ホーム 新着情報 月下独酌 中国音楽フェスティバル 中国・音楽の旅  中国香港台湾催し案内
アジア音楽演奏会紹介 モモの音楽日記  アジアの微笑み 上海コレクション 演奏家の世界


中国・音楽の旅
続・阿炳(ア-ピン)の巻
(2007年)

1、無錫駅から錫恵公園へ(07年2月27日)
 07年2月、久しぶりに無錫に向かう。目的はもちろん阿炳(アーピン・華彦鈞)を訪ねての旅だが、今回は時間も短いことから前回の旅の一部を再訪することとなる。というのも最近になって急に阿炳に関連する建築物が再建されたり、新たに阿炳記念館作りなどが進んでいることが明らかになったからだ。

 都市整備の中で文化政策の重要性を市当局が感じたのかも知れないし、あるいはとにかく目立つものを作ろうとの考えなのか、それはよくわからない。いずれにしてもこれまでにない変化があったということだけは確かだ。

 何はともあれいざ無錫へと上海駅から列車で向かう。上海から蘇洲、無錫、南京へと向かう路線はいまや近郊路線となり、特別快速列車などきれいで早い車両が投入されている。今回の無錫行き(最終的には南京まで行く)はなんとノンストップ、1時間もかからないうちに着いた。軟座仕立てで36元。値段は高くなったが快適なことはこの上なく、座席はほぼ満員、隣では中国人サラリーマンがパソコンを熱心に打ち続ける。

 余談になるが無錫から上海へ帰る時にチケットが取れた列車は新型高速列車「子弾頭(弾丸列車)」だった。これは日本の東北新幹線「はやて」をベースに、日本の技術供与で現地生産されているもので、乗客にとってもトイレがきれいなことや座席のリクライニングなど居住性の向上で好評を得ているらしい。現在は杭州−上海、上海−南京で一日数往復しか走っていないが、今後他の路線にも順次投入される予定で、しかしやはり中国沿海部に住むことはいろいろな便利さを供与されることをあらためて感じた。



改装された無錫駅。07年春節前の賑やかさがある。
 
  無錫駅も改装され、駅前広場には緑が置かれるなど広くなっている。中国の鉄道では駅が改装され大きくなると出入り口を別にすることが多い。無錫駅も出口は地下に出るように変わっていた。まあいちどに乗り降りする人数が多いから混雑を避けようとのことかも知れないが、ちょっと面倒くさい。

 地上に出てバス乗り場に向かう。久しぶりの無錫だから街並みを見ながらまずは錫恵公園を目指す。阿炳の墓があるところだ。駅を出て左側のバス停で2番のバスに乗る。最中心街の北側をなぞるようにして西へ4駅目、錫恵公園の入り口につく。太湖に面した無錫だが、中心街からほど近いところに恵山という小高い山がある。そのふもとが錫恵公園で、街の中に緑があるというのは気持ちのいいものだ。

 無錫という街の地元での紹介では「長江下流“金三角地帯”の中心」に位置する、と書かれている。日本人にはなかなかそうは感じられないが、地理的にいうと上海と南京の間に位置し、長江という海運の大河にも近い。実際20世紀前半には商業が栄え、それにつれて文化的な賑わいも盛んになるなどし、“小上海”といわれた時期もあったという。

 いずれにしても観光としか日本には印象付けられていなかった無錫も長江下流域の経済圏の一つの中心都市に発展していることは間違いない。

2、阿炳の墓と音楽広場(07年3月9日)
 錫恵公園に着く。今年は中国も異常気候で寒い気候が続いたかと思うと、2月のこの時期に20度を超えるような暖かい日も現れる。無錫を訪れた日は霧雨模様でやや肌寒いといったところだった。

