…何だろう、この見慣れない楽器。細くて長くて、蛇皮なんて張ってある。弓が添えられているのは、バイオリンみたいに弾くものなのかな?あ、もしかしてこれがいわゆる胡弓というものなんじゃ?


購入した二胡。懐かしい木箱です
   
 そう思った途端、この楽器がたまらなく欲しくなりました。値札を見ると、安いもので一万円前後。それくらいだったら、まあ買って帰ってもいいか。どうやら中国ではポピュラーな楽器みたいだし、日本のどこかには教えてくれる人もいるだろう。

 こうやって手に入れた楽器、二胡。その夜、ホテルの部屋で、店の人に教えてもらった持ち方などを思い出し、さっそく弾いてみました。ガリガリゴリゴリいわせながらたどたどしくも音を取って「キラキラ星」を弾けた瞬間、嬉しかったなあ。

 それから後、中国音楽を学び、それを仕事とすることになるなんて、誰が想像できたでしょう。ホテルの前に停まったツアーバスが、そして一本の二胡が、中国音楽への扉を開いてくれたのです。

 西安に泊まった日、夕食は民族音楽の宮廷風歌舞ショーでした。中阮の独奏なんかもあって、今見たらヨダレが出そうな豪華プログラムだったはずですが、当時は「何だか優雅な音楽だな~」なんてサラッと流してしまっていました。しかも当時の西安音楽学院では寧勇老師が教鞭をとっておられ、中国のどこの音楽学院よりも阮の教育にかなり力が入っていたはず。知らなかったとはいえ勿体ない…


西安での宮廷歌舞ショー。阮も二台入っていますね
   
※注・ニシキヘビはワシントン条約の保護対象になっている動物なので、輸出入には申告が必要です。もちろんこの時の私はそんな事を知るわけもなく、帰国の際にも空港で申告などしていませんが(どころか税関の職員も見たはずだけどノーチェック)、もう時効ということでお許しくださいね。
 
 
 

 
 はじまりは三国志 16.4.4
 

 桜の季節ですね。この時期、学生さんだけでなく社会人の皆さまも、新しい環境で新しい人との縁を結ぶ機会も多いかと思います。私自身、前回の日記で触れたようにエンキさんと再会したり、またここ最近になって懐かしい人と連絡がついたり、という事が何度か続きました。

 縁、というのは不思議なもので、ふとしたきっかけからどんどん発展していく事があります。実は私が中国音楽に関わっているのも、そんな「ふとしたきっかけ」から始まっているのです。「初心にかえれ」と自分に言い聞かせつつ、あらためて自分の「はじまり」を振り返ってみたいと思います。

♪マンガ『三国志』60巻♪

 二十数年前、私が社会人としてまだヒヨっ子の頃。当時は「中国?何だかわかんないけど歴史が長くてチャイナ服着ている人達」なんて思っていたくらい(日本人は皆ゲイシャってのと変わらないレベルですよね)で、完全に興味の対象外でした。

 そんなある日、父がいきなり横山光輝さんのマンガ『三国志』全60巻を買ってきたのです。うちは両親ともに歴史好きで、父も「マンガなら時間が無くても気軽に読めるだろう」というつもりだったようです。父が何日もかかってじっくり読むそばから、マンガ世代である私は4日ほどでホイホイと読み終えてしまいました。

 横山さんのマンガは人物への感情移入もなく淡々とストーリーが進行しますが、私が興味を持ったのは、故事成語の元となった話や名前だけ知っている歴史上の人物のエピソードが、作品の中でたびたび紹介されていたこと。以来、中国の歴史に興味を持ち、図書館で関連の本を借りて読む毎日でした。

 そのうち「そうだ、中国へ行こう!!」と思い立ち、ツアーに申し込んで初めての中国旅行に出かけたのが1992年の夏。上海から北京、西安、洛陽を巡る8日間のツアーでした。途中、北京から洛陽までの夜行列車が出なくなり、洛陽から上海まで19時間に及ぶ列車に変更になったりと、思えばハードな旅でしたねえ(笑)。

♪初めての中国へ♪
 

宿泊した上海・華亭賓館からの眺め。現在は繁華街ですが、当時はこんな感じ
 
 上海、北京を巡った後、西安で兵馬俑ほか昼間の観光を終えて、夕食までかなりの時間フリータイム。年配者の多いツアーの皆さんは部屋でお休みだったようですが、若くて好奇心いっぱいの私は周辺を散策しようとホテルを出た、その時でした。

 目の前に停まったバスから乗客がぞろぞろと降りてきました。どうやら日本人ツアー客のようです。その中のお一人が手にされていた物に、私の眼は釘付けになりました。ギターみたいな弦楽器ですが、形が丸くて目のような一対の穴が開いています。何故それがわかったのかというと、ケースに入っているのではなく、楽器をそのまま握っておられたからです。

 今にして思えばその楽器が阮だったのですが、当時の私が知る由もありません。しかしむくむくと興味が湧き、その方に声を掛け、どこで買われたのか尋ねてみました。すると「音楽学院があり、その横にある楽器屋で手に入れた」とのこと。場所を地図で確認し、中国語も全くできないのにタクシーを呼び、さっそく行ってみる事にしました。

 この出来事が、その後の私の人生を変えることとなったのです。続きはまた次回。


北京にて。やっぱり多いですね、自転車

 
 

 
 原曲を探して・その7 14.7.2

 去る5月12日、二胡演奏家の閔惠芬氏が逝去されました。彼女の気さくで愛される人柄も手伝って、中国のみならず世界中の多くの人達に二胡の魅力を伝えた功績は非常に大きいと思います。ご冥福を心からお祈りします。

 ♪陽関三畳・(4)♪ 


 
・沈正陸による二胡版

 二胡の「陽関三畳」、これまでご紹介してきた閔惠芬編曲のバージョンがあまりに有名で、それが唯一と思っている方もおられるかもしれません。しかし他にも二胡、そして高胡独奏用に編曲されたものがあります。

 閔惠芬といえば、1963年上海之春音楽会にて開催された第一回全国二胡コンクールで最優秀賞を獲得、女性の奏者がまだまだ少なかった当時の二胡界で一躍注目を浴びた…というのは有名な話。

 その二胡コンクールで、すでに沈正陸という人が「陽関三畳」を演奏していたのをご存知でしょうか。この伝説のコンクールの演奏については三枚組のCDが分厚い解説書付きで龍音レーベルから出版されているので、お持ちの方もいらっしゃるかと思います。


『上海之春』CD
 
 クレジットには「古曲 王震亜改編」としか無いため、王震亜の合唱譜から二胡独奏用に編曲したのが沈正陸自身なのか他の人なのかは不明ですが、少なくとも1963年より以前だということになります。

 このコンクールで沈正陸は三等奨を獲得し、受賞者演奏会でもこの「陽関三畳」を演奏したとありますから、閔惠芬がこの時に沈正陸版を耳にしたことは間違いないでしょう。

 閔惠芬が二胡独奏版を編曲したのはコンクールから14年経った1977年。既に他の人が発表済みの曲、しかも元の琴歌からではなく同じ王震亜の合唱譜からの編曲を、なぜ思い立ったのか。元々自分も二胡で弾きたかったのに先越されたのが残念だったのかどうか、彼女の気持ちを知る由もありませんが、それだけこの曲に対する思い入れが強かったのでしょうね。

