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中国・音楽の旅

阿炳(ア-ピン)外伝・3:阿炳とその時代@(1893年〜1899年)

1、1893年(0歳)・阿炳生まれる
 
*はじめに*

  この稿では、阿炳が生きた時代にどのような出来事が起こったのか、どのような人々が活躍していたのかを知ることで、阿炳の足跡をさらに理解できるようにしたい。もちろん出てくる話題は筆者の“独断と偏見”に基づいたものであるが、基本的には無錫、上海関係及びそこに関連する日本人の話題で進めたい。

 なお、年号と阿炳の年齢の関係について注意。阿炳の伝記関係の文章では「何歳ころに・・・した」というのがよく出てくる(文献資料ではなく、人々の記憶を基にしていることが多いため)。旧社会では陰暦を使っていることや習慣上で、これらの場合の何歳というのは当然数え年で満年齢ではなかったと考えられる。すると例えば1893年には既に1歳で、1894年春節(旧正月)を迎えて2歳になる。満年齢ではまだ、0歳であり、94年の誕生日を迎えてやっと満1歳になる。

 したがって誕生日をはさんで2歳あるいは1歳と数え方で違いが出てくるわけである。この稿では混乱を避けるために数え年から全て1歳引くことにした。したがって例えば、8歳ころと資料で書いてある場合は満7歳、つまり1900年の出来事とした。
 
 中国・音楽の旅・阿炳(アーピン)の巻をはじめ、このHPでも書いているが、阿炳は本名が華彦鈞、1893年陰暦の7月9日に生まれで1950年12月4日に亡くなっている。阿炳の生まれた日についてはいくつもの説があり、主なのは4つ。1893年7月9日は本人が生前語ったことによる。そのほか、無錫市公安局戸籍簿によると1892年7月9日、阿炳の叔父・華錫泉の記憶では1892年陰暦の8月18日、阿炳の妻・董催弟の説明だと1892年8月18日、との話がある。

 とりあえずは楊蔭瀏も言っているように本人の言にしたがって1893年とした。楊蔭瀏が言う根拠は、阿炳が彼に「わしは癸巳年生まれ、へび年じゃよ」と語ったからということで、これを信じることにしたい。


阿炳(「記念専集」より)
 
 1893年の日本はというと、明治も26年が過ぎ、第1回帝国議会も開かれ(1890年)、住居(例えば電灯)や交通(1872年に新橋-横浜間開通)、通信などでも近代化が進められた時期であった。少し堅い言葉で言うと、資本の原始的蓄積の時期を終え、一挙に産業革命から産業資本が確立する、ちょうどその境目の時期だったといえる。

 翌年には日清戦争、そのまた10年後には日露戦争があり、日本が中国大陸に本格的に進出していく歴史が始まるのである。この年、上海には横浜正金銀行が支店を開設している。資料によるとそのころ上海には900人弱の日本人が既に住んでいたという。

 さて、阿炳である。「阿炳の母は呉氏、もともと秦姓の寡婦で下働きをして生活していた。(阿炳の父親の)華清和と同居していたが、寡婦があらためて嫁ぐというのは秦家の恥だということで、阿炳が生まれてからも秦家に戻るよう迫られていた」(「阿炳小伝」・楊蔭瀏)。封建社会では女性の名前が歴史上になかなか残されない。したがってどの伝記を見ても呉氏としか書かれていないのだが、このことから一時「阿炳の父母は早くに亡くなった。それで雷尊殿の道士・華清和の養子として育てられた」という説が初期の阿炳・伝で流されたことがあった。

 これはおそらく上記の事情で、母親が実家から迫害を受けるかもしれないということで、当初子供を生んだことを隠すために養子であるとしたのだろうとも考えられる。それが巷に伝わって阿炳の実の親はわからない、などとされたのだろう。いずれにしても阿炳は苦難の中で生まれたのである。

