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中国・音楽の旅
阿炳(アァピィン)の巻
華彦鈞(阿炳・アァピィン 1893〜1950

  民間音楽家。江蘇省無錫市生まれ。小さいときから道士の父について音楽・楽器を学んできたが、だんだん眼を悪くし、35歳のとき両目を失明。「盲目の阿炳」といわれ街頭を音楽で流す生活を送る。社会の差別、不当な圧迫に常に怒りを持ち、権力あるものに反抗した。二胡曲「二泉映月」「聴松」「寒春風曲」と琵琶曲「大浪淘沙」「昭君出塞」「龍船」の6曲のみが録音で残され、他の創作曲は残念ながら残されていない。

@阿炳の故居が錫山市東亭鎮三大房に
  民間音楽家と言われる。劉天華が民族音楽家と形容をつけられるのに対して、阿炳(アーピン)には常にこの形容が付きまとう。もちろんそれは彼の音楽を貶めるものにはならず、「奇才」といわれる彼のむしろ民衆に受け入れられた姿をより正確にあらわしているだろう。

 二胡を弾くものにとって「二泉映月」はなんともいえない位置を持つ。「中国二胡考級曲集」では最高の10級にランク付けされる難しい曲というだけでなく、その曲が持つ調べ響きが演奏者をも引きつけて放さない。それぞれの解釈で大きく演奏が変わるのも特徴だ。特に江南地方になじみがある人ならなおさらだ。

 そんな曲を残した阿炳の足跡をどうたどれるか。まずは阿炳が小さい頃にすんでいた住居に向かった。住居は今は「阿炳故居」となっており、場所は無錫市中心部から東へ車で20分ほど行ったところにある錫山市東亭鎮三大房とのことだった。故居の存在はわかった。市からも認定されており、阿炳生誕100周年の時には中国音楽界の代表も訪ねたというが、日本などの外国からの客人はほとんどなく、正確な場所はとにかく行ってみて聞く方が早いということになった。

 無錫市内でまずタクシーをひろい、住所を頼りに行ってくれと運転士に頼む。道案内をしてくれると期待したタクシーの運転手に阿炳について聞くと、「生まれ故郷の場所?さあそんなの知らないよ。テレビのドラマがあったことは知ってるけど、どんな人かほんと知らねえなぁ」と冷淡な返事が返ってくる。

アーピンが小さい頃に育った家(現在故居となっている)
 
 東亭鎮の旧市街に着き、古くから住んでいそうな老人に「阿炳故居はどこにありますか」とひたすら聞く。突然の質問になんだと言うような顔をする人もいたが、何人かの人に当たったら「う〜ん確かあっちのほうだよ」という答えが帰ってきた。それを信じて大通りから少し南の方に折れる。すると細い道に入る道の角に「阿炳故居」という文字と矢印の書いた看板が出ている。急いで入ると古い通りの両側に民家が並んでいる。残念ながらその後はなにも目印がないのでどこが故居やらわからない。

 道を歩いている人に聞くとそこだよと指さす。通りから折れて四軒の家が並んでおり、手前から二軒目が阿炳故居であった。地名は三大房100号となっている。四軒あるうちの他の家は立て替えられて、二階建てのコンクリート風建物となっているが、故居だけは昔のままの平屋の木造建築で残っている。

 さあ見学と思ったところが入り口には鍵がかかっており入れない。近所の人に聞くと村の婦人会長が鍵を持っているという。それならばと車を返して、婦人会長が働いている会社へ行くと、仕事で出ていて留守とのこと。ほとんど人が訪れることのない故居だけに、やはり事前に連絡をしていかないと中の見学もままならない。もちろん中には他の人物記念館のように資料がたくさんあるわけでもなく、とにかく家として存続していくと言う意味合いが強そうだ。

 ぐるっと周りをみて阿炳が育った頃の面影が残っていないか見てみる。かつても今も鎮、つまり農村の中の普通の家としか言いようがない。阿炳は無錫市内で生まれており、故居といっても実は小さい頃に育った家なのである。 

