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アジアの微笑み99年・2000年のインタビューエッセイ

00・12月上海の学者:郭召烈さん/00・11月ベリーダンス:YUUMIさん/00・10月上海民族室内楽団:呉強さん/00・9月在大阪ベトナム領事館:ブー・フイ・ムンさん/00・8月やっぱり上海っ子:朱曉音さん/00・7月モンゴルのおもてなし:スーチンドロンさん/00・6月ミャンマーの心:ミャーミャーチーさん/00・5月上海の新しい風:陳春園さん/00・4月モンゴルの大地から:バトチョローンさん/00・3月ベトナム・ハノイから・グエン・ミ・ハンさん/00・2月フィリッピン領事館員:ヘンリー・タバオさん/99・12月中国内モンゴル自治区:ナランフさん/99・11月「龍の国」ブータンの留学生:ソナムさん/99・10月二胡奏者:朱啓高さん



2000年12月上海の学者:郭召烈さん
〜台湾で生まれ大陸で青春・ 両岸の交流を心から願う

「(2000年)10月に東京へ行って来たばかりなんですよ。今回は講演の仕事でしたがね」と流暢な日本語で語る郭召烈さん。4人の美術家の展覧会に合わせておこなわれた講演会で「美術と平和」と題してしゃべったのだそうだ。確かに平和という課題に関しては郭さんは適任だろう。何しろ長く台湾問題を研究し、平和統一について実際にも活動をしているのだから。

 郭さんは1926年台湾の台中市で生まれた。第二次世界大戦が終わった46年、台湾大学在学中に北京大学への入学公募があったのに応募して合格、大陸で学ぶことになった。北京在中に中華人民共和国が建国され、新中国で自らの力を試すことにする。55年上海へ移り、復旦大学で教鞭をとる。以来上海に住むことになった。

今は上海国際問題研究所教授、上海市台湾研究会会長、上海市日本学会名誉会長などの要職を占め、連日会議や講演などで忙しい。実は郭さんの家を訪ねたときも、魯迅公園で行われる舞踊関係の開幕式にきてほしいとのことで何時に車で迎えに行ったらいいのか、の電話がかかってきた。本業の研究よりもいろいろ催し物に出席することが多くてね、と苦笑いをしていたが、そこからひとしきり上海の交通事情についての話となった。郭さんの家は上海市内の西南部、魯迅公園は市の東北部にあるため、一昔前だったら道路も込んでいるし1時間以上は確実にかかっていたが、今は高速道路もできたから30分以内で着く。

 経済の発展と開放政策が上海での便利さをもたらしてくれたのだが、このような発展が全国的なものになれば、台湾との統一が本当に具体的になると言う。実際の人や資本の交流は多く行われているし、あとは政治的な問題だ。もっともこれが一番難しいのだが、「一国二制度、これは中国がずっと主張してきたことです。国防と外交は統一、その他は台湾が自由にやればいい、というのが中身ですよ」と郭さんは語る。陳水扁さんも今が歴史に名前を残せる時なんですがね、と付け加える。実際台湾から大陸へ多くの政党人が来るが、みなその発展に驚いて統一への現実味を肌に感じていくそうだ。

 郭さん自身は95年に台湾に里帰りをした。実に50年ぶりということになる。今郭さんは声楽家の妻と2人住まいで、娘さんは日本の大学を卒業したあとニュージーランドへ行き、日本文学を教えている。息子さんは上海大学で英語が専門だったが、卒業後日本の大学に再入学し、今東京で働いているという。お二人でさびしくありませんかとたずねると、「いやあ、妻は今も現役で学校で教えているし、来年は韓国にも行く予定なんですよ」とスケジュールは一杯でむしろ忙しいくらいだという返事が返ってきた。

 台湾で生まれ、大陸で青春を過ごし、そして今世界の人々と交流を持つ郭さんは何より友好と平和を気にかける。もう74歳ですよ、後は若い人に任せたいんですがねと語る郭さん、それでも毎日忙しく走り回っている。


2000年11月ベリーダンス:Yuumiさん
〜踊ることが何より好き・ 女性の誇りを伝えたい

どんな踊りでも今は観衆を楽しませることが大きな要素になっているが、本来は踊り手の意識そのものが自己完結したときに至芸といわれる状態になり、その崇高さに見るものが圧倒されていたのかも知れない。

 ベリーダンス、西アジアからアラブ地方特にエジプトやトルコを中心に広く踊られているダンスだが、ショーダンスとして男性の目を楽しませるもの、といったイメージを持つ人が多いだろう。オスマントルコ時代に王のハーレムで踊られていたということから来るのかも知れない。しかし本来は古来より女性達の間で即興的に踊るダンスとして生まれたものである。ベリー(腹)ダンスといわれるようにもともとこの踊りは母体を尊び神に捧げる神聖な踊りだった。砂漠の民ベドウィン族が生み出したこの踊りは、腰とおなかの動きがポイントだが、力強く女としての誇りを培っていくものだった。

そんなベリーダンスに出会い、自らダンサーとして踊りを追求している日本人女性がいる。Yuumiさん、生徒に教えたり、イベントやショー活動を展開している。もともとモダンバレーやジャズダンスをやっていたYuumiさん、学生時代に一人旅に出た。東アジア、東南アジア各国の踊りは静の動きにその美しさを感じた。そしてトルコ、エジプトと回るうち、即興の踊り、そして観客の反応との交流が最も現れたベリーダンスに触れて、これしかない!と感じたのだそうだ。

 帰国後何としてもベリーダンスが習いたくて大使館、領事館、国際交流団体などに問い合わせ、一年ごしでエジプト系アメリカ人ダンサーを捜し出し、押しかけ弟子となった。「でも次の日に先生に連れられて、大道芸をやらされたんですよ」とYuumiさん。もちろんベリーダンスは見よう見まねでするしかない。しかし何か楽しかった。これも経験と割り切り以後練習に励むと共に、どんどん街頭へも出ていった。当然いろいろな経験をした。ある時は無許可だということで警察につかまったし、またあるときは観客のおじさんが見ている人からお金を集めてあげるよと言ってお金を持ってそのまま逃げてしまったと、様々なことがあった。

 ベリーダンスは基本はあるが決まった形はなく個性で踊るもんなんです、と語るYuumiさんは、自らの表現力を磨くために毎年アメリカへ行く。えっ、エジプトやトルコではないんですか、と疑問に思うかも知れないけれど、ニューヨークには世界からいろいろなダンサーが集まるところであり。何よりもそれぞれの独創性を大切にするところだ。

