ホーム 新着情報 月下独酌 中国音楽フェスティバル 中国・音楽の旅  中国香港台湾催し案内
アジア音楽演奏会紹介 モモの音楽日記  アジアの微笑み 上海コレクション 演奏家の世界


アジアの微笑み・中田勝美のインタビューエッセイ

99年00年のインタビュ−はこちら   01年のインタビュ−はこちら


03・10月ヤトガ(モンゴル筝)と言語学に生きる:ケレイドジン・D・ブリグド/03・5月音楽がモンゴル民族の花となる:ジュルメドドルジさん/03・2月モンゴル伝承文学と馬頭琴:シンバヤルさん/02・11月ベトナム人の熱い心で:オン・ティ・カンハさん/02・9月中国西安の日本語ガイド:童建華さん/02・2月故河島英五の意思を継いで:河島牧子さん/

「テーマは中世モンゴル語の音韻システムの研究なんです」と語るケレイドジン・D・ブリグドさんは、大阪外大の研究生として博士課程の進学を目指している。しかし彼女を紹介する時は、モンゴルの伝統楽器ヤトガ(モンゴル筝)の演奏家といったほうがいいかもしれない。

 1973年、内モンゴル自治区の省都フフホトに生まれたブリグドさんは、父が大学教授、母が中学の教師という家庭に育った。父が馬頭琴の演奏ができることから小さい頃から妹と一緒に音楽に親しんできた。小学校2年のときフフホト市に少年宮ができ、そこで民族音楽を学ぶ子供達を募集した。

  「それで応募したんですよ。言葉や感覚をためす試験があって、先生がこの子にはこの楽器が合っているなんて決めるんです」。芸術学校の先生も来ていて、結局ブリグドさんには筝がいいと決まったとのこと。「少年宮は15歳までなんで、やっぱり続けたいから自分で先生を見つけたんです」と語るブリグドさん。同じく筝を弾いていたいとこの紹介で、内モンゴル芸術大学のハス先生と出合ったことが一つの転機になった。

 ハス先生はヤトガの第一人者で、その後10年にわたって師事した。厳しい練習だったけれど、何よりヤトガの素晴らしさと楽しさを体得することが出来た。内モンゴル師範大学では言語・文学と音楽教育学の勉学に励んだ。卒業後もう一つの転機が訪れる。日本への留学である。

 実はブリグドさんは中学校の時、日本を3週間訪問したことがある。学校間の友好交流で、ブリグドさんは吹田の学校でヤトガを演奏したり家庭訪問をしたりと、とても楽しかった。そのときからいずれは留学しようと思っていたそうだ。それに中学校ではモンゴル語、漢語のほかに第3外国語として日本語も学んでいたから、日本留学への思いは自然な流れだったのだろう。

 当時内モンゴル師範大学には山形大学を退職した先生が化学を教えに来ていたので、その縁で山形大学に留学した。 モンゴルの子供の歌と日本のわらべ歌の比較研究で修士号を取得し、今年大阪外国語大学の研究生として博士課程への進学を考えている。なんで大阪だったんですかと聞くと、私の勉強したい言語学の第一人者の先生が大阪外大におられたからです、との答えが帰ってきた。

  「ヤトガのプロの演奏家になりたいとは思っているんですが、言語学者の父は私に大学の先生になってほしいんですよ」とブリグドさんは少しはにかむ。趣味は何ですかと聞くと「音楽」と答えるほどのブリグドさんだが、言語学者への道も捨てがたいようである。少し悩みつつ何事にも全力で取り組むブリグドさん、いまは音楽で日本の皆さんに私達の心を伝えたいと思います、とここはにこやかにモンゴル族の顔になった。

 「学校(国立芸大)にいたときは授業のあと4時間も5時間も練習したけど、卒業したら試験がないので緊張感がなくなって練習時間がやっぱり減りましたね」と苦笑するジュルメドドルジさん。でもいま所属している国立歌舞団では2年に1度技術チェックの試験があるけれど、この前は2番だったよとさりげなく語るのも忘れない。