 阿炳が生まれた1893年には、現代中国を語るのに避けられない人物が2人生まれている。

 1人は毛沢東(〜1976)である。中華人民共和国建国の父とされ、死去するまで中国共産党の最高権力者としての地位を保ったが、文化大革命の発動など晩年には国民に大きな犠牲を招く過ちもおこしている。12月26日湖南省湘潭県韶山村で生まれ、1918年、湖南省立第一師範学校を卒業して北京に上京。翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、1921年に上海で中国共産党の創立党員として第1回大会に出席している。

 1927年武装蜂起に敗れると井岡山にこもり、のち長征を行い、1936年陝西省の延安に到達。ここから党主席として抗日、反国民党の活動を続ける。この辺は少し中国現代史を学んだ方には周知のことだが、何せ活動の範囲が中国内陸部であることがほとんどなので、阿炳との接点は見当たらない(当たり前かもしれないが)。しかし毛沢東と共産党が動かした歴史は、阿炳の住む無錫にも影響を与えたし、国内の戦争と革命の時代の中で、貧しい庶民の怒りと誇りを阿炳は音楽によって同胞達に伝えたのであった。


若き日の毛沢東
(「旧中国大博覧」科学普及出版社より)

宋慶齢
(「宋姉妹」角川書店より)

 もう1人は宋慶齢(〜1981)である。ご存知宋3姉妹の次女である。姉の宋靄齢は財閥の御曹司・孔祥熙と結婚、妹の宋美齢は国民党の指導者となっていた蒋介石と結婚している。つまり当時の政治と経済を牛耳る階級だったのである。

 それに対して宋慶齢は中国の国父といわれる孫文と結婚、一族や姉妹が国民党中枢にいるのに対し、彼女だけは国民党左派として共産党支持の立場に立った。宋慶齢は1913年から孫文の秘書をつとめ、15年ころ22歳で結婚している(当時孫文は49歳)。親子ほどに年が離れ、また当時孫文には妻がいたのであるが、恋愛と言うよりは遠くからの英雄崇拝のような感情であり、何より新しい中国社会を作りたいと言う彼女の意思がそうさせたのである。

 上海で生まれた宋慶齢は波乱の人生の中で香港やソ連に滞在を余儀なくされた時もあったが、それ以外では故郷である上海に滞在することが多かった。中華人民共和国成立後は人民政治協商会議副主席などをつとめ、文化大革命では攻撃を受けることとなったが、文革終結後、死去の2週間前に共産党員として承認され、さらに名誉国家主席の称号も与えられた。もちろん墓は上海にある。

 阿炳は宋慶齢(と孫文)を間近で見たことがあるかもしれない。清朝を倒した中華民国臨時政府は南京で孫文の大総統就任の式を行うが、そのとき阿炳は18,9歳でありまだ失明はしていなかったし、何より上海と南京を結ぶ大動脈の真ん中に無錫は位置していたのだから、情報は充分に入ってきたはずだ。

 若い生意気盛りの年代だったかもしれないが、音楽で鍛えた感受性は充分だったはず。有名人が通るから見に行こうぜと仲間から誘われ、ちょっとなら楽器の練習をサボってもいいかなどと理屈をつけ、無錫駅へ駆けつけたかもしれない。列車は無錫駅で一旦停車する。駅前は人また人で一杯である。そこを腕力で掻き分けた阿炳たちは警備の警官達と押し合いへしあいしながら、オオッなどの大声を上げる。

 まあそんな風景を想像する。上海という国際都市からほど近い無錫、長江という経済発展をもたらす大水脈の側にある街に生まれた阿炳は、激動する20世紀の息吹もまたより身近に感じることのできる位置にいたわけである。

 毛沢東、宋慶齢という歴史の表舞台で名を残した人物に対して、阿炳はわずか6曲の録音でかろうじて世に知らされることになった。しかし貧困や抑圧などその時代の矛盾を一身に引き受けたかのような阿炳の生涯は、また庶民が黙々と築きあげてきた豊かな音楽に支えられたのである。今は残っていない街頭の阿炳の鋭い社会批評の唄いは、理屈詰めの政治スローガンよりよほど人々の心に残ったと思う。
                                                         (08.10.21記)