 公園入り口からゆっくりと左回りに歩いていく。平日の午前ということで入場している人もそんなには多くない。もっともこの錫恵公園は後方の恵山も含めると結構な面積なのでまばらに感じるのも仕方がないのだろう。入り口付近から頭茅峰へ登る錫恵旅游索道(観光リフト)も利用者が少ないのだろう、止まったままだ。

 阿炳の墓がある場所に近づいてきた。何の変哲もない公園の一角、少し坂を登ったところにぽつねんと墓と阿炳の像があったはずだと思い近づくと、その一角は壁で囲まれてしまっている。それになにやら音楽と人のざわめきも聞こえてきた。何だろうと思って階段を上り中へ入ってみると、右手のほうに30人余りの人が入る。

 中高年の男女が社交ダンスをしているではないか。軽やかにステップを踏む様は昨日今日始めたものとは思えない。彼らが踊っているスペースの壁には「二泉音楽広場」との文字が掲げられている。もともと砂地でまばらに木が生えていた場所が広場として舗装され、市民の(というかおじさんおばさんたちの)趣味を楽しむ場所として提供されてい入るのだ。名前に“二泉”とつけられているのはご愛嬌だろうが、まあいかにも阿炳に関係する所だ。


二泉音楽広場で踊る人々

阿炳の墓への入り口

  その反対側、入って左側に小さい門がある。その門の壁に「無錫市文物保護単位・華彦鈞墓」とプレートがはめられている。華彦鈞、つまり阿炳の墓の入り口である。門を入って右側が阿炳の墓(といっても1983年に建てられた碑が中心だが)で、真ん中に阿炳の像が置かれ、墓と対面する場所(つまり門を入って左側)になにやら新しい建物がある。

 外面がガラス張りで中が見えるのだが、今は何もない。なるほどこれが墓に付随する記念館(展示館?)になるのだろう。どうも工事はまだ途中のようだ。これから阿炳関係する物品が展示されるのもしれない。(あとでわかったことだが阿炳故居のとなりに建設中の記念館もあり、それと調整して展示物も決まるのだろうと思われる)。

 以前のようなただ公園の静かな一角に(つまり開け放たれた空間として)ひっそりと墓があるというのではなく、これは明らかに保護文物単位として見せることを意識している。どちらがいいのかはわからないが、いずれにしてもこのとき阿炳の墓へ入っていったのは少数の私達のみ。

 音楽広場で楽しげに踊る人にとっては地元でもあり、阿炳は特に意識しない存在であるかもしれない。あるいは阿炳と二泉音楽広場をあえて結び付けようなどとも考えないのかも知れない。音楽ということだけで結びつくなら有名かどうかは関係ない、ただそこに楽しめるものがあれば、というのは意外と阿炳に合っているような気がする。

3、阿炳の像に触れれば・・(07年3月15日)
 阿炳の墓の真ん中に阿炳の像が置かれている。体を前かがみにし二胡を弾く姿だ。一見すると何かの苦しみに耐え吹きすさぶ風に向かって歩みながら歩く形になっているが(下写真)、実際はどうだったのだろう。

 阿炳の姿としてよく語られているのはズタ袋を掲げ、背中に琵琶を前に二胡をぶら下げ、庶民の前で語りをする姿だ。二泉映月が余りにも有名になっているため二胡奏者と思われがちだが、阿炳は様々な楽器を弾くことができた。

 道士だった父は道教音楽に通じており、阿炳もその父から音楽の薫陶を受けた。道教音楽に欠かせないバツ(シンバルのようなもの)や銅鑼(ドラ)、木魚などの打楽器をまず学び、それから竹笛にうつった。笛を持つ姿勢を正しくするためには筋力が必要だが、阿炳は笛の先に錘をつけて練習したという。

 そののち笙やスオナアを訓練してさらに弦楽器に取り組んだということである。盲目になって街頭で音楽と語りをすることで生計をたてていた彼にとって、確かに弦楽器を使うことが必要だったのだ。喜びや悲しみ、怒りなど人間の感情を弦に託して伝えることができたからである。