 では沈正陸の二胡版について、閔惠芬版や合唱譜と比較しながらみていきましょう。

 下記に楽譜のサイトを案内しておきますので、興味がおありの方はどうぞご参照ください。

※沈正陸版の音源については、前回閔惠芬版でご紹介した中国音楽学院のサイト、中国民族器楽曲目集萃の曲目一覧の中から聴くことができます。

●「陽関三畳」(沈正陸編曲二胡譜)
http://bbs.wenhuacn.com/dispbbs.asp?boardid=40&replyid=103815&id=18588&skin=0&page=1&star=4

 基本的には、ピアノ伴奏を含めて王震亜の合唱譜をそのままなぞった形になっています。閔惠芬が二畳に省略した繰り返し部分も三畳のままで、サイズ的には合唱譜とほぼ同じ。二胡譜に改編するにあたっては、当然ながら二胡らしさ、例えばちょっとした滑音やトリルなどの装飾が随所に加えられており、ピアノ伴奏が添えられたスマートな合唱版に比べ非常に味わいがあります。

 実際の演奏と楽譜では、装飾や指使いなどが少々違いますが、民族楽器ではこの程度の相違は普通なので特に気にすることもないでしょう。ただ、滑音やトリルなどが加えられているといっても、閔惠芬が特に提示した「古琴のような滑音」は沈正陸版には見受けられません。沈正陸の演奏の中の装飾は、あくまでも二胡らしい表現にとどまっています。

 前回にも触れた小節の区切りについてはどうでしょうか。

 閔惠芬版で「ミーソーラドラー」と不明確な区切りになっていた、例のクライマックス部分の句「依依顧恋不忍離」のくだり。沈正陸版では同じくミから小節が始まっているものの、次のソの音との間にはしっかりブレス記号が入っていますね。

 あと、二畳の途中から頻繁に拍子が変わる合唱譜と違い、沈正陸版はクライマックスまではずっと四拍子で統一されています。ただ合唱譜をなぞるだけではなく変更を加えたのは、沈正陸も少々疑問を持ったということでしょうか。閔惠芬も同じように四拍子で統一しているということは、かなり沈正陸版を参考にしているような気も?

 速度についても少し触れておきましょう。

 閔惠芬の二胡版で慣れた耳には、元の古琴版や合唱版が意外と速くあっさりしているように聴こえることでしょう。沈正陸版では合唱版(指示はアンダンテ)より少し遅めです(=50、冒頭部分)。閔惠芬は更に遅い速度(=40)で感情たっぷりに演奏します。この違いには時代も関係しているのかもしれません。音楽に限らず書物や映画など、昔の「多くを語らず行間から気持ちを読み取れ」的なややぶっきらぼうなものから、時代が下るにつれてどんどんわかりやすく、かつ細かい表現へと確実に変化していますものね。

 これが発表された1977年くらいになれぱ、おそらく表現についても現代的な解釈が求められたでしょう。閔惠芬が女性ということも、より細やかで起伏に富んだ感情表現を可能にしたかもしれないですね。何たってそれを表に出すのが得意なのは女性ですから。

 沈正陸は合唱版を忠実に二胡に移植したかったようで、曲のサイズや伴奏はそのままですし、クライマックスからラストに続く曲処理などにも、二胡的な装飾以外は大きく手を加えることなく、合唱譜の雰囲気を大切にしています。

 片や閔惠芬版は全体の速度をぐんと落とすことにより最初に「静」を印象付けたのち、大胆に発展させたクライマックスの「動」との対比を強調。速度やクライマックスの長さの関係で、前半のサイズを小さくしバランスをとっています。これは先に出た沈正陸版を意識しつつ、「より良いものを」と構成を練りに練った結果なのでしょう。

 そして現在では沈正陸版を知る人は少なく、閔惠芬版が「陽関スタンダード」になっていることは否めない事実です。これは閔惠芬版の方が高評価を受けたのか、単に彼女があちこちで演奏やCD録音することで多くの人に認知されただけなのかはわかりませんが…

 また元々は古琴曲を編曲したものであるのに、逆に古琴の方が閔惠芬版の影響を受けてか、ドラマチックな演奏が増えているのも興味深い現象です。音楽は時代の感覚を反映するものだし、それが古曲であっても影響を受けるのは仕方ない事でしょうね。それが良いか悪いかは何とも言えませんけれど。

・沈正陸による二胡版

ついでに高胡版も紹介しておきましょう。李榮声(琵琶のエラい人と同一人物だろうか…)による編曲で、発表年は不明ですが上海音楽出版社の「二胡曲集」第十集(下の写真は合訂本)に収録されており、この高胡版の存在を知る人は多いです。


 
 楽譜はD調で書かれていて、「二胡で演奏の際はG調で」と添えられています。G調ということは、例の「ファーソラソー」のファは無いのか?と思ったら、その部分は1オクターブ高い音域で書かれていました。なのでやはりこれも合唱版を元に編曲されたようですね。

 構成としては、最初は同じですが、二畳ぶん繰り返してから突如=120の快速部分に変わります。ここはずいぶん歯切れの良い感じで、別れの悲しみなんてどこへやら~な明るさ(笑)。その後長い長い散板が挿入され、最後の一畳部分→ラスト、という構成になっています。これはこれでちゃんと演奏してみると面白いかも…スタンダードにはなり得ない気もしますけれどね。

 最後にもうひとつ。

 元々は王維の詩に節をつけたもので、今まで紹介してきた「琴学入門」譜からのもの以外にも旋律違いで様々な「陽関」がある、と最初にお話ししました。その中の、「東皋琴譜」(日本)の旋律の音源がありましたので、ここにURLを載せておきます。もしかしたらこちらの旋律の方が有名になっていたかもと思うと、音楽にしろ何にしろまずは多くの人に知られる工夫が大切なんだなと思いました。

●王維「陽関曲」漢詩を歌うカラオケ ←「東皋琴譜」版。メロディ違いの陽関曲の一つです。
http://www.youtube.com/watch?v=LAGnjhWDZtU

 「陽関三畳」に関して四回にわたり長々と書いてきましたが、きっかけは音楽仲間のIさんからのちょっとした質問メールからでした。今まで気になりながらも何となくうやむやにしていた事を、改めて調べ確認していくのは、非常に疲れましたが楽しい作業でした。

 そのきっかけを作って下さっただけでなく、数々の資料と示唆に富んだご意見を頂戴したIさんに、この場を借りて御礼申し上げます。有難うございました。

 あと楽譜や音源の参考資料として沢山のURLを載せていますが、ネットでの違法取得をお勧めしているわけでは決してありません。解説の都合上、私が個人的に持っている資料と同じものを見たり聞いたりできるようにご紹介しただけです。

 これを元に実際の資料を購入されて、一緒に収録されている他の曲などにも関心を持って、どんどん中国音楽の知識を広げて頂けたら、というのが願いです。

 
 原曲を探して・その6 14.3.13

 ・閔惠芬編曲による二胡版


 閔惠芬の二胡版「陽関三畳」は王震亜の合唱譜を元に編曲されている、と前に述べました。元の合唱版からどう発展させたかを比較しながらみてみましょう。

 ※合唱版および古琴版の楽譜については前回にURLをご紹介していますので、そちらに載っている楽譜を元に説明します。閔惠芬二胡版楽譜については容易に検索可能ですから、あえてURLは載せず、イントロ伴奏を除く小節数で示すことにします。

 まず全体を聴いて感じるのは、曲のサイズが多少変えられていること。タイトルの「三畳」は三回繰り返しという意味を持ちますが、閔惠芬版はその二回目の途中から中を抜き三回目にとんでいて(合唱版楽譜の9段目初めから13段目2小節目まで)、三畳ならぬ二畳に縮小されています。

