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中国・音楽の旅阿炳外伝A
「阿炳(ア-ピン)と楊蔭瀏と曹安和」

1、曹安和と楊蔭瀏と阿炳(08年7月22日)

 1993年11月22日午前、無錫市の吟春映画館で「民間音楽家華彦鈞(阿炳)生誕100周年記念大会」が開かれた。同じ日の午後には、無錫市湖濱飯店で内外の音楽家や研究者を招いて「華彦鈞(阿炳)芸術功績国際学術シンポジウム」がもたれた。

 その会場に白髪で小柄な女性がやや背中を丸めて静かに座っている姿が目立った。特に発言はしないが、皆の意見を聞いては少しだけうなずくような動作をしているのが、みなの注目を引いたのである。彼女こそ楊蔭瀏と共に阿炳の録音に立ち会った曹安和その人であった。

 この時曹安和は齢88歳。晩年はほとんど公の場に姿を見せなくなった曹安和だが、この阿炳を記念する日と、1999年に行われた楊蔭瀏生誕100周年記念会はどうしても出席しなくてはならなかったのである。

 曹安和は1950年に行われた阿炳の録音に立ち会った人物であるが、それと共に一つのエピソードを残している。阿炳が録音するときに使った琵琶というのが当時曹安和が購入した彼女の琵琶であったこと、そしてその琵琶はのちに当時彼女の学生であった陳澤民(現・中央音楽学院教授)に送られ、陳澤民が2005年にこの琵琶を無錫市に寄贈し、今日阿炳を記念するものとして阿炳記念館で鑑賞に供されることになっているのである。



曹安和(1993年シンポジウムで「阿炳記念選集」より)
 
  そんなエピソードを残している曹安和だが、彼女はその音楽人生の中でずっと楊蔭瀏と寄り添っていたといっても過言ではない。曹安和は楊蔭瀏より6歳年下の1905年生まれである。伝えるところによると曹安和は楊蔭瀏の従姉妹で、楊蔭瀏が住んでいた無錫市留芳声巷から路地一つ離れた盛巷で生まれた。

 小さいときから音楽の天賦の才能があり、従兄弟である楊蔭瀏が音楽の練習をしているのを見ては琵琶や笛をおもちゃにして遊んでいたという。1911年6歳のとき、両親は曹安和に音楽教育を施そうと天韻社にあずけた。

 楊蔭瀏がアメリカの修道女ルイスに西洋音楽を学んでいるとき、曹安和も側でその講義を聞いていたという。小さいときから音楽を共に学んだ二人はそれ以降ずっと一緒に音楽研究、音楽の仕事をおこない、それぞれの仕事の成功は共同の成果といえるほど親密な人生を歩んだのである。

                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

2、曹安和、阿炳と劉天華との出会い(08年7月28日)

 曹安和は小さいときから楊蔭瀏の音楽生活を“崇拝する”気持ちで接していたのだろう。そして自身も音楽に興味を持つに至ったのだから、1911年に楊蔭瀏が阿炳に教えを受けたとき、6歳の彼女はそばでじっと聞いていたはずだ。

 阿炳は当時若手の道教音楽奏者として無錫道教界だけでなく音楽界でも一目置かれていたから、いとこ同士の少年少女は遊びがてら阿炳のいる雷尊殿に行き、斎事の賑わいを楽しみながら音楽の世界にも浸っていただろう。そんな当時の無錫の豊かな土地柄は曹安和に民族音楽の基礎を身につかせた。

 1919年曹安和は無錫女子師範学校に入学する。そして学問生活とともに琵琶の学習と昆曲の練習に励むことになる。この年1919年5月4日北京で五四運動(反日・反帝の大衆運動)が勃発し、これより青年達による活発な政治運動とともに、各分野で新文化運動を推し進められることになるのである。

 この時期阿炳は父親を亡くし(1914年)、自ら雷尊殿の主宰として殿の運営に力を注ぐことになるが、残念ながら生活はだんだん苦しくなりそして荒れていくことになる。同じころ江陰にいた劉天華は「国楽研究会」を組織し、「国楽改進」という音楽の世界での新文化に取り組んでいた。1922年には北平(北京を当時は北平と呼んでいた)大学校長の蔡元培に招聘され北平大学音楽伝習所の琵琶教師になり、また女子高等師範学校の音楽教師を兼任する。