 ベリーダンスもエジプトやトルコのクラシカルなスタイルで踊っても結局は彼らの域には到達できないし、まねごとになってしまう。だから「日本人の私のベリーダンス」をする事が最も大事なのだ。「踊っている人間と観客が自然に熱狂し、一つになっていくことができれば」と語るYuumiさんの目標は高い。

2000年10月上海民族室内楽団:呉強さん
〜音楽で伝える感動 新しい文化交流をつくりたい
音楽は国境を越えるというが、民族や伝統を越えて人々に感動を与えるという意味だけではなしに、古代から確かに国境を越えて他の国の文化に大きな影響を与えてきたのだろう。日本と中国、海を挟んで向かい合う二つの国では当然のことながら音楽の交流があった。

 二千年十月、上海民族室内楽団は大阪で日本の雅楽との共演をおこなった。大阪府日中友好協会創立五十周年記念「日本・中国音楽交流の集い」に出演するためだが、かつて日本の文化に大きな影響を与えた「唐楽」と、千年以上綿々と続く「雅楽」との競演をその記念を祝う日におこなおうということだった。上海からの代表団はいずれも現役のプロ奏者であり同時に上海音楽学院で教鞭をとっているメンバーで、笙、笛、古箏などの楽器が中心となっている。


 雅楽は中国の唐楽などを中心としたものが日本に伝わり、その原型を保ちながら日本の伝統として保持されてきた。だから実は千年も前の音楽の姿を保持しているのはむしろ日本の雅楽の方である。今回紹介された中国の唐楽は確かに唐の時代の音楽を表現したものだが、中国においては楽器が大きく改良・変化しており、そもそも同じ楽譜であっても当時の音はほぼ出すことはできないわけである。とはいうものの両方の国の楽器を交えた演奏はそれほど違和感がなく体の中に入ってきたし、聴衆も逆に違いがあるからこそ交流の大切さがある、ということを実感できたかもしれない。

 上海民族室内楽団の中でひときわ鮮やかな演奏を見せたのが呉強さん。中国音楽というとすぐに二胡や琵琶、あるいは箏などを思い浮かべる人が多いが、彼女は柳琴、中阮という弾撥楽器の演奏家である。柳琴は形が柳の葉に似ているので名づけられたもので、四本の弦を弾いて音を出し、その音色はマンドリンに似ている。中阮は古代では月琴とも呼ばれており、魏・晋時代「竹林の七賢」の一人であった阮咸(げんかん)がこれをよく弾いたという故事からその名で呼ばれるようになった。

 一九六五年生まれの呉強さん、八歳のときからこれらの楽器を学び始め、上海音楽学院を卒業し、現在学院で民族音楽部助教授として後進の指導をしながら、自らも古典や西洋音楽をアレンジして演奏活動を進めている。「中国でも音楽をはじめるときは二胡からはいる人が多いと思うんですが、なぜ柳琴を学び始めたんですか」と聞くと、「二本の弦より四本の弦の楽器のほうが簡単だからと思ったから」とあっけらかんと答えてくれた。確かに小さい子供にとって手が小さいことから、音階によっては小さい指で二胡の弦を抑えるのはしんどいところがある。

 私は天邪鬼でね、と微笑みながら語るが、今や中阮演奏の第一人者の彼女は毎日が本当に忙しい。音楽学院では助教授として十数人の生徒を抱え、一週間で二十時限の授業をこなし、同時に自分自身のステップアップとして指揮の勉強もしている。合間には上海だけでなく各地での演奏会も入る。昨年は香港へも演奏旅行に出かけた。

 家では夫がいろいろ家事をしてくれるの、とその時はゆったりとした表情を見せる呉強さん。、彼も二胡を専門としていて今は音楽学院でスタッフとして働いているが、そんな周りの協力がよりよい演奏を生むのかもしれない。十年前にも日本に来て演奏したが、今回のほうが気持ちよく演奏できたと語ってくれた彼女に、音楽を通じた交流をさりげなく積み重ねる強さを見ることができた。
 2000年9月在大阪ベトナム領事館へ:ブー・フイー・ムンさん
〜2回目の日本赴任 日越友好に尽くしたい
語学が堪能であるということは(もちろん努力があってこそだが)一つの才能であり、それがその人の人生を客観的にも決定することがままあるのだろう。めがねの奥にやさしそうな目が動くブー・フイ・ムンさん、1945年生まれ45歳で、2月から大阪市中央区にあるベトナム領事館に日本語専任領事として赴任した。前任者で領事館設立時から担当していたグエン・カイ・リョンさんとちょうど入れ替わりの形になった。
赴任時に「妻と2人の子供を残してきたので非常にさみしい」と語っていたムンさんだが、5月には奥さんと下の息子さん(9歳)が来日したのでほっとしているところである。「日本語は学生の時、旧ソ連のモスクワ関係大学で5年間勉強しました」と流暢に語るムンさんは、実は92年から95年かけて東京の大使館に勤めていた経験がある。だから日本には慣れているでしょうと訊ねると、いやあ大使館勤務から5年も経っているので日本語も実は少し忘れかけているのですよ、と苦笑いが返ってきた。

 日本とベトナムの友好交流活動はむろんベトナム戦争時においても様々な形でおこなわれたが、やはりベトナムがドイモイ(刷新)政策(86年12月共産党第6回大会)を打ち出してから、特に90年以降これまでの市民レベルだけではなく企業進出という形で大きく拡大していった。95年には長年敵国であったアメリカとも国交正常化を果たしており、世界から大きく注目された時期でもあった。ただ今年1月ベトナム計画投資省が発表した統計によると、99年の外国企業の投資認可額が前年比58%減の23億3100万ドルと3年連続して減少しており、96年のピーク時に比べて約2割の水準に落ち込んでいる。人件費は安いものの、手続きや許可における官僚主義と非効率、それに社会資本、法の整備が十分でないことなどが、ベトナムへの投資が見合わないとして各国に二の足を踏ませている事情なのだろう。