阿炳の像

建設中の展示館と阿炳の像

  盲目で貧しかったことが先入観となったのだろうか、伝記に語られる阿炳は常に権力者や富者に対して怒りの音楽を体から発していたようになっている。確かに彼は不条理な力で抑圧を加えてくることには反抗した。しかし生まれ育った無錫の風土と音楽を小さいころから身に着けていたのだ、庶民が持つ底抜けの明るさを表現しなかったはずはない。

 考えるべきは悲しみや怒りの元にある“それがどうした、どんなもんだい”という開き直りに近い感情の発露ではないのか。そう思ってよく見ると、この阿炳の墓の前にある像の少し屈み込み帽子をかぶった顔には、なにやらにやっとする表情が見えてくる。もちろん後世に作られた像が阿炳そのものではないのだが・・。

 そこで考えた。この像をもっと生かそうと、そしてより多くの人がここを訪れるようにと。いわく、「阿炳の像の手に触れば二胡がうまくなる!」。これをキャッチフレーズにこの地をアピールするのだ。ふむどこかにあるような単純な発想で申し訳ないのだが、どうだろうか。

 と友人にたずねたら返事は返ってこなかった。

4、天下第二泉を見る(07年3月23日)
 阿炳の墓と音楽広場を有名にさせようとする日本人の企て(?)は失敗に終わろうとも、無錫市民にとっては何の関係もない。むしろあまり余計な人は来てくれなくてもいいと考えるかもしれない。楽しく音楽を流しながら踊る空間があればいいのだから。

 阿炳の墓から今度は同じ公園内にある天下第二泉を見に行く。広場の横を通って道に出ようとすると、なにやら1人のおじさんが楽器らしきものを取り出そうとしている。あれれ二胡だ。公園というのは音を出す楽器の練習にとっては最適の場所で、その上阿炳の墓のそばで二胡を弾けるとなるとこれは愛好者にとってはたまらない。

 阿炳の墓から少し歩くと天下第二泉に着く。阿炳の「二泉映月」が二胡奏者の中では余りにも有名なので、この天下第二泉を見て作ったのかのように思われるが事情はいささか違う。阿炳の二泉映月はもともと道教音楽を基礎とした上に無錫や江南地区の様々な音楽のエッセンスを入れて創作したもので、阿炳自身は「依心曲」あるいは「自来腔」などと呼んでいた。

 のち阿炳の死の直前、唯一自らの演奏を録音した1950年に楊蔭瀏教授らと相談して二泉映月と名づけたもので、阿炳は曲名には全く拘泥しなかった。録音の時もしばらく二胡に触っていなかったのでうまく録音できたかどうかだけを気にしていたのである。


公園内に残る天下第二泉

  9世紀に生きた人に陸羽がいる。茶聖とも呼ばれる彼は「茶経」と呼ばれる本の中で茶を入れるときに使う水を20の等級に分け、無錫の恵泉を第2位にした。それが今に残る天下第二泉である。宋時代の詩人蘇軾もまた恵山から太湖を望むとして二泉と月を詠んだ詩を残している。

 天下第二泉にはもう一つ話がある。清の乾隆帝(1711-1799)は在位中長江以南を6回も巡幸しており、それは長江以南では銘茶が取れるからだったという逸話がある。乾隆帝はお茶が大好きで、それらの銘茶を味わいたかったということで、そのために水をも新しい工夫で評価したとのことである。水の重さで良さを決めるという方法で、名水の中でも軽いほうを良いものとした。

 そして北京の玉泉を天下第一泉、鎮江の冷泉を天下第二泉とし、無錫の恵泉は天下第三泉の名を賜ったという。いずれにしても風光明媚で水もまたきれいとなればそこに住む人々の精神にも影響しただろう。

 阿炳の生み出した二泉映月はやはり無錫の(そして江南地方といわれる地域の)営々として築かれた歴史のエッセンスだったのだろう。人口に膾炙する曲にはそれなりの理由があるものである。
  