 この4月の来日が昨年に続いて2度目のジュルメドドルジさんはモンゴル国の南ゴビ県出身で、1976年生まれの27歳である。エウェルブレー(モンゴルの角笛)の奏者であり、ホーミーもこなす。馬頭琴奏者のバトエルデネさんとの大阪での公演では、いかつい顔にもかかわらず彼のかもし出すモンゴルの響きが妙に懐かしいと評判だった。

 ジュルメドドルジさんは音楽の先生をしていた父の影響で小学校の1年生から楽器に親しんできた。「最初はドラム、それからクラリネットを勉強しました」。それとは別にモンゴルの横笛も独習しており、小学校のときから将来は音楽関係の仕事をしたいと思っていたそうだ。

 中学校を卒業後、南ゴビ県の劇場でオーケストラの一員として働き、3年後社会人入学といった形で首都ウランバートルにある国立芸大に合格した。民族音楽学部の角笛学科である。そこでモンゴルの民族楽器を思う存分学んだ。角笛だけではなく、ツォール(モンゴルの横笛)というモンゴル西部の楽器もそうだ。とにかく音楽三昧の生活で4年間を過ごし、卒業してまず鉄道音楽隊に入った。ここでも演奏は角笛だった。そしていま国立歌舞団の一員としてモンゴルだけではなく、韓国や日本など外国でも演奏活動をおこなっている。

 小さいときから父が厳しく教えてくれた、と語るジュルメドドルジさん。クラリネットなどの西洋楽器とモンゴル民族楽器を両方こなすが、西洋音楽を勉強するほうがわりと簡単だったという。つまり理論、形ができているものを学ぶのは比較的容易で、モンゴル民族音楽は体系立てられていないということがその理由なのだろう。

 5年前からホーミーにも取り組んできた。なぜか突然歌いたいという気持ちが湧いてきたのだが、それもやはりモンゴル人の血がなせるわざだろう。それに「古典曲を、それも横笛の曲を角笛で吹きたいと思っているんですよ」。ジュルメドドルジさんの音楽にかける気持ちはますます濃くなっていく。

 ウランバートルの家へ帰ると妻と一人息子が待っている。酒もタバコも少したしなむジュルメドドルジさんだが、家ではバルコニーに行かないとタバコは吸えない。コンサートの前の晩は酒もタバコものまないよと、ここは苦笑しながら予防線を張った。

 「9月にはまた歌舞団のメンバーと一緒に日本に来ます。ぜひ聞きに来て下さい」と最後の握手は力強かった。


 2003年2月モンゴル伝承文学と馬頭琴:シンバヤルさん
〜研究の合間に交流活動 帰国後も忙しくなりそう〜

 2月4日、吹田市の岸部第二小学校2年生の教室で馬頭琴の音色が鳴り響いた。そしてモンゴルの草原や羊・馬を追っている遊牧民の生活の写真を背景に、彼らの生活の一端を優しく説明する。2年生の子達をあきさせないように、それでいてきちんとモンゴル人の生活を理解してくれるように説明しているのは、シンバヤル・ボルシギンさん。

 モンゴルの事を知りたいという要請があれば、シンバヤルさんはできるだけ出向く。「この前は幼稚園でした。う〜ん、やっぱりちょっと話にくかったですね」とあくまでにこやかに語る。

 日本に来て8年になるシンバヤルさん、1960年に内モンゴルのシルホト市で生まれた。今は大きくなったが当時は1万人もいない小さな街だった。5人兄姉の末っ子に生まれたシンバヤルさんは、小学校に入学してすぐ学校を辞めて草原に行ってしまった。「父はなんというんですか詩人みたいな人だったんです。それで文化大革命の影響というか、遊牧民として草原に行かされたんです」。

 私も勉強は好きではなかったし、それに迫害を受けた父が知識があるとろくなことはないと口癖のように言っていたから、むしろ喜んで父について行きましたよと語るシンバヤルさん。おかげで馬にうまく乗れるようになったが、当時15歳上の姉が「勉強はしなくてはダメ」と無理やりに連れ戻し、10歳で小学校に入りなおした。そのとき姉がいなければ人生が本当にどうなっていたかわからないが、それ以降順調に中学、高校と卒業し、80年に内モンゴル大学モンゴル文学言語学科に入学した。卒業後内モンゴル社会科学院の文学研究所に就職し、モンゴル伝承文学の研究でフィールドワークを中心に内モンゴル各地からチベット、青海省、新疆ウイグル自治区への現地踏査活動を主におこなっていた。