A青年期に盲目になり市中で生きる
 阿炳は本名が華彦鈞、1893年陰暦の7月9日に生まれ、1950年12月4日に亡くなっている。かぞえでいうと享年58歳である。阿炳の生まれた日についてはいくつもの説があり、主なのは4つ。1893年7月9日は本人が生前語ったことによる。そのほか、無錫市公安局戸籍簿によると1892年7月9日、阿炳の叔父・華錫泉の記憶では1892年陰暦の8月18日、阿炳の妻・董催弟の説明だと1892年8月18日、との話がある。

 父の華雪梅は道士で、音楽を好み琵琶をはじめとして楽器の演奏も巧みであった。その影響か阿炳も父について小さい頃から楽器に親しみ、同時に演奏家がいればあちこちにいって演奏方法を学ぶなどした結果、ほとんどすべての楽器を扱うことができるようになった。

 しかしその生涯にはいつもなにかしらの暗さがついて回る。彼の母親の名は呉氏。もともと秦という姓の女性だったが、父と知り合ったときには未亡人であり、旧時代での思想ゆえ家族・親族には再婚を強く反対された。父の華雪梅と同居をしたときには秦一族の面子を失うものだとして親類からは強く罵られたし、結局阿炳が4歳の時に屈辱の中で亡くなる。阿炳は物心がつくかつかないという時に母親の愛情を失ってしまったのである。

阿炳故居正面

 伝えられているところによると21,2歳の時に眼病を患い、父親の死後、26,7歳の時に片目が見えなくなった。目が悪いということで道門からも疎われ、30歳のころ道門を離れ、歌を歌ったり楽器を弾いたりして糊口をしのぐ。35歳の頃にはもう片方の目も見えなくなり、それ以降人々は「盲目の阿炳」と呼ぶようになる。

 本名は自然と忘れ去られていった。阿炳自身も「みんなが『盲目の阿炳』と呼ぶのだったらそれでいいよ」と、本名に頓着しなかったという。

 それ以来彼は無錫の街を流して歩くようになった。請われればどこへでも出向き歌う。しかし決してこびることなく、お礼のお金が少なくても文句を言うわけでもなく、また支払わない人がいても同じように堂々と歌いそして楽器の演奏を続けていた。

 黒メガネをかけ、笙・笛・琵琶などの楽器を入れた袋を体につけ、手には胡弓を持って道行く。無錫の人はそれを見て、ああ阿炳だと知る。阿炳は楽器を良くするするだけでなく歌を作るのも巧みだった。例えば朝に長屋の入り口やタバコ屋の裏で人々が昨日はこんなことがあったと話しているのを聞くと、午後にはその話題を歌詞に節をつけ拍子を取って歌っていた。

 同時に阿炳は旧社会に対して強い怒りを持ち、権力を持つものが行う卑劣な行為に関しては容赦なく歌によってその行為を満天に明らかにした。その相手は当時の地主であったり、役人であったり政府であったりした。しかし風刺を含んだその強烈な彼の言葉は残念ながら記録には残っていない。
                                                (この項、楊蔭瀏氏の文参照)
  

B 故居3軒となりの徐さんが語る
 阿炳の故居には結局入れずじまいだった。要するに鍵を持っている村の婦人会長を見つけ出せなかったということだが。いつまた来れるかとの心残りはあったものの、とりあえずは外から中をのぞいて「ふ〜ん、普通の家だな」というまぬけな感想を述べつつ、とにかく少しの間でも故居周辺の空気に触れようとぶらぶらすることに決めた。

 四軒並んでいる家の前をとおって一番奥の家まで行った。いい天気ですね、と家の前にいる老夫婦に声をかける。天気はいいし、時刻はお昼前。子供たちは外へ働きに出ているのだろう、日の当たるところで何か作業をしている。

 日本から阿炳の故居を訪ねに来たんですよ、と前にいる奥さんに声をかけた。彼女は遠くから嫁いできたとのことで、阿炳のことを尋ねてもなにも知らないと言う。そこで後ろにいる旦那さんに「ちょっと話を聞かせてもらっていいですか」と聞くと、ああいいよとにこやかに答えてくれた。


にこにこと語ってくれた徐さん

 まあ座って座ってと小さな椅子を出し、お茶も飲んで飲んでと勧めてくれたのは徐国櫟さん、68歳。三大房94号に住む徐さんは親代々ここに住んでいるとのことで、突然質問にもかかわらず懸命に記憶をたぐって思い出してくれた。徐さんは小さい頃無錫市で阿炳の演奏を聴いた覚えがあるという。

