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中国・音楽の旅

劉天華の巻
劉天華
劉天華(リウ・ティエンホワ) 1895〜1932

 作曲家であり、また卓越した二胡、琵琶演奏家。江蘇省江陰県(現江陰市)生まれ、中学卒業後音楽活動を始め、のち北京で音楽教育をおこなうなど民族音楽の発展に多くの貢献をし、二胡の独奏様式を確立した。「光明行」「良宵」などの二胡独奏曲、「歌舞引」「改進操」などの琵琶独奏曲がある



@江陰市に残る劉天華の故居
劉天華故居
  「すみません、実は地元なんですけど劉天華や阿炳(アーピン)のことはよく知らないんですよ」開口一番、胡啓明さんはちょっととまどった表情で話しだした。無錫市対外友好協会の日本処に勤める胡さんにとっても、二胡や琵琶といった中国伝統音楽の巨匠というのは無縁なものらしい。

 劉天華は1930年代に活躍した民族音楽家で、無錫市のとなり江陰市で生まれ育ち、青年期には北京で学究生活を送っている。一方阿炳は無錫市の生まれだが、若くして盲目になり市井の中で大衆の圧倒的な支持を受けたものの、著書なども残さず、また1950年に亡くなっていることもあり、特に音楽に興味のない若い人にとっては知らないというのも無理はないだろう。

  「それではとにかく江陰市へ行ってみることにしましょうか」
  「そうですね、江陰市は劉天華の生まれ故郷だし、記念館があると聞いていますのでそこへ行けばいろんなことがわかるかも知れません」

 江陰市は無錫市の北隣にある。無錫市へは上海から特急快速で行けば1時間半。1時間に4本程度でているバスに乗れば3時間弱で到達する。列車は軟座、いわゆる1等席が快適だが、この切符の値段も列車によって違う。ふつうの急行の軟座だと17元、特別快速だと36元とそのスピードによって差がある。

 無錫駅を出て右手の方にいくと長距離バスターミナルがある。無錫市から江陰市へは1時間に5本程度のバスが出ている。快速直通が11元で、中型、小型など値段の違うのが3種類走っている。快速直通に乗る。20人乗りくらいのミニバスで、バスターミナルを出て北へ向かい、一路江陰市へ向かう。無錫市を出てすぐに高速道路になる。上海を中心として江蘇省や浙江省は高速道路網が発達しているために、鉄道よりもバスの方が非常に便利になっている。庶民の足というのにぴったりだ。

 市街地を出るとすぐバスは農村地帯を快調に走る。江陰市に近づいてものんびりとした風景は変わらない。1時間程度で江陰市の中心部にあるバスターミナルに着く。江陰市は長江に面した街で、市外の鎮(村)を含めると江陰地域で人口は114万人。紀元555年に現在の江陰という名になったが、文献には2500年も前からその古名が現れる。唐代から江陰市は中国の沿海貿易の重要な港の役目を果たしていた。

 バスターミナルを出て、さあ劉天華記念館がどこにあるか通りがけのおじさんに聞く。「ああ劉天華記念館かい。ほら交差点からちょっと行って最初の路を右に曲がればいいよ」。簡潔明瞭に教えてくれた。してみると劉天華の名は江陰市ではかなり有名なのだ。確かに江陰市の地図を買って見ると長距離バス停のすぐ南に「劉氏三兄弟故居」と大きく記されている。人民中路と西横街が交差するところである。

 人民中路から西横街へ入ってすぐ右手が目指す記念館だ。住所は西横街49号。記念館の側面つまり人民中路に面している壁に、劉氏三兄弟を称えたプレートが張ってある。「劉氏三傑 江陰の光」と。
(写真は劉天華記念館)

Aさまざまな楽器と音楽に親しんだ少年時代

  もともとの劉家故居が劉天華記念館となっており、劉天華のみならず劉氏3兄弟の生涯を紹介している。平日はそんなに訪れる人もなく、ゆっくりと観覧できる。入ってすぐ右手に入場券売場、庭を過ぎて建物(3部屋ある)、そしてまた庭を過ぎて奥に母屋という全体では長方形の敷地となっている。