 そんな時期の日本赴任だけにムンさんは、「やっぱりベトナムと日本との投資や貿易関係を発展させる仕事をがんばりたいですね」ときっぱり。同じアジアの国として日本による多面的協力関係が必要だし、丁寧で親切という国民性はベトナムと日本に共通するものだとムンさんは考えているからである。とはいうもののもともと歴史科学の博士号を持つムンさんは、やはり京都や奈良、広島、沖縄に行って歴史や文化のあとをじっくりみたいですねと好奇心を出す。経済・技術交流の大切さは当然としても、文化の面に置いても両国がすばらしい伝統を持っているとの思いが良く伝わる。世界遺産に指定されているベトナムのハロン湾は本当にすばらしいところですよと、日本から多くの人に行ってもらいたいものです、というムンさんの言葉には率直にうなずけるものがある。

 さて2回目の日本生活はどんなもんですと訊ねると、妻が来るまではほとんどテレビを見たり本を読んだりして過ごしていましたが、家族と一緒になってからは散歩や買い物に外へ出ることが多くなりましたね、とにこやかに語る。「娘は17歳で高校生なんですが、何とか来年には日本に来られるので家族全員がそろえばあちこち観光に行きたいですよ」。もちろん自身もおいしい刺身やお酒は好きなのでそれらを楽しむ機会があればとてもうれしいですね、としっかり自己アピールするのも忘れない。とにもかくにも日越友好に尽くしたいという気持ちは良く伝わってくる。

 2000年8月やっぱり上海っ子:朱暁音さん
〜日本で得た知識 改革開放の上海でどう生かす
もう9年になる。20代のほとんどの歳月を日本の大阪で暮らしたのだから長いと言えば確かに長い年月だが、上海へ帰る段になるとあっという間の出来事のように感じてしまうから不思議なものだ。朱暁音さん、中国・上海にある華東師範大学日本語学科を卒業し、日本語を使う職場で少しの間働いたあと日本にやってきた。大阪市立大学で法律を学び、大学院に進み博士論文をものにした。そしてこの8月に故郷上海で働くため帰国する。

 どう見ても現代風上海っ子の朱さんだが、「頭の構造が日本語に対応するようになっているし、それに滅多に上海に帰っていないから、私は今や上海の郷下人(いなか者)ですよ」と、苦笑いをまじえて語ってくれる。中国語を学ぶ日本人と中国語で台所の話をしているときも、単語をつい忘れて「ほらあの、エプロンだったっけ、あ!圍裙(ウエイ・チュン)・・」と日本語の単語の方が先に出てくることが何度もあったそうだ。そして上海は経済成長が早いため、街の面目も短期間で一新し、新しい店が次から次へと生まれ、何が流行しているかなどというのは現地に住んでいても追いかけるのが大変なほどだ、とのことである。

 上海。中国革命以前は「魔都」と呼ばれ、「モダンを体現する都市」であった。ひなびた漁村でしかなかった上海は、1842年アヘン戦争に破れた清朝がイギリスに開港することで近代が始まり、一挙に欧米資本の手で街が形作られる。1862年6月2日、日本の商船「千歳丸」が上海に入港した。「千歳丸」は江戸幕府がイギリスから買い上げた蒸気船で、上海への貿易視察という目的で各藩から渡航希望者を募った。この中に長州の高杉晋作がいた。高杉晋作はここ上海でアジアに対する西欧諸国の侵略と脅威を目のあたりにする。青年志士たちは以後「脱亜・入欧」という意識を高めていく。数十年後には日本人も上海に進出し、欧米列強に伍していくことになる。

とこんな歴史を朱さんと話していても、上海の若者にとっては過去よりも自分たちにとって大事な未来を語ることの方が大事だ、という感じである。朱さんの大学でのクラスは毎年同窓会を開いているが、朱さんは何年か前に同窓会に久しぶりに出席して同窓生たちの変化に驚いた。20人のクラスで13人が女性だったが、そのうち2人が社長として颯爽と登場したのだ。1人はオーナー社長で、彼女は大学の教師からアパレル業界に転身した。「数年前でそんな状況だったので、今だったらもっと社長が増えているかもしれませんね」と変化を予想する。

 その時、朱さんが「子供が2人もいてどうしてそんなに忙しく働くことができるの」と聞くと、社長は「全託」と一言だったそうだ。中国では託児所に預ける方法がいくつかあって、「全託」はその名の通り、月曜日から金曜日までずっと預けることができる。つまり日本みたいに退社時間を気にして毎日夕方に迎えにいく必要はなく、金曜日の夕方に迎えに行って週末を子供と一緒に過ごし、月曜日にまた預けに行くやり方だ。。育児がむしろ「仕事に対しての息抜きになったわね」ということであったらしい。彼女の携帯電話でアメリカや香港の友達にかけたりと大騒ぎして、誰かが国際電話代が高くかかるなと言ったら、「大丈夫。会社の経費で落とすから」と社長はサラリ。上海での成功が、日本での生活が長い朱さんにとってやっぱり異国みたいな感覚にしかならないとしたら、大変だなとふと考え込んでしまう。

 朱さんは上海の経済発展と彼女たちのキャリアの積み重ねを率直に喜んではいるけれど、女性の自立という点については辛口の評価を持っている。「女性の地位向上は欧米では闘って勝ち取ってきたでしょう。でも中国では党の政策で高まってきたの」。だから本当に市場経済になって競争が激しくなったときに、耐えられるかと不安を口にする。とはいうもののすでに帰国して仕事をすることは決まっており、法律の知識と日本語を操ればそれこそ朱さんがキャリアとして上海に登場する。期待していますよと言うと、「そうね、上海語がうまい日本人としてうけようかしら」と、最後は大阪吉本新喜劇風にさらっと流した。

 2000年7月モンゴルのおもてなし:スーチンドロンさん
〜在日10年の経験 柔和な顔と味が勝負
JR京橋駅から学研都市線に乗って一駅、鴫野駅前から1分も歩くとその店に着く。モンゴル料理の店「モンゴルオルゴ」は外から見たらモンゴル料理の店とは思えない。つまり誰もが持つモンゴルのイメージ、例えばゲル(移動テント)やモンゴル服、民族風小物などを飾ってはいないということである。中へ入っても同じ。右側にカウンター、左にテーブルがある細長い作りで、奥はいろいろな催しができるように少し広くなっている。入り口に置いてあるチラシなどでモンゴルだとわかる程度で、一見おしゃれなバーという感じだ。