 「新中国になる前だからわしがまだ小さいころだったな。街頭で流していたときに聞いたことがあるよ。音楽は天才だったと大人も言っていたなあ。特に二胡は当時は単弦といったかな、一本の弦で弾いていたよ。ふつうの話でも、たとえばこんにちはというのも楽器で代わりにいえるくらいだったね」

 「阿炳がいつ頃まで住んでいたかって。さあ6歳か8歳くらいまでだったと聞いたことがあるよ」

 阿炳は4歳で母をなくしているし、母の親族は道士である父との結婚に強く反対していたこともあってこちらに来たことになる。(いま故居になっている)三大房100号は父方の祖母の家だったそうで、父の姉妹、叔母に育てられたという。

 「以前は家の中に楽器などをおいていたけど、今は確か写真かなんかがあるだけだよ。この前もテレビ局がきて撮影していったけど、そのほか日本やシンガポールなんかから来る人もいたよ」

 「8歳から阿炳も道士になった。これは聞いた話なんだけど、目が見えなくなったという原因も音楽仲間にはかられてということだったよ。阿炳の才能をうらやんだ仲間が、阿炳を売春宿につれていって、そこで殴られて、それが影響したっていうことだよ」

 「阿炳の子供さんね。娘が2人いるって聞いているよ。でもそれは本当の自分の子ではなくて、一緒になった相手の連れ子だよ」

 徐さんはにこにこと何の腹蔵もなく語ってくれるが、上記の「殴られた」というエピソードは小伝には、ない。
 

C今に残る6曲の録音
 1993年11月、阿炳生誕100周年記念会が無錫市で大々的におこなわれた。このときにここ三大房100号の故居が整備され、落成セレモニーも行われた。現在北京に住んでいる阿応の子供の娘、つまり孫たちもこの記念会、セレモニーに参加している。そのうちの一人鐘求梯(“梯”の字は中国語では女偏に弟)は、記念会ではいろいろ思い出を語ったという。

 阿炳の思い出といえばやはり北京中央音楽学院教授だった楊蔭瀏の名が出てくるだろう。実は楊教授こそ消えようとしていた阿炳の曲を現在に残した功労者であり、また阿炳研究の第一人者でもある。楊教授は阿炳を何とかして北京に呼ぼうともしたとのことである。

 1950年阿炳を探しだし録音を勧めたのは楊教授(および曹安和教授)である。旧中国から新中国へと時代が変わるとき、無錫市内では黒いサングラスをかけ背中や胸につけた袋に笙、笛、琵琶などを入れ、手には二胡を持った盲目の音楽家が楽器を弾き歌を唄い街を流していた。阿炳である。1950年夏、楊教授らは何とか彼の音楽を残そうと探しだし、ぜひ演奏し録音させてくれるように頼み込んだ。


阿炳の思い出が残る三大房と徐さん

  そのとき「いやあ、わしはもう2年間も楽器を弾いてないし、腕も落ちている。それに楽器も全部壊れてしまってまともなものは一つもないよ」と阿炳は断った。しかしこれは表向きの理由で、実際はそれまでにいわゆる旧社会から“盲目の放浪芸人”として幾多の侮辱的な行為を受けており、それが社会に対する絶望につながり、いわば“楽器を捨てる”ことになったといわれている。

 楊教授らの再三の頼みに阿炳は演奏を承諾する。ただこう語ったという。「わしはしばらく演奏せなんだ。だから練習のため3日間だけくれるかな」。3日目の夜阿炳は6曲を弾きこなし、教授らを感嘆させる。2年以上も弾いていないのに、わずか3日の練習でこれだけの曲をと。

 だが阿炳自信は全く満足してなかった。だからちゃんとした練習の時間をくれるなら次の演奏は了解するとして、半年後の冬、あるいは51年の夏に録音しようと約束した。だがこの約束はかなえられず、結局最初の6曲だけが残ることになった。なぜならその年の冬12月に阿炳は亡くなったからである。