 入り口を入ってすぐ右手に父劉宝珊が自ら植えたという「天竺」がある。百年経ってなお馥郁としており、毎年赤い実を結実させるという。劉宝珊は清朝末期の「秀才(科挙試験で地方のトップ)」であり、同時に進取の気概に満ちており、楊縄武という「秀才」とともに江陰市に「翰墨林小学校」を作って運営した。教育にかける熱意はなかなかのものだった。

 母は清朝時代の大学教授の要職にあった祖父と連れ添った祖母夏氏の養女として育てられ、のち父と結婚。3兄弟がまだ若いとき父が亡くなったので、一心に愛情を注いで3兄弟の生活を見守ってきた。だから3兄弟の母に対する愛情も並々ならず、母が病気になったとき長兄の半農は、お祝いの喜びで“母の病気を吹き飛ばす”ため結婚したといわれている。

 劉天華の生涯はどうだったのだろうか。劉天華は1895年2月4日生まれ、本名は劉壽椿、天華という名は1922年北京に行った後に改名したもの。兄の劉半農は父の影響を受け新文化運動にも参加し、文学者となり、後に北京大学の教授にもなった。弟の劉北茂は78歳と長生きをしたこともあって、音楽教育の面では天華より貢献度は大きいといえるかもしれない。

 天華は1909年常州中学に入学、放課後の課外授業で笛やラッパなどの西洋楽器に親しむようになる。そして学校の軍楽隊員となるが、1911年の辛亥革命で学校の授業がなくなると郷里の江陰市(当時は県)に帰り、青年団の軍楽隊に加わる。

 1912年上海に赴き、「開明劇社」に参加、ここで管・弦楽器やピアノなどあらゆる楽器を学ぶことになる。兄半農は弟のことを「性格はこれと決めたら頑張りとおすほうで、音楽を生業にしようと決めたときから、朝早くから夜遅くまで毎日毎日それは熱心に練習していた」と語っている。

 14年には開明劇社が解散したためまた郷里に戻り、江陰そして常州の中学校で音楽を教える。15年には父が亡くなり、この時期は心身ともに落ち込んだ時で、街で手に入れた二胡を毎日弾いていた。この年に「病中吟」の初稿を作っている。何をやってもうまくいかず、志が実現できない内心の鬱屈を音楽にあらわしたものといえるかもしれない。この年の秋、常州第五中学校で軍楽隊と紫竹合奏団を作り指導を始めた。

 16年21歳で殷尚眞と結婚。17年著名な民間音楽家周少梅に二胡を学ぶ。翌年には南京に行って沈肇州に琵琶を学ぶなど、中国伝統音楽に熱心に取り組み、同時に民間音楽の楽譜の採譜活動も始めている。21年に江陰市で「国楽研究会」を組織、民族音楽家との連絡が広がっていく。このころから劉天華は民族音楽の研究と教育にますます熱意を込め、一生の仕事にしていく。
(写真は劉天華記念館)


B北京の10年間が民族音楽に大きな発展をもたらす

 劉天華の名前を広く名らしめるようになったのはやはり北京での生活があったからだろう。22年4月北京大学音楽伝習所の招聘で北京に向かう。同年秋には北京女子高等師範音楽科教師も兼任する。26年には北京芸術専門学校音楽部と北京大学女子文理学院音楽部でも教えるようになる。

 劉天華の娘劉育和によると、この3校での天華はそれは忙しくしていたという。午前中の授業には生徒が並んで待つほどだったし、午後は補習授業をおこない、家へ帰ってからは学校以外のアマチュアにも教えていた。いつもご飯を食べるのもあとまわし。練習もとりわけ熱心で、毎日深夜まで自分の音楽に没頭していたという。

 北京で亡くなるまでの10年間は音楽教育だけでなく、新しい教材や新作曲を生み出し、一方で民間芸人を家へ呼んだりして民間芸術・音楽の採譜などにも熱心に取り組んでいった。この時代に知り合った音楽家や教育家、例えば簫友梅、楊仲子、趙麗蓮などは劉天華に大きな影響を及ぼしたといわれている。まさにこの10年間は学び、教えとみずから刻苦奮闘するだけでなく、大きく各界へ目を広げていった時代だといえるだろう。

 劉天華は二胡だけでなく、また「歌舞引」、「改進操」、「虚籟」などの琵琶の曲も作るなど、琵琶の演奏技術の向上にも力を尽くした。1932年6月劉天華は天橋地区で銅鑼の採譜を行っていたが、不幸にして猩紅熱にかかり37年の生涯を終える。