 「いらっしゃい」とにこやかに迎えてくれるのは、「モンゴルオルゴ」のオーナーであるスーチンドロンさん。中国・内モンゴル自治区出身で、すでに来日十年、日本人の妻と子供がいる。スーチンドロンさんは内モンゴル自治区から日>本への留学生の第一期生で、「モンゴルオルゴ」は96年に開店しもう4年になる。「内モンゴルとモンゴル国でモンゴル人どうしなかなか交流できないけれど、日本の人に当たり前のモンゴルを知ってもらおうと店を始めたんですよ」と語るスーチンドロンさんにお勧めの料理を聞いてみた。

まずホーショル。モンゴル風ピロシキと言ったらいいのか、ちょっと大きい揚げ餃子といったらいいのか、羊肉と野菜が入っており、揚げたてがさくっとしてとてもおいしい。モンゴルではどこの食堂でも出してくれるが、長く置いていると油がベトッとするから、やっぱり自分のうちで食べるのがおいしいと語る。続いてゴイモンテ・シュル、麺入りスープつまりうどんである。麺はきしめん近い平べったい形をしている。モンゴルの主食は蒸し肉まん、うどん、羊肉や内臓の塩茹でといったところか。一般的に草原の国モンゴルといえば羊の肉を想像するのだが、都会では結構牛肉を食べるとのことである。動物の内臓を食べるのはミネラルをとるためで、自然条件から遊牧生活では野菜をなかなか食べられないので、その代替となる民族の知恵である。

 流暢な日本語をしゃべるス−チンドロンさん、どうですこれでモンゴル人に見えますかと、モンゴル帽子をかぶって出てきた。ひょうきんな一面を見せるが、ふだんは物静かでゆっくりとしゃべる。生まれ故郷の内モンゴルは経済開放が進んだが、中国の沿岸部に比べると生活格差がまだまだ大きい。またモンゴル国も民主化をはたして10年、しかし経済的には余裕はなく、家を離れた子供たちが都会のマンホールなどで過ごすストリートチルドレンの問題なども起きている。雪害がそれに拍車をかけ、遊牧民たちの生活は生命の危機にも瀕している。スーチンドロンさんは友好交流の内容としてそんな実態をしっかりと見て、互いに何ができるかということからモンゴルという国、地域に親しんでほしいという。

 「でも気軽にモンゴル音楽や言葉を楽しむだけでもいいんですよ」とすぐに陽気な声になる。店では民族楽器である馬頭琴の演奏があるし、営業時間外ではモンゴル語講座も開いている。まだまだ近くて遠い国のような感覚があるが、7月のナーダム祭は多くの外国人観光客でにぎわうし、関西国際空港とモンゴルの首都ウランバートルとは(夏場)週4便の直通便が飛んでいる。とにかく内モンゴルでもモンゴル国でもいい、一度行ってモンゴル人の旅人に対するやさしさを感じ取ってください、とスーチンドロンさんは柔和な顔に笑顔をたたえてこちらをじっと見る。

  2000年6月ミャンマーの心:ミャーミャーチさん
〜自然な気持ちで仏教を ミャンマーの優しさ
    頭をくりくりと丸めた少年僧が朝早くから托鉢に回る。厳粛な表情を作ろうとしているが、その顔には幼さが残り、ニコッと笑うと本当にかわいらしい顔になる。ミャンマー(ビルマ)の人々は一般にロンジと呼ばれる一種の巻きスカートを男女とも身につけ、ゆったりと街を歩く。深く仏教に帰依しているせいもあろうが、彼らの微笑みは本当に人の心を温かくしてくれる。

 「私の小さい頃、遊ぶといってはお寺の境内。両親について行ってはお坊さんのお経や説教を聞く、というふうにお寺やパコダ(仏塔)は生活と切っても切れない関係にあったわ」と語るのはミャーミャーチさん。ミャンマーの首都であるヤンゴンのヤンゴン大学国文科を卒業して来日、京都・仏教大学大学院博士課程を今年(2000年3月)卒業、そして日本男性と結婚した。仏教国だからというわけではないが、ミャーミャーチさんの大学院での研究テーマは「地獄」であった。


聞いた人がいつも一瞬なんだというような顔をしたんですが、と彼女は語るが、簡単に言えば仏教伝来に伴って各国で地獄の捉え方が違う、それを比較文化としてとらえたいとのことである。「地獄にもたくさんの種類があって、チベットの地獄は寒く、熱帯地方は火と炎の地獄なんですよね」とのことである。

 ミャンマーは国民の9割近くが仏教徒であるという。ある調査では仏教徒を自認している50名の内で、特別な行事ではなく日常的に1ヶ月の内1回以上寺へ行くと答えた人が48名いた。それほど仏教が生活のなかに自然に入り込んでいるのである。  ミャーミャーチさんの話だが、ミャンマー人は殺生に関しても特別な意識がある。生きるために食するのは仕方ないが、よけいな殺生はしないことを心がける。特に自分の誕生日には例えば年の数だけ生きている魚を買って河へ放つ。あるいは売られている鳥を買って空へ放つ。要するに他の命を救うという施しを行うことで、自分の命が生きながらえさせてもらっていることに感謝する、ということである。

 「子供の頃からそういうことに接してきたからかな」と語る。小学校の時から授業が始まる前に起立し、仏に感謝し親や国を大事にする言葉を述べてから、授業にはいる。先生には「ミンガラーバ」と挨拶する。普通に人と会って挨拶するときには使わない言葉で、吉祥を意味する。親と先生は絶対的に敬う人である。ミャーミャーチさんも小学生の時、授業中おしゃべりをしていて先生に物差しで手を叩かれて腫れてしまったが、それを見た母親はおまえが悪いからだよという感じで、簡単に手当をしてくれただけだ。だから彼女にとってはいま日本で若者が平気で他人を傷つけることが不思議でならない。「確かにミャンマーでも麻薬に走る若者が多かったりします」。しかし結局自分自身の問題で、他人を傷つけてまで犯罪を犯すということは少ないという。

 いまは日本に住むミャーミャーチさん。大学時代の友人は日本やアメリカにいるし、すぐには帰国する事はないという。外国人との結婚を政府が認めてくれない(つまり婚姻届けを受理してくれない)ことが大きな原因だが、ミャンマー(ビルマ)人としてはぜひ信心厚い私たちの普通の暮らしを見てくださいと勧める。ミャンマーの首都ヤンゴンへは関西国際空港から直通便が飛んでいたが、今年から廃止され少し不便になったものの、“遠い国”ではない。入国するとき外国人は強制的に両替をさせられる(300米ドル、もしくは4万円)という煩わしさはあるものの。