 当時の活発で先進的な女子学生であった曹安和はこれら新文化運動に興味を持ち、そして民族音楽事業に献身したいという思いがあったのだろう、1924年劉天華を慕って北京師範大学に入学する。残念ながら無錫での阿炳との縁はここで一旦途切れるのである。

 卓越した才能と中国民族音楽史上に残して業績から、民族音楽の双璧とされる阿炳と劉天華の2人に身近で親しく接したという意味で、曹安和はうまく時代に沿えたのだろう。北京にいった曹安和は念願どおり劉天華に師事して琵琶を学び、またバイオリンや音楽理論の研究にも励んだ。

 1929年北平大学女子文理学院音楽系の教師として、ピアノ、琵琶から簫、笙など民族楽器の教鞭をとる。これから北京で本格的な研究を行うことになるが、このころのエピソードとして有名な作曲家・ピアニストであるアレクサンドル・チェレプニン(ロシア生まれ、のちアメリカ国籍を取得)との交流がある。

 1934年チェレプニンが中国に来たとき、彼は中国琵琶に興味があったので曹安和に琵琶を習うことになり、数字譜を学び練習曲を弾けるようになったという。のち、1989年に北京でチェレプニンの作品音楽会があったとき(既にチェレプニンは亡くなっていた)、夫人が曹安和を会場の壇上に招いて、彼女がチェレプニンの先生であると紹介したとのことである。

                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

3、曹安和と楊蔭瀏の共同事業へ(08年8月4日)

 曹安和は自らの音楽事業を進めるために無錫を離れ北京に赴くことになり、ここからしばらく阿炳とは縁が切れることになる。1930年代に入って大学での授業とともに民族音楽の研究にも力を注ぐことになる。

 このころ阿炳は両目が失明し、雷尊殿での道教斎事の仕事から離れ街頭に出るようになる。琵琶を背中に担ぎ二胡を胸元につるし、竹板そのほかいろいろな楽器を身につけて、崇安寺の前に行く。そこで仲間達に聞いたちょっとしたニュースを元に、権力者や金持ち達の行状を韻を踏んだ句とテンポの速いリズムで鋭く批判する唱をうたった。もちろん圧迫された生活の中で不満をもっていた庶民は喜んで阿炳の唱を聴いていた。

 さて、北京の曹安和は1930年に故宮博物院の調査員も兼ねることになり、劉半農の指導のもと一緒に故宮や天壇にあった古楽器の楽律の研究をすることになる。劉半農はご存知劉天華の兄であり、末弟の劉北茂とともに3兄弟はいずれも教育や音楽方面に傑出した功績を残し、江陰の劉3兄弟はその名を大きく世に残している(中国民族音楽の旅・劉天華の巻参照)。



曹安和(「無錫民楽」より)
 
  劉天華は1932年6月、37歳で亡くなっている。死の1週間前まで劉天華は北京の天橋地区で大衆芸能の演奏家に会ったり話を聞いて資料を集めたりと活動していた。当時この地域の衛生状態が良くなかったのが原因かもしれないが、猩紅熱にかかったのである。急死であった。

 劉天華が亡くなるという大きな不幸があったが、曹安和は1935年ころまで劉半農とともに研究を続けた。そして1937年日中戦争が本格化すると曹安和は上海に移り、戦争が激しくなると時の中国政府の所在地である重慶に移った。琵琶奏者であり古楽器研究家でもあった彼女のこの移動を考えると、抗日活動も含めた社会的な活動にも参加していたのかもしれない。

 いずれにしても曹安和はこの40年代から音楽家としても研究家としてもあらためて楊蔭瀏と一緒に活動を続けていくのである。というよりも二人三脚のように楊蔭瀏の研究を支え、そして彼からもいろいろな知識を得るなど、ともに人生のうえでなくてなならない人になるのである。
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

4、曹安和の音楽と教育への情熱(08年8月11日)

 曹安和は1940年代教育活動とは別に古楽研究にも従事し、また楊蔭瀏とともに民間音楽の保存活動にも力を注いだ。特に地元の無錫を含む長江周辺地域の音楽作品を集めることにも努力し、《蘇南十番鑼鼓曲》や、《西廂記楽譜》などを編集した。