 劉天華は短い生涯は多くの人に惜しまれた。彼の足跡は中国伝統音楽にとっては新たな段階に押し上げたものといえるだろう。「劉天華は五四運動前後の新文化運動の影響を受け、民族音楽の発展に研究と創意工夫を重ねた。安易な西洋文化排斥論やまた西洋文化追随論に反対し、民族の特長を生かした独自の理論と実績をうち立てた革新者である」とその小伝にも記されているとおり、伴奏楽器として一段下に見られていた二胡を、音域の拡大、弓の弾き方など演奏方法の改革に取り組み、その独奏様式を確立したのである。

 同時に大学教育の中に民族音楽と民族楽器の研究を持ち込んだことは、のちの発展に大きな影響を与えることになる。彼が残した10首の二胡の曲と3首の琵琶の曲はそれ故、「中国近代音楽の中の最も貴重な収穫の一つである」といわれるのである。
(写真は劉天華の祖父母と父母)


C劉天華の記憶が暖かく残る旧居の周り

劉天華が使ったベッド

 劉天華記念館は劉天華だけでなく、兄の劉半農、弟の劉北茂を合わせた3人の業績が展示されている。教育家の兄、音楽家として名をなした弟。いずれも歴史に名前を残した人物として、今でも地元で尊敬されているのである。

 特に長男の半農、幼名・寿彭は自他共に優秀と認められ、のちに「五四運動の時期に傑出した文学家、言語学者となった」と紹介される。小さい頃から聡明な子供と評価が定まっていた兄に対し、天華は活発だけれど「やや間の抜けた・・」少年と思われていた。陳復観・著の「楽神」(劉天華の伝記小説)はこんな場面で始まる。

 常州府中学では学校の軍楽隊に入る生徒の面接試験をおこなっていた。面接官が14歳の少年に「名前は?」と聞くと「父は劉宝珊で・・」と答えたので面接会場は大笑い。面接官は身をただし「君のお名前は何かと聞いているんだが」とあらためて尋ねると、「僕の・・お名前は劉寿椿です」と答えたから会場はまたまた大笑い。でもくだんの紅いほっぺに丸い顔をした少年は、“何を笑っているんだ、僕が劉寿椿じゃあないっていうのか”と心の中でつぶやいたまま、なぜみんなが笑ったのかわからなかったという。

 天華は五四運動の時期に青年期を迎え、当時の知識分子として社会改革運動にも参画した。そして民族音楽の研究や教育に大きな成果をあげたことから、当然のことながら現在の中国国家としての評価は社会変革者としての側面が強い。しかし天華の真骨頂はやはり自ら音楽が好きでそれに没頭したことで、他人からの評価など気にしなかったことではないだろうか。

 記念館には劉天華が毎日使っていたという机や蚊帳などがそのまま残っている。蚊帳についてはそれにまつわるエピソードが紹介されている。真夏の夜ある学生が劉天華を尋ねてきて家の中に入ったところ、二胡の弾く音が聞こえてきた。しかし弾いている姿が見えない。よく見てみると劉天華が蚊の襲撃を避け体を蚊帳の中に入れて二胡を弾いているではないか。しかも汗を流しながらも一心不乱に弾いている。学生は劉天華の邪魔をするのに忍びないと思い、しばらく演奏を聞いた後黙って帰っていったという。

 娘の育和も思い出として似たようなエピソードを書いている。江陰の夏は暑くて蚊が多いけれど、天華はいつも夜二胡と琵琶の練習をするのに熱心で、うちわで蚊を追い払ったり涼を取ることもしない。手を動かすのに忙しく蚊が刺しても気にもかけない。ただただ朝から夜遅くまで練習して、寝る頃には腕が痛くて上がらなかったという。

 劉天華と彼の兄弟達は結局北京に行ってしまったが、江陰市は小さいながら落ち着いた街として劉天華の記憶を暖かく残している。旧居の周りは古いモルタル造り・木造の民家や3階建のアパートが並び、食料などの小商いの店や散髪屋、それになぜかバネ専門の店がぽつんぽつんとある。