 「阿炳の曲はそれは好きだよ。特になんといっても二泉映月がいいね。そりゃあ音楽のことはよくわからないよ、でも聞いていて気持ちがいいね。実はわしは小さい頃無錫市内で商売の見習いをしていたんだ。それで街頭で弾いているところを見たんだよ」。阿炳故居の横、三大房94号に住む徐さんは思い出話をそんな風に締めくくった。

 訪れる人もほとんどなくひなびた民家として残っている故居は、地元の人にとっても特に注目するほどのものではないのかもしれない。故居の裏側はやや広いスペースになっており、ふと見ると紙やらペットボトルなどのゴミが漫然と捨てられている。ごくふつうの農村の風景として残っているのが、本当はいいのかもしれない。

D無錫市内で住んでいたところ
  「写真を撮るなら10元、中へ入るのも10元だよ。さあ払ってからにしておくれよ」。
 突然まくし立てられたのは、無錫市図書館路にある阿炳故居の前に立ったときである。

 無錫市の一番にぎやかな道路である中山路と人民中路の交差点から東に少し行き、中国工商銀行の角を左に曲がると(つまり北に入る)、東西に走る細い通りが目につく。かつて大きな図書館がこのあたりにあったとのことで図書館路と名づけられているが、その旧図書館跡はレストランビルになっている。レストランビルから東に行った先は古い民家がビルの間に肩を寄せ合うようにして建っている。

 図書館路30号とかかれた最初の角の家に、「阿炳故居・1994年無錫市人民政府が文物保護単位に認定」とのプレートが貼ってある。このあたりは道士だった父と阿炳が住んでいた雷尊殿の道観房があったところで、94年1月24日に保護対象とされたのである。

 今は図書館路24号〜30号そして40号〜50号までが、阿炳故居保護範囲として20メートル以内は大きな建築が規制されている。だから近代的ビルの合間にここだけが古い民家のまま残っているのである。


無錫市内図書館路にある阿炳故居

 そんな阿炳故居の前で冒頭の言葉が突然ふってわいて出た。ふと見ると50歳くらいのおじさんがである。こちらが故居を見に来た外国人と知ると、矢継ぎ早に言葉を続ける。ちょっと待っておじさん、名前はなんていうのと聞いても、そりゃ言えないよと教えてくれない。何せこうやっていつも文句ばっかり言っているからお上に睨まれたらおおごとだからね、と平然とぶちまける。

 わかった、じゃ名前は聞かないけど何で10元が必要なのと聞くと、「わしは今でもここで生活しているんだよ。阿炳記念館といって中を見ようとするなら入場料を払うのは当然じゃないか」。半ば冗談だろうが、言葉はよどみがない。1966年から住んでいるというこのおじさん。阿炳が亡くなったのは1950年だから当時のことは実はよく知らないのだろう。それに阿炳の縁者でもない。当然市政府がこの建物を文物保護単位に認定したことなど、それこそ青天の霹靂だっただろう。

 「ここには4世帯も住んでいるんだ。突然認定されたって困るだけだよ。でもわしは職もないし、どうせなら日本人でも誰でも来てお金を落としていってくれればありがたいがね」。

 確かに保護単位として認定はされつつもここには普通の市民が日常生活を送っている。隣は自転車の修理屋さんだし、朝晩ともなれば食事の準備の煙が漂うところだ。

 「それじゃあ、入場チケットをちゃんと作らなければなりませんね」
 「人民政府が早くしてくれればいいんだよ」。なるほどおじさんの言うことにも一理はある。
 

E保存と開発のはざまで
  ビルのはざまにある阿炳故居。周囲も保護範囲として保全されていることが、逆にそこに住む人にとって何にもできないということにもなっている

 文句を言うおじさんにとっても、周りがどんどんきれいになって近代化されていくのに、何で自分が住んでいるところは昔のまんまにされなければならないという不満があるのだろう。

 以前北京から故居を訪ねてきた人がいて、文物単位に指定をしたものの予算措置をしてきちんと記念館などにしていない様子を見て、これは良くないなあと感想をもらしたそうだ。

 なに、新聞に載っても何にもしてくれないし大して役には立たないよ、とおじさんの攻撃は続く。新聞とは無錫日報のことで、以前「阿炳故居を思う」というコラムが載せられたことを伝えたことに対する反応だ。