2、1894年(1歳)・阿炳と戦争
 
 阿炳(アーピン・本名華彦鈞)が生まれて2年目の年。前回の稿で阿炳は苦難の中で生まれたと書いたが、実は父である雷尊殿の道士・華清和を取り巻く道教の環境はそんなには悪くはなかったのである。

 無錫に道教が伝わったのは古く、南北朝の時代(439年〜589年)に無錫に初めて清元宮が建てられたという。それ以降1400年以上にわたって道士の修行、祭事、祈祷などの活動の場所が多く建てられた。無錫の宮観として北宋から清の時代に主要な道観として、洞虚宮、明陽宮、玉泉観、鉄索観などがあった。

 洞虚宮はもとの名を清元宮といい、梁の大同2年(536年)無錫の東郷膠山に建てられたが、しばらくして壊れ廃された。宋の大中祥符3年(1010年)今日の名である“洞虚宮”として街の中心(図書館跡)に再建され、宋の慶歴年間(1041年ころ)に火事にあって壊れた。宋の嘉佑年間の初めに観宇が再建されたが、清・咸豊10年(1860年)再び破壊された。清の同治13年(1874年)、阿炳の生まれる19年前に、洞虚宮はあらためて再建され、霊官、火神、雷尊、長生、祖師の五つの道観をもった。そのうちの一つ雷尊殿の主持が華清和であったのである。 


道教の道士(「道教の世界」より)
 
  18世紀中ごろから20世紀初まで無錫では道教がすこぶる盛んであり、多くの活動が民間習俗と融合していった。雷尊殿についていうと、毎年農歴(旧暦)6月には雷尊殿の香訊、いわゆる“雷斎素”の時には善男信女が川が流れるように途切れることなく焼香拝殿に来ていた、と伝えられている。(以上「阿炳と道教」銭鉄民・阿炳専集より参照)

 あらためて道教、道士とは何かというと、道教とはひとことで言えば、「福禄寿を中心とする現世利益、なかでもそのうちの寿、すなわち不老長生を目的とする。その方法と理論を説いたのは前4世紀ごろに成立した神仙説、いわゆる仙人の思想である」(「道教の世界」窪徳忠・著・学生社)。だから道士とは本来その神仙思想を実践する人、仙人になることを目指して修行する人をいうが、今日ではまあ日本の神主や坊さんに当たると考えていいかもしれない。

 それで道教は大きく分けて、全真教と正一派に分かれる。全真教は出家主義をとり妻帯せずに道観に住み、厳しい修行に励む。魚や肉類を口にはしない。一方の正一派は妻帯も認められ、肉類も食べてもかまわないし、主に人々に祝術儀礼を施す。

 無錫を初め江南の道教は正一派に属している。正一派道士は吹く、弾く、打つ、唄うことを基本技能として身につけ、祈祷法事のときは、独唱、吟唱、齊唱、鼓楽、吹打楽と楽器合奏などの多種の音楽形式を次から次へと行う。道士も少数を除いて出家はせず、主に普段は農村に住んで農閑期に法事を行ったりするものが多かった。彼らは農民であり、また、灘簧(大道芸の一種、物語や時事などを韻文で述べる歌曲)、山歌、小調、絲竹音楽、説唱音楽などを熟知していたので、民間音楽が道楽の中に取り入れられたのである。

 そんな正一派に生まれたことが阿炳をして音楽の素養を身につけさせたのであった。何しろ父の華清和は「音楽の名声は全市に聞こえていたし各種の楽器をこなせたが、琵琶については“鉄手琵琶”の称号をもらっていた。彼はまた無錫では昆曲を唄うので有名は“天韻社”とも交流があった。華清和のこの良好な音楽素養が阿炳の初期の音楽学習に堅実な基礎となったのである」(「阿炳と道教」銭鉄民・阿炳専集より)。