 かと思うと、終盤に向けての「ソーラドラー」の部分(合唱版14段目1小節目の3拍目から)が、原曲では二回繰り返しなのに対し閔惠芬版では三回と増えています。ここは三回繰り返しに加え、更に次の小節との間にフェルマータの指示が入り、余韻を長めにとっていますね。

 そして閔惠芬版で出色なのはこのあと。小節線を取り払った散板が最後近くまで続きます。原曲より1オクターブ高い音域で、かつ倍以上の長さで展開されているこのクライマックス部分、奏者にとってはいかに美しく演奏できるか腕の見せどころ。

 ともすれば地味に聞こえる原曲に比べると、閔惠芬版ではこの変化に富んだ散板が挿入されることでよりドラマチック感が増し、別離の嘆きが強調されているように感じます。

 「陽関三畳」は元々は古琴と共に吟ずる琴歌。奏者自身が歌うことが多いですから、専門的な訓練を受けた歌手ならともかく、普通の人だと歌える音域も限られるでしょう。

 元の琴歌の音域は1オクターブ半(古琴では一畳目は低く二畳目以降は1オクターブ高く演奏しますが、歌パートは同じオクターブで歌うので)。閔惠芬版だと2オクターブ強と広くなっています。

 琴歌は歌うことに重きを置くために、音域は歌える範囲内に自然と限られます。いっぽう二胡は弦楽器であり広い音域を無理なく使うことが可能です。琴歌をそっくりそのまま忠実に移植するだけでなく、閔惠芬は二胡の特性を活かしたオリジナル部分を挿入することで、二胡という楽器の素晴らしい表現力を引きだしたかったのではないでしょうか。


 
 上の写真は閔惠芬演奏のCD。「陽関三畳」も収録されているこの盤は、私が生まれて初めて買った二胡のCDです(しかも何故か関西でなく東京で)。当時は閔惠芬という名前さえ知らず手に取りましたが、いわゆる経典名曲のほか「春天(=採茶撲蝶)」の三重奏なども収録されており、なかなかいい買物だったと思っています。

・小節の区切り

 前回までにも触れましたが、古琴の減字譜にはリズムが示されていない為、元が同じ楽譜であっても演奏者や記譜者の違いで様々に変化します。

 閔惠芬版では元の合唱譜のリズムを踏襲しつつ所々に修整が加えられています。四拍子、三拍子、二拍子と変化する合唱版に比べ、閔惠芬版ではクライマックスの数小節と散板以外は四分の四拍子に統一され、見やすくなっています。

 王震亜の合唱版の楽譜は、あまりに自由で様々な古琴の楽譜類よりは整理されており、原曲の雰囲気を壊さずに西洋音楽の考え方も取り入れて…という結果なのでしょう。がそれでも私には少々の気持ち悪さが残ります。

 合唱版の楽譜の歌詞を見てみて下さい。最初の方はよいとして、例えば8段目2小節目。四拍子から三拍子に変わっていますが、なぜここでわざわざ三拍子に変える意味があるのか、私にはさっぱり理解できないのです。

 四拍子のままにしておけば、ここの七言の句「依依顧恋不忍離」が小節で分断されてしまうこともなく、その後も「泪滴沾布」、伴奏(実際には無復相輔仁と歌詞が入ります)、続く「感懐,感懐」部分で二拍子にせずとも綺麗に収まると思うんですが。

 おそらく元にした夏一峰の古琴演奏譜がこのような楽譜になっていたのでしょうね。夏一峰に限らず古琴の楽譜の小節の区切りはどうにも不可解で、楽譜の区切りと実際に演奏を聴いて感じる小節の区切りとが一致していないようだし、では歌詞の句に沿って区切っているのかと思うとそうでもないようで。

 例えば「皆さん初めましてモモと申します」という文があったとします。これを「皆さん初めま、してモモ、と申します」なんて区切り方をすると何を言っているかわかりませんよね。「西洋音楽とはルールが違うから」と言われるかもしれませんが、それでも楽譜に表す際には歌詞の持つリズムやかたまり感を考慮する必要があるのではないでしょうか?

・閔惠芬編曲版へのちょっとした違和感

 それでも合唱版の実際の演奏を聴くと、特に違和感は感じません。王震亜による伴奏の配し方が巧みなのでしょうし、記譜に関してはともかく歌詞の句はメロディのかたまりとほとんど一致していてわかりやすい、というのもあります。

 二胡の楽譜を見てみましょう。27小節目、二回目の「ララー ララー」が出てくる辺りです。ここは楽譜にも29小節目の頭から「激動地」と指示があり、伴奏も29小節目から十六分音符が連続しています。

 27小節目から31小節目にかけての小節の区切りは「ララー ララー / ラソラソラミー / ミーソーラドラー / ソーラドラー / ソーラドラー」となっていて、たいていの演奏もこの通りに区切って弾いている人が多いですよね?

 さてこの部分の歌詞を見てみて下さい。合唱版では13段目3小節目からに相当しています。注目してほしいのは14段目頭、合唱版では二分音符ですが、閔惠芬版(29小節目)では四分音符になっているところ。

 そう、この29小節頭の「ミ」の音は、新しい句の始まりではなく、前の句の終わりなのです。もちろんこの曲の中には、他にも歌詞の区切りと小節の区切りが一致しない箇所が山ほどあります。が他の箇所はメロディのかたまりがわかりやすく、意識せずとも弾けるはず。

 合唱版ではどうでしょうか。閔惠芬版と同じく「ミ」は小節の頭に入っているにもかかわらず違和感を感じないのは、この音を二分音符で長く時間をとっている上、伴奏で次の「ソーラドラー」から別の句であることが明確にわかるようになっているからです。

 閔惠芬版の伴奏だと、どうしても「ミーソーラドラー」と小節の頭から区切りなしに続けるように思いがちですよね。「激動地」の指示も途中の「ミ」からではなく、小節の頭から入っていますし。

 せめてブレス記号でも入っていればわかるのですが…閔惠芬は他の箇所、例えば28小節目や31小節目ではちゃんと指示があるのに(しかもフェルマータの後ろにわざわざ入れてご親切にどうも、とすら思う)、なんで肝心の所に入れてないんだろう?

ちなみに揚琴伴奏を書いたのは阿克倹という人。この阿克倹なる人物、検索してみると作曲家およびヴァイオリン演奏家でヒットしました。上海音楽学院にもおられたようですし、珍しい名前なので同一人物だとは思うのですが…。

 推測ですが、もし伴奏の作者がヴァイオリン奏者だとすれば、中国音楽よりも西洋音楽に対する造詣の方が深いでしょうし、その楽譜を読む知識から判断した結果、このような伴奏を配したのだと思うのです。

 閔惠芬自身の演奏を聴いても、ミからソにかけてポジション移動の際に滑音を伴っていて、果たして区切る意思があるのかないのか…下に紹介した音源ではそんなに感じませんが、テイクによってはどう聴いても一息空けず繋げているようにしか思えないのもあるんですよね。

 些細な事を長々と書いてしまってすみません。でも「陽関三畳」を二胡で弾かれる際には、まず元の琴歌を聴き、歌詞の意味を考えたり、また二胡版の曲中で模倣されている古琴の滑音とはどういうものなのか…など色々感じてもらえれば、曲の世界がもっと広がると思いますよ。

↓閔惠芬の二胡演奏は以下のURLから聴くことができます。

●中国音楽学院 中国民族器楽曲目集萃(一覧の「陽関三畳」より閔惠芬演奏版の2種類のうち、上の方のタイトル部分をクリック)
http://ccmusic.sres.bjedu.cn/drms/portal/yinyue/index109.133_mingqu.jsp?currPath=%B6%FE%BA%FA/%C9%CD%C3%FB%C7%FA/1949%D6%C11979%C4%EA%B6%FE%BA%FA%C7%FA
 