 平日の昼下がり、あたりは自転車が時折行き交うだけ。昼時には長江で取れた魚だろうか、籠に入れて売りに来ていた。アパートのちょっと裏手に7階か8階建ての八角形をした古い塔が見える。最上部は壊れており、今は登ることもできないようだ。劉天華も小さいころはきっとこの塔を毎日見上げ、近所の子供と一緒にその下で遊んでいたのだろう。


D通り行く人々を見守る劉天華

樹木に囲まれた劉天華の像

  劉天華が少、青年時代を過ごした江陰市は歴史の風情のある落ち着いたたたずまいを残している。近年の開放経済のうねりの中で、上海市、南京市からそれぞれ150kmと近いことや長江下流部沿岸地域という地理的条件を生かして工業の発展にも力を入れている。

 長江を渡る「江陰長江大橋」も1999年に開通しており、高速道路網の活用が可能となった。この橋の開通式には江沢民主席も出席して開放経済のもとでの都市建設を訴えたという。

 

 そんな街で劉天華故居として家屋を保存し、地図にも大きく載せているからにはきっと天華がらみの人がいたり、いろんな関連物が残っているのに違いないと記念館の服務員に聞いてみた。

 「劉兄弟は北京に行ったということなんですが、江陰市には親戚やゆかりの人は住んでいないんですか」
 「いないと思います。というか聞いたことがないんでよくわかりません」
 「じゃあ、ほかに劉天華にゆかりの場所やものが置いてあるところを知りませんか」
 「う〜ん、市が塑像を作ったはずだし。あ、それから劉天華の名前がついた学校があるよ」

 できれば親戚の人でもいいから直接話を聞こうとも思ったが、いくら尋ねてもそれはままならず断念。それでは像や学校を見に行こうとそぞろ歩きをはじめる。

 劉天華記念館を出て人民中路を東に向かう。この人民中路とそれに南北に交差する虹橋路が江陰市で一番にぎやかな通りになる。市政府は中心地から北東の位置にあるのだが、人民中路には中国銀行や建設銀行の江陰支店があり、また一番大きなホテルがありと経済活動の中心となっている。

 通りが水路を越えて人民東路と名を変える所に小さな公園、というよりは樹の生い茂った憩いのスペースがある。道路に面して細長い形をしているが、そこが目指すところである。街路樹かなと思って目をこらすと、そのなかに劉天華の像があった。

 像は1985年市政府が作ったもので、高さは2mあまり、台座も入れると4m余りある。ひざの上に二胡を置き、ゆったりと斜め前方を眺めている白い坐像で、台座の「劉天華」という字は同じく有名な音楽家であった賀緑汀(上海音楽学院、99年に逝去)のものである。 丸縁のメガネをかけ、首には襟巻きをして、かつての中国服いわゆる長衫を着た姿だ。若々しい感じの劉天華だが、16年も経ったのが原因か道路に面して車の排気ガスなどを浴びたのが原因なのか、像の表面がはげてきている。遠目にはわからないが、近づくとつぎはぎだらけの劉天華といった雰囲気だ。

 スペースは樹で覆われ、ゆっくり座るベンチがなく、そこだけで散歩しようという空間ではないが、目の前の道路を自転車に乗った市民が通り過ぎていく。余り関心を示してはいないが、少なくとも江陰市では劉天華の姿があちこちで見ることができるのである。


E天華の名を冠した学校があった


天華芸術学校の校門

  街を見つめている劉天華の塑像に別れを告げ、そのあとは劉天華記念館の服務員の「あ、それなら劉天華の名前がついた学校があるよ」という言葉を信じて学校を探しにいった。江陰市では基本料金が安いということで軽自動車のタクシーが多いので、もちろんそれをつかまえて聞いた情報を頼りに、それとおぼしき場所へ行ってみた。

 ズバリ!意外と簡単に見つかった。その名も江陰市天華芸術学校。市の北部、君山寺がある君山公園の前である。タクシーを降り、ここまで来たからにはとあつかましく中に入っていくことにした。


 入り口にある守衛室の上に赤地に金色で「天華芸校」と大きく書いた看板が掲げられている。はいって右に曲がると白い壁に沿って通路があり、その向こうに校舎や事務棟が建っている。事務棟の前にはパネルに学校紹介の写真や文章が貼って並べられており、いかにも活気があるという感じだ。