 コラムはかの地が元は洞虚宮道院内の雷尊殿の跡地であり、阿炳が雷尊殿で道士をしていた華清和の息子として生まれたが、母が早くになくなったため東亭村の姉の家に預けられ、8歳になって戻ってきて以来特に晩年はここに住み、音楽的にも創作の苦労を重ねたところだと伝える。そこで1994年市は文物保護単位と指定し、その旨を記した大理石を壁に貼った。

 しかし、とコラムは伝える。こんなぼろ家に何の値打ちがあるの、早く立て直した方がいいのじゃないの、という声があると。確かにここを記念館として立て直し、江南の音楽史の展覧や阿炳の名曲の演奏などをおこなえば無錫の新しい観光地としても有名になるのではないか、とコラムは締めくくる。


ビルの狭間にある故居では生活が営まれている

  やっぱり実力者に来てもらわなくちゃ、それでこそちゃんと守れるんだよとおじさんは声を大きくする。わしらがなんぼいっても声が届かないもんな、と少々怒りも混じる。

「守ることもできない、つぶすこともできないじゃ、わしたちはどうなるんだい」。

 この故居は確かに古く全く関係ない市民が暮らしていることもあり、これは速やかに撤去して記念館でも造ればいいじゃないか、というのが実際に住んでいる人の考えだ。もちろん移転費が手に入るという現実的な考えが基礎にあることは間違いないが。しかし物事は往々にしてうまくいかないもの。

 「日本人が来るなら無錫市にちゃんと言ってほしいよ。記念館を作る場所だって別に決めてもいいじゃないか」

 そうするとこの故居はなくなることになる。確かにビルの間に挟まれて、みすぼらしい姿をさらしている民家だけに、存在の危機にあることは確かだ。国を代表する音楽家の故居とはいえこのままの姿では残すこともできない。ならば何らかの立て替えは必要だが、どういう形にするのかなどの論議が巻きおこらないのも、一抹の寂しさを感じる。

F錫恵公園と阿炳の墓
  図書館路にある阿炳故居でのおじさんとの楽しい(?!)会話をあとに、無錫市西部に位置する錫恵公園の中にある阿炳の墓に向かう。阿炳故居からだと人民路を15番のバスに乗っていく。無錫駅からでもバスで約15分の距離だ。錫恵公園は無錫市にポコっと突き出た感のある恵山の麓にあり、鬱蒼と茂る樹木で覆い尽くされたなかなか落ち着いた公園である。

 入場料を払って公園に入る。平日とはいうものの、市民特に中高年者や小さい子供連れが散歩を楽しんだりベンチに座っている姿が目立つ。土日や国慶節などの記念日はさすがに人で一杯になるとのこと。市内に大きな公園があるのは中国のどの都市でも見かけることだが、無錫市は太湖という自然の景地にあわせてこの錫恵公園と恵山が市街地のすぐそばにあるということで、緑を目にほっとした気持ちにさせられる。

 錫恵公園の中程にある池に沿ってやや右手の方に上がっていくとそこが阿炳の墓だ。1950年12月に阿炳は亡くなったが、当初無錫郊外にある“一和山房”の道士の墓に埋葬されていた。それが1979年に破壊され、無錫市博物館の関係者が阿炳の遺骨を集め、83年に現在地に改めて墓を造り埋葬をした、と説明書きがある。

 木立の中にこんもりと土盛りされ、その前面に横長で石造りの碑が建ててある。中央に「民間音楽家華彦鈞・阿炳之墓」と碑銘。中国音楽研究所と無錫市文学芸術界連合会が共同で建て、楊萌瀏氏がその墓碑を書いた。他に何の装飾もない墓の前は奇妙に空間が広がり静寂がただよう。


錫恵公園にある阿炳の像

  そんなまばらな木立の中、墓の前に阿炳の銅像が建っている。写真でよく見る帽子をかぶった姿で、左手に二胡を持ち右手は弓を引く格好、体をやや斜めに傾けている立像である。一見するとなにか苦悶しているような表情にも見えるが、おそらく作者はかつて無錫の街を流して歩いていた阿炳の姿をモチーフにしたのだろう。今にも公園に集まっている聴衆を相手に曲を弾き出しそうな姿だ。

