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中国・音楽の旅

阿炳(アピン)外伝・3:阿炳とその時代(1933年~1947年)
30、1945年(52歳)~1947年(54歳)・阿炳と新たな時代
 
 1945年8月15日、日本は連合国に降伏する。第2次世界大戦の欧州戦線ではナチスドイツがすでに降伏していたから、日米・日中戦争の終焉となる。中国大陸においては1931年の満州事変から15年戦争とも称せられるが、いずれにしても長い災難の時期は去ったと庶民は一息をついたことだろう。

 阿炳もここ数年物資の不足や生活苦から細々とした生活を続けていた。もちろん街頭での演奏への意欲と理不尽な世の中の出来事に対する怒りの心は衰えていないが、忍び寄る年齢による肉体的な衰えはどうしようもなかった。ああしたいこうしたいと思うときでも、何回かに1回はふっと体が動かなくなる時があるのだ。気持ちが先走ってというよりも、心と肉体がうまくかみ合わない時間が時々生まれる。

 まあ年が年だけに仕方がないか、と逆に淡々とした気持ちになる。もちろん巷のニュースは常に耳に入るようにしている。活動領域が減少したとはいえ茶店へ行くことは欠かさないようにしているし、そこかしこで声をかけてくれる無錫の住民の“うわさ話”は虚実取り混ぜだが揺れ動く社会の動静を伝えてくれていた。そしてこの終戦の日だ。

 阿炳は終戦前後の日々をどのように過ごしたのか。具体的な行動は分からない。中国人にとってもその住む場所や経済的な地位、そして政治的な立場などでその行動や感慨は大きく違っていたはずだ。街角で二胡や琵琶を演奏しながら社会への痛烈な風刺を披露するのを生業とした阿炳にとって、支配勢力(この場合は日本軍)が突然消滅することにはある種戸惑いがあったかもしれない。風刺の対象がなくなるのであるから。しかし普通に考えれば、これでやっと苦しい生活から解放されると感じただろうと想像できる。無錫の一般庶民の感慨もおそらく似たりよったりだっただろう。


今も昔も庶民が集まる公園
  
 立場は違うがそんな終戦の日々を日本人の側から描いた文章がある。といっても場所は無錫から離れた上海ではあるが。「上海にて」という著作がある。作者は堀田善衛(1918~1998)である。慶応大学仏文科を卒業後、戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、ここ上海で敗戦を迎えている。堀田は詩作や翻訳も多く手がけるとともに、1956年にはアジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。また1977年には大作「ゴヤ」を完成している。

 堀田が上海に居たのは1945年3月から46年12月までで、日本の敗戦と中国国民党軍の上海進駐を現地で経験している。もちろん「上海にて」で描かれているのは敗戦国の日本人から見た様子であり、その感慨は勝利者と敗戦者とでは雲泥の差があるだろう。しかし感慨とは別に当時の街の様子を知ることが出来るのである。

「それは1945年8月11日の朝のことであった」と当時の街の様子が描かれる。「その日、私は何も知らずに家を出た。町には青天白日満地紅旗がちらほら見えた。不思議なことがあるものだ、今日は何かの旗日でもあるのだろうか、と思った。けれどもその旗には、公式のときにつけることになっている『反共建国』という南京政府の、旗とは別に、旗といっしょにつけるエフが付いていなかった」

「ということに気がついても、つまり、旗は重慶国民政府の旗を意味するということに気がついても、まだその次の意味にまで気がつかなかったのだ」。そして堀田は建物にべたべた張っているビラに気がつく。そこには「八年埋頭苦幹、一旦揚眉吐息(8年頭を垂れ苦しみがんばった、この朝我等眉を揚げ気を吐く)」、「慶祝抗戦勝利、擁護最高領袖(抗戦の勝利を祝す、最高領袖〈蒋介石〉を擁護せよ)」などの文字が書いてあった(注・8年とは1937年盧溝橋事件、第2次上海事変から全面的な日中戦争になった期間を指す)。

 そして堀田は気づく。「今から思えば、まあおろかな話であるが、これらのビラの文句を見て、私は初めてハッとした。敗れたのだ、と知った」。「すなわち、8月10日夜半、同盟通信社の海外向け放送が、日本のポツダム宣言受諾を放送し、この放送を受信したモスクワ放送局が、これを海外向けの全電波を動員して放送し、これを受信した上海の抗日地下組織が直ちに動き出してこのビラを張り出したのだ。そのとき私はこの国と、この都会の底の深さ、底知れなさに恐怖を抱いた」

 公式の終戦前にすでに都市住民には日本の降伏受諾の様子は口コミでも伝えられていた。そして直ちに公然とした一定の意思表示を行っていたのである。大都会上海には強固な地下組織があっただろうし、またそれ以前から戦後の権力争奪戦を予想して各勢力とも準備をしていたことから、さもありなんといったところだろう。
                            