↓琴歌の映像もご紹介しておきますね。歌詞字幕付きなので歌詞とメロディがどう対応しているのか非常にわかりやすいです。
●陽關三疊(琴歌) 文苑彈唱 
http://www.youtube.com/watch?v=8hD-XxNQjvY

 
 原曲を探して・その5 14.1.20

♪陽関三畳・(2)♪


 閔惠芬の編曲した二胡版「陽関三畳」を聴くとき、いつも違和感をおぼえる箇所があります。

 私は元々二胡を弾いていたため、この曲も最初は二胡版から入っています。古琴曲を元にしているという事を知って古琴版を何度も聴きましたが、滑音の感じや曲の雰囲気を参考にした程度で、結局は「まず二胡版ありき」な捉え方でした。

 上海で古琴もほんの少しだけですが学んだことで、自然と古琴の演奏を聴く機会が増えます。「陽関」は歌詞がついていて、琴歌、つまり歌いながら古琴を演奏する弾き語りをすることも多く、最初は「何じゃこりゃ~」と思っていたこの琴歌、聴き慣れると次第に味わい深く感じられるように。

 そして古琴を聴き慣れた耳で改めて二胡版を聴いた時、引っかかりを感じたのです。古琴だったらまずこの箇所をこんな風に弾くのはありえないんじゃないか、と。

・古琴の楽譜について

 前にご紹介したように、古琴の減字譜というのは奏法のみが指示された楽譜であり、具体的な音やリズムが記されていない為、同じ曲なのに演奏者の解釈によってかなり違ってきます。


陽関の古琴譜いろいろ
 
 上の写真はいずれも同じ「琴学入門」の減字譜から起こされたもの。音の長さをはじめ、色々と違っているのがわかるでしょうか。演奏者と記譜者が別である事も多く、演奏が毎回違うのか記譜者の感覚なのか、同じ演奏者なのに様々な楽譜が存在します。

 例えば冒頭の「清和節当春 渭城朝雨潤軽塵」の部分だけを見ても、手前の譜は5小節、左のは6小節、そして右の譜だと3小節におさまっています。正しく楽譜を読める方ならば、それぞれ歌い分けができるはず。

 …と書くと「民族音楽なんて曖昧なものだし、曲の中での拍子の変化などは普通だ」と言われそうですが、だからこそ小節の区切りが重要になってくると思うのです。歌詞付なら特に、句の区切りも関係してきますから。

 その辺りを了解して頂いた上で、まずは閔惠芬が元にしたという王震亜の合唱譜と、更にそのおおもとの「琴学入門」の古琴譜を比べていきます。といっても実物がないと解り難いため、それぞれの楽譜が掲載されたサイトを下にご紹介しておきました。これを元に説明しますね。

●陽関三畳(合唱譜・王震亜編曲)
http://www.qupu123.com/minge/sizi/p79751.html
●陽関三畳(古琴譜・歌詞付)←数字譜と五線譜の二種ありますが、演奏者は違います(不思議な文字が減字譜)。
http://www.qupu123.com/qiyue/guzhengguqin/p34485.html

・古琴版と合唱版

 合唱版では調が違うほか、やはり合唱という形式に置き換えるにあたって装飾的なものは省かれています。あと、一部2/4や3/4が混じりつつ拍子の自由度などは極力抑えて整理し直してあるものの、サイズをはじめ基本的には大体同じです。

 残念なのは、後半に出てくる奏法「qia撮三声」(古琴数字譜15段2-3小節目)の部分。合唱版では歌詞がとばされただけでは済まず、伴奏にすら反映されてないのが…王震亜にとっては不要に思えたんでしょうか。この古琴ならではの奏法、もっさり感が個人的に好きなので切り捨てられると寂しい…

 あと、合唱版でひとつ気になるのが「ファ(移動ドのファ=五線譜のレのフラット)」の存在です(合唱譜7段2小節目、12段3小節目の最初の音)。どちらも同じ「一盃(杯)酒」のくだりですが、古琴譜ではいずれもソになっていますね。

 この部分、減字譜では草かんむり+勹の中に「三」とあり、これは第三弦を空弦で弾けという指示です。この曲の定弦法では第三弦は「ソ」であり、それを指示通り空弦、つまり開放弦で弾くならばファにはなり得ません。しかも元の「琴学入門」で減字譜と併記されている工尺譜にも「六」つまり「ソ」と書かれています。

 王震亜の合唱譜は、古琴の大家である夏一峰の演奏譜を元に編曲したとあります。夏一峰の実際の演奏がいかなるものであったか、また王震亜がなぜ他の古琴奏者ではなく夏一峰の演奏を採用したのか、音源も見つからないので推測しようがないのですが…。

 手元の「中国古代歌曲」(孫玄齢、劉東昇編)という本に載っている譜は、合唱譜と同じく「琴学入門」からの夏一峰の訳譜とあるにもかかわらず、王震亜の譜とは音符の長さ等が大きく違っています。この違いが演奏のバラつきか記譜者の感覚によるものか不明ですが、例の部分はこの譜においても変わらずソではなくファです。

 古琴における減字譜の解釈にどれほどの自由度があるのか、素人の私にはわかりません。手元にある十数種の「陽関」の音源を確認しましたが他の奏者はいずれもソと弾いており、どうやらファを使うのは夏一峰独自の解釈のようです。

 民族音楽では五声音階の曲が多く、古琴においてもファが使用されることはそれほど多くないはず。念のため「琴学入門」に掲載された曲の全ての工尺譜部分を確認しましたが、ファを示す「凡」の字は見つかりませんでした。

 このことから経過的な扱いならともかくファが小節の頭に置かれることは稀であり、夏一峰がこの部分にファを使用することで、その意外性により大きな存在感が生まれたように思うのですが、いかがでしょうか。

 最後にYou Tubeの音源も載せておきますのでご参考にどうぞ。

●陽関三畳 (北京大学学生合唱団)←古琴や二胡のゆっくりな演奏を聴き慣れると速く感じますが、これが王震亜が指示した本来の速度のはず…
http://www.youtube.com/watch?v=Gz1Pf8NKGf8
●陽関三畳 (古琴演奏:戴暁蓮)
http://www.youtube.com/watch?v=m_Q53nbYuAI

 二胡版、そして冒頭の違和感についてはまた次回に。

 
 原曲を探して・その4 13.11.5

♪陽関三畳・(1)♪


 「陽関三畳」は王維の詩「元二の安西に使いするを送る」を元にした曲です。詩の最初の部分をとって「渭城曲」とも呼ばれます。シンプルかつ格調高い旋律は、中国音楽関係者には知名度の高い曲ですね。

 ソーラドレレー・・・と始まるメロディがすっかり定着していますが、元々は詩に節がついたものですから、他にも旋律違いで様々な「陽関」があります。手元にある本の中にも「九宮大成」から日本の「東皋琴譜」まで数種類の「陽関曲」譜が紹介されていますが、いつものメロディに慣れた頭には他のを見てもピンときません。

 留学時代、上音では古詩に旋律をつけて歌う授業というのがあり、最後は自分で作曲して歌う、なんて宿題もありました。きっと歌にすることで古詩を身近に感じてもらいつつ暗誦もできるように、という目的なのでしょう。難解な古詩に現代的な旋律がつくのは妙な感じでしたが、授業は楽しかったです。

 それはさておき、やはり「陽関三畳」といえば琴歌(琴にあわせ歌う)でしょう。ソーラドレレーのメロディは、1864年の「琴学入門」の譜を元にしていることが多いようです(楽譜によっては出典を明記していないこともあるので)。


