ホーム 新着情報 月下独酌 中国音楽フェスティバル 中国・音楽の旅  中国香港台湾催し案内
アジア音楽演奏会紹介 モモの音楽日記  アジアの微笑み 上海コレクション 演奏家の世界


中国・音楽の旅

阿炳(ア-ピン)外伝・3:阿炳とその時代(1948年~1950年)

33、1950年(57歳)・阿炳最後の日々③
 
 阿炳の死は無錫の人々に深い悲しみをもたらした。もちろん無錫の民だけでなく、彼の卓越した演奏技術をはぐくんだ道教の道士たちにとってもその死は惜しむべきものであった。

 阿炳は道士として、身には“鶴の羽の皮衣”を着け、頭は道士風の髷にし、雷尊殿の主宰道士としての身分と待遇で、道士である施泉根が書いた“先祖師華彦鈞霞霊位”を戒名とし、道士だけが埋葬される燦山の“一和山房”に埋葬された。また、いとこの火神殿当主・華伯揚が道士仲間の尤武忠、朱金祥、許坤沼、朱三宝、朱恵泉らを招いて“五七(35日)”をおこない、火神殿内で阿炳の魂が安らかになるよう祈りをささげた、と伝えられている。(ちなみに五七は道教や仏教で、死後初七日から七七日《四十九日》の間に順次十王の裁きを受けることになるという信仰で、五七は閻魔大王があたる)。

 人生の最後の日々はほとんど世捨て人のようになっていた阿炳が、なぜこれほど惜しまれたのか。もちろんその卓越した音楽技術が専門家の間で評価されたともいえるが、やはり彼が街角で繰り返した表演が庶民の心をきっちりと捉えていたからだろう。

 例えば本物そっくりに鶏の鳴き声や犬の吼える声、小鳥のさえずり、男女の嬉笑の声や無錫地方のしゃべりの声などをまねすることができた。決して面白半分にやっていることではなく、彼の音楽の依って立つ基盤がそこにあったからだと言えるだろう。阿炳による胡琴を使った声や生態の模倣は庶民に大人気であったし、他のものがまねすることが出来ないほど超絶の技法だったと評価されている。

 これこそ民間芸術の粋といえるが、残念ながら録音は残されていない。口伝のみである。無錫の道士は語るごとに阿炳のこの技術を懐かしんだ。例えば火神殿道士・許鶴昆(1911年生まれ)は小さいときから師匠の阿炳のところへ老酒を買って持っていったが、彼が言うのに「師匠が私を呼ぶときいつも胡琴を使った。見えなくても私が近づいたりそばへ寄ると、胡琴を使っていこう言う。“阿昆や、ご飯をたべたかい。わしは咸菜豆板湯を食べたいな、それに老酒を少し持ってきてくれ”。まことに思ったことを何でも表現できた」というほどの素晴らしさであったのである。



 さて、阿炳死後のことである。

 先ずは住居。父華清和の実家で、無錫市内からから東10kmの東亭鎮春合村にあった家である。出世後まもなく養育のため送られた場所でもあり、戦争期に災難を避けるため妻の董催弟と一緒に避難したこの旧居は1990年に焼け落ちた。93年に東亭鎮人民政府と春合村が共同でお金を出し、38日で江南水郷の農家様式の建物が造られた。長さ11m幅10.36m、面積約80平米で、客間を真ん中に左右に部屋があり、家前に小庭園が造られている。

 そして阿炳が一番長く住んだのは無錫市の雷尊殿である。1989年無錫市人文景観研究会は無錫市関係部門に雷尊殿の現地で阿炳故居を修復するよう求めるが、種ゝの原因で実現しなかった。当時なお4戸の住民が住んでいたからである。1993年華彦鈞芸術業績国際学術シンポジウムが開かれ、60余名の内外の専門家が崇安寺を訪れ外からのみ阿炳の故居を見学した。94年2月4日無錫日報は、無錫市人民政府が1月24日に阿炳故居を市第3級文物保護単位に加えることにしたと報道した。04年崇安寺が改修に伴い、阿炳故居が正式に重点プロジェクトとなり旧の状態を保存しつつ修復することになった。そして現在は立派な建物として修復され、二泉映月広場とともに市民が集まる記念館として公開されている。