5、聴松から阿炳故居へ(07年3月29日)
 天下第二泉をあとにしてぶらぶらと公園内を歩く。阿炳自身は自ら育ったところ、つまり雷尊殿を中心として活動していたはずだからその行動範囲は無錫市内の中心部にあたるため、錫恵公園(もちろん今の形での公園ではないが)には余り来なかったと考えていいだろう。

 だから公園内をぶらぶら歩いているだけでは阿炳を偲べない。とはいうものの阿炳ゆかりの文物はある。その一つが聴松石だ。聴松石についての解釈はこのホームページの「阿炳の巻G」で書いてあるのでここでは省略するが、彼が残した曲のイメージはこの石を見て伝わる。というよりは、うむこんな石ならやはり一度寝っころがってみたいなあと思う物だ。

 気候のいい日に寝ころがり、阿炳の弾く聴松をバックに流し、人とその歴史についてじっと考える、などということはやはりできないあ。実際の聴松石は鉄柵に囲まれて触ることも厳禁であるからだ。ここにもほとんど観光客は来ない。しかし残念がる必要はない。そこにあることが大切なのだから。


聴松石

 公園をぶらぶらしているのは本当に気持ちがいいのだが、今回は日帰りだけに余りゆっくりともしていられない。公園を出てタクシーで阿炳故居を目指す。阿炳故居は図書館路にある元の雷尊殿があったあたりである。図書館路は無錫の本当の中心地にある。

 この地域(つまり旧市街地区)は地図で見てもわかるが、今は解放路と名づけられた道路が楕円形に走り、その真ん中を東西南北に幹線道路が走っている(東西が人民路、南北が中山路)。道路名をみてもいかにも繁華街だということがわかる。銀行やホテル、ショッピングセンターなどはこの区域にある。

 阿炳故居はこの中山路と人民路の交差点から東に少し入ったところにある。そうそう以前は確か人民路から細い道をちょっと北に上って右に折れたところだ、と思って交差点を渡ってみると、あららだだっぴろい空間が広がっているではないか。

 なんとかつて存在していた食堂や昔ながらの民家がすべて撤去され広場となっているではないか。その名も「二泉映月広場」!
  

6、阿炳故居と二泉映月広場(07年4月6日)
 二泉映月広場。またしても二泉映月だ。阿炳といえば二泉映月、二泉映月といえば阿炳。ちょっとした二泉映月の安売り情況だが、これには阿炳もあの世で苦笑いをしているかもしれない。“ワシは街で皆と掛け合いをするのが好きだったんで、いつも二泉映月を弾いていたわけではないんだがの・・”。

 まあそんな言葉は省みられないのが現代中国だろうが、いずれにしても無錫の中心的な繁華街にあるだけにいずれは再開発される運命にあったのだろう。大通りからすぐに広場に連なっており、後方にあった城中公園も周囲を取り巻いていた壁が撤去され、この広場と一体化することになった。

 広場の正面中央には阿炳の像がある。錫恵公園の像とは違ってこちらは石に腰掛け二胡を弾く姿になっている。像の周りは水場で、噴水も出るようになっている。そしてその像の左側、広場正面から見れば右側に二泉映月の楽譜のレリーフが作られている。それも巨大な楽譜だ。


二泉映月広場の阿炳の像

巨大な二泉映月の楽譜

  その巨大な楽譜が立てられている奥が阿炳故居のある区域だ。つまり阿炳故居に行くまでにまずは阿炳に会ったかのような雰囲気を味わおうというわけかもしれない。かつての、ということは同じような建物がこの辺にあったということだが、旧市街区の中にそこに住む住民とともに生活が営まれていたという雰囲気は全くなくなっている。

 郊外から出てきたのだろうか男女4人組の若者が阿炳の像を珍しそうに見ている。彼らはどう見ても音楽を行なっているようには見えないのだがと思っていると、何と1人の男がすたっすたっと阿炳の像に上るではないか。そして他の3人に向かってポーズをとる。写真を撮ろうというのだ。