阿炳の足繁く通った「天下第二泉」
  
 阿炳の住む無錫は勿論上海ほどの大都市でなく、また戦後を見据えた諸政治勢力の動きも表立ってはいなかった。とはいえ新しい時代が始まる予感はあっただろうし、何より“老百姓消息”(庶民の口コミ)による社会情勢変化のニュースはたちどころに伝わっていたはずである。阿炳の脳裏には戦争末期に思うように街頭での芸活動が出来なかった日々がよみがえって来た。それを思えば“よし、皆が伝えてくれる消息を元に今日の語りをこうしよう”などと創作にあらためて取り組む転機になる日々ともいえた。しかし阿炳の体がそれを許してくれる状況では最早なかった。

 当時無錫の権力を握っていたのは湯恩伯の第3方面軍であった。軍隊の進駐と権力掌握は旧日本軍の時代でもそうだったが、庶民には高圧的に対するものである。阿炳の体が弱っていなかったとしても街頭での活動にはいろいろな制限が加えられるようになっていた。

 この当時の阿炳の消息を示すエピソードが「阿炳、その人と足跡」(無錫文化叢書・無錫民楽・07年)に載せられている。

「1946年上海文芸界の著名人士である紅豆館主・溥西園と上海銀行界の学生の招請を受け、無錫道教会は“10不拆(集合する)”を主要メンバーとする道楽演奏隊を組織した。闞献之、朱勤甫、尤墨坪、趙錫均、王士賢、伍鼎初などのメンバーがいたが、無錫での練習期間中に楽団顧問の楊蔭瀏先生は特に阿炳に聞いてもらうよう招き、阿炳はとても感動した。これらの演奏者たちは闞献之が阿炳より2歳年下である以外は、すべて後輩にあたる者達であったが、当時無錫道教界および蘇南地区での名声は高いものがあり、その技量も巧みであった。阿炳は病の痛みにもかかわらず耳を傾けたが、それはまるで自分が楽隊にいるようなものだった。『ずっと聞いているとまるで皆と一緒に演奏しているようになった。以前は音楽のことがいつも頭にあったが、今はそう多くはない』と阿炳は語った」。

 上記のエピソードに語っているように、阿炳から音楽が少しずつ離れていった時期である。実際1947年ころ阿炳は肺を病み、床に臥して吐血するような健康状態になったと伝えられている。勿論街頭での芸活動は行うことが出来ない。阿炳の名はその体とともに消え去りそうになっていたのである。

 しかしこれから3年後、最後に阿炳の生命の炎が大きく燃え上がる。その炎のおかげで今日阿炳の演奏が聞けるのである。
                                                             (13.6.11記)

29、1940年(47歳)~1944年(51歳)・阿炳と戦争末期の生活
 
  何はともあれこの時期、日本軍占領下の無錫の街中に戻ってきた阿炳は、ある意味淡々としかし精力的に音楽活動を再開する。貧乏は相変わらずだが妻の董催弟との生活は精神的な安定を得ている。無錫人としても欠かせない大好きなお茶が彼女の手で淹れられ、2人して飲むという習慣が続いている。

 占領しているとはいえ戦線を拡大した日本軍にとって“治安維持”のための人員に余裕はない。そんな状況も見透かして庶民はしたたかに生活を続けている。食料や日用品など物資は不足しつつあるが、街角に寄り添う人々はそれぞれの知恵を出し合い融通しあい、また何所からか調達する技を分け合う。

 阿炳の生活パターンもおなじみのものとなってきた。毎日午前中は茶館に行ってニュースやうわさを聞き集め家に帰って創作の構想を練り、午後になると崇安寺の門前で歌い演じる。そして夜は夜で街頭で二胡や琵琶を弾き語る。そんな彼の説唱方式は聴衆を多くひきつけ、それがますます人気になって人もまた集まってくるようになった。

 「(母方の)伯父が阿炳と私塾で同級生だったので小さいときから阿炳を知っており、阿炳も親しく“小松(松ちゃん)”と呼んでくれた」と、阿炳を良く知る黎松寿が2007年4月87歳の折に、無錫日報の記者にインタビューを受けた記事の中で、崇安寺での阿炳の演奏を次のように語っている。

 「崇安寺は北京の天橋や南京の夫子廟などのように、小商いをする商人や芸人達など各種各様の人間が集まってくる場所だった。だから非常ににぎやかでかまびすしい所だったが、阿炳がここで演奏するときはその弾く音が圧倒的だったので、遠くからでも彼が演奏しているのがわかった。
 一般的な二胡は細い絹糸弦だったが、阿炳が使っていたのは普通よりさらに太い中弦だった。しかしどんな弦でも彼の手にかかると音がうまく出て、その音は甘く粘りがあり、なおかつしつこい甘さではなくべったりする粘りではなかった。またほかの人は音が弱いのでマイクを使っていたが、阿炳は全く使わなかった。このことは彼が並みの演奏家でないことを示しており、当時私は上海などいろんな地域で多くの演奏家を見てきたが、阿炳ほど弾ける人はいなかった」。

