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【劉 鋒プロフィール
 8歳で二胡を始め、12歳で中国福建芸術専門学校に入学、17歳の時北京国立中央音楽大学に入学する。著名な音楽教育家である二胡大師・蒋風之に師事し、全優秀の成績で卒業。

 卒業後中国福建歌舞劇院民族オーケストラのコンサートマスターを担当、トップソリストとして活躍。またアメリカ、イギリス、スイス、ブラジル、フィリッピン、韓国など十数カ国を歴訪し、「奇跡の二胡」と絶賛された。現在二胡教室を初め全国で演奏活動を続けている。

劉鋒ひとりごと(この項2002年秋終了)

@ちょっとうれしいこと

田保安先生からの電話

 最近うれしいことがあったんですよ。私は大学時代に師事した2人の先生がいたんですが、一人は蒋風之先生で、一人は田保安先生。田先生は実は蒋先生の弟子だったんですが、私は両方の先生に学んだんです。蒋先生には主に中国の伝統曲で(例えば二泉映月など)、田先生には主に現代曲を学んだんです。

 その田保安先生から突然電話をもらったんです。田先生はずっとフィリッピンの大学で教えていたんですが、もう10年近くになりますか連絡はできていなかったんだけれど、電話をもらって「もう北京に戻ったよ」と聞いたんです。田先生はもう65歳くらいでしょうか、でもこれはとてもうれしかったですね。(蒋先生は84年頃になくなった)。

 先生はもう定年ですが、私の先生で今北京にいるのは田先生ということになりました。個人レッスンを何年も続けていたから親みたいな感じで、学生時代土曜日は必ず田先生の家で食事をしていました。すごく良い関係で、お父さんみたいな感じでしたね。声を聞いたらすごく会いたくなりました。


音楽大学時代は練習ばかり

 私は大学(北京中央音楽大学)の二胡専門コースで、1回生から4回生まで4年間二人の先生に個人レッスンを受けました。一人づつのレッスンで、レッスンの時間は1回1時間半でした。

 私の大学でのクラスは3人で、個人レッスンは1週間に2回ありました。通常は専門の個人レッスンのほかに、当然通常の課目を受講しなければなりません。音楽理論、西洋音楽史、中国音楽史、作曲、漢詩、ピアノ、それにもう一つの楽器を選択して学びます。私は古琴を選びました。7弦の古琴は歴史が長くて、私は好きな楽器ですね。漢詩はね、300の古漢詩を覚えなければならないのですよ。そのときは覚えたんですが、今はもう先生にすっかり返しました(忘れたということですね)。

 音楽大学の時は本当に遊ぶ時間というのはなかったですね。授業が終わった後に自分で練習をするんですが、毎日最低でも6時間はしてましたね。楽器の練習と理論やその他の学科の勉強と、寝る時間も惜しんでね。宿舎は夜11時に消灯時間なんです。

 練習室もその時に鍵が閉まるんですが、あるとき練習が間に合わないということで、先生が来る前に教室に入り込んで隠れて、先生が鍵を閉めていったあとに中で練習する、ということはよくありました。勉強ばっかり。遊ぶ時間もなく、お付き合いもできませんでしたよ。(笑)

A久しぶりに旧友に会う

田保安先生は若々しかった

 田保安先生と電話で話したと言ったでしょう。そうするともう会いたくなって実は(10月に)北京に行ってきたんですよ。先生に会って本当に懐かしかった。田先生は元気で、見た目も若々しかった。一緒に歩いてもさっさと歩いて、私は追っかけなくてはならないほど。

 先生はもともと国際機関の文化交流の一環としてフィリピンに派遣されていたんです。だからマニラ大学で教えていた時は通訳と車に運転手つきの待遇。でもいつも通訳に頼るから「今でも英語は上手くない」と照れてましたね。定年退職したといっても教えを継続しているので、一年のうち半年はマニラ、半年は北京という生活になるとのこと。ただし北京では今は教えていない。

 今回は私が先生に会いに行くということで、大学時代に親しかった同級生や後輩のみんなに連絡をとって集まってもらいました。先生もみんなと会うのは久しぶりというので喜んでくれました。李福華、李麗、劉順ら。彼らは同期でも親しかった人で、最初の2人は中央民族楽団の二胡奏者として活動しているし、劉順は中国音楽大学の器楽学部の副学部長の職にあります。また4年後輩だけど親しくしている女性は古箏を弾いています。彼女は北朝鮮に公費留学したんですよ。平壌芸術大学で5年留学して、北朝鮮芸術コンクールで2番を取りました。

李福華、李麗、田保安、劉鋒、劉順(左から)