 彼らにとっては賑っている場所での遊びの一つなのだろう。阿炳がどんな人間かは関係ない。どこの“観光地”でも見られるポーズつくり。結局広場を作るということはそういうことなのだ。

 阿炳はことのほか街での市民との出会いを楽しんでいた。朝近所のおっちゃんやおばちゃんから聴いた市政のニュースやうわさなどを元に、昼過ぎにはここ崇安寺付近の路上で二胡や琵琶の演奏で風刺の唱としてみんなに披露していた。そんな彼にとって相手が音楽に興味があるかないかは関係なく仲間であったはず。ならば像の上に上ろうがなんとも思わないだろう。

7、修理中の阿炳故居(07年4月16日)
 阿炳故居を見学できたのも実はちょっとした運が必要だった。前の広場は整備したものの故居は修理中で、しかもその隣に阿炳記念館を建てているものだから、工事中ということでこの2つの建物ある一角は工事用のフェンスで囲われていたのだ。

 これでは今回は時間の関係で故居を見ることもできないかなと思い、とりあえずは城中公園に向かう。かつてはぐるりと塀に囲まれていた公園も今では二泉映月広場とつながりのある空間として生まれ変わり、ショッピングを楽しむ家族連れが行きかう場所となった。

 余りにも開放された空間となったため、かつては定年退職した老人達がそこかしこに集まり、無駄話に時間をつぶすとかあるいは京劇の一節を披露したり楽器を弾いたりと、思い思いの集団を作って楽しむといった行為ができなくなったようだ。

 阿炳もこの城中公園にはよく出入りしていた。何より阿炳の語るのは庶民の生活に根ざした目線による社会批評であったから、彼らと交わる場所は何より大切にしたはずだ。


阿炳故居

記念館も工事中

  とはいうものの都市の再生は住民の意識も変えてしまう。語るべき空間がなくなれば残るのは頭上を流れていく商品の購買を呼びかけるショッピングセンターの宣伝の声のみ。ここではもはや自らの楽器を持って語ることはできないのだろうか。

 などと考えながらもとの二泉映月広場に戻ると、なんと工事現場のフェンスが開いているではないか。これ幸いと「どなたかいますか」と声を掛けながら入って行ったが誰もいない。工事を続ける音もしない。まあ仕方がないから久しぶりに阿炳故居を見る。阿炳故居以外の同じような建物はもう取り壊され、故居の壁を白く塗り替える作業の準備がしてある。

 中は何にもなし。がらんとしている。その北側に新しい記念館も工事中であった。作業員の服だろうか洗濯物も干されていて早や作業は休みに入っていたようだ(行った日が中国の旧正月の1週間ほど前なのでその可能性はじゅうぶんある)。

 いずれにしても故居の化粧変えまであと少し。現在の無錫市民にとって心身ともになじみのある場所になっていくのだろうかと考えてしまった広場だった。

8、阿炳へのそれぞれの思い(07年4月23日)
 さて阿炳故居の修理情況も見たし、二泉映月広場(その様相への賛否は別にして)も散策したし、これで所期の目的は達したと思っていると、そこへ中年のおじさんがとことことやって来た。帽子をかぶりジャンバーを着たおじさんはなんと二胡を持っているではないか。

 おじさんその二胡弾くの?と聞くと、「当たり前だよ、今さっきそこでも弾いてきたよ」となにやら得意げに答えるではないか。じゃあちょっと弾いてよと頼むと、わかったちょっと待てとまずはカバンを横に置き、故居修理に準備していたレンガの上にどっかと座る。

 曲は?もちろん二泉映月。調律もなしで早速弾きだす。この際音が標準であるとかリズムが合っているとかは問うまい。ただただ阿炳故居で名も無き(?)おじさんが二胡を弾いているというだけで絵になるではないか。


