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中国・音楽の旅

阿炳(ア-ピン)外伝・3:阿炳とその時代A(1900年〜1909年)

 6、1900年(7歳)・阿炳・小道士となる
 
 この年阿炳は貧しいながらも楽しい時を過ごした東亭鎮から戻り、父親の華清和(号は雪梅)がいる洞虚宮雷尊殿で生活をすることになる。つまり父親のあとを継ぐために道士としての修行を積むことが運命づけられたのである。小道士・阿炳の誕生である。

 父親の華清和は農民出身でありながら雷尊殿・一和山房の主宰者として熱心に道教を布教していた。阿炳の生まれた事情がもとで息子を一時実家に送らなければならなかったが、雷尊殿の運営には力を注いでいた。彼の努力で毎年農歴(旧暦)6月には雷尊殿の香訊、いわゆる“雷斎素”の時には善男信女が川が流れるように途切れることなく焼香拝殿に来るようになった、と伝えられている。

 時期的にはもう少しあとになるが、「1年に1度の香訊は参拝客が買い取る紙銭や蝋燭、それにお賽銭と雷尊殿にはけっこうな収入をもたらした」という状況になり、日常の斎事やあるいは法事に出かけるなどして華清和は当時まあまあの生活水準を保っていたという。

 新しい世紀に入ろうかとするこの年にはようやく生活が小康状態に入っていたはずである。そこで華清和は呼び寄せた息子の阿炳を私塾にも入れることにする。基本的な読み書きを習わすためでもあろうか、3年間学ばせたと伝えられるこの私塾は、「雷尊殿からすぐ近くのところにあり、また近くの崇安寺は賑わう市場でもあった」。

 それで「幼い阿炳は“子曰く”や“詩雲”を学ぶのを苦とせず、芸能、雑芸、聴書に対してもまた学友間のケンカにも興味を持ったが、特にのめりこんだのは人が琴を弾き弦をはじいて曲を唱うのを聞くことであった。道観で楽師が音楽を演奏しているのを聞くと、笛を吹いたり太鼓やシンバルをたたいてみたりするのが好きだった」(無錫文化叢書・「阿炳その人と足跡」より)。

 阿炳の音楽修行は、東亭鎮で受けた大地や自然の息吹に加えて、江南地方の人々が織り成す生活のうえでの様々な音楽や物事が体に沁みこむことで始まった。自然と人とがまさに阿炳の生育とぴたりと重なったのである。小道士となった阿炳はこれから道教の修行とともに、音楽も学んでいくのである。


阿炳が住んだ図書館路の家(雷尊殿横)
 
 さて、時代はますます激動を迎える。1900年は義和団事件で有名である。義和団は山東省の農民の間に生まれた結社であり、民間武術である「義和拳」を修行する農民達の集団であった。清末この山東省には西洋人が多く進出してきておりキリスト教に改宗する中国人も多かったが、清末の社会混乱に旱魃や洪水などの天災も重なり、農民達はそれらが西洋人とキリスト教が原因であると疑った。

 そこで義和団はキリスト教民や外国人を襲撃するようになり、清朝内部の外国人排外の立場に立つ勢力の黙認もあり、義和団は「扶清滅洋」のスローガンを掲げるようになった。山東省の農民の義和団運動は新たに山東巡撫となった袁世凱(1859〜1916・のち中華民国大総統)の圧力で沈静化したが、既に山東省外に広がっていた義和団は農民反乱の様相を呈し北京を目指して進むことになった。

 清朝内部にはこの期に乗じて外国勢力を排除しようという勢力と、外国列強の干渉を招く前に義和団を鎮圧して清朝の統治能力を示そうという勢力があったが、最高権力者であった西太后は排外派を支持、ここに外国人への攻撃が始まったのである。

 5月に日本公使館の書記生とドイツ公使が殺害され、清朝も列強に対して宣戦の詔書を発布し、ここに北京に在留していた外国人と中国人キリスト教徒が外国公使館街といわれた東交民巷にバリケードを築いて篭城することになる。映画にもなった「北京の55日」が始まったわけである。