 阿炳が録音したときの竹筒胡琴は使用したのち中興楽器店に戻されたといわれているが、行方はわからない。

 幸いにも紅楠木琵琶は曹安和が当時学生だった中央音楽学院琵琶教授の陳澤民に送り、陳澤民は2003年上海で開かれた汪昱庭・琵琶芸術シンポジウムに参加したおり、阿炳故居に寄贈することを相談した。05年6月崇安区人民政府と無錫市民族管弦楽学会は寄贈式典を開き、阿炳が《大浪淘沙》など3曲を弾いた琵琶は故居に戻った。

 そして録音した曲について、録音に立ち会った曹安和はこう語っている。「無錫で阿炳の録音を終えて天津に帰って以降、阿炳の音楽が非常に気に入っていたので何回も録音を聞いていた。あるとき呂驥がやってきて録音を聞いて、これは誰が弾いているのかすばらしいじゃないかと言った。そこで伝えると呂驥は阿炳の事情を了解し、資料を見、楊蔭瀏にも問うなどして録音を借りて聞かせてくれということになった。しばらく音沙汰がなかったが、半年ほどたってから中央人民放送局が阿炳の音楽を流したのだ。録音が既にレコードにされていたのだ」。

 それからこの曲は人口に膾炙することとなる。

 最後にこの欄にもある阿炳の写真である。阿炳は一生のうち一枚の写真しか取らなかったといわれている。当時蘇南行政公署で文化工作を担当していた無錫音楽工作室の谷洛はこう回想する。「あれは50年代初めだったか、阿炳の近所の人が阿炳の部屋の壁の間に1枚の戦争中の良民証が挟まっているのを見つけたのだ。そこには阿炳の写真が貼ってあったので私のところにおくってくれたのだ」。

 谷洛はその黄色くなった写真を手に入れてから人に頼んで複製印刷してもらい、それぞれ民族音楽研究所や関係者に送り、阿炳の貴重なイメージ資料として残した。私たちが知っている阿炳である。

                                                  阿炳外伝・3阿炳とその時代の項終了
                                                                (14.1.20記)

32、1950年(57歳)・阿炳最後の日々②
 
 1人は高等教育を受け内外の音楽史に通暁し音律にも精通する民族音楽研究の教授、1人はずっと無錫を離れず道教道士として民族民間音楽を現した者。この2人が1950年にまた緊密につながるのである。

 上記の教授は楊蔭瀏、道教道士とはもちろん阿炳のことである。2人は同郷の士でもあり、また音楽の師弟関係でもあった。6歳年上の阿炳が師であり、師弟関係の期間は短かったが楊蔭瀏は民族音楽の師として阿炳を尊敬し、人生の節々で交友を続けていた。

 新政府発足の中で、楊蔭瀏は従来から続けていた民族音楽の研究のいわば集大成のひとつとして、自分にも大きな影響を与えた阿炳の演奏を後世に残そうと考えた。戦争の日々からようやく落ち着きを取り戻した無錫の街。無錫を象徴する太湖に鋭い日差しが照りつける1950年夏、楊蔭瀏は仲間の曹安和とともに天津中央音楽学院民族研究所から帰郷してきた。

 そして阿炳のもとを訪れ演奏の録音を要請した。しかし阿炳はすでに楽器から離れて何年にもなる。「悪いが演奏は出来ないよ」と最初に断った。妻と2人の、貧しいが市井に生きる生活で人生の最後を送ろうと思っていたのだ。しかし、楊蔭瀏の熱情と何が何でも演奏にこぎつけようと準備を進める彼らの姿に阿炳の心も大きく揺れ動いていく。

 黙々と準備をすすめる彼らに、阿炳はただ一言、「しばらく演奏してなかったから、練習に3日もらえるか?」と語った。阿炳の手には演奏する楽器がなかった。そこで、華光国楽会の同仁・銭世辰らが中山路にある華三胖で開いていた「中興楽器店」から二胡を借りてきた。琵琶は曹安和が無錫に持っていた新品のを使った。楽器を手にすると阿炳はその日の晩街中へ消えていった。

 3日後の夜(1950年9月2日)、城中公園付近の「三聖閣」で阿炳の演奏の録音が行なわれた。録音に立ち会ったのは楊蔭瀏、曹安和、黎松寿、祝世匡らである。その時の様子は「阿炳其人其事」(無錫文化叢書)よると次のようであった。