阿炳故居の前で二胡を弾くおじさん

 修理中の故居の周りには他の人はいない。二泉映月広場も平日の昼間とあってそうたくさんの人出ではない。ある意味静かな空間にただおじさんの二胡の音色が流れる。数分間弾いたおじさんはどうだという顔でこちらを見る。

 聞いてみるといわば二胡の流しみたいなことをしているという。それではと10元札をそっと出し収めてもらう。もちろん遠慮などということは似合わない。阿炳故居の修理や記念館の建設など無錫市内でも大きなニュースになっているから、街中で二胡を弾く人が増えてきたのかもしれない。

 残念ながら二胡を弾くだけで、楽器と言葉をうまく合わせた弾き語りという形にはなっていない。かつて阿炳の弾き語りは街中で毎日のように庶民の耳に達していた。そしてその言葉が人々の間を駆けめぐり、あるときは人々を涙させ、またあるときは不正への怒りになっていた。

 そんな阿炳の時代とももちろん同じことはできない。しかしとにかく二胡を持ってふらりぶらりと街中を歩く人が増えてくれば、これは無錫もおもしろくなるというものだ。さてさて、次はどんな人に会えるのかな。
  

9、阿炳の思い出は続く(07年5月7日)
 阿炳故居と記念館はこの5月に開放されているとあるサイトのニュースにあった。筆者が行ったのは2月だからそれから3ヶ月で誰もが入れるようになったということだ。いろんな人が訪れ、これまで知らなかった阿炳という人物を知ってもらうだけでもいいことだ。

 もちろん“有名人物”になってしまうと、その人物像や行動の歴史もより多く語られるが、一方では“良い人物”の方が受けがいいということでその人物にまつわる不都合なことは語られなくなる危険性がある。特に記念館などが作られると展示される事物も人に嫌悪感を与えるようなものはなくなるだろう。

 無錫滞在中に無錫文化叢書という8巻の本を買ったが、その中の一つに無錫民楽という巻があった。文字通り無錫における民楽関係者の話題や歴史が書かれた本だが、そのなかに「阿炳其人其事」という文章があった。

 阿炳の小さいころからどのようにして音楽に親しみ、名手となっていったのかを、無錫の道教寺院の紹介、父親の華清和の話題なども入れて語っているものだ。その中には阿炳が華清和のあとを受けて雷尊殿一和山房の主宰道士としてよく催しをおこなった、ことなども書かれている。


人々が集まる城中公園。阿炳もかつてここで弾いていた

 しかし面白いのは阿炳の父親は誰?というセンテンスで、楊蔭瀏らが1952年に編集した「瞎子阿炳曲集(盲目の阿炳曲集)」の中で楊蔭瀏は、「阿炳の父母は早くに亡くなり、父がどういう名だったのかも知らず、小さい時に華清和の子として引き取られた」と書いていたという部分がある。

 そのあとに続いて1979年に出版された文化部文学芸術研究院音楽研究所編集「阿炳曲集」では、楊蔭瀏は記述を補充修正して「阿炳は確かに華清和の1人息子で・・・」と書いているとある。これを見るとかつては阿炳の出生についてもいろいろ話があったのだ。

 文化部(日本で言えば文部省みたいなもの)での出版物にはやはり正当性が重んじられるから記述を修正したのか、あるいはこと細かに再調査をして判明したのか、実際のところはわからない。しかしいろいろあってもいいではないか。阿炳がアヘンにはまり花街通いをしていたことは余り語られないが、盲目に至る過程にはその破天荒な生活が影響を及ぼしたのは確実である。

 程よい立派な人生を歩んだと書かれるより、いろいろな失敗をしたことがきちんと伝わるほうが、庶民と語る街頭芸人として後半生を送った阿炳にはふさわしいのではないのか。阿炳に親しみを覚える人はやはりそれぞれの阿炳像を持っていくのが一番いいだろう。
                                                    (この項連載終わり)
  