 とはいうものの、ここを阿炳の墓と知ってわざわざ訪ねてくる人は少ない。墓の前はまばらな木立のちょっとした空間なので、のんびりとベンチに座って話をするかぶらぶらと歩くのが最適な所だ。つまりは普通の公園としてそこにあるという雰囲気なのである。

 自らも望んで庶民生活のなかで弾きつづけてきた阿炳。その足跡を尋ねるには静かで落ち着いた場所がやはりいいのかもしれない。

G阿炳ゆかりの公園
  阿炳の墓の周辺は特に毎日多くの人が詰めかけるわけでもなく静かなものだ。錫恵公園そのものが無錫市民の憩の場となっていることもあり、別に有名人の墓を訪ねてくるということもないのだろう。

 錫恵公園、実は阿炳の二胡代表曲「二泉映月」「聴松」に大きな関係がある。阿炳の墓の北側へちょっと歩くと「天下第二泉」がある。唐の時代、代宗のころ(8世紀後半)に無錫の県令が掘り開き、唐代の詩人陸羽によって天下第二泉と評されたといわれている。

 この二泉、三つの小さな水源に分かれており、真中に東屋(亭)がある。歴代の有名人もよく訪れ、蘇軾は「独携天上小団月、来試人間第二泉」という詩を残してるという。

 阿炳も失明する以前よくこの地を訪れていたとのことである。この「天下第二泉」の前で人生を思い返すというのが「二泉映月」のモチーフとなっているが、優美な旋律の中で流れ出る悲愴感はまさに阿炳が感じた“失明以後の暗澹たる世界”をあらわしている。


天下第二泉は公園内でも人気のスポット

   同じく公園の中には「聴松石」が残っている。これは昔この付近には松の木が多く生えており、宋の時代に人が寝ころぶことができるくらいの石をベッド代わりにして、風が松の木をさわさわと音を鳴らして通り抜けていく様子を聴いていたことから、その名が付けられた。「聴松」はある歴史故事をからその名がついたと阿炳は語っている。

 宋朝は北の異民族王朝・金によって圧迫を受けていたが、時の英雄・岳飛が金の武将・兀術を打ち負かした。兀術はほうほうの体で恵山のふもとまで逃げてきて、聴松石にほっと横たわったところ、自分達に押し迫る宋の軍兵の足音、軍馬のいななきなどを聴き、驚愕して敗走していった。だから「聴松」はまたの名を「聴宋」という(松と宋の発音が同じ)。

 もちろん兀術が聴松石に横たわったなどという歴史的事実はなく、あくまで民間の伝説に基づいているわけだが、曲の起伏や音程の変化、リズムの複雑さは英雄の気概を表現しているともいえる。

 聴松石を真近にして目を閉じ耳を澄ますと、心地よい空気の流れが感じ取れる。残念ながら兵馬のざわめきは感じ取れなかったが、阿炳の時代に少しだけ近づける場所としてこの地は最適だろう。

H無錫の二胡演奏家・魏松坤さん
 錫恵公園で阿炳の思い出に浸ったあと、やっぱり地元の音楽専門家に阿炳の事を聞かなければということになった。残念ながら無錫には音楽大学・学院はなく、それではということで少年少女に二胡を教えている先生に会いに行くことになった。

 その人の名は魏松坤さん。錫恵公園のすぐ東、京杭運河沿いの運河西路と恵河路に挟まれたところに無錫市少年宮がある。魏松坤さんはその少年宮で二胡を教えている。魏さんはもちろん無錫生まれで、特に阿炳に愛着があると聞いてきた。

 少年宮は中国のどこの都市にもある施設で、子供たちが放課後や土・日にさまざまな文化活動をおこなうところである。音楽や書道、ダンスなど科目も豊富で、地域の熱意によるが、単なる習い事の場所というよりは本格的な文化活動の拠点といってもいいような場合が多い。

 小さいころからこの少年宮で学んで音楽に目覚め、音楽学院や音楽大学に入学する子もいる。特に民族音楽の場合、取っ掛かりは少年宮という場合が多く、自然と教えるほうも力が入っていくのだろう。