 またその聴衆を喜ばせる弾き語りの内容についても次のように語っている。

 「阿炳の時事放談は’無錫八景’の中で最高のものだった。阿炳はいろいろな特技があったが、時事放談は当時の社会への影響力も大きなものがあり、大衆の最も好むものであった」。「阿炳はとても聡明な人間で、ものも良く知っていた。何かを聞くとすぐ記憶して時事放談の中に取り入れたが、自分独特の表現があったから人々を魅了した。例えばマフィアのボスが鉄砲で撃たれた話とか金持ちの令嬢と車夫が駆け落ちしたなどの、大衆が聞きたがる話をした。もちろん時には大衆に受けようとするあまり迷信の話をしたり低俗になったこともあったが、これによって阿炳の時事放談が本来持つ価値を下げるようなことはなかった」。
                            

阿炳故居(現在は記念公園になっている)
  
  阿炳は社会の最下層の街角芸人としての生活を送っていたが、黎松寿のいうように時事放談で語る内容は自らの生活に密着したものであった。もちろんそれだけでなく、弾き語る内容は道教の説教の経験もうまく生かしていたと考えられる。今の生活を招いたのは自らの傲慢さであり不摂生の故であったかもしれないが、音楽の基礎は父と暮らした道教寺院での生活で学んだものだ。

 そんな時期に体で身につけたものは消し去ることは出来ない。むしろ懐かしさとともに思いだしてくるし、道院にお参りに来ていた無錫の市民にとってはその時期の阿炳の姿と重なり合って忘れがたくなっていく。

 阿炳のエピソードの中でもお茶に関する話は多い。崇安寺の三万昌館はなじみの茶館となっていた。茶館の主人も阿炳の芸が気に入り(もちろん阿炳の芸で客の入りが違うという現実的な利益もあるが)、阿炳が来たときにはいつも熱くて濃い茶を出していたという。阿炳は濃い茶を飲むことで演奏前の精神的な集中力を高めていった。

 あるとき演奏に熱狂した客の熱い喝采を受けたので、もう1曲演奏しましょうと阿炳はあらためて自分が好む「無錫景」を弾き語った。
―天下第二泉や!
―恵山の下から清冽と泉が湧く
―ああ、花茶のごとく湧く泉よ

 阿炳が謳うと客も次々と歌いだし、茶館の中は熱気あふれるウワーンという喧騒であふれ出したという。

 とまあいろいろ逸話が語られるが、実はこの時期の阿炳の具体的な活動の姿はよくはわからないというのが実態だ。街頭芸人として好評を博したというのは事実だが、伝記の類でよくある「激情あふれる言葉で人々の愛国の熱意を鼓舞した」とか、「「(占領下で)日本軍は阿炳には何も出来なかった。あるとき阿炳が夜遅く帰ってきたところ、胡琴を弾くだけで日本軍の歩哨は彼の為に城門を開けたほどだ」という類の話はあくまで後世の人間が書いた文章の中で残っているだけだ。

 確かに阿炳は庶民の感情に基づいて時の権力者の政策や行動を風刺した。それが評判を生んだのは事実だが、いかにも“愛国者”、“革命的”な信念と行動をしていたかのように描き出すのは、人の行動をあるパターンに押し込めようとする安易な利用主義だ。庶民の共感を得たのは何も敵がただ「国民党」や「日本軍」であったからではない。生活の苦しみをもたらす圧迫に対して怒りを共有できる言葉と態度で示したからだ。

 戦争が続くにつれ、阿炳も物価の上昇や生活物資の欠乏に悩んだだろうと想像できる。したがって街頭に出る生活に波があったかもしれない。また徐々に老いていく年齢を迎えて(もう50歳だ!当時の感覚では年寄りだろう)、ゆっくりとした日常をすごしたいと思ったことがあるかもしれない。

 後世の人間は勝手なことを想像するが、いずれにしてももう一度その名が伝えられる出来事に遭遇するまであと何年間かの熱情を秘めた淡々とした生活をすごすのである。

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 無錫を含む戦争末期の長江下流域の出来事を以下列記する。

 1940年3月、国民党政府から離脱した汪兆銘が南京に新たに国民政府を樹立した。日本では7月に第2次近衛内閣が成立し、汪兆銘の政権は11月に日本と「日華基本条約」を締結し、ある意味での安定状態をもたらす。