 もともと父が4弦ホールを演奏していたことから楽器を習い始め、馬頭琴の演奏もするようになった。伝承文学の調査には語りや音楽など古いものが残っている地域を回るから、必然的に田舎の小さな村が多く、そこの古老に話を聞かせてもらうときに音楽を知っていることは大きな助けになったのも事実である。

 日本に来るきっかけも研究に関係した。日本の学者を招いて国際討論会があったとき、日本の学者の論文を読むと自分の知らないモンゴルに関する資料があった。地元にない資料が日本にあるというのは驚きだった。また当時90年代に入って中国では市場経済が進み、社会科学院も例外でなく独立採算が迫られ、今までのようには研究費が出なくなった。それやこれやが重なり研究もできなくなり、家でぶらぶらしていて妻ともけんかするようになった。

 それでまた一から日本でやり直そうと大阪外国語大学に留学することになってのである。それから8年。今年3月博士課程卒業を目指して卒論を仕上げた。「フフノール・モンゴル『ゲセル』の比較研究」がテーマで、モンゴル英雄叙事詩が各地方に伝わる中でどのように影響を受けて変化していったかの研究だ。そして4月に帰国する予定である。 

 日本で自分がやりたいことは基本的に終わった。しかし帰国後も日本と内モンゴルをつなぐ仕事はしたいと考えている。「7月や8月は日本から来る調査団についていく予定が入っているんです。でも半年くらいはのんびりしたいとも考えているんです。車の免許も取りたいですね、何せ広いモンゴルの平原を移動するのに車は必要ですからね」。

 小学校から中学まで同級生だった妻と中学三年の娘が待つフフホトで、日本との交流の事業もやりたいと思う。でも本当は空気のきれいな生まれ故郷のシリンホトが大好きだ。両方行き来して日本とモンゴルの文化に貢献できたら本当にうれしいですね、と顔いっぱいに微笑をたたえた。 



 2002年11月ベトナム人の熱い心で:オン・ティ・カンハさん
〜アジア全体に興味があります 今は仕事が趣味みたいなものです〜

 「朝は9時から、夜は大体11時くらいになりますかね。先月は2回しか休んでいないんですよ」。顔いっぱいに微笑を浮かべて、オン・ティ・カンハさんはさらっとすごいことを言う。大阪・難波にある難波パレビルの3F、アジアフュージョンマーケットはベトナム雑貨(陶器や竹製品など)やアジアの家具・インテリア小物をそろえている店だ。オンさんはこのアジアフュージョンマーケットの店長職にある。もちろんこれら雑貨の仕入れの責任者でもある。

 1978年、ベトナム南部メコンデルタにあるカント市で生まれたオンさんは、その時期のベトナム人が歴史のうねりの中で被った運命を、彼女もまた体験としてきた。父親はボートピープルとして日本にたどり着き何年も働いたのち、ようやく妻子を呼び寄せることができた。オンさんが10才のときである。

 大阪市平野区に住んで、小学校に通い始めた。「当時その小学校には外国人は私と妹の2人だったんです。もちろん言葉はわからないし、ベトナム語を通訳してくれる人もいませんでしたしね、大変でした」。小学校4年のクラスの編入したが、国語は別の部屋で1〜2年生の教科書での授業から始まった。何でも自分で解決しなければならないという環境が鍛えたのだろうか、オンさんには芯の強いところがある。

 高校への進学時は不安だった。日本語での試験という難関があるからだ。公立高校の入試ではまだ日本語が不十分な外国人には辞書を使ってもいいという特別処置が設けられた。しかしオンさんは使わずに受けたそうだ。そんな努力家の彼女も短大卒業後別の仕事についていたときは、一体自分は何がしたいのかと自問する日が続いたという。やっぱり日本とベトナムに係わり合いのある仕事がしたいとの思いは消えず、昨年現在の会社に応募してようやくその一歩を踏み出した。