李鴻章
 
 さてそんな阿炳の1歳の時代は、日清戦争の時代でもあった。日清戦争といっても実はその主戦場は朝鮮半島であった。1894年5月朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると、朝鮮は清に派兵を要請し、日本は6月に「公使館と居留民の保護」を名目に出兵したのである。日本はそれ以前から朝鮮に「開国」を要求しており、朝鮮の宗主国の立場にある清とはいずれ衝突することは目に見えており、この機会にとばかりに7月日本は清に宣戦布告した。

 清で日本軍に対抗したのは李鴻章(1823〜1901)率いる北洋軍であった。当時の清朝は光緒帝(1871〜1908 )の時代であったが、政治の実権は先代同治帝の母親である西太后が握っていた。この西太后は名目上引退するときに頤和園に住むことになったが、その頤和園を大々的に改修するために海軍経費から戦艦数隻分の費用を流用したといわれる。

 つまり当時の清政府が総力を上げて戦争をするというような政治体制も経済上の余裕もなかったのである結局日清戦争とはいわれるものの、日本軍と戦ったのは李鴻章の北洋軍のみであった。当然装備の整わない北洋軍は黄海海戦で敗れ、日本軍は朝鮮を占領し、中国領である大連、遼東半島を占領したのである。

 1895年3月から講和会議が開かれ講和条約が結ばれ、日本は中国への足がかりをつかむことになるのである。歴史はその後、ロシア、フランス、ドイツによる3国干渉をうけ、日本はロシアとの緊張感を高めていく、という教科書で習った事態が進むことになる。
 
 戦争の舞台が朝鮮半島と遼東半島であったこと、清朝というよりは李鴻章の戦いであったこと、などからして、阿炳の住む江南地域ではおそらく戦争があったということも意識されていなかったかもしれない。李鴻章は戦後失脚するが(のち復権)、すでに清朝の威光は失われ、むしろ外国との関係が特に江南地域に住む人々にとっては直接的な関心事であっただろう。

 なにせ上海ではますます外国の租界が拡がり始めており、長江ではイギリスの軍艦が航海していたのである。新しい時代が社会の変革と発展の時代になるのか、より厳しい戦争と革命の時代になるのか、阿炳がもう少し成長してから感じることになるのである。
                                                         (08.11.4記)

3、1895年(2歳)・阿炳と無錫の人、社会
 
 阿炳が3歳の年(満2歳)の話題である。

 「1893年旧暦7月9日、阿炳は江蘇省無錫市で生まれた。当時の習慣に照らして占い師が阿炳の運勢には火が欠けていると判じ、“南方丙丁火”から“丙”の字を取り“火”の字を付けて“阿炳”として、吉祥を招くようにした。阿炳が3歳のとき、江西・龍虎山62代張天師の張元旭が無錫に来たので、阿炳の父の要望にこたえて天師は―彦鈞という名を与えた」と、06年に出版された無錫文化叢書・無錫民楽「阿炳その人と足跡」はその伝記に書く。

 これをみると阿炳は1895年に華彦鈞になったということになる。これには少し説明が要るだろう。“姓”と“名”、それに“字(あざな)”など、名に関する話は各国、各民族の伝統や文化がありやや複雑なのだが、物の本によると「かつての中国では名は最初からつけられたわけではない」ということである。

 「家の中に子供が生まれたら、家父長がまず「乳名」あるいは「小名」と呼ばれるあだ名をつけ、子供がその名で呼ばれた。これは家の中の序列をも示す呼び方であり、例えば「小二」といえば二番目の子供を指す。学校に上がる頃になってようやく「学名」とも呼ばれる「大名」すなわち本来の「名」がつけられたのである」。

 ということで阿炳はこの年に別に学校には上っていないが名を与えられたのである。 そして父が正一派道士であるから、張天師に要望したことになるのだが、これにも少し説明が要るだろう。