 1941年12月8日の日米戦争の勃発とともに、上海の日本軍は共同租界に進駐する。上海が日本の軍政下におかれたわけである。同月魯迅夫人の許広平が日本軍に逮捕されるが、内山書店店主・内山完造の尽力で翌年3月に釈放される。この年、西遊記に題材をとった中国国産初の長編アニメ映画「鉄扇公主」がヒットしたと伝えられる。

 1942年、上海租界の実権を握っていた工部局の英米参事が辞任し、日本軍の政治の下で日本人が新議長についた。5月には汪政権が重慶政府の発行する紙幣の流通を禁じ、南京の中央儲備銀行が発行する通貨「儲備銀行券」の使用をさせた。7月には上海で灯火管制と食糧配給制が始まった。同月、京劇女形俳優の梅蘭芳が香港から上海に戻ったが、日本の敗戦まで髭をたくわえて出演を拒否した。

 1943年、1月米英と中国は治外法権撤廃条約に調印し、他方日本は汪政権と日華共同宣言を出し、治外法権撤廃に関する日華協定を結んだ。この結果汪政権は7月にフランス租界を、8月に共同租界を接取し、それぞれ上海特別市第8区、第1区と改称した。5月には映画の製作・配給・上演を一元化するために映画会社が合併されて、中華電影連合公司ができた。
  
 1944年、7月米軍が始めて上海市を空襲した。11月、病を得ていた汪兆銘は日本の名古屋の病院で死去する。

                                                             (12.12.17記)

28、1938年(45歳)~1939年(46歳)・阿炳と上海、無錫
 
  1937年12月日本軍は南京を占領したが、中国国民政府は重慶へ遷都した。結局戦いは続き、1938年1月には近衞文麿政府が「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)を出し、日本はこれから8年間の泥沼の戦争を続けることになるのであった。阿炳の住む無錫は1937年11月27日に日本軍によって占領されている。

 上海から南京の長江下流域が日本によって占領されたことになり(とはいってもその占領地域は狭い範囲に限られていた)、阿炳の街頭生活にも大きな影響を与えることになった。占領軍は不特定多数の住民が街中で集まることを極度に嫌う。抵抗のための集団活動につながることを恐れるからである。

 阿炳の生活の糧は街頭で芸を庶民に披露することである。しかもその芸は庶民の心をつかみ圧倒的人気であったから、阿炳の行くところ人が集まることになる。するとそれは“不穏な動き”となって許されない行為となってしまう。内容の善し悪しではない。結局阿炳の街頭での活動は知らず知らずのうち不自由になっていった。

 仕方がない。結局阿炳と妻の董催弟は無錫市内を離れ、小さい時をすごした東亭鎮に避難することになった。現在でも無錫市内から少し離れた一画といった地域にあるが(中国民族音楽の旅・阿炳の巻参照)、当時では無錫市内の生活とはまったく異なる田舎生活を送れる地域だった。ということは日本軍も直接見ず、その圧迫も感じることがなくなった。

 さてこの時期の阿炳はどんな生活を送っていたのだろうか。田舎のこととて周りの農民が阿炳の弾く楽器の音色を素直に楽しむことはあっても、社会を風刺する材料や噂話が伝わらなかったことが考えられるから、阿炳は本領を発揮できず鬱々として過ごしていたのかもしれない。あるいは逆に生活への圧迫という鎖から解き放され、道教楽や本来の無錫地方に根付いている庶民の唄や踊り、音楽にとっぷりつかるという時間を得て喜んだのかもしれない。
                            

阿炳の以前の墓地位置
  
 実はこの時期に阿炳は上海へ行った、とする伝記がある。江蘇人民出版社による無錫文化叢書の「無錫名人」の巻に「華彦鈞和他的《二泉映月》」の項があり、そこには「日本軍が無錫を占領した後、阿炳は上海へ赴き、昆曲グループの仙霓社で胡琴を教え、三弦を弾くなどした。また映画《七重天》に盲人の群集として出た」と記されている。しかし同じ無錫文化叢書に「無錫民楽」という巻があるのだが、そこの「阿炳其人其事」の項にはこのことは記されていない。

 同じ叢書の中の巻とはいっても編集者が違うから記述が異なるのはやむをえない部分があるのかもしれないが、しかし現代中国では日本軍占領下で何をしたかというのは、ある人物が英雄となるのかあるいは完全に抹殺されるのかということにも関係する大事な事柄で(そのために記述がでっち上げられることは多々ある)、無視できないことである。どちらも根拠となる資料などは示されていないし、そもそも阿炳のその時代の資料は残っておらず、伝聞で書かれていることが主であるから証明のしようがない。