 ところでミャーミャーチさん。旅の中でミャンマー人のあの優しい微笑みになれるかと彼らの民族衣装ロンジーに挑戦して歩いた日本人がいたが、必ずと言っていいほど外国人と見破られた。なぜだかわかります?「わかるわよ。サンダルのせいね。派手な色や形のサンダルを私たちは履かないから」。なるほど、微笑みというのは形式では生まれない。

 2000年5月上海の新しい風:陳春園さん
〜二胡とともに生きる 新しい世代の考え方
  中国・上海市第一の繁華街准海路の近くにある上海音楽学院。正門を入って左にいくと音楽小ホール、狭い通路を挟んで外国人専用宿舎がある。その前の広場では学生がバスケットボールや壁打ちテニスを楽しむ。正門からまっすぐに行った右手が校舎だ。
 「今日はこれから個人レッスンがあるけれど、もしよかったら見学してもいいよ」と親切に誘ってくれたのが王永徳助教授。民族音楽部の主任でもある王先生は、民族楽器二胡の著名な演奏家であり、「青少年が学ぶ二胡」や「二胡実用教材」などの著作のほか、「二胡演奏法」というビデオ教材も作る教育者である。

 今日のレッスンは中学校一年生の女の子。王先生が促し、女の子が弓を持ち弦に触れたかと思うと、二胡特有のややかすれた音から次第に滑らかな音へ、そして流れるような曲に変わっていく。時に緩やかに時に激しく女の子の腕が動く。


 いつもニコニコと微笑みを絶やさない王先生の表情は変わらないが、目は鋭く演奏を見つめている。演奏が終わると早速楽譜を持ち出してきて、「ほらここはタンタタンタタタンのリズムでなけりゃ。それにここが半音ずれていた」と容赦なく指摘する。しかしその厳しさには、若い世代の才能を伸ばしてあげたいという愛情があふれている。

 だから時々耳に痛いことも言う。上海では一人っ子の家庭が多く、子供を溺愛する親が増えている。音楽の世界でも何とか子供が有名になれるようにと、個人レッスンの時も親が付いてきたり、先生に付け届けをすることも多いそうだ。王先生は子供のためを思ったら早い時期から、君は普通の大学へ行った方がいいなどとアドバイスする。音楽大学の入学には当然かなりの能力が要求されるし、入学後も選別されてプロとして生活していけるのはごくわずかだからである。

 そんな王先生の秘蔵っ子ともいえる二胡のソリストがいる。陳春園さん、二十六歳で、上海音楽学院大学院の女性だ。その演奏は繊細かつ力強く、聞く人を幽玄の世界に引き入れる。などと言うと「なに言ってんのよ。そんなお世辞なんていいから、何かおいしいものでも食べにいきましょうよ」と返すチャキチャキの上海っ子だ。民族音楽家というとどことなく地味なものだという先入観があるが、それはあくまでもこちらの勝手な思いこみである。

 ボーイフレンドと夜遅くまでカラオケに行って朝寝坊したことが何回もあるという陳さんは、遊ぶときは遊ぶが音楽に対する厳しさはそれだけに誰よりも負けない意識を持っている。八歳から二胡を始め、十八歳の時全国二胡選手権大会プロ部門で二位を獲得したのち、上海音楽学院の本科、大学院とも首席で合格した。日本や香港での演奏経験もあり、CDも出し、王先生も「近来まれにみる才能の持ち主で、前途は計り知れない」と絶賛する。

 中国でも民族音楽の未来は必ずしも楽観的なものではない。若者はどうしても西洋音楽に傾きがちだ。しかし民族音楽も楽器の改良や西洋音楽のリズムを取り入れるなどして、独自の世界を作ってきた。だから陳さんらの若い感性が注がれれば、それが新しい民族音楽として評価されることになるのだろう。

 ある日日本のアマチュア合唱団との交流会にゲストとして呼ばれた陳さん、交流会だということで服装も演奏もリラックスしていて、逆にその演奏のすばらしさがストレートに伝わってきた。自信に裏付けられた顔には笑みが似合う。

  2000年4月モンゴルの大地から:バトチョローンさん
〜草原に響く馬頭琴は モンゴル人の心の調べ

 1999年11月。古都京都の名刹知恩院に、モンゴルの野性味あふれる力強さと人の心を揺り動かす繊細さが入り交じった音楽が流れ出した。木造建築が持つ柔らかい雰囲気とその音楽とがなぜか融合し、聴衆は故郷に帰ったような奇妙な懐かしさを覚える。
 演奏するのはモンゴル国立馬頭琴交響楽団。楽団の来日はこれで4回目になった。第10回福岡アジア文化賞での特別公演をも兼ねての来日である。楽団を率いるのは馬頭琴のソリストであり、モンゴル音楽学校の教師でもあるバトチョローンさんだ。

「社会が大きく変動する中で若い人たちに、モンゴルの伝統と文化をきちんと伝えたいと思って楽団をつくったのです」と語るバトチョローンさんは今年47歳。12歳から馬頭琴を始めた。もともとはモンゴル相撲の選手になりたくてサークルに通っていたが、他の選手とやっても負けることが多く、これはだめだとあきらめたそうだ。

 それじゃ音楽の道へ、と音楽舞踊学校に入学することに決めた。音楽舞踊学校は入学してから専門が決まるシステムで、バトチョロ−ンさんは馬頭琴クラスに配属が決まった。馬頭琴は弦が2本の擦弦楽器で、弓・弦ともに馬のしっぽを用いており、棹の一番先に馬の頭が装飾してあることからその名を呼ばれる。

 18歳で卒業して国立歌舞団の馬頭琴奏者として15年余り働く。86年からは音楽舞踊学校の専任講師として今度は教える方に回った。92年政府が国立馬頭琴交響楽団を設立を公にしたとき、バトチョローンさんがその責任者として呼ばれた。モンゴルが民主化され新しい国造りにかかろうとするときであり、民族の文化と伝統を改めて確立しようとの目標があったたからだろう。