10、阿炳の伝記から@(07年6月20日)
 阿炳故居と記念館が新たな形で開放されるなど無錫では阿炳関係の催しがより多く行なわれるようになった。それにつれて彼に関わる出版物も増えてきた。ここ10年来の中国での出版は異常な速さで増加しており、小説などの出版以外にこれまで手に入らなかった資料が出されるなど、国民の知識欲・読書欲を満たすことができるようになった。

 阿炳に関する資料もその一つである。考えてみればいま60代や70代の人は1930年から40年代に生まれた人であるから、ちょうど阿炳が無錫の街頭で芸をしていたのを少年時代に見たことのある人もいるはずだ。とするとその記憶をできるだけ多く引き出すことが出来れば、阿炳の当時の生活や姿も実際に近い形で残していくことができるはずだ。さらに彼らの親から聞いた貴重な伝聞や資料が出てくるかもしれない。

 できるだけ多くの研究家や編集者が阿炳に興味を持てもらうしかないわけだが、1〜9の「阿炳の旅」の中で紹介した「無錫文化叢書・無錫民楽」の巻「阿炳、その人と足跡」に書かれた内容についてもう少し紹介しよう。


阿炳故居のある図書館路付近

 父親の華清和は阿炳を自分の後継者、つまり雷尊殿の主宰道士として育てようとして8歳から修行に入らせた。阿炳はそれよりも前、3歳のころより諸事情により無錫東亭郷春合村の父の実家で育てられたが、かの地は江南民間音楽が盛んな地域で、呉地歌謡や絲竹楽、灘簧(大道芸の一種で物語や時事などを韻文で述べる)、などを見聞きして育ったので小さいころから音楽が彼の心の中に大きな印象を残したとされている。

 また華清和自身が無錫道士界では道楽に精通し琵琶をよくするということで名が知られており、その父親から厳しい音楽修行をさせられた。1950年の録音後自身の芸を学ぶ過程を話したとき「小さいときからずっと私を教えてくれたのは父親1人だった」と語っており、阿炳自身も音楽が好きでたまらなかったのかどんな修行にも耐えたと伝えられている。

 道教のいわば正統派訓練、つまり堅実な基本訓練(七バツ-シンバル系から小鑼や木魚、そして竹笛、笙、スオナーと移り、弦楽器へといく)も辛くはあったが腕が痛くなっても指から出血しようが練習を休まなかったという。そのかいあってか16,7歳のころには少年阿炳は無錫道教界ではもう名を知られていたようだ。

 あるとき無錫の各道院が合同で太鼓楽隊を統べて演奏する機会があり、雷尊殿はベテランの鼓手が出る予定だったが直前に病気でダメになり、困った華清和は急遽阿炳に太鼓を受け持たせた。ところが「華清和が思いもよらないことに、音楽が始まると阿炳は拍子もしっかり、緩急に味わいがあり、慫慂として穏やかで情があり、さわやかな音を出して敲き終わると共に演奏していた楽師たちは阿炳の太鼓技術に皆感服してしまった」。

 「阿炳、その人と足跡」にはもちろん余り阿炳の悪い側面は書かれていないわけだが、後半生の街頭芸人として生きる前には伝統的な規範の中でもしっかりと学び、またあらゆることに興味を持ってのめりこんだ姿が書かれている。知識欲とそれを吸収する力が大人の考える枠などから遠く阿炳を引っ張っていったのだろう。                                                            (続く)
  

11、阿炳の伝記からA(07年6月27日)
 阿炳が住んでいた道教の雷尊殿は洞虚宮(宋の時代に図書館路に建てられ、その後何回か火災や荒廃が原因で廃された)に所属する6殿の一つで、規模は小さかった。父の華清和が主宰道士で日常の斎事もこなし、旧暦6月におこなう“雷斎素”という道教の儀礼・祭典には多くの人が詰めかけ、「参拝客が買い取る紙銭や蝋燭、それに賽銭などと雷尊殿にはけっこうな収入をもたらした」(道士だった尤武忠の回想)。