 ちなみに仙霓社という昆劇グループは1931年9月に「南昆新楽府」が改組されてできたグループで、同年10月1日から当時上海で一大娯楽場だった大世界で公演を行っている。しかし活動は余り順調にいかず、1937年の第2次上海事変でグループが持っていた衣装など公演に必要な道具が焼け、存亡の危機に立った。ようやく1938年9月に新たに組織しなおし、断続的に上海東方書場や仙楽大劇院などで公演を行ったとある。しかし太平洋戦争が始まると観客は激減し、1942年2月に解散した。

 一方映画「七重天」はどうか。この映画は1939年監督・張石川、主演・周璇で公開されている。張石川(1890~1953)は寧波生まれで、1922年に明星影片公司(明星映画会社)を設立した。監督としては150作余りを製作している、中国の映画事業の開拓者の一人で、中国初のトーキー映画も製作している。

 主演の周璇(しゅうせん:1918~1957)は常州市生まれ。1937年「馬路天使(街角の天使)」でヒロインを演じ、劇中で歌った「天涯歌女」、「四季歌」が大ヒットした。映画は上海の街娼街で暮らす娼婦の姉と街頭で歌うヒロインの純情な少女の行く末を、当時の上海の下層階級の生活のリアルな描写で描いている。その後数々の映画で主演し、「夜上海」のヒット曲などもだすなど、1930年代から40年代を代表する歌手、女優となった。

 「七重天」はどんな映画か。乏しい資料によるとこうだ。「申江アパートは7階建ての建物で、その屋上の小屋に管理人の老人と甥っ子の和生が住んでいる。和生は壁の広告書きで、1階に住む少女の丁玉芝と親しい。玉芝の母親は娼婦でアヘンにもおぼれて居る。ある日玉芝が逃げ出し、和生が彼女をかくまう。母親は人を使ってアパートを探さす。それぞれの階にはあまたの家庭のどたばた劇があり、いずれも一筋縄ではいかない人物達だった・・・」。
                          

左:周璇 右:張石川
 
  こういう筋書きの映画に阿炳が出たとされているのだが、どんな役だったのか。むしろ「馬路天使」のヒロインが歌う其のそばで胡琴を弾いているという役のほうが阿炳にはぴったりだと思うが、この映画は37年公開なのでありえない。要するに「七重天」という映画(いまに複製が残っているとするならば)を見て確認すれば済むことだから(もちろん端役ならカットされていることは十分ありえる)、ここでどうこう言うことではないのだが・・・。

 しかし筆者は阿炳はこの時期上海へは行っていないという気がするのだが。無錫と上海、どちらも日本軍の占領下にあったが、少なくとも戦災を避けた生活を行おうとすれば無錫のほうが断然いい。上海は文化的な先進地であるし、経済的にはお金が動く地であるからひと旗あげようと考える人間ならいいが、物価も高いなかで盲目の阿炳が求められる需要はないはずだ。

 ただいずれにしてもこの後阿炳は無錫の中心街に戻り、逼塞していた鬱憤を晴らすようにまた街中へ出ることになる。ある意味“安定した”日本統治下にあって、彼の権力者に対する反発がふつふつと沸いてきたのだろう。 


                                                             (12.7.24記)

27、1936年(43歳)~1937年(44歳)・阿炳と戦火
 
  街頭に生きる阿炳。生活は苦しいが、妻の董催弟は質朴で働き者だった。阿炳は毎日午後と夜に演奏や唄いのため街頭に出るのだが、董催弟は生活面の面倒はもちろん阿炳の街頭活動の手助けもしていた。いつもは近所の子供達が阿炳の手を引いて定番の地である三万昌茶館や崇安寺へ行くことが多いのだが、子供は気まぐれなもの、いつも手助けしてくれるとは限らない。董催弟がちょくちょく連れて行くことが多くなる。

 連れていくだけでなく、座るイスやのどが渇いたときのために白湯も準備する。そんなこんなで結局手助けといっても、夫婦二人で街頭芸活動をする形になってしまうのだ。しかしそれが阿炳にとっては芸に集中できるということでもあったのだが。

 阿炳の芸のすばらしさは何より庶民の生活の匂いがそのまま伝わることである。もちろんただ普通の生活に現れた事象をそのまま普通に唄っても喋っても芸にはならない。その事象に対する自身の率直な感情を、それも実際生活に根ざした思いをきちんと伝えられることが必要なのである。阿炳には実際困窮生活があるので聴衆と感情で一致することができるが、そんな感情だけを吐露してもそれは“文句たれ”の素人芸に過ぎない。阿炳の芸には辛らつさの中に鋭いユーモアがあった。

 毎日の身近な話題を唄うが、普段使う言葉を使った比喩は生き生きとしていて、その場でも臨機応変に作ってしまう。話はテンポ良く、聞き手を離さない能力があったと伝えられている。例えば元来深刻な話であっても一度阿炳の口を通せば奇抜で軽快な話になり、彼の滑稽なしぐさに聴衆は腹を抱えて笑い転げ、去ろうとはしなかったとのことである。