「琴学入門」(復刻版)
 
 古琴の楽譜は減字譜といって、弾く位置や奏法などが漢数字を組み合わせた文字の中に表されています。リズムは記されておらず、同じ楽譜でも演奏者の解釈によってかなり違った感じに聞こえることも。実際、いくつかの「陽関」の訳された数字譜を見比べると、音符の長さだけでなく小節の区切りがめちゃくちゃと言ってよいほどバラバラ。それに同じ演奏者であっても楽譜によって全然違っていたりします。うーむ。

 ちなみに王維の詩は七言絶句なので非常に短く、これだけだと本来ならあっという間に終わってしまいます。現在歌われている琴歌は、元々の詩に後になって付け足されたものです。付け足しといってもそっちの方が圧倒的に多いですけれど(笑)。

 あと、二胡人口の多い日本では、琴歌よりも閔惠芬が編曲した二胡の独奏曲を聴かれる機会が多いかもしれません。解説にはたいてい「古琴の滑音を模倣する」ようにとの指示があったりと、この二胡曲を弾こうと思えばまず古琴の演奏を聴かずには始まらないですよね。

 少し前にこの「陽関三畳」について音楽仲間の方とやりとりをした際教えて頂いたのですが、閔惠芬の「陽関三畳」は王震亜の合唱譜を元に編曲されているのだそうですね。私もたまたまこの合唱譜を持っていたので解説を読みましたら、琴家の夏一峰が「琴学入門」譜を演奏したものを元に編曲したのだそうな。では「琴学入門」がおおもと、というわけですか。

 ということで「琴学入門」(の減字譜を解読するのは面倒なので訳された数字譜の数々)と合唱譜、そして二胡譜を比べてみることにしました。それについては次回に。

 
 原曲を探して・その3 13.10.15

 「劃船曲」、いわゆる「船漕ぎ歌」。ニュージーランドの曲、とCDや楽譜には載っています。私自身は劉徳海の編曲した琵琶独奏バージョンでこの曲の存在を知りました。ゆったりとした心地良い三拍子のメロディで、私も好きで時々中阮で演奏したりしています。

 ニュージーランドといえばまず真っ先に思い浮かぶのがマオリ族。その辺りのキーワードから何か手がかりが無いか、と調べてみたのですが・・・これがなかなか手ごわくて。船漕ぎ歌(ボートソング)なんていかにも同名異曲の多そうなタイトル、いや正式なタイトルさえ不明なので、沢山あるニュージーランドのフォークソングのサイトから、同じく山ほどあるリストから一曲一曲視聴して、しらみつぶしに探しました。

 そしてついに「Hoea Hoea Ra」というタイトルで原曲を発見!!サイトには歌詞や曲の背景などが詳しく書かれており(といっても英文なので自分がどこまで理解できているか疑問ですが)、どうやら作曲者がいるらしいことも判明しました。

 そうか、作曲者がいても「民謡」なんだ・・・。確かに前々回の日記で書いた「剪羊毛」だって作曲家の作品なのにオーストラリア民謡、ですもんね。そういや江南絲竹や広東音楽だって作曲者の明記された作品もありますし。それを言い始めると「民謡」や「民間楽曲」等の言葉の厳密な区別って??と色々気になって仕方がないんですけれど、まあそれは置いといて。

 まずは判明したタイトルで映像などを探すうち、マオリ族のものと共に歌なども引っかかってきました。あのキリ・テ・カナワが「Maori Songs」というCDの中でマオリ語で歌っていたり、David Smith&Harry Connelly作詞作曲として「A Mother As Lovely As You」という歌になっていたり。

 劉徳海版「劃船曲」のメロディは前半と後半に大きく分かれますが、実は二つの曲をつなぎ合わせてあります。前半は「hoea hoea ra」という曲、後半は「Hoea ra te waka nei」という曲が元になっています。キリ・テ・カナワや「A Mother As Lovely As You」の歌は、「Hoea ra te waka nei」の方をカバーしていますね。

 まさか劉徳海が別々の二曲を一曲に仕立てていたとは。編曲で非常に自然につなげてあるため、ちっとも違和感を感じません。特に後半部分などは弾撥楽器らしさを存分に生かしたアレンジで、原曲の柔らかい感じから派手さが加わっています。前回の「達姆、達姆」もそうでしたが、この派手さ、躍動感が中国テイストの鍵ではないかという気がします。

 ちなみに私の持っている劉徳海のCD、収録曲がちょっと面白いのです。琵琶のスタンダード曲のほか、フォスターの「ケンタッキーの我が家」や賀緑汀の「在森林里(=遊撃隊歌)」、はてはスーダンの曲(原曲不明)などの小品も入っています。よく聴くと劉徳海ほどの大師でもけっこう危うい演奏をしている(リズムの乱れ等々)んだな~、と色んな意味で楽しめる一枚ですよ。


劉徳海「琵琶新声」
 今回もURLを載せておきますので、興味のある方はぜひどうぞ。

↓劉徳海の琵琶演奏(音声のみ。このページからは彼の他の演奏も検索できます。「琵琶新声」CDも全曲聴けますよ♪)。
●波爾劃卡小船歌(=劃船曲) - 56流行音楽
http://www.565656.com/ting/321053.htm
 
↓ニュージーランドのフォークソングのサイト。歌詞ほか曲についての説明が詳しくされています(英文)。
●Hoea Hoea Ra(劃船曲の前半) - New Zealand Folk Song
http://folksong.org.nz/hoea_hoea_ra/index.html
 
●Hoea ra te waka nei(劃船曲の後半) - New Zealand Folk Song
http://folksong.org.nz/hoea_ra/#mother

↓マオリ族の歌。舟を漕ぐ男性達、ポイを回しながら歌う女性達、民族色豊かで素朴かつ力強い映像です。
●Hoea Ra - MAORI
http://www.youtube.com/watch?v=0PR0Xu9OJfk

↓ジャン・ピアースの歌による「A Mother As Lovely As You」。
●A Mother As Lovely As You - Jan Peerce - 78 RPM Record
http://www.youtube.com/watch?v=TJZVMRrUnv0

↓「A Mother As Lovely As You」コーラス版。あまりに美しいので。
●A Mother as Lovely as You - Tomoana / Maskell - The Graduate Choir NZ
http://www.youtube.com/watch?v=xdHLdx-M2zo

 
 原曲を探して・その2 13.10.7

 発表会の選曲については、生徒自身に委ねたものも一部ありますが、基本的に私の方で決めました。他の楽器と違って生徒が知っている曲があまりに少なく、また全体のバランスを整えるためでもあります。

 中国楽器を学んでいる方は多いですが、本格的な中国(漢民族)の曲で勝負する人はほとんどいないのが現状です。今回の発表会でも、「あの曲、良かったですよ」と反応を頂いたのは西洋曲かウイグル地方の曲(エキゾチックで外国人にもわかりやすい旋律なので)ばかり。ま、そんなもんですよね(笑)。

 中でも評判が良かったのは、ニュージーランド民謡「劃船曲」の中阮二重奏、そしてアルジェリア民謡「達姆、達姆」の中阮独奏、そして「ムーン・リバー」の弾撥合奏あたりでしょうか。映画でお馴染みの最後の曲はともかくとして、前の二曲に関しては知らない人も反応して下さったというのは、やはり曲の持つ旋律の力かもしれません。