 事務室に入っていって訪問の旨を伝える。こういう時は無錫市対外友好協会の胡啓明さんが活躍する。何の連絡や約束をせずに突然見学させてくれといわれれば、普通は警戒されるもの。しかし胡さんが、日本からわざわざ来た客人ですと丁寧に説明してくれたおかげで、突然の訪問にもかかわらず校長の史影さんに会って話すことができた。

 天華芸術学校は1985年設立で、97年には完全に私立全日制学校となり、寄宿制度もとっている。幼稚園、小学校、中学校がすでに開設されており、高校を開設する予定もある。中国では元来学校は公立のみであったが、近年私立学校が認められるようになり、大学進学を目指した受験校のほかに、芸術関係の学校も増えてきた。画一化から多様化という価値変化もあるし、芸術で身を立てたいと考える若者が増えてきたということもあるのだろう。

 天華芸術学校では音楽のほかに書、画、歌舞の各科目がある。もちろん通常の学校の科目も当然あり、基礎教育以外にこれら芸術科目があるというわけだ。

 「故郷の偉大な民族音楽家である劉天華先生の名前を付けたのは、やはり地元として民族音楽を普及する義務と責任があると感じたからです」。史影さんはやはり劉天華という名に敬意を表すると言う。学校には「天華民族楽団」があり、100人規模で、もちろん小学生、中学生に先生も入れての数だ。生徒は約300人、1クラス20数名規模で、生徒は必ず何か楽器を練習する必要がある。ちなみに史影さんは笛をやっていたとのこと。

 学校には宿舎が完備され、生徒の95%は宿舎住まい。授業以外でも生徒は1時間以上は自主練習をこなし、それからグループや楽団としての練習もするらしい。何より全ての生徒が楽団に入れるくらいの実力になるよう教えるのだそうだ。また土、日には課外授業として市民や他学校の生徒を対象に民族楽器の演奏講座もある。江陰市内で民族楽器を習う人は2000人から3000人もの数になっているそうだ。これもいわば地域に奉仕する学校の姿を追求したいとの願いから生まれているとのことである。


F生徒の資質を生かして育てたい


生徒が集まって演奏してくれた

  天華芸術学校にはあちこちから見学客がきているが、日本からぽっと一人で訪ねて来るのも珍しかったのだろう。史影校長は生徒を育てる方針、学校の運営方向などを包み隠さず話してくれた。 

 学校がその教育の特徴としている点は要約すれば次のようになる。まず「生徒の特長をつかみ個性を生かす。音楽は生徒の資質を生かすためにある」。そして「音楽を通して総合的な資質を高め、学生の潜在力を開発する」。これは要するに楽器を使い指・手を動かすことで脳を活発化し、能力を高めることができるという信念というべき方針だそうだ。
                        
 「文化と芸術を協調して生かす」。つまり生徒たるもの理科や数学などの通常学問知識と音楽知識を両方学び、双方を総合的に理解しなければならないとのことである。最後に「トータルでいえば、芸術の勉強をすることで記憶力・想像力を鍛える」。もちろんこれはスローガンではなく実際に校長らが進めたいという具体的方針である。私立学校ということで他からはっきりとした違いを出さなければならないということはあるかもしれないが、意気込みは良くわかる。   
                                                           
 生徒の卒業後の進路先は、1,通常の高校へ進学(たとへば南京など)、2,芸術学校へ進学(上海など)、3,市内の高校へ進学、に別れるとのことである。 
                                   
 楽器の選び方についていえば、まず希望はあっても先生が選ぶ。それは子供の手や体の大きさを見て適切なものを与えようということだからである。興味を持って練習をするうちに好きになっていくことが多い。また人気のない楽器もあるが、その場合はほかの楽器と兼ねてもいいよということで取り組むようにする。例えば古筝が人気があるが、その場合は中阮や大阮あるいは柳琴も勉強させるようにする。同じように練習したら習得するのも早いからである。
                                                                
 史影校長の話はとどまらない。映画「劉天華」の撮影スタッフがきた時は、300名の二胡を学ぶ生徒が一斉に演奏して出演し、劉天華作曲「光明行」を弾くというシーンを撮影した。監督もそのシーンの出来にこれはすごいと誉めていたという。天華芸術学校の楽団は外国からも招待されているが、日本へも2回行ったことがあるとのことだった。 
                                                        