 「録音前に楊蔭瀏は阿炳に『先に胡琴を弾きますか、それとも琵琶ですか?』とたずねたら、阿炳はすっきりと『「先に胡琴にしよう』」と答え、ひざの上に胡琴をおいて調弦して演奏を始めた。最初に録音したのは《二泉映月》で、続いて《聴松》、《寒春風曲》と録音した。楊蔭瀏、曹安和は天津から録音機を持ってきており、これは当時次非常に珍しい機械だったので録音が終わって再生したとき、阿炳は自分の演奏がそのまま流されることに信じられない気持ちで感激してこう言った。『神がかりだ』」。



 3曲を録音し終わると夜の11時近くになったので阿炳は疲れを感じ、翌日に琵琶曲を演奏することとなった。9月3日夜、曹安和の盛巷の実家で《大浪淘沙》、《龍船》、《昭君出塞》の3曲を録音した。黎松寿は用事で来られず、祝世匡は両日とも立ち会った、との事である。

 この演奏のあと楊蔭瀏、曹安和は阿炳にさらに何曲か録音してもらおうと思ったが、阿炳は乗り気ではなかった。「わしはもう久しく楽器を触っていなかった。両手はいうことを聞いてくれない。あなた方のために録音できるのはうれしいんだが、一つここは我慢してちょっと指が動くようになるまで待ってくれないかね。それからだったら続けて録音しようじゃないか」、と阿炳は語り、結局その年の冬か翌年(1951年)の夏に再度録音しようということになった。

 だがその約束は実現されることはなかった。12月に突然阿炳は喀血して亡くなってしまうからである。

 しかし実は最後の演奏はこの録音ではなかった。黎松寿が2007年4月に無錫日報から受けた「記憶の中の盲目の阿炳」と題するインタビューの中で、阿炳最後の演奏の状況を語っている。

 「市民は中央音楽学院の専門家が無錫に来て阿炳の演奏を録音していることを知っていて、皆はもう一度阿炳の演奏を見ることを強く希望した。1950年9月25日歯科医学会成立晩会に阿炳が呼ばれ、阿炳は3年にも及ぶ演奏から離れていたのを、市民はやっと彼の胡琴を聴く機会が得られたのである」。

 「会場は阿炳の演奏を聴きに来た市民で一杯になった。阿炳は壇上に上るとまず琵琶曲を1曲弾き、続いて二泉映月を弾いた。聴衆の反応は非常に熱烈で2曲が終わったあと、阿炳が再登場して演奏するよう求めた。そのとき阿炳の体は非常に弱っており2曲演奏したあとでは力が思うに任せない状況だった。しかし聴衆の雷のような拍手歓声を聞くと阿炳は妻の董催弟に支えられて舞台にあがった。『街の人々と長年会っていない。舞台に上らなければ皆に申し訳がたたない。舞台で這ってでも弾く』」。

 「(黎松寿は当時の阿炳の情景を万感の意を持って回想する)舞台に上ると阿炳は《聴松》を支えられながら弾いた。曲が激しくなるところに来ると舞台の阿炳は立っていられなくなりそうだったが、それでも最後まで曲を弾いたのだった。阿炳は演奏する時にはずっとマイクを使わなかったが、この演奏会で始めてマイクを使った。生涯でたった一度のそして最後の機会だった」。

 9月のこの2つの演奏は阿炳にとって渾身のものであったのだろう。数年ぶりに楽器を手に取り、まるでろうそくが最後の灯火を明るく発するように、燃えて尽きた。楊蔭瀏との約束は果たしたかった。だが体がいうことを利かない。妻の熱心な看病にも、やはり貧乏生活に痛めつけられた体は回復しなかった。

 12月4日、盲目の音楽家、阿炳は死去する。
                                                               (13.12.17記)

31、1948年(55歳)~1949年(56歳)・阿炳最後の日々①
 
 肺を病み、床に臥して吐血するような健康状態になっていた阿炳。雷尊殿そばの住居に妻の董催弟と住んでいた。慎ましやかな生活は苦しく阿炳の肉体は苛まれていても、董催弟は働き者で阿炳の面倒をしっかり見る日々が続いていた。戦争終了後の無錫にはさまざまな風聞が流れ込んでくる。庶民の口コミ情報といえば聞こえはいいが、中身は玉石混交だ。