 この「劃船曲」と「達姆、達姆」については、実は中国の民族楽器の世界では知られた曲で、私自身は二曲とも劉徳海が琵琶独奏用に編曲したバージョンを演奏やCDでよく聴いていました。「達姆、達姆」は彭修文のオーケストラ版でも有名ですね。

 さてそれぞれ「ニュージーランド民謡」「アルジェリア民謡」と紹介されているこの二曲、生徒に教えるにあたって「教師が曲の内容を知らなくてよいのか?」と思い、手持ちの資料類やネットをあたったのですが、当たり障りのない内容ばかりで、曲の背景など詳しい情報は探し出せませんでした。

 じゃあ、元々の曲ってどんなの? どんな歌詞で、現地の人にはどんな雰囲気で歌われているんだろう。

 そこは「少数民族の音楽はどんな環境で、どんな暮らしをしている人達が歌っているのか」と実際に貴州やら広西まで確かめに行っちゃう私のことですから、ここで引き下がる訳がない(笑)。

 そして原曲探索の旅(ってもネット上ですが・・・)は始まったのでした。

 「達姆、達姆」はYou Tubeなどにも中国楽器の演奏映像が沢山挙げられている上、原曲のタイトルも記載されており、それを手がかりに色々と検索。とりあえず原曲「Koum Tara」のタイトルの意味が「Do you see」であること、そして映像が山ほど投稿されていることから非常にポピュラーな歌であること、等がわかりました。

 そして驚いたことは、中国楽器で演奏する際には必ずといってよいほど演奏される後半の快速部分、実は原曲には存在しないのです。ぜひ音源を聴き比べて頂きたいのですが、原曲はなだらかな旋律の繰り返しが続き、美しくはあるけれどやや単調なのが、この大胆な変奏部分が入ることによってドラマチックな躍動感が生まれています。すでにこの部分が無いと物足りなく聞こえるほど、中国ではこのバージョンがすっかり定着していますね。

 あと、歌詞も検索すると出てきました。でも何語なんだろう。アルジェリアって公用語はアラビア語とあったのですが、ひげ文字じゃなくてアルファベットだし、ネットで手当たり次第に翻訳をかけてみたのですがお手上げ。歌詞の内容は不明なままでした。残念。翻訳できた方はぜひご教示くださいませ。

 「達姆、達姆」の、You Tube映像のURLを下記にいくつか載せましたので、興味のある方はぜひご覧になって下さいね。キーワードで検索すればもっと色々出てきますよ。「劃船曲」についてもいろいろありますが、長くなるのでまた次回。


↓まずは中国オケバージョン。彭修文はじめ、大師級の方々がすごーく若くて笑えます。
 ●達姆達姆 - 演奏:広播民族楽団,指揮:彭修文
http://www.youtube.com/watch?v=vq8PPmPs4_Q
 
↓現地(?)バージョン。歌に加えて楽隊の演奏も非常に聴きごたえあります。笛ソロパートなんて彭修文がそっくり真似てる感じですよね(笑)
 ●Koum Tara - 混声コーラス&楽隊
http://www.youtube.com/watch?v=FJvM3w5TvCQ
 
↓せっかくですから有名歌手の歌も。ライブ版なので、最初の即興部分(これが良いんですけどね~)等とばしたい方は、2分過ぎからどうぞ。
●Koum Tara - 歌:エンリコ・マシアス
http://www.youtube.com/watch?v=vReIb1JnExI

 
 原曲を探して・その1 13.9.24

 7月に行った弾撥発表会、皆さんに楽しんでもらう為に、ポピュラーな曲もたくさん用意させていただきました。そのプログラムを作成しようとして、はたと悩んでしまいました。

 プログラムには、作曲者や編曲者などの記載は欠かせません。もちろん元の楽譜に書かれている内容をそのまま載せればよいはずなのですが、いざ載せようとすると・・・あれれ? と首をかしげたくなることがいっぱい。

 例えば日本でもお馴染みの「久しき昔」という曲。元々の楽譜には「愛爾蘭民歌変奏曲」、つまりアイルランド民歌というタイトルがついていました。でもこの曲って確か作曲者がいたんじゃ? と調べると、作者のT.H.ベイリーは英国人で、アイルランドとは特にゆかりがある訳でも無さそう。

 中国の他の楽譜なども見てみると「英国民歌」と紹介されていたりと、結構いい加減だったりします。本として出版するなら、それなりに調べて欲しいものですけれどね。とりあえず発表会プログラムには中国での一般的な「多年以前」というタイトルに変え、「T.ベイリー作曲」としておきました。

 また「剪羊毛」という曲、こちらはオーストラリア民謡の「調子を揃えてクリック、クリック、クリック」として日本でもお馴染みです。ところが念のため調べてみると、「元々はヘンリー・クレイ・ワークがつくったアメリカ南北戦争の歌」とのこと。作曲者がいたんだ・・・。

 ちなみにこのヘンリー・クレイ・ワークという人、「大きな古時計」の作曲者でもあります。そして「ラ~メちゃんたらギッチョンチョンでパイノパイノパイ~♪」の歌詞で知られる「東京節」の原曲、「ジョージア行進曲」の作曲もしているんですね。

 こうやって調べれば調べるほど、芋づる式にどんどんと情報が出てきて知識が広がりますし、また作曲者や時代の背景、歌詞の内容など色んな事柄を知って、演奏に反映させることも大切な事ですよね。

 今はネットで沢山の情報を得られる、便利な時代です。楽譜に書いてあること、先生の言う事をそのまま鵜呑みにするのではなく、まず自分の力でとことん調べ、納得するという習慣をつけてみてはいかがでしょうか。


弾撥発表会プログラム
     

 
 初心にかえって 13.1.7


2006年、寧勇老師宅にて
    
 明けましておめでとうございます。2013年、巳年の幕開けですね。上海に留学したのが2001年のことですから、9月でちょうど干支が一回りするほどの時間が経ってしまいました。

 整理するために12年分の日記を読み返してみると、当時の熱い想いが恥ずかしくも懐かしくもあり。と同時に、いかに老師や同学をはじめ周りの人達に助けられ、沢山の事を学ばせてもらっていたか、改めて気付かされます。

 また「留学日記を書かないか」と持ちかけて下さったオフィスエー様にも感謝です。日記を書くという大きな目的がなければ、ただダラダラと学生生活を送っていたことでしょう。12年間の日記は、そのまま自分の備忘録かつ成長(しているのか?)記録としてWEB上に残り、人様に読んでいただける、これは本当に有難いことです。

 帰国した今ではリアルタイムの情報は無理であっても、旅行や教材の紹介など、読んで下さった皆さまにほんの僅かでも参考になればと願っています。

 あと、やはり自分の専門である柳琴や阮に関しては特に資料が少ないだけでなく、誤った情報を見かけることもあります。ちゃんとした(少々偏ってはいますが)情報をお伝えし、興味を持って下さる方が一人でも多く増えてくだされば、という気持ちもありますし。

 さて前にも予告しましたが、このモモ日記も過去の分を分類整理してリニューアルする予定です。取るに足らない文章ではありますが、よろしければまた昔の日記なども読み返してもらえれば嬉しいです。

 実作業をお任せしているオフィスエー様には、仕事が増えていい迷惑かもしれませんが・・・きっと近いうちにうまくレイアウトして下さることでしょう。

 皆さまにはどうぞ良い一年になりますように、そしてこれからもモモ日記をよろしくお願い申し上げます。

 
 個人レベルの日中関係 12.9.24

 
領土問題に端を発し、日中関係がこのところ悪化していますね。北京での日中国交正常化40周年の公式記念式典が延期になるなど、多くのイベントが中止・延期に追い込まれています。