五斗米道の教祖・張陵(「道教の本」より)
 
  道教の歴史を簡単に辿ると、その源流は後漢末期(2世紀末)に現れた「太平道」と「五斗米道」である。太平道は張角という指導者のもと信者を数10万人に拡大し、西暦184年「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」というスローガンで武装蜂起する。世に有名な黄巾の乱である。三国志にも出てくるが、乱は広まったものの張角が病没し朝廷軍に敗れてしまったことなどもあり、この太平道は急速に衰退する。

 五斗米道の開祖は張陵で、その孫である張魯が組織を整えて勢力を増し、今の陝西省南鄭県を中心に30年にわたって政権を維持することになる。215年に魏の曹操の討伐を受け降伏するが、三男の張盛が父の命令で印鑑や剣、経文を持って江西省の竜虎山へ行き五斗米道を再興し、このころから天師道と称したといわれている。
 
 そのあと盛衰を繰り返し、元朝(1271〜1368)の時代になると正一教と改名するわけだが、天師道の教主は何代天師と呼ばれ(のちに一般的に張天師と呼ばれるようになる)、現在は台湾に64代天師がいる。ただその統制力はめっきり衰えているということである。

 ということで無錫道教・正一派の道士であった父がいたからこそ張天師から命名されたということだが、実際に張天師がどれほどこのような広範囲の活動をしていたかは定かではない。伝記によくあることだが、実際は張天師が無錫に来ただけで、阿炳の父と親しく接したことがなくてもとりあえずそのような形として伝えておいたというようなこともありえる。しかしとにもかくにも道教というものが阿炳の人生の全てに影響したことだけは間違いがない。


劉天華(左)と生家の近くにある興国塔(右)
 
 この年中国民族音楽の歴史で阿炳と並び称される人物が生まれている。劉天華(〜1932)である。2月4日江陰市西横街49号で生まれたが、兄、弟とともに中国の文化に傑出した貢献を行ったということで、その住居は「劉氏兄弟記念館」となっている。

 劉天華についてはこのHPの「中国民族音楽の旅・劉天華の巻」で詳しく紹介しているので参照していただきたいが、北京に在住する前は上海、常州などにも行き来しており、江陰市と無錫は近く当然無錫にはよく出ていたはずだ。だから無錫で行われる道教の祭事のにぎやかさにも触れているはずだし、もちろん道教音楽にも接したことだろう。

 劉天華にこういうエピソードがある。劉天華の家の近くに元の興国教寺の興国塔(過去損壊し今は建てなおしたもの)や孔子廟(江陰文廟)があり、仏事や廟の春秋祭の時には多くの人が集まり賑やかな音楽も流れていた。彼は小さいころ人々に混じって熱心にその音楽を聴いていたが、その興国塔の小坊主がいろんな民間楽器を弾くことが出来た。劉天華はその小坊主と遊ぶときに音楽と楽器についてもいろいろ教えてもらったという。また母方の祖母の所は農村地区だったので、そこへ遊びに行ったときはよく農村の音楽にも触れていたという。

 結局その様な素地があって常州中学(日本でいえば高校)に入学後西洋楽器に接するわけだが、この常州中学在学中に辛亥革命(1911)に遭遇し、“江陰反満青年団”に参加し軍楽隊の活動を経て、民族音楽に対する意識を目覚めさせていくのである。

                  *― *― *― *― *― *― *―
 
 さて無錫はこの時期まで経済的にはゆっくりとした成長しかしていなかったが、この年に楊宗濂(1832〜1906)と楊宗瀚(1842〜1910)兄弟が無錫業勤紗場を創設している(操業開始は翌年)。繊維産業という軽工業から資本の発達を促すといういわば常道だが、この工場が無錫の近代企業の初めともいわれており、この1年が無錫経済史の分岐点でもあったといわれている。
 