 しかしそれからの道のりは決して平坦ではなかった。「何もかも一から始めなければならなかったんです」。当初集めたメンバーは17歳から19歳までの若者ばかり。とにかく音楽をやりたいという若い子を集めた。そして国立とはいいながら国自体が経済的に困難な時期であったから、援助と言ってもわずかな給与のみ。活動に必要な衣装やコンサートを開く際の準備費用などは自分たちでひねり出さなければならなかった。何より育ち盛りの若者たち、教育することよりとにかく若者たちに食べさすことが大変だった、とバトチョローンさんは語る。

 楽団の日常はまず午前9時に集合することから始まる。10時までは自習で、10時から午後1時まで練習。昼食後午後2時から4時までまた練習。この午後の時間にはコンサートが入ることもある。午後4時からは自由時間となる。自由時間にまた練習に励む者もいるが、何しろ給料が安いので生活のためアルバイトをする者や、将来のことを考え語学の夜間クラスに通う者が多いという。

 設立してから間もない楽団だが、「モンゴル民族の魂を表現できる」という評価をいま得ている。しかし若い人はロック音楽などにあこがれるようになったし、一方で民族音楽を理解してくれる人はまだまだ少なく、資金面では思うようにいかない。残念ながら給料が低いことが原因でやめていく者も出る。  しかし新しいモンゴルの姿とその伝統のすばらしさを世界の人々に見てもらいたいと、バトチョローンさんはにこやかに語る。その言葉には「とにかくメンバーの能力を高めることが何よりなんです」と、常に向上を目指す強い決意があらわれていた。


2000年3月ベトナム・ハノイから:グエン・ミ・ハンさん
〜ハノイの薬局チェーンは 女性の力で

 ベトナムの首都ハノイ、夏の間は雨が多くまた温度も高くムシムシした気候が続く。10月になるとやっと雨期も過ぎ、暮らしやすい気候になる。1000年の歴史を持ちベトナムの政治・文化の中心地でもあるハノイも町並みは落ち着いているが、ドイモイ(開放政策)により大きなビルも建ち始めている。
 「うちの母を紹介しますよ」と言ってすすっと1軒の薬局に入っていったのはグエン・ミ・ハンさん。奈良女子大学大学院で人体生理学を学ぶ女性だが、ちょうどベトナムでの現地調査のため帰国していたのだ。お母さんはハノイでヴァン・ミョウ薬品会社を経営し、市内に3つのチェーン店を広げているチャン・チ・ミン・フーさんである。今年52歳、ハノイの薬科大学を卒業している。ヴァンミョウとは文廟の意味で、11世紀に建てられたベトナムで最初の大学であり、ハノイ駅の西側5、6分の所にある。フーさんの住
居であり、第1号店がこの文廟の前の通り、その名も「文廟通り」にあることから付けた名前だ。

 「本当は商売に興味はなかったんですよ。もともとは数学が好きで学校の先生になりたかったんですが」とミン・フーさんは語るが、ミン・フーさんの母(つまりハンさんの祖母)はその名もハン・バック(銀座)通で金・銀の売買をおこなっていたのである。やっぱり血筋かもしれないが、もともとミン・フーさんは薬品会社で20年近く研究生活を送っていた経験が結局生かされたわけで、ある意味では天職といってもいいかもしれない。

 ハンさんはお母さんの名前についておもしろいことを話してくれた。ミンは漢字に直すと明、つまり明天(明日、もしくは将来の意味)で、フーは富つまり豊かであるということだ。豊かで恵まれた将来があるという意味にでもなるのだろうか。それにフーという名前を付けるのはまず男性で女性にはなく、ただフーさんと聞けば必ずMrをつけるそうで、よく間違われたよと笑い話になる。

 研究テーマの関係で年2回はベトナムに戻って来るというハンさんに聞くと、若い人の嗜好や遊びのパターンはやはり変わってきているそうだ。最近はやっているのがバーに飲みに行くこと。「でもとっても高いんですよ」とハンさん。若い人がおしゃれなところに集まるのは洋の東西を問わないが、何せオレンジジュースが2万ドン(約2百円)、ビールが3、4万ドンもする。日本とベトナムの物価の差を考えると確かに破格の高さだ。

 私ならもっと健全な楽しみ方をするわよと、ハンさんは最近のおすすめスポットを紹介してくれた。サパである。え、どんな店と聞くと、ちがうわよ、避暑地としても有名な少数民族の街よと軽くいなされた。ハノイから列車で10時間の距離にある中国との国境の都市ラオカイまで行き、そこからバスで1時間半あまり。黒い民族衣装を着たモン族やザオ族の女性が藍染めのバッグや刺繍品などを売っている。山々の斜面にはモン族が耕作する棚田が広がり、夏はことに景色が美しい。ハンさんもほんとにのんびりと過ごした。

 お母さんと本当に仲がいいハンさん。もしベトナムに帰って薬局の仕事を一緒にやってくれといわれたらどうしますかと問うと、ちょっと考えて「母は私がやると言ったら、自分もまだまだがんばると言っているんですよ。だから研究も続けたいけれど商売もするかもしれない」と答えてくれた。開放が進むベトナムでは新しい波が確実に寄せている。ミン・フー、ハンさん親娘もその笑顔と熱意で相対することになるのだろう。


    2000年2月フィリッピン領事館員 ヘンリー・タバオさん
〜歌って踊って 明るい笑顔に乾杯
歌って踊れる領事館員がいると聞けば、それはもちろん会わずにはいられない。フィリッピン領事館に勤めるヘンリー・タバオさん、1968年7月生まれで、三十一歳の好青年である。フィリッピン共和国レイテ島の首都タクロバンの出身で、父親がバンドのボーカリストだったことから、父の兄弟やいとこが家に来て歌ったり踊ったりしていたので、自然と音楽に親しんだ。

日本との接点はヘンリーさんが高校生の時、学校に日本からのお客さんが来たことだ。なんとなく日本という国に興味を抱いたこと、それに流暢にしゃべっていた通訳がまぶしく感じ、大学に入って日本語を学び始めた。マニラで日本の団体主催の日本語スピーチコンテストに参加した時、日本留学の奨学金制度があるのを聞き、それに応募して合格したのである。

 1988年姫路獨協大学日本語科に入学した。「最初1週間ホームステイし、それからある企業の社員寮に1年あまり、最後にアパートに移りましたが、来た当初はいろんなことがありました」。最初のホームステイの時は、食事時にテーブルを囲んだヘンリーさんと家族は片手に箸、片手に辞書を持っていたという。片言の日本語と英語で会話しながら食事をし、わからないことがあるとちょっと待ってと言って辞書を調べるから、食べ終わるまですごく時間がかかった。