少年たちの活動の場である少年宮

 平日の昼間ということもあって、無錫少年宮は出入りの人も少なく静かな雰囲気の中にある。入り口から庭を通って一番奥の建物に入る。2階の一室で待っていてくれた魏松坤さんがにこやかな顔で迎えてくれた。まあ入りなさいと、日頃子供たちを教えている教室と執務室に案内される。壁にはこの少年宮の卒業生だろうか、少年から青年の顔写真が額に入れて飾ってある。いずれも二胡を持っている姿で、名前とその経歴が写真の下に記してある。

 「錫恵公園に行ってきたんですか。阿炳の墓は当然見てきましたよね。無錫といえばやはり阿炳ですから」と魏さんは語る。民族音楽を好きな人は人は誰でも阿炳のことを好きになるだろう、と魏さんは強調する。もちろん彼の人生についてもいろいろ評価や批判がされるところはあるだろうが、音楽家としてはやはりその音楽について素直に聞くことが大事なことだと語る。

 「簡潔に言えば、阿炳は特にきちんとした音楽教育は受けていないが良い曲をのこしている、ということになるんでしょう」。魏さんは二泉映月をその代表的な曲としてあげた。

「天下第二泉」に寄せるその思いとは関係なしに、曲そのものの持つ特性について話は続く。

I「二泉映月」への思い
 無錫少年宮で二胡を教える魏松坤さんの話は続く。二胡をはじめ楽器が雑然と置かれた部屋だが、ほかに装飾はなく割合と落ち着ける。

 魏さんが阿炳の曲の中で代表的なものとしてあげた二泉映月。もともと「依心曲」と呼ばれていたそうだ。意味は、心に思うがままといったところか。

 阿炳の生活とその生涯は音楽家にはよく知られている。庶民の前で曲を弾く大道芸人、といわれるほうが彼にとっては真骨頂かもしれない。庶民の生活をそのまま体現しているのだから、悲しいときは悲しい曲を、楽しいときは楽しい曲を自らの心に素直に従って弾く。「曲が今のようになるには何十年の積み重ねがあった。今は3段落だが、もとの曲はもっと長くて7段落だった」と魏松坤さん。

 この二泉映月という曲のリズムの元となっているのは地方劇の錫劇で、江南の小曲を基礎にしている。いろんな人が阿炳のこの曲を聴いて、こんなに美しいメロディだから名前も美しいものにしたらどうだと提案し、無錫にある天下第二泉から名を付け「二泉映月」とした。阿炳本人も別に名前にこだわることもなく同意したとのことである。

 魏さんはさらに語る。この曲は阿炳とその人生を表している。だから「私が自分で弾いたり学生に教えるときは、月の美しさや二泉の清らかさなど目に見える景色のことばかりでなく、本人の人生のこと、つまり人生にはつらいこと、波瀾万丈さというものがあることを理解し、自分の本質や内面といったものを曲に表現するようにと指導する」と。


魏松坤さん(右)と筆者

 無錫出身の阿炳の曲だけに、江南地方・水郷の美しい景色を表現するところもあるけれど、それよりも人生の価値や希望がどれほど大事かということが表現されていると魏さんは考える。聞いたときに悲しい曲だと感じる人が多い。しかし必ずしも悲しい曲ではない。悲しい面もあるけれど希望や運命への反発、そういうものが表されていると。だから楽譜だけを追うのではなく、阿炳の心を理解しようと演奏すべきだ。「今考えると、もし阿炳が音楽学校へ入って正式の教育を受けていたら、こういう作品は作れなかったのではないか」

 「阿炳は盲目で大道芸人だったが、やっぱり生活は苦しかったのでしょうね」

 「確かに社会の一番下層にいたが、そのために一般の人の心にしみる曲をつくった。音楽学校に入ったらそのような力のある作品はできなかったかもしれない」

 二胡で有名な二人阿炳と劉天華がいるが、違いはどんなものがあるのかと尋ねると、「阿応は市民の共感を呼びやすい作品があるといえる。リズムが民間音楽からでている。私は二泉映月を聞いていると無錫弁をしゃべっている阿炳を思い浮かべる。人生についていろいろ教えてくれているような感じだ」と答えてくれた。
  