 ここから紡績や食品を中心とした民族資本は伸びて行き、無錫は急速に発展する。統計によると1937年には無錫の工場は315ヵ所、資本額は1億7407万元、総生産7726万元、工場労働者数は6万3760人で、当時の中国の6つの主要な工業都市(上海、天津、武漢、広州、無錫、青島)の1つに数えられるようになった。

 楊兄弟が相次いで亡くなったあと、工場は株主間の経営権利の問題などで紛糾するが、楊宗濂の息子の楊翰西が事業を拡大して行き、1930年には楊氏集団総資本額は2003万元になった。当時の無錫の工業総資本額の13.3%を占め、繊維関係では60%を占めるに至った。

 このような発展は無錫の街にも大きな影響を与え、先進的な事物が続々と導入されたのである。音楽はもともと素地があったが、西洋の音楽の流入などもあり、また上海に近いということで社会思想も人々に影響を与え、将来の阿炳の素地を作る社会が動き始めたというところだっただろう。

 (この稿参考文献:「無錫名人」江蘇人民出版社、「道教の世界」窪徳忠・著:学生社、「道教の本」学研)

                                                         (08.11.17記)

4、1896年(3歳)・阿炳と東亭鎮
 
 楊蔭瀏の「阿炳小伝」によると「阿炳の母は呉氏で、もともと秦姓の寡婦で、下働きをして生計を立てていた。旧時代は寡婦が改めて嫁ぐのは封建時代の礼では許されず、呉氏は最初華雪梅と同居していたが、同属の頑固な人々にたびたび屈辱を浴び、秦家の名声を損なうと言われていた。阿炳が生まれてから迫害は一層ひどくなり秦家に戻るよう迫られていた。1896年呉氏はなくなった。阿炳数えで4歳のときに、母親の愛を奪われてしまったのである」とある。

 他の伝記や評論の文章の中では、「阿炳を生んで1年後に屈辱のうちに亡くなった」と書かれたものもあり、また「「幼いころに母親と死別し」というように年齢を示さないものもある。正確な年齢はわからないがいずれにせよ早くに母親と死別したことは伝えられている。そこに楊蔭瀏ははっきりと1896年(阿炳は満3歳)としたのだが、実はその根拠は示されていない。

 ただ母親は再婚でそれが理由で親戚筋からひどい痛罵を浴び屈辱を受けていたということは記載されている。旧社会において特に女性の地位は低く、歴史的には名前さえ残されないという扱いを受けることから詳細な前後関係は明らかではないが、いずれにしても父親の華清和にとっても何らかの避難措置をしなければならなくなった。

 そこで阿炳が3歳のこの年、無錫市内から東10qほどの東亭郷春合村小四房(現在は錫山市東亭鎮三大房100号)の華清和の弟のところに送られ育ててもらうことになる。ここがもともと父親の実家であり、祖母の家だったと伝えられている。

 幼いころに父親から離れるということで悲惨な境遇に陥ったようにおもわれるが、東亭で幼いころの4年間を過ごすことになる阿炳にとっては良かったのかもしれない。というのも東亭郷は豊穣な土地で、また民間音楽が豊富な地域でもあったのである。

 また無錫道教が正一派で、多くの道士も道観にこもって厳しい修行をするのではなく生活の基盤は農業においていたので、当地の農民の多くも道士補佐を副業として道教音楽の名手も多かった。これらの道士は呉地歌謡や絲竹楽、吹打楽、灘簧(大道芸の一種、物語や時事などを韻文で述べる歌曲)、説因果、長編叙事詩・・・などあらゆる音楽に通じていた。

 したがって阿炳は小さいころに道教音楽・民衆音楽に親しむことが出来たわけで、見よう見まねでも覚えただろうし、そのことが彼の小さな心に消すことのできない印象を残したはずだ。無錫地区の江南民間音楽はいわば阿炳の母親の代わりの子守唄だったとも言えるのかもしれない。のちの阿炳音楽の素地がここ東亭で培われたのである。