 小さいころから鍛えた道教の素養があったからだろう。“武芸十八般”、さまざまな楽器を吹く、拉く、弾く、打つことができた。そして道院で経験した拝観する人への“説教”を通じた交わり、道教音楽や江南地域音楽の演奏での経験など、ありとあらゆる経験が聴衆に受け入れられる要素となっていたのである。街頭での様子がこんな風に伝えられている。

                            

  
 「阿炳は通常はいつも胡琴(二胡)を弾くのを好み、胡琴で人声の真似もできた。“伯伯嫂嫂好(おじさんおばさんこんにちは)”“謝謝(ありがとう)”などを出すと聴衆はオッと乗り出してくるので、阿炳は今度は“鶏鳴き犬吠える”様子を真似る。自分の口で何句がしゃべり、今度は胡琴でその返事をする、“どこへ行くの?”“崇安寺へ行くのさ”“崇安寺はにぎやかだねえ・・”。聴衆が絲竹を所望すれば《行街》、《三六》などを弾き、琵琶曲を聴きたければ《龍船》を弾き、銅鑼太鼓を敲く場面が過ぎると、阿炳は頭を上げ前かがみの姿勢で高く声を張り上げる。『見よや、龍船が来るぞ!』。龍船で銅鑼太鼓を敲く場面が過ぎると小曲を1曲挟み、それが終わるとまた銅鑼太鼓を敲く様子を表しまた頭を上げ高らかに叫ぶ、『見よや、龍船が来るぞ!』」(「阿炳其人其事」より)

 貧しいけれど毎日は会心であっただろう。しかし中国国内の政治状況は悪化し、戦争の暗雲は今まさに阿炳たちの上に覆いかぶさろうとしていた。

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 前年の35年には、満州国を建てた日本の関東軍がさらに万里の長城を越えた「関内作戦」を行っていた。中国軍を長城からさらに南に駆逐し、勢力圏を広めようとしたものだが、同年6月に「梅津・何応欽協定」、「土肥原・秦徳純協定」などが成立し、とにもかくにも停戦が成立した。しかし日本軍の圧力に対して北京や上海などでは学生や文化人による救国連合会が作られ、国民政府に対して強く抗日を要求した。

 そんな状況の中、1936年12月に西安事件が起きる。国内安寧を第1の目標とする蒋介石・国民政府は、共産党軍を追い詰めようと東北軍首領の張学良(1901~2001)に西安で強く剿共を求めるが、逆に拉致監禁されてしまう。事件後の交渉経過など不明な点も多いが、結局蒋介石は釈放されその後の国共合作に繋がっていく。

 同年10月には上海で魯迅が死去している。各界代表・民衆が葬送デモを行ったと伝えられている。

 そして1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突、日中全面戦争に突入していくのである。これまで危ういところで平衡を保っていた両国の軍、兵士、市民の対立は一気に全面的な敵対となってあらわされるのである。7月29日には北京の東にある通県で「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)が日本軍と日本居留民に向かって攻撃を行い、約230名を殺害するという事件が起こった。通州事件である。

 そして8月13日、上海で日本海軍陸戦隊と中国軍が衝突し第2次上海事変となった。上海では激戦が繰り返され、日中両軍による航空戦、空爆もあり両軍、市民に大きな被害が出ている。9月には中国国民党と共産党の第2次国共合作(一時的協力と評価する説もある)がなり、上海地域での激戦は続いた。互いに大きな犠牲を出し、結局11月になると中国軍は上海から撤退し日本軍がそれを追撃する形になる。11月16日国民政府は重慶への遷都を発表し南京から脱出。そして12月13日南京は日本軍の手によって占領されるのである。ここで日本軍による捕虜、住民への虐殺事件が起こっている。南京大虐殺である。
 
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中国の少年と山中貞雄(「映画監督山中貞雄」加藤泰・著より)
  
  この日本軍が上海から無錫、南京へといたる作戦に一人の人物が従事していた。映画界で天才監督といわれた山中貞雄(1909~1938)である。1930年代の日本映画黄金時代にその才能を賞賛され、その死を悼まれた。山中貞雄は京都生まれ、京都市立第一商業学校を卒業後、マキノ省三のマキノプロダクションに入社する。嵐寛寿朗の当たり役「鞍馬天狗」の脚本を書くなどして注目され、のち日活に入社し京都太秦撮影所の監督となる。

 その画面・構図の斬新さ、そして例えば彼の作品「人情紙風船」でのラスト、『(主人公の妻のおたきの)一生懸命の内職だった紙風船がひとつ、長屋の路地から転がり出て風に吹かれて溝に落ちる。山中貞雄はゆるく流れていくその紙風船を、黙って見送って“終”にしている』(「映画監督山中貞雄」加藤泰・著、キネマ旬報社)ような見事な画像のイメージが多くの人の支持を得た。

