阿炳故居と記念館が新たな形で開放されるなど無錫では阿炳関係の催しがより多く行なわれるようになった。それにつれて彼に関わる出版物も増えてきた。ここ10年来の中国での出版は異常な速さで増加しており、小説などの出版以外にこれまで手に入らなかった資料が出されるなど、国民の知識欲・読書欲を満たすことができるようになった。
阿炳に関する資料もその一つである。考えてみればいま60代や70代の人は1930年から40年代に生まれた人であるから、ちょうど阿炳が無錫の街頭で芸をしていたのを少年時代に見たことのある人もいるはずだ。とするとその記憶をできるだけ多く引き出すことが出来れば、阿炳の当時の生活や姿も実際に近い形で残していくことができるはずだ。さらに彼らの親から聞いた貴重な伝聞や資料が出てくるかもしれない。
できるだけ多くの研究家や編集者が阿炳に興味を持てもらうしかないわけだが、1〜9の「阿炳の旅」の中で紹介した「無錫文化叢書・無錫民楽」の巻「阿炳、その人と足跡」に書かれた内容についてもう少し紹介しよう。
阿炳故居のある図書館路付近 |
父親の華清和は阿炳を自分の後継者、つまり雷尊殿の主宰道士として育てようとして8歳から修行に入らせた。阿炳はそれよりも前、3歳のころより諸事情により無錫東亭郷春合村の父の実家で育てられたが、かの地は江南民間音楽が盛んな地域で、呉地歌謡や絲竹楽、灘簧(大道芸の一種で物語や時事などを韻文で述べる)、などを見聞きして育ったので小さいころから音楽が彼の心の中に大きな印象を残したとされている。
また華清和自身が無錫道士界では道楽に精通し琵琶をよくするということで名が知られており、その父親から厳しい音楽修行をさせられた。1950年の録音後自身の芸を学ぶ過程を話したとき「小さいときからずっと私を教えてくれたのは父親1人だった」と語っており、阿炳自身も音楽が好きでたまらなかったのかどんな修行にも耐えたと伝えられている。
道教のいわば正統派訓練、つまり堅実な基本訓練(七バツ-シンバル系から小鑼や木魚、そして竹笛、笙、スオナーと移り、弦楽器へといく)も辛くはあったが腕が痛くなっても指から出血しようが練習を休まなかったという。そのかいあってか16,7歳のころには少年阿炳は無錫道教界ではもう名を知られていたようだ。
あるとき無錫の各道院が合同で太鼓楽隊を統べて演奏する機会があり、雷尊殿はベテランの鼓手が出る予定だったが直前に病気でダメになり、困った華清和は急遽阿炳に太鼓を受け持たせた。ところが「華清和が思いもよらないことに、音楽が始まると阿炳は拍子もしっかり、緩急に味わいがあり、慫慂として穏やかで情があり、さわやかな音を出して敲き終わると共に演奏していた楽師たちは阿炳の太鼓技術に皆感服してしまった」。
「阿炳、その人と足跡」にはもちろん余り阿炳の悪い側面は書かれていないわけだが、後半生の街頭芸人として生きる前には伝統的な規範の中でもしっかりと学び、またあらゆることに興味を持ってのめりこんだ姿が書かれている。知識欲とそれを吸収する力が大人の考える枠などから遠く阿炳を引っ張っていったのだろう。 (続く)
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