  1950年曹安和は楊蔭瀏とともに久しぶりに阿炳に会い、この欄(中国民族音楽の旅)でも何回か紹介したように今に残る阿炳の歴史的な録音に立ち会うのである。そしてこれも既述したように、このとき阿炳が使った琵琶は曹安和が新しく購入した琵琶であり、のち陳澤民の手を経て2005年6月に無錫市に寄贈されるのである。

 曹安和は阿炳の録音に立ち会ったあと阿炳の琵琶曲3首(龍船、昭君出塞、大浪淘沙)と二胡曲である《寒春風曲》の曲譜を整理することになった。彼女にとっても阿炳の急逝は残念であったに違いなかった。琵琶譜の整理も彼女が自らに課した生涯のテーマであり、琵琶指法を定めることも熱意を注ぐものとなっていたのであるからである。

 そして曹安和は1950年に成立した中央音楽学院(1950年6月天津で成立し、58年に北京に移転)で琵琶とピアノを教えることになった。琵琶を教えるにあたり彼女は学生に文武両方の精神を求めた。「文曲だけで武曲の基礎がなければ、指・腕の力や速度が音をうまく出せず、軽いけれど落ち着いている、重いけれどうまいという境地には到達しない。逆に武曲に文曲の繊細な表現の鍛錬がなければ勇壮な気概と活発な表現がうまく出来なくなる 」と語ったとされる。



曹安和と楊蔭瀏(「無錫民楽」より)
 
  教育に関してはもう一つのエピソードがある。それは曹安和がまだ劉天華の門下にいたころである。あるとき曹安和は瀏天華を目の前にして「私が教えている学生の中には何人かダメなものがいて、本当に失望させられます」と愚痴を言ったところ、瀏天華は曹安和を批判してこう言ったという。

 「教育の目的は水準に到達しない人を水準以上に上げることにある。もし学生が皆水準以上なら教師は要らない。君はちゃんと自己反省して教え方も分析し、何故ダメな学生を教えられなかったかを反省すべきで、君の言うダメな学生のせいにするな」

 曹安和はそのときは師の言葉に納得がいかなかったが、のちになってあらためてその道理を理解し、それ以後忍耐心ときめ細やかな気持ちを持って学生と接したという。いずれにしても師あるいは共に研究する同志と理解しあえるという幸せな時間を曹安和は持つことが出来た。

 そして曹安和の人生の後半は楊蔭瀏との音楽・研究生活と重なるのである。
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

5、曹安和の生涯(08年8月18日)

 1954年中央民族音楽研究所が設立され、曹安和はそこの研究員として古典音楽の研究も行うことになった。もともと彼女は大量の琵琶曲譜を収集・整理してきており、さらに一層民族音楽の整理・研究に時間を費やすことになった。

 また琵琶の演奏における指法を定める研究も進め、現在の琵琶指法の基礎を作った。そこで彼女は《琵琶指経》、《我国古代楽譜簡介》、《崑曲曲牌索引》などを著した。一方で自らの琵琶演奏の研鑽も怠らず、曹安和の演奏した「十面埋伏」、「漢宮秋月」、「飛花点翠」などは高い評価を受けた。

 いずれにせよ曹安和は民族音楽研究の領域を拡大し、《内蒙器楽》、《影印李芳園〈琵琶新譜〉後記》、《琵琶紹介》、《〈二泉映月〉作者阿炳》、《劉天華先生の思い出》、《楊蔭瀏と音楽史》、など多くの著作を出版したのであった。



曹安和(「無錫民楽」より)
 
  曹安和はその研究とともに、終生音楽と老師でもある従兄弟の楊蔭瀏に過ごしたと言えるだろう。生まれ故郷の無錫を離れ、人生の後半に北京に住んだ半世紀は楊蔭瀏とともにあったといっても過言ではない。彼女は楊蔭瀏の住まいからほど近いところにずっと1人で住んだ。

 1980年代末には人前に現れることも少なくなった。1993年阿炳生誕100周年の記念シンポジウムに参加したのが最後に故郷である無錫に行ったときであった。そして1999年に楊蔭瀏基金会の成立と楊蔭瀏生誕100周年記念国際シンポジウムに姿を現したときはやせ衰えていたという。

 2004年12月4日、曹安和は北京で亡くなった。享年99歳。
                                                  (この項終了)
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

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