 山中貞雄は1937年10月、2回目の徴兵で中国大陸へ赴いた。当初は河北省にいたが11月に部隊が移動、南京攻略作戦に参加した。そののち38年に再び河北省へ移動、徐州大会戦に参加するが、7月急性腸炎(コレラかもしれない)に冒され入院、9月に死去するのである。貴重な才能が失われた瞬間である(彼の作品では「人情紙風船」と「丹下左膳余話・百万両の壺」はDVDで見ることができる)。

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 日本では1936年2月26日、青年将校が1500名の兵を率いて、首相官邸や陸軍省、警視庁、新聞社などを襲撃した2・26事件が起こっている。内大臣・斎藤實、大蔵大臣・高橋是清、陸軍教育総監・渡辺錠太郎が殺害され、首都東京に戒厳令が敷かれたが、29日には鎮圧された。事件は鎮圧されたが、以後軍部は内閣の使命を制する権限を握り戦争体制へと進むのである。

                                                             (12.5.28記)

26、1933年(40歳)~1935年(42歳)・阿炳と茶館
 
 この時期の阿炳の生活はいわば不思議な安定の中にあったといえるかもしれない。前年1932年に起こった上海事変はとにもかくにも収まり、長江下流域での日本軍の大きな動きはなくなった。もちろん北方では満州国成立後、山海関で日本軍と中国軍が激突し、さらに日本軍が熱河省に進もうとしている状況であるから軍事的緊張は続いている。

 しかし無錫では一応上海での戦火がやんだということで、物価の高騰はあったものの直接の被害はないし、また相も変わらず支配層では権力争いが続いているが庶民はまずはその日の生活を大事にしている。逆に言えば金と権力とは無縁であっても現実の生活を営んでいる庶民にとっては、利害を気にせずいつもの生活にすぐ戻れるということである。

 もちろん阿炳の生活も変わらない。というよりはよりいっそう街頭生活が忙しくなったとも言えるだろう。庶民生活は変わらないとはいえ、上海や北方から寄せる暗雲はやはりじわじわと彼らの生活を苦しめていくだろうし、“権力”の名の下に人々の口を抑えようという圧力は強くなる一方であったからである。

 阿炳はある意味飄々としていた。無錫に住む人ならいつでも阿炳の姿を見かけられただろう。頭に山高帽をかぶり、古びた長衫(中国男性が着る男物の単衣)を身にまとい、左右のレンズの位置が上下にずれているサングラスをかけ、胸元と背中に笙、笛、琵琶などの楽器を背負い、手には胡琴を持っていた。当時の説因果(無錫評曲で街頭で楽器を鳴らしながら因果報応や善行為を唄うもの)芸人の平漢良は「阿炳は長衫の上にベストを着、胸元につるした袋の中に短煙筒頭(キセル状のもの)を喜んで挿していた」と語っている。

 そして毎日午前中に阿炳は近所のタバコ屋や小売商店に行って皆が話しているその日のニュースを聞き、午後にはそのニュースを唄いと伴奏で生き生きと真に迫るように語るのである。崇安寺のすぐ前にある三万昌茶館は阿炳の住まいからも程近く、まずはここで唄いをはじめた。あまり上等ではないが使い込まれている蓋付き湯飲みからぐっと一口茶を飲み、口を湿らせてから前口上を始める。

 「さあさ、始まるはじまる、今日のニュースだよ。さてどこから始めようか」。そして本文を話し始まるのだが、そのときに使った伴奏道具は“三跳”である(3つの敲板で、左手に2つ、右手に1つ持ち、左手の2つは時には速く時にはゆっくりと打ち合わせ、右手の1つは左手の敲板の上部を打ったりまた銃や天秤棒にしたりと、演じるときの補助道具にした)。阿炳が語るのは彼が即興で作ったもので、その内容は豊富で新聞やラジオで伝えられたことは唄うし、また新聞やラジオで伝えられなかったことで茶館や飲み屋、旅館などで話されていることも唄った。

 またこのころにはこんなエピソードもあったと伝えられている。

 「1933年のある日、阿炳に《百鳥斉鳴》をどのように体得したのかを尋ねる人がいた。阿炳は半年かかったと返事をした。春気候がいいときに阿炳は妻と一緒に、毎日朝6時ころに城中公園の西部にある鶴軒茶座に行き二胡を弾く。妻は崇安寺に買い物に行く。このとき鳥を飼っている人が何人も、人によっては3つも4つも鳥かごに入れて公園に来る。コウテンシ(ヒバリ)やカナリヤ、おうむ、コウライウグイスなどで、新鮮な空気に触れると鳥たちは大きな声でさえずるし、野鳥の声がそれに重なりさらに大きくなる。阿炳はここで鳥の声にあわせて弓を動かし、鳥の声を出すようにできたが、もちろん一日でできることではなく長くかかったのである。しかし崇安寺で芸を披露するとき、聴衆は二泉映月を聞くのを好み、この《百鳥斉鳴》を聞けた人は少なかった」(無錫野史より)。