J阿炳の二泉映月にこだわる二胡演奏家
  魏松坤さんは南京師範大学音楽部を卒業して、無錫少年宮で20数年間子供たちに二胡を教えてきた。阿炳の故郷から演奏家を生み出すというのがその原動力だったのだろう。

 魏さんは中国人の作った民族音楽の中では二泉映月がbPだと語る。いやあこれほど二泉映月にこだわってもらうと、日本人としても何かうれしいものがある。もちろん考えはさまざまで、二胡演奏者(あるいは愛好者)にとってそれぞれの1はもちろん違う。しかしなぜか江南地域の音楽には惹かれるものがある。
 
 錫劇の曲の中に二泉映月とよく似た曲の一節がある、と魏さんは実際に弾いてくれた。確かに似ている。錫劇は地方劇、つまり無錫地方で育てられた劇で、その中で使われる曲は江南の民間の調べが集大成したもの。だから阿炳自身もいろいろな民間音楽を聞いて自分で作り上げていった。その結果できあがったのが二泉映月だといえる。もちろ阿炳の楽譜というのはない。

 話もだんだん終わりにちかづく。


魏松坤さんと少年宮の生徒たち

  「阿炳の弟子などはいなかったのですか。あるいは阿炳のほかの曲というのを覚えている人はいないのでしょうか」

 残念だが弟子もいないし、他の曲を覚えている人は誰もいない。また阿炳は当時今より太い弦を使っていたので、音が低かった。だから演奏すると人生の情感などがよく表現される。今はその効果を出すために二泉弦というのがあって、二泉映月を弾くときのためにそれ専用の二胡を準備する人もいる。楽器もやや太くて大きいものを使うとぴったりとくる。

 「阿炳の曲もみんなが工夫して変化を出していますが、魏さんは二泉映月についてはそのまま残そうとするんですか、それともやっぱり現代風に変化を出そうとするのですか」

 「阿炳のいいところは残して受け継ぎ、それに加えて今の人に受け入れられるような手法を持ちたい。伝統を受け継いで、自分の想像も加えて演奏するようにしているよ。一部の演奏家は阿炳に迫るほどまねする方がいいと思っているが、いいものを受け継いで自分の工夫を出すことが必要だと思う。阿炳がもし今日まで生きていたら、彼は基礎は残しつつどんどん変えていったと思うよ」

K阿炳への旅の終わりに
 地元に住む音楽家と話をするのは楽しい。彼の音楽的な力量や音楽界における地位などと関係なく、地元から出た先輩に対する素直な尊敬の念からの意見が聞けるからだ。それに小さい頃から体になじんでいるその地域のリズム感は、やはり真似のできないものだ。

 阿炳の故郷を訪ねる旅も終わりだ。無錫市は上海から列車(特別快速)で1時間半、直通のバスも多く出ている。太湖という観光地を抱え、週末には隣の蘇州市とともに訪れる観光客も多い。もちろん阿炳の故郷ということで訪ねてくる人はほとんどいないはずであるが。

 もちろん無錫の特産物である恵山泥人形に阿炳の姿があるはずもなく、ただ故居とお墓が残るのみ。それでいいのだろう。貧しい生活の中で、市井の人々に音楽を聴いてもらうことが勤めであった阿炳にとって、自分の一生をあれこれ評価されるのは不本意なことだろう、と筆者は思う。


阿炳(あーぴん)の墓の前で

   しかし、阿炳にはやはり二泉映月がよく似合うのだろうか。最近も(02年9月19日付)北京青年報で、「阿炳と二泉映月」と題して柴志英という人の文章が紹介されていた。

 一人の民間芸術家としての彼のこの曲が、弦楽合奏曲に編曲され世界に広がっていったことなどをあげ、波乱の人生を送った阿炳を「中国史上まれに見る、世界に向かった民族・民間音楽家である」とたたえている。

 当時旅の取材を終え上海へ帰る列車の中でついウトウトとしてしまった筆者には、残念ながら二泉映月の旋律は浮かんでこなかった。ただただ阿炳が楽器を持ちながら歩いていた街の、時間が離れた時代であっても持っている芸術の空気を楽しんでいたというところだろうか。
                                                 (連載終了:2002年9月)

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