 ある時バスに乗ったら「整理券をとってください」というアナウンスの「整理券」という部分が「フィリッピン」に聞こえて、どうしてフィリッピン人が乗ることがわかったのだろうかと思った、というのも今では楽しい思い出だ。

 フィリッピンでは高校の時ダンス部、大学ではコーラス部に入っていたから、日本に来てからも何かにつけ歌っていた。そのうちに気が付けば国際関係のイベントや、ホテルのショーやパーティ、それに結婚式に呼ばれることになった。バンドを組むこともあれば、1人で行くこともあるが、おもしろいのはフィリッピン人のバンドと日本人のバンドではそのやり方が違うことだ。フィリッピンのバンドはもう楽譜は見ないから、何か自然に始まるといった感じでぶっつけ本番になるが、日本人のバンドではなじみになってもやはりうち合わせをし練習の時間をとる。民族性の違いですかね、とニコッとする。

 姫路獨協大学を卒業後、大阪外国語大学大学院で対象言語学の勉強をしたが、生活のことも考えなくてはならないこともあって、就職を考えた。それで領事館での職員募集に応募したわけである。ヘンリーさんはいま民事とビザの仕事を担当している。在日のフィリッピン人から相談があれば家庭訪問をしてトラブルを解決するし、また警察や裁判所にも出向くことがある。総領事は歌のことを知っているんですかと尋ねると、もちろん仕事をちゃんとこなせばなにも言いませんよ、と日本人からしたらうらやましい答えが返ってきた。

 「歌のおかげでいろんな人と出会え、あちこち行くこともでき、とても幸せですよ」。でも歌と領事館の仕事のどちらかをとれといわれたらどうしますか、と問うとニヤッと笑って安定性では領事館ですねと答える茶目っ気たっぷりのヘンリーさんだが、歌に対する意気込みは本気だ。英語、タガログ語、スペイン語の歌を歌いこなすのは技術もだが、人や伝統、文化などに対する細やかな愛情があればこそなのだろう。

歌って踊れる領事館員には微笑みがよく似合う。


 99年12月中国内モンゴル自治区・ナランフさん
〜モンゴルと日本をつなぐ架け橋になりたい

 大阪市西成区。地下鉄花園町駅で降りて鶴見橋商店街を西へ歩き、路地を折れた所にある民家の前にナランフさんは居た。どうぞ中へと招き入れてくれる。
 ナランフさん、中国内モンゴル自治区の首都フフホトから西へ500キロ余りの街バヤンノールの出身のモンゴル人だ。日本に来て5年、中国貿易の会社に勤めもっぱら日本語と中国語を使う生活だが、モンゴル人としての誇りとモンゴルのことを日本人によく知ってほしいという熱意は体からあふれんばかりだ。
 ナランフさんは内モンゴル大学を卒業後、フフホト市モンゴル族学校で6年間教師をしていた。内モンゴルでも学校は中国語(漢語)で授業をおこなうのだが、ナランフさんが勤めていた学校は、モンゴル語だけで授業をおこなう学校だ。「大学で第二外国語が日本語だったので、モンゴルで日本語も教えていたんです」とナランフさん。しかしチャンスがあれば日本でちゃんと日本語を学びたいという気持ちも持っていた。

 そんなときモンゴルとの交流に熱心な兵庫県和田山町の中学校とモンゴル族学校の中等部が姉妹校提携をしていた関係で、'94年の末に来日し神戸にある日本語学校に入った。

 そして'95年1月17日大地震にみまわれる。「アパートはぺしゃんこになったんですが、幸い二階に住んでいて助かりました」それからナランフさんは3週間の避難所生活、ボランティアの家で2ヶ月滞在と、日本に来て最初に大きな試練を受けたのだった。しかし勉強したいという意欲は衰えず、大阪で日本語学校に入り直し、'96年4月に大阪外国語大学大学院に合格、'99年3月に卒業したのである。

 ナランフさんは六人姉弟の次女で、姉に続いて日本に来た2人の妹の面倒も見ている。両親は子供たちに“自分の道は自分で歩け”と小さいときから厳しかったですよと語るナランフさんだが、実際両親は遊牧生活なので小学校から寮生活を送っており、家に帰るのは冬と夏の休みだけ。親のそばにいる時間が1年に2ヶ月くらいと短いこともあり自立心が養われた。同時に離れているからこそ家族の絆は強烈に意識された。

 しかし気がかりなこともある。故郷では遊牧生活が続いてきたが、10年ほど前から自由に移動ができなくなり、定住化が進んできた。本来草を求めて移動生活してきたのがある程度の範囲でしか馬や羊を放牧できないとすると、草を食べ尽くしてしまうなど自然のバランスが崩れる。すると自給自足の生活も崩れてしまう。これはモンゴル人にとってやりきれないことだ。都市化が進もうが、大草原こそモンゴルの故郷という意識はやはり持っている。

 将来はどんな仕事をしたいですかと尋ねると、日本とモンゴルをつなぐ仕事がしたいという答えが返ってくる。最近内モンゴルからの留学生が多くなっているが、留学するにしても日本の学校事情や留学事情は現地では正確に伝わってないことが多い。ほとんどが私費留学生だから情報の善し悪しは勉学の結果にも大きく影響するので、情報をきちんと伝えたいと語る。

 いまナランフさんは週1回モンゴル語も教えている。自分の民族の言葉を大切にしたいが、内モンゴルとモンゴル国では長くそれぞれ中国とロシアの影響があったから、同じモンゴル人でも発音だけでは意味が通じない場合があるという。そんな言葉の伝統をどう守るか、というのも自分の仕事ですとナランフさんは明るく語ってくれた。



99年11月「龍の国」ブータンの留学生・ソナムさん
〜伝統の暖かい微笑み

「龍の王国」と呼ばれるブータン。ヒマラヤ山脈の東端、インドと中国に挟まれた場所に位置し、日本の九州よりやや大きい面積を持つ。地理的に遠く離れているのにもかかわらず、その顔立ちや、同じ照葉樹林帯に位置することが関係するのか日本人は特に親近感を持っている。