 このエピソードでも崇安寺が出てくる。崇安寺は現在の住所表記でいえば「無錫市崇安区中山路308号」にあるが、以前もそして現在も市街地の中心にあり、賑わっている所だ。となれば人が集まり、無錫人は茶が好きだといううわさに恥じず茶館がその近辺にもずらりと並んでいた。

 茶をひとすすりし、茶館の前に出ると阿炳の唄いが聴こえてくる。庶民の上に漂う暗雲は今しばらく降りてこない。束の間の静寂の中で阿炳の声はさぞ響き渡ったことだろう。 

                            

現在の崇安寺付近(ショッピング・レストラン街になっている)
  
 一方大都市上海では戦火の後であるにもかかわらず、いやむしろそれだからこそ都市生活を楽しもうとする機運が濃厚だった。1930年代は上海映画の最盛期でもあった。映画には明星(スター)がつき物であり、特に女優のスターのなかでも阮玲玉(1910~1935)は“モダンの時代”を象徴するモダン女優としても大きな人気を博した。

 幼いころに父親が亡くなり母親も住み込みで働くなど貧しい生活の中で育った阮玲玉は、16歳でオーディションに合格し映画界に入った。もって生まれた女優の才能があったのだろうか、阮玲玉は次々に映画に出演、特に1932年の「3個摩登女性(3人のモダンガール)」は舞台演出家でもある田漢(1898~1968)が書き下ろしたもので、時代を生き抜く新しい女性像を演じた阮玲玉は一躍大スターになった。

 そして彼女の出演した1933年「小玩意」や1934年の「神女」、「新女性」はこの時期の中国映画の代表作とも言われている。しかし私生活では恵まれず長年別居中だった夫と離婚、新しい恋人と同居するが、前夫は阮玲玉に付きまとう。主演した「新女性」が公開されたちまち上海市民の話題をさらうが、それと同時にマスコミは阮玲玉の私生活を暴き、スキャンダルとなった。
                       

明星(スター)・阮玲玉
  
 1935年3月8日、阮玲玉は睡眠薬を多量に服用して自殺した。残された遺書には「死ぬ事は恐ろしくないけど、人の言葉は恐ろしい」と書かれてあったという。上海モダンは彼女の死後攻撃される対象となってしまう。時代はモダンで自由な生き方を許さないものになりつつあった。

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 日中両国とも時代は混沌としていた。

 1934年10月、中国共産党(紅軍)は根拠地としていた瑞金を国民党の攻撃によって追われた。翌年10月に陝西省の延安に到達する長征の始まりである。毛沢東はこの長征の途中、貴州省・遵義で開かれた会議でこれまでの指導部を批判、党の新たな指導部として実権を握り始める。そして延安到達後に毛沢東の指導権が確立するのである。

 一方日本は前年(1932年)の満州国建国で一挙に中国大陸への勢力を伸ばしていたが、国際的には大きな非難を浴びていた。中国の提訴を受けて現地調査をおこなったリットン調査団の報告書は、満州国が日本の武力による占領であるとの報告書を出しており、これを受けて1933年2月24日に開かれた国際連盟臨時総会では「満州国の独立は自発的とはいえない。日中間の新条約の締結を勧告する」勧告案を出し、賛成42カ国の表決を得た。しかし日本は唯一反対票を投じ、当時の松岡洋右代表は退場。結局3月27日に国際連盟を脱退したのである。

 日本国内では1933年4月、京大滝川事件が起こっている。当時京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の講演に対し、思想に問題があると辞職を求めた事件で、学問の自由への圧力であるとともに、いわゆる自由主義的な言論も弾圧の対象になってきていたのである。

 その背景となる軍国主義の動きも激しくなっていた。1933年7月には神兵隊事件(首相官邸、警視庁、政党本部などを襲撃しようとした)をおきるが、事前に探知され実際の行動は失敗している。1934年11月には首相、元老、重臣などを暗殺クーデターを計画したとして将校らが検挙される11月事件が起こっている。

 1935年2月には美濃部達吉博士羅の天皇機関説(大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたもの)に対して国会で排撃されるなどした。

 この一連の流れは翌36年の2.26事件を生み出すのである。日本国内での軍部を中心にした強権政治は一挙に進むことになったのである。

                                                             (12.3.19記)
 
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