 こんな中ですが、私は来月初めに上海に行く予定です。周りの皆は口々に「大丈夫?」と心配して下さっていますが、私は「問題ないよ」と答えています。

 反日デモが各地で起こっていますが、特に地方では反日を唱えながら矛先は中央政府に向かっているようでもあります。政府内でも自分の立場を有利にする為に反日運動をうまく利用しているようですしね。

 反日デモも大部分の中国人、特に大都市では「まあ、やりたい人がやれば」という雰囲気らしいです。現に香港から友人Kくんが日本に来ていて、先週ずっと滞在していました。


奈良公園の鹿とKくん
    
 Kくんは私の留学時代の同学の友人で、私が休学中で日本に居た8年前に、その同学から「僕の友人が日本に行くから面倒みてやって~」という電話をもらい、突然の事にあたふたした記憶があります。

 その時は音楽仲間達に助けてもらいながら観光や買い物に付き合い、Kくんも沢山の日本の友達ができました。そして今回、またまた突然「明日から大阪に行くのでよろしく」との電話。相変わらず突然だなあ・・・。

 しかも彼の携帯は国際通話ができないそうで、宿泊先(というのが格安ホテルで風呂トイレに電話まで共同!)に連絡して呼び出してもらおうとしても、「そういう名前のお客様はお泊りになっていません」とのこと。香港人なので名前も広東語読みだし、英語名やらもあってややこしいのです。

 仕方ないので音楽仲間のFacebookから友達リクエストを出し、以降はそれのメッセージ機能を使って連絡を取り合いました。KくんはiPhoneを持っているので、こちらで検索したHPのアドレスを送れば翻訳機能を使って自分で確認できますしね。

 ある日などはメールに添付されたPDFファイルを至急印刷したいということで、一旦私宛てにファイルを送信してもらい、私の名前でネットプリントのサイトに登録した後、Kくんが登録番号を持ってコンビニのコピー機で印刷・・なんてのも、今の時代ならではの離れ業。

 Kくんの約一週間の滞在中、テレビや新聞では連日のように反日活動が伝えられていましたが、私をはじめ、音楽仲間達も反日なんてどこ吹く風、お互いまったく気にしませんでした。

 国同士は利益やメンツの問題でいがみ合っていても、だからといって即座に個人の思想や友人関係に影響するものではないはずです。仮に一部の人達が嫌がらせをしたとしても、冷静に話をすればちゃんと理解してくれるはずです。お互い大人なんですから。

 昔、飛行機で南京出身の男性と隣同士になったことがあります。話をしていて私が日本人だと知ると、最初は嫌味を交えながら議論をふっかけてきましたが、話すうち自分でも大人げないと思ったのか態度も柔らかくなり、最後にはお互い笑顔で別れました。

 だから来月の上海旅行でも、こんな雰囲気の中だからこそ、逆に上海の先生方や友人、馴染みの店の人達と旧交を温め、個人同士の絆を深めたいと思います。

 「中国は怖い国だから」とやみくもに避けて通るのではなく、まずは理解への一歩を踏み出すことから始めませんか。


 
 鬼に笑われそうですが 12.8.27

 
皆さまこんにちは。

 旅行や大きなイベントが無いとついサボってしまいがちな、この日記。

 思えば上海留学時からずっと(途中たびたびサボりつつも)書き続け、気がつけば十年以上も時が経ってしまいました。別にたいした事を書いている訳でもありませんが、塵みたいな文章でも積もれば結構な量になるもんですね。

 留学や少数民族関係に関しては時々ご質問のメールなど頂戴することもあり、こんな日記でもお役に立つなら参考にしてもらえれば、と思いまして・・・。

 遅ればせながら、少しずつ過去の日記を整理していこうかと考えています。テーマ別に分類できるものならば、やっていこうかと。

 とはいえ、この日記は管理人様のお助けなくば何ひとつ作業できないので、オフィス・エー様には大いにご面倒をおかけすることになるのですが。

 皆さま、日記に対するご意見ご要望アドバイス等ありましたら、この機にぜひ上記プロフィール欄のアドレスまでお寄せ下さいませ。


上海の街には色んな思い出が
    
 あと、鬼が笑いそうな来年の話ですが告知など。

・4/21(日) 第三回中国音楽フェスティバル (於:クレオ大阪中央)
   ※いつもの弾撥アンサンブル・東風1/fのほか、今回は長弓の会(名張二胡教室)も参加予定です。

・7/7(日) 百原中国民族楽器教室 弾撥組 第一回発表会(於:新大阪ココプラザ) 
   ※教室の生徒のうち、弾撥楽器(柳琴・阮)の生徒ばかりで初めての発表会を行います。独奏のほか、重奏・合奏など盛り沢山でお送りする予定です。

 日本ではまず聴けない・見られない内容(笑:でもホント)だと思いますので、ぜひこの日を空けておいて下さいね!

 また仔細が決まり次第、お知らせします。

 遺された記録・その2  08.12.22
 


  
 
  古書店で見つけた本に書かれた、瞿維という名前。まさかねと思いつつ音楽辞典を調べると、名前が載っているではありませんか。
 
 本名瞿世雄(瞿維は芸名なんですね~)、1917年江蘇省常州生まれ。上海新華芸術専科学校の師範科にて音楽と美術を学び、延安や瀋陽などの芸術学院にて教鞭をとったのち、長春と北京の製作所で映画音楽の作曲に携わった。また1955年から四年間、モスクワの国立チャイコフスキー音楽学院の作曲科に留学し、帰国後は上海交響楽団にて作曲を専任。
 
 ・・等々。で作品はというと、あの歌劇「白毛女」の作曲者(馬可、張魯等との合作)であったりしました・・・。思わずラジオ中国語講座の曲「北風吹」がチャーラーララ リラリ~♪と頭の中でぐるぐるまわってしまいますが(笑)。
 
 正確にはこの「北風吹」に関しては馬可と張魯の連名になっているので、瞿維は関わってなさそうです。「白毛女」でも常に馬可、張魯に続いて三番目に名前が載っていて、ちょっと地味な存在なのかも。
 
 いやいや、大量の作品(勉強不足で残念ながら作品名を聞いても全然わかりませんが)や論文を残し、こうやって音楽辞典にまで名前が載っている瞿維、きっと偉大な作曲家であったに違いありません。

 
♪意外なところから♪

 何か手がかりはないだろうか。上海に行った時にいちどY老師に聞いてみようと、この古本を持参することにしました。卒業後も上海には時々行っている私、老師達を訪ねてはついでに沢山質問を用意していくことにしています。
 
 今回私は直接の恩師たちの他に、以前上音で民歌の講義を受けたことのあるH老師を探していました。少数民族の原生態民歌について聞きたいことがあったからです。しかしH老師は授業のある時しか上音に来られないはず。うまく予定が合うかな・・。
 
 そこで上音の日本人留学生の友人達に相談すると、ちょうど今期はH老師の講義をとっているので、老師の都合を聞いてくれるとの事。有難い~♪
 
 そして寮で彼女らと話をしていると、たまたま授業でH老師がご自分の先生の話をされたことがあって、その先生というのがまさに瞿維その人だったことが判明!! こんなところから手がかりが見つかるなんて!
 