阿炳が過ごした東亭鎮の家
 
 さてこの年、前回で紹介した楊兄弟と並ぶ無錫実業界の巨人が新たな活動を開始している。その人物とは近代中国最大の民族資本企業を創始した栄氏兄弟である。栄宗敬(1873〜1938)、栄徳生(1875〜1952)兄弟は無錫市西郷栄巷で生まれた。父親の栄熙泰は広東で税吏をしていたが病を得て1896年に無錫に戻り、それまでに蓄えた元手で兄弟に事業を起こさせることとなる。

 兄弟は一時上海で銭庄(当時の両替商で銀行業も兼ねていた)の下働きみたいなことを経験していて、商売上の金銭の動きや為替などについて学ぶことが出来た。これが素地となって将来の企業経営に役立つことになるのだが、ともかく1896年父親の支えのもと兄弟は上海で銭庄を開いたのである。

 そののち世界の動向を見て1902年には無錫で製粉工場を始める。これは前回紹介した楊兄弟の工場についで無錫では2番目の近代企業だと言われている。日露戦争や第1次世界大戦などの情勢が有利に働き、工場はそののち大いに発展することになる。さらに繊維工場も作り、多角経営に乗り出している。

 その伝えるところによると栄氏兄弟は社会事業にも熱心だったという。市の南西部、現在観光地にもなっている五里湖(現在は蠡湖と呼ばれる)を跨いで竃頭渚へいたる宝界橋を建設したのを初め60余りの橋をつくったり、小学校、中学校を設立し、また太湖水利をはかり寺の修復にも力を尽くしている。

 中華人民共和国建国後、栄徳生の息子栄毅仁(1916〜2005)は民族資本家として上海を中心に多くの企業を経営した(栄毅仁は上海セントジョーンズ大学を1937年卒業しているが、阿炳の生涯でおなじみの楊蔭瀏も同大学の卒業生である)。 文化大革命では走資派として批判されたが1972年に復活、ケ小平による改革開放政策が始まると国策会社・中国国際信託投資公司(CITIC)を設立し、初代董事長兼総経理に就任する。日本、アジア、欧米諸国を歴訪し、外資導入を働きかけた。

 1986年6月、ケ小平は栄氏一族を前にして「栄家は中国民族工業の発展に大いに功績があり、中華民族に偉大な貢献をした」と褒めちぎったほどである。

 栄氏の貢献が直接阿炳の生活にどのように影響したかは定かではないが、阿炳ならその貢献は認めつつ、例えば賃金の格差や生活環境など産業の発展がもたらす矛盾についてチクリチクリと批判を行っただろう。街頭での阿炳の唄いは自分の目線で社会を知ることであったからである。 

                                                          (08.12.2記)

5、1897年〜99年(4歳〜6歳)・阿炳と清朝
 
 母親の死という幼子にとっては衝撃的な出来事を受けて、阿炳は東亭鎮に住むことになった。1897年から99年というのは阿炳が4歳から6歳になろうという時であり、幼年期の経験が成長に大きな影響を与えるとしたら、まさにこのころに東亭鎮に住んだことは阿炳の生涯を決定したといってもいいだろう。

 前述したとおり、正一派の道教の道士の多くは農業に基盤を置いている在家のいわば副業道士であり、地元で農閑期には法事に参加し、その場で音楽をよくした。もともと江南地方は民間音楽が盛んな土地であり、そこに道教音楽が加わり豊かな音楽土壌を生み出した。

 阿炳の生活は当時の農民一般の生活だったから、いわゆるところの貧しい生活だっただろう。食べ物や着る物に関しては贅沢を言う余裕はなかったはずだ。しかし伸び伸びと育ったことは想像できる。阿炳が過ごした東亭鎮の家は今は阿炳記念館となっているが、たたずまいは昔のままで、周囲に数軒の農家があり畑がある。本通りに出るとさすがにビルが建ってはいるが、往時はゆっくりと人が行きかう農村地帯だったことが想像される。