日本と正式な外交関係が樹立されたのは一九八六年だが、それ以後ブータン国王の二度の来日や日本人観光客の増加などで交流が定着している。昨年十二月にタイで開かれたアジア大会のアーチェリー団体戦で、日本とブータンが対戦したことは最近の交流のニュースといえる。

 「ええ、最初から日本に行って先進技術を学びたいと希望しました」。関西大学工学部の修士課程で学ぶブータンからの留学生ソナム・トブギャルさんは、暖かい微笑みで語ってくれた。今年三十一歳、妻と六歳、二歳の二人の娘を故国に置いての留学だ。ブータン人の名前には一般に姓はない。ソナム・トブギャル全体が名だ。ソナムは幸運という意味を表すという。

 九十年に大学を卒業後、首都ティンプーで国営ラジオ放送局のエンジニアとして働いていたとき、週一回発行の新聞で日本への留学生を募集している広告を見た。大阪府国際交流財団が奨学金を出してアジアからの留学生を招いている事業だが、ソナムさんの勤める放送局の機材は日本製が圧倒的に多いこともあり、新しい放送のあり方などを研究したいと考えて申し込んだ。大学はインドのパンジャブ州だったし、「以前友人が日本に行ったことがあったから」海外に行くことはそれほどこだわりはなかった。子供にしばらく会えないことは少し寂しいなとは思いましたけど、とソナムさん。

 九十七年四月から一年間大阪外国語大学で日本語を勉強し、九十八年四月に関西大学電子工学科に入学した。日本語は大変流暢なのだが、研究内容が難しいこともあり資料などを調べるときはもっぱら英語の本を読む。ブータンでは学校の授業は英語でおこなっていることもあり、学問的には英語の方が理解しやすいのだ。月曜日から土曜日まで実験などでみっちり予定が詰まっており、夜も遅くなることが多い。しかし、研究には簡単なものはないでょう、と全く苦にしていない。

 ブータン中部シェムガン出身のソナムさん、むしろ日本の夏のムシ暑さだけが困ったことだという。食事も大学の生協か寮で自炊するかで苦にはならないし、気分転換にボーリングや卓球で遊ぶ。アイススケートも楽しんだし、つい最近スキーにも初めて行った。日本に留学するときにまわりは反対するどころか喜んでくれたし、いろんなサポートもあり、これで勉強しないなんてことがありますか、と逆に聞かれてしまった。

  帰国してティンプーの放送局に戻り働くことになる。ブータンにはテレビ放送局はないが、テレビの受像器はよく売られている。インドから流入するビデオを見るためだ。インド映画だけでなく、ハリウッドの最新の映画もすぐに見ることができる。

 だからいずれテレビ局が作られることになるだろうから、その時に対応するためにも「日本の放送局で実際の研修をしたい」という希望をソナムさんは持っている。日本にもちゃんとブータンの民族衣装である「ゴ」を持ってきているソナムさん、最新の技術を学びつつ、民族の文化の伝統も大事にしたいとにこやかな笑みをたたえた。


 99年10月二胡奏者・朱啓高さん
〜黄土高原の息吹を二胡に託して

 三年間の日本での生活は長かったともいえるし、短かったともいえる。日本と中国の文化に対する感じ方の違いや、生活における困難が事前の予測を越えていたことも、つらいといえばつらかった。しかし二胡を通じて日本の多くの友人に、故郷の息吹が伝わったことには確信を持っている。中国陝西省黄土高原地域にある街、楡林市出身の朱啓高さんが日本に来たのは九十六年の秋だった。「二胡の音色をぜひ日本の人たちに伝えたかったし、違う文化を体験したいと思ったからです」。いつも微笑みを絶やさない朱さんだが、そこに至るまでの話をする時はすこし口が重くなる。

 朱さんが二胡をはじめたのは十歳の時で、いとこのお兄さんに教わったことがきっかけだ。父親は小学校の教師で、母親の親戚が県の役人だったことから、家庭の雰囲気は開放的だった。しかし中学生のころがちょうど文化大革命の時代であり、一家もその嵐から逃れることはできなかった。父親は教師で知識分子であるということで批判され仕事は一時中断、朱さんも農村で労働、親戚一家は文革下での迫害に耐えられなくなり香港に移住した。

 世の中が落ち着き始めた頃改めて二胡を勉強したいと西安音楽学院に入学、卒業後楡林地区民間芸術団の首席二胡奏者として活躍、楡林市文化芸術局に籍を置き、対外文化交流の仕事もすることになった。「そのときに日本から黄土高原地域へ調査しに来た人と知り合い、日本へ来ないかという話になったんです」。来日当初は茨木市のアパートに住みながら、考古学の発掘の現場に赴いた。音楽考古学と日本文化の研修という入国理由だったからで、ただやはり肉体的には相当に疲れた。元来自分の得意とするところは音楽なので、何とか二胡の演奏を中心にすることができないだろうかといろんな人に相談し、結局中国民族音楽と器楽教育に携わることができるようになった。

 それからは高槻、箕面、富田林と毎日生徒に教え、またソロコンサートも数多く開くことになった。日本語がそんなにうまくない分、文字通り手取り足取りで教える。二胡という楽器は二本の弦の間に、弓を入れてこすることによって音を出す楽器である。だからその基本は何より弓さばきと、正確な音を出す指の動きである。「もう少し下を押さえてください。そうそれでゆっくりと弓を引いて」。必ずしもいい音が出るとは限らない。ギッギッギッなどと耳をふさぎたくなるような音が出るときもある。「先生あかんわ、こんな音しか出えへん」とにぎやかなことこの上ない。笑いが絶えない楽しい教室である。

 いろいろな演奏会の中で何が一番印象に残っていますかと尋ねると、ジャズピアノとのジョイントコンサートです、と即座に答えが返ってきた。つまり二胡のリズム感、音程の取り方とジャズピアノは全く異質なもので、朱さんにとっては困難な部分がかなりあったとのこと。黄土高原地域には秦腔という伝統的なメロディがある。秦腔は京劇の源流といわれる伝統演劇で、ナツメの木でできた拍子木でリズムを取るのが特徴としてあり、やや悲しげなメロディは厳しい自然条件の下で生きる黄土高原の農民たちの心を揺さぶる。

 三年間の経験は朱さんの音楽にとっても日本の文化という味わいがより加わったものになっただろう。十一月には一人娘の待つ楡林市へ帰る。黄土高原の息吹を残して。

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