懐かしい思い出話

 今回は19年ぶりに会った人もいました。昔のことも思い出しました。同窓生は「当時は劉鋒が一番のわがままだった」と言いましたけれど。何がわがままだったんでしょうかね。

 同窓生はみんな優秀ですよ。でもやっぱり年をとったねって。実は入学試験も変則だったので、クラスでも一番年上の人は30歳だったんですが、いわばお兄さんみたいな彼はいま広州のある学校の学長になっています。でもなんかすごく太ったらしいですよ。そんなうわさも聞けました。

 前に話しましたが、学生時代に先生の家には毎週土曜日に行っていました。そこで何か食べさせてもらうんです。当時は肉などは食糧切符制で月に食べられる量も決まっていて、その時には一人500グラムだったと思うけど、私は肉が大好きで「肉がない、肉がない」といつも言ってたらしいんですよ。それを先生は思い出して、当時は本当に肉をあんまり食べさせることができなくて申し訳なかった、と言ってました。

 でもそんな環境の良くないときでもが学生はすごく頑張った。まあ、ほかにすることがないといえばなかったわけで、要するに練習するしかなかったというところかな。

B大学受験の思い出

大学は飛び級で受験

  思い出すといろいろありましたね、大学入試の時に。実は私は17歳で入学したんですよ。試験を受けたときは16歳だった。最初は年齢が足らないからということで受付をしてもらえなかったんですが、毎日通ってお願いした。

 私は小学校を卒業して福建芸術学校という専門学校に入っていたんです。専門学校では半分は普通の中学校・高校の勉強で、半分は音楽の勉強。私は二年飛び級をして、16のときに高校を卒業した。その成績の証明を大学受験申請の所に持っていって、「ほら私はちゃんと卒業しているでしょう」て言いましたよ。

 そのころは文化大革命が終わったあと、大学の入試制度もやっと統一試験が再開された時で、受験者の年齢や入学時期などいろいろ複雑なことがありました。 

 私は大学の民族楽器学部を受けたんですが、そこではそれぞれの楽器で何人ずつという取り方はしないで、全部の楽器でみんなまとめて何人と人数をそろえる。だからとにかく成績順で合格します。ただ二胡は例えば2人以上というような定員もあったと思います。私の時は募集が10名で枠が広かったですね。


試験はやっぱり大変だった

 結局10名の中に二胡専攻は3名が合格しました。試験の場所は北京や上海、広州など大きな都市であって、当時私は福建省にいたので、地域割りの関係で試験は上海に行って受けなければならなかったです。当時汽車で24時間かけて行きましたよ。上海は(中国の)華東地区で3次試験まであるのだけれど、全体の学力を試す試験で音を聞いたり、学理、歌を五線譜で取れるかどうか、もちろん♯や♭のついている曲を初見ではっきり歌えるかどうかなどありました。

 二胡の数字譜はすぐに歌えるかもしれないけれど、実力を見るために五線譜の試験があります。例えば最初は♯1つ、歌えればすぐに続いて増やしていく、というようにします。音を聞くのもピアノの鍵盤の音が2つから始まって♯、♭が混じって7つ8つと増えていく、それを正しく言い当てる、そういう試験でしたね。

 だから試験の前にはすごく訓練・練習が必要ですが、私は専門学校でいわばずっとやってきたことからそんなに慌てなかった。1次2次はただの演奏だけ。1次は例えば3曲を演奏する。1曲は練習曲、2つは普通の曲。2次の試験のときは3曲以外は、譜面をもらってすぐ弾くという試験だったと思います。

 3次の試験のときは受験生が演奏したのを録音するんですよ。もちろん自分の楽器を持っていって演奏するんですが、審査の先生たちがそれを北京にもって帰ります。各受験地からそのようなテープが集まって、それで学力の成績と演奏の評価を勘案して入学者を決めます。各次試験で受験者がカットされて、最終試験で決まる。すごく大変でしたね。

C大学に入ってみて

親しい友人が生まれる

   私は試験には自信があったんですが、やっぱり集中しすぎていたんでしょうか試験が終わったら気が抜けて調子が悪くなり、あくる日には入院したくらい。やっぱり受験前には毎日12時間くらい練習しました。もちろん音楽の練習のほかに一般知識の勉強と、余り寝ていなかったのが倒れた理由でしょうか。

 さていよいよ北京へ行って大学生活を送ることになりました。当時は文革が終わったところで、大学受験資格もいろいろ臨時措置があったんです。それまで試験がなかったから10年間受けられなかった人もいました。だから私のクラスには30歳の人もはいってきたんです。私は17歳だったので、大きく年がはなれていましたけどね。その当時のクラスメートは今はほとんど中国一級の音楽奏者になっています。