 貧しいとはいっても阿炳は生意気盛りのガキである。近所の子供と棒切れを振り回しながら走り回ったことだろうし、畑に入り込んで作物を踏んでは「コラッ」と怒られたことだろう。そんな時にどこからともなく楽器の音色が聞こえてくる。それもだんだんと大きくなってくるではないか。

 阿炳たちは遊びをやめ、何だ何だと音のするほうへ走っていく。すると色とりどりの衣装を着た集団がにぎやかな音楽を鳴らしながら練り歩いてくる。「今日はどこの家に行くんだい?」ガキどもの問いには答えずに音楽集団はとある一軒の家の中に入っていく。法事だ。言葉の意味はわからなくても、ガキどものにはにぎやかな音楽と、あとで分け与えてくれる菓子があればそれでいいのである。

 阿炳の幼心にはどの音楽が、そしてどの楽器が印象付けられたのだろうか。後年父親から厳しい音楽修行を課せられた時に耐えることが出来たのも、この時期にしっかりと刻み付けられた音楽がもたらす楽しみがあったからだと言うことができるのではないか。

 とにもかくにも阿炳は無錫という土地がもたらす、人の素養にとってはある意味では豊かだともいえる環境で育っていったのである。

 真っ黒に日焼けして阿炳が走り回っているころ、阿炳の生涯に決定的な役割を果たした一人の人物が1899年に生まれている。楊蔭瀏(1899〜1984)である。生まれたときに楊蔭瀏は無錫市内にいたが阿炳はまだ郊外の農村地区にいた。彼らがあい間見えるのはもう少し時がたってからである。

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康有為
 
 この時期、既に崩壊してもいいはずの清朝が最後の足掻きを続けていたのである。日清戦争の敗北と旧態依然たる清朝の政治体制に大いに危機感を抱いた知識分子たちは皇帝に上奏文を出し、国体変革を恐れず近代化すべきだという維新を主張した。その中心となっていたのが康有為(1858〜1927)であり梁啓超(1873〜1929)らであった。

 彼らの政治改革運動(変法運動)は保守派の圧力を避けて北京から南下、1895年12月に上海で上海強学会を作り「強学報」を発行した。上海強学会は西太后の命令で解散させられるが、変法派は引き続き上海で「時務報」を出し変法派の機関紙の役割を果たすなど、変法の機運は高まった。

 時の皇帝・光緒帝(1871〜1908)は3歳の時に西太后によって擁立されたこともあり、政治の実権は西太后の手中にあった。そんな傀儡状況から脱し自らの手で政治を確立しようとしていた光緒帝の目に留まったのは変法派であり、彼らを重用するとともに維新の理想を実行しようとした。

 1898年4月、光緒帝は「国是を定める詔」を発し、次々と制度改革を進めようとした。しかしこれらの改革案は連発のスピードも速すぎ事前の根回しも全く行われなかったので、官僚達は黙殺して動こうとはしなかった。官僚達はいずれ西太后が巻き返すだろうと考えており、事態は全くその通りに進んでしまったのである。

 光緒帝、康有為らは西太后を幽閉して政治の実権を奪還するという計画を立てたが、そのクーデター計画は西太后の知るところとなり、8月6日逆に光緒帝は幽閉され、政変を進めようとしたメンバーも逮捕処刑された。改革はわずか100日で終結してしまったのである。これが世に言う「戊戍の政変」である。康有為は危うく脱出、のちに日本に亡命し、同じく日本に亡命してきた梁啓超と再会することが出来たのである。

 とはいうものの清朝はロウソクの最後の明かりを細々とつけ続けたに過ぎず、これ以降特に中国の長江以南地方においては新たな革命運動が作られていくのである。

 上海は20世紀に入りその一つの拠点となるのである。この時期1899年には上海に住む日本人は1000人を超すようになっており、列強の動向を横に見つつ進出を強めていくのである。
                                                          (08.12.10記)
 

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