 自分の持っているものを発揮する場所を探しているというオンさん、これまでに2回自分に影響を与える出来事があったという。ベトナムボートピープルの子供ということで、日本の小学校に入ったときから“ベトナム人”という言われ方が好きではなかった。当時のマスコミも“難民”や“ベトナムは貧しい”という形でしかべトナムのことを取り上げなかったし、それを信じた同級生や近所の人たちからあれこれ言われるのがいやだった。

 高校生の時、文化交流のボランティアなどをしている先生に出会った。その先生はオンさんを自分が活動している所に連れて行き、いろんな人に会わせてくれた。さまざまな国の人たちが自分達の文化の特性を生かして生活している、そんな気張らない情景に触れて変わったという。自分のことを恥ずかしがる必要もないし、「違っているのがあたりまえ」という気持ちを持てば何でも素直に伝えられるようになった。

 もう一つは国籍について考えたこと。オンさんはベトナム国籍で日本での永住権を取っている。しかしベトナムのパスポートはすでに失効していて、ベトナムという母国に入国するときにわざわざビザを取らなければならない。99年日本に来て初めて里帰りしたときに、ああまだベトナム国籍だと気づく状態だった。会社に仕入れを任されているのにパスポートがないと、外国へ行くのには複雑な手続きが必要でとても不便だ。日本国籍になって日本のパスポートを取れば仕事上はとても便利にはなる。母親も便利だったら切り替えてもいいよ、とは言ってくれる。

 しかし今もう少し時間をかけようと思う。国籍という表面が変わっても、自分という存在はそのままだと考えるからだ。日本に来て14年。来た当初より外国人に対する規則などは変わっているし、これからも住みやすくなるかもしれない。それに自分のしたいことが徐々に形になってきたが、もう一歩進むために今の仕事に当面集中したいからだ。

 「いろいろ作るのが好きなんですよ。アジアにやっぱり興味があるから、趣味と仕事があっているんでしょうか」。趣味のことを尋ねたときにちょっと考えて答えた。家では両親ともに働いているから、妹も含め4人で家事を分担している。今は忙しいけど充実している。もっともっといろんなことをしたいという思いがオンさんにエネルギーを与えているのだろう。

 仕事のときに見せるきりっとした顔立ちと、人に対するときの柔和な笑顔。未来にかけるエネルギーは満載だ。


 朝早くから夜遅くまで気配りを止めることはない。仕事といってしまえばそれまでだけれど、何より人の世話をするのが好きなのかもしれない。そんな風に伝えると「いやあ、まだまだ勉強することばかりなので、走り回っているだけですよ」という答えが返ってくる。

 童建華さん、1969年生まれの彼は中国陝西省国際交流センター接待部に勤める日本語通訳だ。湖北省にいた父が人民解放軍を除隊して西安に来て生まれたのだが、時は文化大革命の真っ盛りのとき。兄、妹の三人兄弟の真ん中に生まれたが、当時は生活が苦しく、危うく死にかけたという。

 「飲むミルクもなかったんですが、親戚が軍の倉庫に勤めていたので、そこからどうも回してもらったらしいですね」と童さん。今はすくすくと育った好青年の童さんは西安外国語学院

で日本語を学んだ。もともとは英語を学びたかったらしいが、高校のときにあまり勉強せず遊んでばかりいたから英語の成績も悪く、結局先生の勧めで日本語のコースに行ったそうだ。

 卒業後は西安市の営林局に勤め、主に資料の翻訳をしていたが、1年の仕事が1ヶ月ぐらいで終わるような職場であったことから、これでは自分の能力を生かせないと一念発起。営林局を辞めガイドや教師の仕事を経て、99年に陝西省外事弁公室にはいった。

 それからも日本語の研鑚につとめ、2001年5月から1年間、京都府の国際交流課に交換留学生として派遣もされた。いろいろな思い出があるが、中でも毎週金曜日に京都駅の国際交流センターで中国語の相談窓口を担当したのは良かったと語る。