 要するに食べることに気を使わなくてすむ生活環境が阿炳には良好な学習条件を提供したわけで、華清和の厳しい教育と阿炳本人の熱心さが音楽や芸の吸収をさらに進めた。雷尊殿のすぐそばが城中公園で、ここでは普段から市民が集まり様々な芸をする人々も集まっていた。阿炳は何かあるとすぐ出かけ、とにかく何でも見て聴いて、音楽については誰にでも教えを乞うていたそうだ。

 しかし1918年父が亡くなる。阿炳がそのあとを受け継ぐこととなりしばらくは雷尊殿も賑わっていたが、阿炳がアヘンにはまり娼館通いをするようになって没落が始まった。なぜ阿炳がアヘンにはまったのか、阿炳の生涯を記したいくつかの文章にもその理由は書かれていない。当時の悪習としてアヘンは中国に広まっていたが、のめりこむようになるにはやはり何らかの理由があったのだろう。父との関係なのだろうか?

 いずれにしても斎事をサボるようになり、娼館で性病にかかることもあいまって両目を失明することとなる。経済的には収入不足で生活はだらしがなくなり、斎事はわずかになり道院の法器を売ることから始まり、財産の切り売りも始めた。しかし雷尊殿にはずっと住み着いていた、と書かれている。


1950年阿炳の録音レコードのジャケット

 1930年に編集された無錫年鑑の宗教部分には「雷尊殿、崇安寺にあり。住持は阿炳、常駐者は1人、3房あり」と記載され、1941年の無錫報には「図書館前の雷尊殿、今年は街頭芸人盲目の阿炳が年番で経営」と書かれていたと、「阿炳、その人と足跡」に載っている。

 いずれにしても街頭芸人として生活するしかなくなった阿炳だが、培った音楽的素養はむしろこの時期から生かされる。庶民への語りを芸とした阿炳は毎日午前中に近所の商店やタバコ屋や行って皆が話している消息を聞き、午後にはその消息を唄いと伴奏で生き生きと真意迫るように語るのであった。茶館や飲み屋で芸を売っても決して人から施しを受けず、人に憐れみを乞うような姿は見せなかった。

 お礼をもらえば額にはこだわらず、特に大げさに感謝はしないしまた少ないからといって争うこともなく、呼ばれれば喜んで出かけていった。阿炳が街に出なくなったのは1948年ころ。「ある日いくつかの嫌な目に会い、夜には鼠が胡琴の弓を食いちぎり胴部分の蛇皮にも穴をあけてしまった。之は不吉の前兆だとしてそれ以来演奏することをやめてしまった」。

 1950年夏、陽蔭瀏と曹安和の依頼で後世に残る録音をすることになるが、そのとき使った胡琴は中華楽器店で借りてきたもので、この胡琴(竹筒胡琴)は使用したのち中華楽器店に戻されたと言われるがその後の行方はわからない。琵琶は曹安和が当時学生だった中央音楽学院琵琶教授の陳澤民に送り、陳澤民は阿炳故居に寄贈することを提案し、2005年6月無錫市で寄贈式典が開かれ、阿炳が《大浪淘沙》など3曲を弾いた琵琶は無事故居に戻った。

 阿炳の生涯について書かれた「阿炳、その人と足跡」では、最後に阿炳の曲(例えば二泉映月)は世界中の交響楽団などでも演奏され、中国と世界の人民の友好をつなぐものとなったとしているが、何度も言うように阿炳にとってそんな大層な賛辞はいらないだろう。身近な人々の前で喜怒哀楽の感情を表現することができることが何よりの喜びだったとするのは、逆にちょっとかっこいい言い方になるのだろうか。

                                                       (この項終了)  

 

inserted by FC2 system