 当時音楽大学は付属中学(高校)と同じ構内にあって、混乱していた時期だから学生宿舎も少なかったんです。だから大学生と中学(高校)生が一緒に生活していたんです。とにかく入ってからいろいろ調整しようということで。私が入った部屋は2人が大学生で、3人が付属中学生。付属3年生と2年生なんですが、私も飛び級で入ったからそんなに年が離れていない。ですからそのときからすぐ親しくなり、今もいい友人です。


卒業して故郷へ

 私が一番嫌いな学科は実は哲学でしたね。わからない、というより興味がないから授業のときはぜんぜん聞かない。記憶力はちょっと良かったので、本当は理解していないけど試験のときは授業の内容を覚えていってちゃんと通りましたよ。とにかく読んで覚えて試験を受ける。授業のときすることがないから、先生がつばを飛ばしてしゃべっている姿を絵に書いたりしてみんなに回していました。先生は見つけて「これは誰が書いたのか」と怒って教室はシーン、そんなこともありましたよ。

 大学を卒業するとき、当時は仕事をするのも学校・国が按配していたんです。ところが私は一人娘だったもんだから、父親と母親が北京には残して置けない、実家に戻れと強く引っ張たんです。学校側はそのまま残って先生になりなさいといっていましたが、父が福建省から迎えに出てきて、一人娘だからと学校と強引に交渉して結局福建省に帰ることになったわけです

 学校に残れば助手になって教えることになっていました。当時は文革が終わったあとなのでまだちゃんとした演奏活動システムもなかったので、演奏のチャンスを増やすため学校に先生として残った人のために試験楽団も作りましたね。そこで演奏したり教えたりしていたことになったかもしれません。

D日本での活動

つい怒ってしまって

  1992年に来日しました。実は83年に文化交流で初めて日本を訪れているんです。たった2週間の滞在でしたが、二胡は本当に美しい音だと日本の人々に珍しがられまして、そのときの体験がきっと日本にくる原点だったかもしれませんね。そんなに喜んでもらえる楽器を広めることができたらどんなにすばらしいことかと。当時の中国では伝統的な芸術を外に出すのが遅れていたんですね。

 日本に来て最初二胡を教えるのに大変だったでしょう、ってですか。もちろん演奏活動も同時におこなっていたんですが、初めて生徒に教えるときには必ず怒りましたね。例えば中国では二胡を学ぶ人は大体音階を知っていて、二胡のことも普段から見たり聞いたりしているでしょう。だから教えるのもやりやすかった。

 でも日本の人は全然知らなかった。それはあたりまえですよね。見たことも触ったこともない楽器なんですから。でもお互いそんなことはわからないから、私も我慢できなかったんでしょう。最初はどのように教えたらいいのか、どういう方法がいいのか、日本人に合う方法がうまく考え出せなくて、いつも自分だけ怒っていて悶々としていました。


少しずつ自分も勉強

 だけど少しずつ自分が勉強して、なるほどこういうときにこの教え方はダメ、ほかの教え方を探さないといけない、ということが少しずつわかってきました。怒らないことが少しずつわかってきたというところかな。

 二胡はみなさん今数字譜を見て弾いていますよね。もちろん西洋音譜での楽譜もあるんですが、私は最初から数字譜で教えました。そのほうがわかりやすかったということがありますから。でもねこれには欠点もあったんですよ。

 最初生徒が楽譜を見るときは数字譜だから数字、つまり番号だとして見てしまうんです。楽譜としてみてくれない。だから「先生この5音はどこを押さえればいいんですか・・」なんて言われて、それでまたいらいらしてしまう。楽譜を渡して、これは番号としてではなく音としてよく読んでくださいねと言いましたが、1年習ったあとでも「5の音や6音は・・」などと言われると余計にいらいらしましたね。
 

E日本での活動その2

教える順番も変えて

  教えることは結局自分が学ぶことでもあるんですよね。特に日本の生徒を持ったときにそう思いました。つまり音楽としての学習の仕方ですね。最初はほんとイライラしてましたよ。譜面の読み方、理解の仕方です。
 
 もう一つ大きかったのは、何回も練習に通っているのに何の進歩もなかったこと。それどころか注意したことを忘れているのです。何でまた前と同じ所を間違うのという感じでしたね。ここは注意しましょうと言ったでしょうという感じで。実は日本での生徒は仕事をしながら趣味で学びに来ている人がほとんどだったので、練習が余りできないということが理解できなかったんです。それで怒っていました。