 無錫の住民にとってほしいのは物価が安定した落ち着いた生活だ。日本軍がいなくなったあと、国民政府が統治を復活させたが、不穏なうわさは流れてくる。日中戦争終了直後の45年8月に蒋介石と毛沢東の巨頭会談(重慶会談と呼ばれる)がおこなわれ、国民党と共産党の内戦が回避されたかに見えたが、10月にはすでに衝突が始まっていた。

 中国北部地方では戦闘が続き、当初は優勢だった国民党軍が共産党軍(人民解放軍)に次第に撃破されているというニュースが広まっていく。国民党政府は戦費調達を理由に紙幣(法幣)を大量に発行し、インフレーションを招き農民を中心とした民衆の支持を失うことになった(この法幣流通は1948年新たな金円券の発行という貨幣改革により停止された)。

 また最大の支援先であったアメリカが欧州の冷戦開始や日本の占領政策への集中などの理由で国民党への支援に消極的になっていったこともあり、国民党は急速にその力を減少させていった。1948年になると共産党軍は攻勢をかける。48年9月から1949年1月にかけての「三大戦役」で、共産党軍は決定的に勝利する。遼瀋戦役(東北地方)、平津戦役(北京・天津地区)、そして淮海戦役である。

 この淮海戦役で勝利を収めた共産党軍は、長江以北の地域を影響下に置くことができるようになり、当時の政治的中心地であった南京や経済的中心地であった上海をすぐ手にいれるところまで来た。


  
 阿炳が住む無錫は長江南域、南京から上海へと進む途中にある。1949年4月23日、共産党軍は大挙して長江を渡り、無錫にも同日進駐してきた。季節は春、太湖湖畔の無錫の町に暖かい風が吹いてきた時期だった。無錫市民にとって物資の窮乏による寒い冬をようやく耐え抜いたあとだっただけに、とにかくこれで戦火は終わったのだから生活が立て直せると誰もが思っただろう。

 しかし阿炳はそのカヤの外にいた。健康が優れない時でも雷尊殿の隣の火神殿の斎事儀式などで道士達の演奏が聞こえてくるとつい耳をそば立てしてしまう。ましてや経験の浅い小道士たちの演奏は、外部のざわめきに気を取られもともとの演奏から大きくリズムが狂うことが多く、そんなときには大声で“コラッ”としかってやりたい気持ちにもなったときがあった。しかしいかんせん体がいうことを利かない。
 
 それに“鼠が胡琴の弓を食いちぎり、胴部分の蛇皮にも穴を開けてしまった”。これは不吉の前兆だと阿炳はそれ以来演奏をやめてしまった。1948年のある日だと記されている。健康が戻らない体にもう楽器は必要ないと阿炳はあきらめたのかもしれない。しかしむしろ精神的にはすっきりしたのだろう。

 阿炳自身にも分かっていた。残る時間はもう少ない。しかも若い時から好き勝手に無茶ばかりしてきた。楽器の演奏には時間を忘れて取り組んだこともあった。若気の至りとはいえアヘン中毒患者にもなった。体は弱っている。しかし今、妻の董催弟が側にいる。なぜか彼女と2人でいると、体と生活の苦しさからも少しは逃れられ、平穏とも言える時間を過ごすことができるのである。音楽も忘れゆったりとした時間が流れていく。

 無錫は新たな政府を迎えて街づくりをはじめることとなった。自他共に最下層の街角芸人と認めていた阿炳だが、その才能は多くの庶民から認められていた。かつて阿炳の教えを受けた黎松寿は語る。

 「阿炳は目が見えないため耳は特に敏感で、街で他人の声を聞くとその人が誰かがすぐにわかり丁寧に挨拶したものだから、人は彼と楽しそうに話をする。おもしろいことにタバコ屋の主人は阿炳が通りかかるごとに声をかけタバコを吸って行かないかと声をかけ、広福橋近くにあるラーメン屋台はラーメンとワンタンがおいしいのだがそこの主人は阿炳にいつも一杯やっていけという。他の人間が多くの金を出すからといっても阿炳は行かず、阿炳は自分の二胡演奏をよく知って待ち望んでいる彼らが声を掛けるのを待ち、そしてまた行く・・」

 そんな阿炳はしばらく表舞台ー街角から消えていた。そして最後に光り輝くのは1950年になってからである。

                                                         (13.10.24記)

  inserted by FC2 system