 そんな史影校長はいろんな質問に丁寧に答えてくれたあと、ぜひ学校の演奏を聞いていってくれとわざわざメンバーを呼び、たった一人の日本人の客のため演奏会を開いてくれた。 
 
 校舎の二階に小ホールがあり、そこで来客のための演奏や記念式典を開く。集まってくれたのは小・中学生と数名の先生の合計30名あまり。二胡、琵琶、揚琴、柳琴、笙、笛、チェロ、打楽器などで、特に琵琶は楽団の予備軍というような学習したての7名の小学生が別個に演奏してくれる。
                     
 先生の指揮のもと慣れた手つきで演奏が始まる。楽譜をほとんど見ないのはいつも練習している曲だからだろう。光明行など劉天華の曲はもちろん、歌唱担当なのだろうか民族歌も披露してくれた。授業の合間にもかかわらず、練習なしに弾けるということは常に練習を重ねているということだろう。史影校長が自信を持って聞いていってくれと言うのもわかるような気がする。                                                

G劉天華の旅も終わりに


劉天華が育った街並みは今も残る

  「いやあ、思ったより劉天華にかかわるものがありましたね。何にも知りませんでしたけどいい勉強になりました。これからは日本のお客さんが来てもだいじょうぶ、ちゃんと案内できますよ」と、無錫市対外友好協会の胡啓明さんはにこやかだった。

 今回の劉天華の旅は胡さんと一緒に劉天華に関連する場所を訪れた。まだ若く特に民族音楽に興味のなさそうな胡さんにとっても、初めてのことだった。だから逆にとにかくいろいろ現地で聞いてあちこち行ってみるということが可能だったのであり、のんびりとした気分で行けたのかもしれない。


 もちろんもし劉天華の足跡を正確に追いかけるなら、彼が作曲や採譜に力を入れ、新しい民族音楽の姿を求めて活動していた北京での姿を追う必要があるかもしれない。二胡の改良とその新たな発展が、なぜ劉天華の手で生まれたのかということになるとなおさらだ。彼の残された家族や音楽仲間、それに研究者はほとんど北京にいるからである。また北京・香山には彼の墓がある。

 しかし劉天華の故郷江陰市はちゃんと彼の姿を残しておいてくれた。劉氏三兄弟故居(劉天華記念館)があるからというだけではない。当然劉天華が子供時代をすごした時とは町の様子も大きく変わっているが、天華の名を記した学校もあるし、何よりも「ああ、天華の家ね。あそこだよ」と気軽に教えてくれる市民の存在があることである。

 劉天華の基礎を作ったこの江南地域と江陰市の空気に触れるだけでも価値があった。歴史のある古い街で生まれ育ち、多感な時期を社会の転換期に迎えた劉天華にとって、街を出て上海や北京といった大都会で得た昂揚感はまた特別であったかもしれない。江蘇省立第五中学在学時に軍楽隊に参加した頃の彼の写真が残っているが、その頃から顔が大きく写真の中でも目立っており、なるほど意志の強さが見て取れるものがある。

 とにもかくにも寝食を忘れるほど民族音楽の発展に取り組んだ劉天華の功績があればこそ、今日本でも多くの人が二胡の音色に親しむことが出来るのだろう。

 機会があれば新たな「劉天華の旅」をしてみたいが、最後に「中国弓弦楽器史」という本に書かれている、李子賢が劉天華の功績として簡潔にまとめたものを紹介してこの項の終わりとする。

 「劉天華の二胡改革と発展における主な貢献」

 @二胡の形を変えた。琴筒(胴)は永く円形だったのを六角形にし、千斤から琴馬(こま)までの距離を46cm〜48cmを基本とした。
 A定弦の音の高さを固定した。内弦はD、外弦はAでこれで楽団演奏に入ることができた。
 B二胡の音域を広めた。九度を三十八度まで広げることで、低、中、高、最高の4音域ができた。
 Cバイオリンの演奏技法を吸収し、弓や指の動き、使い方を豊富にして、二胡の表現力を高めた。
 D転調の手法をうまく使って(例えば《光明行》のDからG、GからDへの転調など)、演奏における芸術性を高めた。
 E10首の二胡独奏曲と47首の練習曲を残し、系統的な音楽教育ができるようにした。
 F二胡芸術を民間から正規の音楽学校へと引き上げ、多くの学生を養成した。

                                                      (2002年1月)
  
 
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