 「日本に住んでいろいろなトラブルにまきこまれた人、またさびしくて話をしに来る人、習慣の違いになじめない人、いろんな人の話を聞きましたね」。そんな経験が役に立っている。相手の気持ちを先に読み取って行動すること、これは接待のひとつの基本ですからね、と童さんは語る。評判の良いのはそれだけではなく、文化財の多い西安で説明が的確でわかりやすいことにもある。「私自身が歴史が好きなので、本を少し多く読むだけですよ」と、その謙遜も憎らしい。

 今何が一番気にかかることですかとの問いには「子供のことです」と即答だった。同じ大学で知り合った2歳下の妻とは1歳になる女の子がいるが、彼女も日本語のガイドをしているため家を空けることが多く、お互いになかなか子供の顔も見ることができない。妻の母やお手伝いさんに来てもらって何とかしのいでいるが、やっぱりできるだけ傍にいたいとのことである。

 「父親の責任ですから」という童さんの一言はさわやかに聞こえる。

2002年2月故河島英五の意志を継いで:河島牧子さん
〜モンゴルからの歌手も迎えて 今年も「復興の詩」コンサート〜

4月20日土曜日、神戸文化ホールで「復興の詩−阪神・淡路大震災復興義援チャリティコンサート」が行われる。今年で8回目、昨年4月亡くなった河島英五さんが「10年続けよう」とプロデュースしてきたコンサートである。

 チケットの収益は「桃・柿育英会」に寄付され、震災遺児のために使われるこのコンサートに今年河島英五さんの姿はない。しかし、その意志を受け継いだ出演者、中でもモンゴルから来日する「アジナイホール」というグループがモンゴルとの友情という新たな風を吹き込んでくれることになった。

 「2年前河島がモンゴルに行ってロックグループのボーカル、エンフマンライさんと一緒にコンサートをしたんです。で、すっかり意気投合したらしいんです」と妻の河島牧子さんは語る。  エンフマンライさんも英五さんとの出会いで感銘を受け、昨年また一緒にコンサートをやりたいと来日した。

しかし連絡を取る前にテレビのニュースで英五さんの亡くなったのを知った。ショックは大きかったそうだ。その悲しみを超えて追悼の曲を作ってくれた。そして馬頭琴演奏家とともに3人組のグループアジナイホールを作り、今回のコンサートにも参加してくれることになったのである。

 河島牧子さんはスロートレインミュージックの代表でり、ライブも聞ける料理店のオーナーでもある。大阪ミナミ法善寺横町にあるイタリア料理店「トラットリアほうぜんじ」がそれである。店ではモンゴル人の留学生が働いている。そして河島さんもモンゴル語の勉強を始めている。それもこれもエンフマンライさんとの縁だ。「せっかく来て下さるのに少しでも話ができればと思って」と河島さんは英五さんの残した友情にこたえようとする。

 もともと今とは違う場所で友人からライブハウスを替わってやってもらえないかということで始めたもので、コックさんがイタリア料理が得意ということもあって、ライブハウスでもイタリア料理を出すようになった。英五さんも毎週のようにギターを弾いていた。ミナミに移ったのは2年前。河島さんの母が和食の店をやっていたのを譲り受け改造。だから店名も「ほうぜんじ」と和風のままである。もちろん「英五党」という屋号がさりげなくついている。

 店は1階がカウンターで2階がテーブル席となっている。英五さんの写真が飾ってあるのはもちろん、店を改造するときに自ら描いた絵や落書きが壁のあちこちに残っている。また英五さんが海外に行ったときに買い集めたおみやげ品が置いてある。これがあるから店はやめられなかったんですね、と河島さんは語る。

 法善寺に来た人がぶらっと店に入って初めて気付く人もいるし、もともと英五さんのファンだった人が懐かしさもあって来るということもある。もちろん大阪だけでなく全国からだ。人と人のつながりを大事にしたいという気持ちは河島さん、そして娘さん息子さんも変わらない。

 モンゴルの友人をもてなすのに彼らの言葉を使おうとする河島さん。モンゴル語は上手になりましたかと聞くと、なかなか覚えられなくてねえと苦笑い。店を手伝っている息子のほうがモンゴルの留学生といつも話をしているから、もうあっという間に抜いていってしまいましたよ、と若い世代に大きな期待をよせる風情だった。

ページトップへ戻る

inserted by FC2 system