 だからある1日生徒に教えるとするでしょう。そうすると最初の生徒のときはまだ我慢できるの。でも最後の生徒には必ず怒ってしまっていたんです。それで考えて、教えるときに最後の生徒が必ず変わるように順番を変えて教えるようにしたんです。なぜなら1日の最後には我慢できなくて怒ってしまうから、毎回同じ順番だと怒られる人も同じだからかわいそうで、それで順番を変えるようにしたんです。

 そういうことは日本の状況を心から理解しないとやはり起こってしまうと思うんです。今はもう生徒一人一人の事情がわかっているからあまり怒らないようになりました。でもいろいろ聞くとほかの先生よりは怒っているかもね。やっぱり音楽に対して厳しく行こうとするから怒るほうじゃないかな。
 

手とり、足とり、練習を繰り返す

性格は変えられないかも

 性格かもしれません。私の性格は自分で言うのもなんなんですけど、何かをやるとしたら必ずきちんとしたいというところがあります。だから生徒のいろんな状況を理解しても、やっぱりこことここは厳しく教えなくては、とそういう性格の部分は出てきますね。でも生徒一人一人はみんな特徴や自分が持っている問題点が違うから、それをよく見て調整しようとも思っていますけど。例えば年配の方は楽しく弾ければいいと思って練習に来ている、これは今は理解できます。

 でも音楽家はちょっと違う音楽を聴くとすごく疲れるものなのね(笑)。音に対して敏感だから楽しく聞くことができないんです。これはちょっとつらいですね。普通の人なら楽しむ音楽や何かの音であっても、聞くとこれは違うとピッと反応してしまいます。

 音楽の練習は全然進歩がなければ楽しくもないでしょう。だからそういうことも考えて、生徒には時に強く言ったり弱く言ったりといろいろと考えます。もちろん責任を強く感じますから。私はやはり音楽を楽しいだけで終わらすことがどうしてもできない。進歩をしてもらわないと私に責任があると感じてしまう。だから、つい「練習してね、練習してね」と言ってしまいます。仕事を終わって練習するのは大変だけれど、でも好きでなければやれませんからね。皆さんがんばってくださいね。

Fピッチの話 

441のほうがいい

   ピッチの話ですか。私は普段は440で調節します。で、コンサートなどでちょっと明るい曲を弾く場合は441のほうがいいですね。442は二胡としては明るすぎます。二胡は高い音で合わすと、低い音の方がだめになってしまいます。

 二胡はもともと高い音はそんなに得意ではありません。ちょっと落ち着く音を出したほうが二胡としてはきれいな音になる。要するに二胡の楽器としては高音がでにくいんです。テクニックである程度高音をうまく出しますけれども

 二胡の楽器としては高音はそんなに得意なところではありません。バイオリンみたいに高音のときにパッと盛り上がるということはないですよね。だからいくら442にしても、高音がだめなときはだめなんです。それでそのままだと低音もだめになっちゃうし、高音も良くならないし、そうすると何のためにそれに(442に)あわせたのかということになってしまうでしょう。

 だから441のほうが(あるいは440のほうが)まだ二胡としては低音部は完全にうまく出せて、高音も無理しないということで、やっぱり落ち着く音を作るのは441か440のほうがいいですね。

 でも二胡の奏者はみんな一人一人好みが違うし、音でいえば明るいほうがいいと思う人がいるかもしれません。私はあまりよく知りませんが、高音を追求する人もね。
 

ちょっとめずらしいリハーサルの風景

ちょっと細かいかなあ

  私はそういう細かいことが気になるんです。曲によって変えるとか、曲とは関係ないんです。基本が441、二胡という楽器自身として441にするということです。

 楽器としてはそういうのがいいんです。私がそういうことを細かく追求するときに、よく言われるんです。「そのくらいでいいんじゃないですか」ってね。私はそういうところが細かくて,気になるんです。

 そこまで追求するのは、もっともっときれいにいい音が出せるようにということからです。ピアノの調律は442が多いですから、私のコンサートはがんがんするなあと思いながらやることもありますね。

 揚琴の伴奏のときに、私はちゃんと言います。441にしてくださいということを。でもみんな大体442にするから、みんなから文句言われる。いつも442よってね。

 中国の楽団のときはみんな低い。だから中国にいたときは442は使わなかったんですよ。それで日本に来てから、日本の奏者達が442を使っていて、日本ではそれが当たり前かなと思いました。

 でも中国音楽の理論があるでしょう、そこで考えるのが基本です。自分だけのためにこうしたほうがいい、ああしたほうがいいということではないんです。よく楽器のことを考えて、その特色に合わせてやっているんですよね。
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