 そしてH老師が仕事で旅行に出られる前日にお会いし、ついでに老師の原生態民歌の講義にもちゃっかり紛れ込んで、その後ゆっくり時間をとっていただいてお話を伺うことができました。(Gちゃん、そしてSさん、感謝です♪)
 
 ♪散逸した資料♪

 「瞿維はあなたみたいに面長でね」(そう、私は顔が長いです~)と始まったH老師のお話。とても真面目な人柄だったこと、H老師を伴って各地に民歌を採集 に出かけたこと、音楽に対する感性や真摯な態度、等々。奥さんは同じく音楽辞典に載っている寄明という作曲家であったこと、なんて辞典には書かれていない 話ですよね。
 
 辞典には(1917~ )とありましたが、実は2002年にお亡くなりになったそうです。H老師いわく、子供は音楽と全然縁がなかったので、収蔵された本や資料の価値など全くわからずに売り払ってしまったのだろう、とのこと。
 
 「彼の資料が散逸してしまったのは、本当に惜しいこと」・・・確かにその通りです。私も購入した際にもっと瞿維の事を知っていたら、できるだけ購入するなり誰かに相談してみるなり、何らかの手段が取れていたかもしれません。ただただ自分の不明を恥じるばかりです。
 
 とりあえず残っている資料がないか、この本を買った古書店に行ってみることにしました。すると何だか昔と様子が違います。聞くと昨年改装した際、ごちゃごちゃと数十軒ひしめきあっていた店舗が皆出て行き、今は6店舗(だったかな)しか残っていないとのこと。
 
 店を全部まわってみましたが、それらしいまとまった資料を置いている店はありません。どうやら私が購入した店は出て行ってしまったようです。出て行った店 舗はそれぞれバラバラになり、どこかで開業しているところもあれば畳んでしまった店もあるとか。いずれにせよ、どうなったかは誰にもわかりません。
 
 「あとは廟会くらいかな~」上海の豫園では毎週日曜日に廟会(お寺の縁日の市みたいなもの)で古書が売られていますが、そこに行ったらあるかも、との返事。偉大な作曲家の収蔵本が、書きためたメモが、そんなところで売られているかもしれないと思うと、やりきれないですね。
 
 本は出版され、大量に出回ります。時間が経つにつれ、古くなったり必要なくなったりで、沢山の本が捨てられていきます。でも音楽と同じで、再びページを開いた瞬間、それに最初に触れた時の時代や自分自身の環境、気持ち、そういったものがよみがえってきますよね。
 
 本でさえそうなのですから、ましてや手書きのメモには、細かい文字の中にたくさんの想いが詰まっていたに違いありません。私が生まれるずっと以前から、この本は瞿維の傍らで存在し続けていたのです。
 
 次に上海に行く時、私はこの本をH老師に託そうと思っています。私が持っているよりも、瞿維を直接ご存じであるH老師の方がこの本の持ち主としてふさわしいのは明らかですし。
 
 ひょっとしたら瞿維がこうなるように仕組んだのかな?なーんて思ったりもして。

 遺された記録・その1  08.7.29

 私の手元に、一冊の古い本があります。
 
 タイトルは「新疆民歌」。奥付の「一九五〇年十月初版」という発行年が示すとおり、黄ばみを通り越して頁が茶色く変色してあちこちシミだらけ。


  
 
 上海の福州路は本屋や文房具店が立ち並ぶ通りですが、一番大きな書店である上海書城のお向かいに、古籍書店という店があります。
 
 留学中、この古籍書店に立ち寄ることはあってもせいぜい二階まで。その日はたまたま、階段を上がって四階まで足を運んでみる気になりました。
 
 上階には小さな古本屋さんがたくさん入店している、古本市場のフロアになっていました。いわゆる「古書籍」といった高価なものから毛沢東関係の出版物など、各店でいろんなものを扱っています。
 
 中で、民歌の類の本がまとまって置いてある店がありました。陝西や東北、中国のいろんな地方の民歌のほか、まわりに古ぼけた音楽関係の本がうず高く積まれています。
 
 一冊一冊見ていくと、贈呈のサインや書きこみの字などから察して、どうやら同じ人の蔵書のようです。きっと引越しする時にまとめて処分したか、あるいはその人が亡くなったため家族が手放したか、そんなところでしょうか。
 
 せっかくだからと、その中の一冊を買い求めたのが「新疆民歌」。元々新疆の音楽は好きだし、本の間に何枚か挟まれた手書きのメモに興味があったからです。もっと沢山欲しい気もしたのですが、思ったより値段が高かったので断念。
 
 埃とシミで見ているだけで痒くなりそうなページを恐る恐るめくると、短い曲がたくさん。大部分は知らない曲ですが、なかには「掀起ニイ的蓋頭来」や「依拉拉(=半個月亮爬上来)」、「在銀色月光下」、「大板城」などといったお馴染みの曲も載っています。
 
 そして本に挟まれた30枚ちかくのメモ類。今にも破れそうな(実際端の方はボロボロ)ぺらぺらの紙で、丁度エアメール用の便箋のような薄さ。でもそこには本の所有者であっただろう人の手書きの文字がぎっしり詰まっていました。


  ぎっしり文字が詰まったメモ
 
 内容は、ほとんどが簡譜で書かれた何曲もの歌、これはどこかで聴いたのを採譜されたものでしょうか。次に曲の感想など、例えば「8/12 在電台听」として、
 
 5.庫木孜独奏≪走馬≫ 2'32"
 很好. 5712 7167 7212(←音符です。オクターブ・リズム・小節表示は省略しました)
 但后古曲調較差.
 
 などという具合に記述されています。他には「兵団機務修理工作会議」の様子や農場の生産量などがびっしりと書かれたものもあります。達筆すぎて文章はところどころしか判読できないのが残念ですが。
 
 そして表紙をめくると「瞿維同志存 一九五二・十一」とサインがあります。(送り主の名前は私には読めませんでした)
 
 瞿維。・・・これがこの本の、そしてきっと古本屋にまとまって売られていた蔵書の持主の名前なんだ。一体どんな人なんだろう?音楽関係者には違いないだろうけれど・・メモから察するにかなり几帳面な性格の人のようだし。
 
 と気になりつつも毎日忙しく留学生活を送っていた私は、すぐには調べず後まわしにしているうち、とうとう帰国の日を迎えてしまいました。

 ご挨拶 06.8.28

 皆様お久しぶりです! あまりに長いことご無沙汰しているので、もう私の存在すら忘れ去られているのではないでしょうか?(泣)。実はもう上海での学習期間も終え、既に日本に引き揚げてしまっているモモであります。

 思えば留学を志し、意を決して上海に渡ったのが2001年9月。最初は2年の予定だった留学期間も4年に延び、休学期間を含めるとなんと足掛け5年!! ・・・あの頃から、もう5年も経ってしまったのですね。その間、いろんな変化がありました。5年前には、今こんなことになっているなんて夢にも思わなかったこと、たくさんあります。私自身も、そしてまわりのことも。

 まあ泣いても笑ってももう完全帰国してしまったわけで・・・これからのことはぼちぼち考えていくつもりです。というかこのところずっと家事だの掃除や整理整頓だのに追われて、音楽からちょっと遠ざかりつつある危険な状態で(笑)。でもせっかく中国で学んだ沢山の事を、私一人の頭の中にしまっておくだけではあまりに勿体無いので、いろんな形で日本の皆さんに紹介していきたいと思っています。

 とりあえずは留学日記の再開。・・・もはや日記と言うより回顧録ですね・・。これまでは一度に大量に書いていたため、書いている最中に疲れて挫折するパターンが多かったので、これからは一回分を少なくして、小分けにした分マメにupするようにしたいと思います。毎回大量だと読む方もしんどい(らしい)ですし。

 と、いうことで今回からさっそく文章省力化開始。ま、今回は要するに「帰国しました、とりあえずまだ生きてます、これからもよろしく!!」ってことです。次回からもよろしく♪・・・ってまた何ヶ月も間が空いたらどうしよう・・・・。

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