阿炳の死は無錫の人々に深い悲しみをもたらした。もちろん無錫の民だけでなく、彼の卓越した演奏技術をはぐくんだ道教の道士たちにとってもその死は惜しむべきものであった。
阿炳は道士として、身には“鶴の羽の皮衣”を着け、頭は道士風の髷にし、雷尊殿の主宰道士としての身分と待遇で、道士である施泉根が書いた“先祖師華彦鈞霞霊位”を戒名とし、道士だけが埋葬される燦山の“一和山房”に埋葬された。また、いとこの火神殿当主・華伯揚が道士仲間の尤武忠、朱金祥、許坤沼、朱三宝、朱恵泉らを招いて“五七(35日)”をおこない、火神殿内で阿炳の魂が安らかになるよう祈りをささげた、と伝えられている。(ちなみに五七は道教や仏教で、死後初七日から七七日《四十九日》の間に順次十王の裁きを受けることになるという信仰で、五七は閻魔大王があたる)。
人生の最後の日々はほとんど世捨て人のようになっていた阿炳が、なぜこれほど惜しまれたのか。もちろんその卓越した音楽技術が専門家の間で評価されたともいえるが、やはり彼が街角で繰り返した表演が庶民の心をきっちりと捉えていたからだろう。
例えば本物そっくりに鶏の鳴き声や犬の吼える声、小鳥のさえずり、男女の嬉笑の声や無錫地方のしゃべりの声などをまねすることができた。決して面白半分にやっていることではなく、彼の音楽の依って立つ基盤がそこにあったからだと言えるだろう。阿炳による胡琴を使った声や生態の模倣は庶民に大人気であったし、他のものがまねすることが出来ないほど超絶の技法だったと評価されている。
これこそ民間芸術の粋といえるが、残念ながら録音は残されていない。口伝のみである。無錫の道士は語るごとに阿炳のこの技術を懐かしんだ。例えば火神殿道士・許鶴昆(1911年生まれ)は小さいときから師匠の阿炳のところへ老酒を買って持っていったが、彼が言うのに「師匠が私を呼ぶときいつも胡琴を使った。見えなくても私が近づいたりそばへ寄ると、胡琴を使っていこう言う。“阿昆や、ご飯をたべたかい。わしは咸菜豆板湯を食べたいな、それに老酒を少し持ってきてくれ”。まことに思ったことを何でも表現できた」というほどの素晴らしさであったのである。
さて、阿炳死後のことである。
先ずは住居。父華清和の実家で、無錫市内からから東10kmの東亭鎮春合村にあった家である。出世後まもなく養育のため送られた場所でもあり、戦争期に災難を避けるため妻の董催弟と一緒に避難したこの旧居は1990年に焼け落ちた。93年に東亭鎮人民政府と春合村が共同でお金を出し、38日で江南水郷の農家様式の建物が造られた。長さ11m幅10.36m、面積約80平米で、客間を真ん中に左右に部屋があり、家前に小庭園が造られている。
そして阿炳が一番長く住んだのは無錫市の雷尊殿である。1989年無錫市人文景観研究会は無錫市関係部門に雷尊殿の現地で阿炳故居を修復するよう求めるが、種ゝの原因で実現しなかった。当時なお4戸の住民が住んでいたからである。1993年華彦鈞芸術業績国際学術シンポジウムが開かれ、60余名の内外の専門家が崇安寺を訪れ外からのみ阿炳の故居を見学した。94年2月4日無錫日報は、無錫市人民政府が1月24日に阿炳故居を市第3級文物保護単位に加えることにしたと報道した。04年崇安寺が改修に伴い、阿炳故居が正式に重点プロジェクトとなり旧の状態を保存しつつ修復することになった。そして現在は立派な建物として修復され、二泉映月広場とともに市民が集まる記念館として公開されている。
阿炳が録音したときの竹筒胡琴は使用したのち中興楽器店に戻されたといわれているが、行方はわからない。
幸いにも紅楠木琵琶は曹安和が当時学生だった中央音楽学院琵琶教授の陳澤民に送り、陳澤民は2003年上海で開かれた汪昱庭・琵琶芸術シンポジウムに参加したおり、阿炳故居に寄贈することを相談した。05年6月崇安区人民政府と無錫市民族管弦楽学会は寄贈式典を開き、阿炳が《大浪淘沙》など3曲を弾いた琵琶は故居に戻った。
そして録音した曲について、録音に立ち会った曹安和はこう語っている。「無錫で阿炳の録音を終えて天津に帰って以降、阿炳の音楽が非常に気に入っていたので何回も録音を聞いていた。あるとき呂驥がやってきて録音を聞いて、これは誰が弾いているのかすばらしいじゃないかと言った。そこで伝えると呂驥は阿炳の事情を了解し、資料を見、楊蔭瀏にも問うなどして録音を借りて聞かせてくれということになった。しばらく音沙汰がなかったが、半年ほどたってから中央人民放送局が阿炳の音楽を流したのだ。録音が既にレコードにされていたのだ」。
それからこの曲は人口に膾炙することとなる。
最後にこの欄にもある阿炳の写真である。阿炳は一生のうち一枚の写真しか取らなかったといわれている。当時蘇南行政公署で文化工作を担当していた無錫音楽工作室の谷洛はこう回想する。「あれは50年代初めだったか、阿炳の近所の人が阿炳の部屋の壁の間に1枚の戦争中の良民証が挟まっているのを見つけたのだ。そこには阿炳の写真が貼ってあったので私のところにおくってくれたのだ」。
谷洛はその黄色くなった写真を手に入れてから人に頼んで複製印刷してもらい、それぞれ民族音楽研究所や関係者に送り、阿炳の貴重なイメージ資料として残した。私たちが知っている阿炳である。
阿炳外伝・3阿炳とその時代の項終了
(14.1.20記) |