 結果は列強八カ国の連合軍(日、露、英、米、独、仏、伊、墺だが、地理的なこともあり兵員数では日本が圧倒的に多かった)2万人余りが北京に入り、義和団を圧倒して破り、ここに義和団事件は終結するのである。西太后は連合軍の北京占領の前に光緒帝を連れて山西省太原に逃げ(のち西安まで行くことになる)、1年余り帰ってこなかった。この時光緒帝の寵愛する珍妃が西太后の命令で井戸に投げ込まれて殺害されている。

 義和団事件は多くの犠牲者を出しただけでなく、占領下の北京では列強の略奪もあり貴重な財宝や芸術品が持ち去られた。また清朝は列強に巨額の賠償金を払うことを約束させられ、それが庶民の重い負担となったことはまちがいない。

 義和団事件は北京を中心に起こったが、この事件に関しては無錫に住む阿炳たちにも影響を与えた。江南地方に大量に資産を持っていた支配層の一部は義和団の暴動が波及することを恐れ列強と「協定」をむすんだ。租界の自警団は強化され、イギリスはインド兵を上海に増派、フランスも兵力を増強し、長江下流(揚子江)の軍艦も20〜30隻に増加下など、江南に駐留している各国の軍人の移動があわただしく行われた。事件以降列強はますます清国を食い尽くしていく、つまり「中国の半植民地化」が大きく進むことになったのである。

 小道士になったばかりの阿炳ではもちろんこの事件を題材に、盲目になってのちのような時事批評の唄いをすることは無理ではあったが、修行を開始したばかりの身が大きく中国と世界の情勢と結びついていることは無意識であれ感じ取ったに違いない。

 ともあれ阿炳はこれからいろいろなことを学んでいくのである。
                                                              (08.12.25記)

 7、1901年〜1903年(8歳〜10歳)・阿炳・修行を始める・
 
 「とうちゃん」
 「今日からはとうちゃんではない。師父(シーフ)と呼びなさい。お前は今から道士の修行をするのだから、父と子の関係は忘れるのだ」
 「でも、とうちゃんはとうちゃんだろう」
 「聞き分けのない子だ。道観での生活には道観のきまりがあるのだ。さあお勤めの始まりだ。私に続いて呪文を唱えなさい」

 “琳瑯振響 十方粛清 (玉の立てるような響きが鳴り、十方は静寂になる)
  河海静黙 山岳煙呑 (河や海は静かに沈黙し、山岳は煙を呑む
  万霊鎮伏 召集群仙 (万霊は鎮まり伏して、多くの仙人たちを召集する)
  天無氛穢 地絶妖塵 (天には悪い穢れがなくて、地には妖しい塵が絶える)
  冥慧洞清 大量玄玄 (奥深い智慧は明らかに澄みわたり、大いに深遠である) ”
    (「道教とは何か」松本浩一・著より)

 涙ながらに8歳の阿炳は父についでゆったりとではあるが呪文を唱え始める。しばらくするとなぜか気持ちは落ち着いてくる。とまあこういう風景があったのかもしれない。8歳ともなればもういっぱしの自意識が働く年頃であり、すれた子どもともなれば親の言うことなど聞かない。いやいやそれどころか親を言い負かすくらいのことはやってのける。

 阿炳ものんびりと育ったとはいえ既に8歳、親に対していっぱしの口くらいは聞いてもいいのだが、父母に甘えたい年頃には母は既になく、そして父親とも離れて過ごしていたことから久しぶりに会ってもなかなか父とも呼べない。ようやく「とうちゃん」と呼べるようになっても、修行のためには親子の関係を忘れなければならない。さびしかったことは間違いない。

 しかし父は阿炳のことを考え私塾にも通わす。道教の修行に読み書きの勉強、そして阿炳を待っていたのが音楽の修行であった。後年天賦の才能を発揮する阿炳の、その努力が才能を開花させる阿炳の修行の一歩が始まったのである。奇しくも20世紀という現在社会の世紀が始まった年でもあった。


無錫市・錫恵山の風景
 
  さて、清代末から中華民国の初めまで無錫の音楽界には傑出した人物が続出した。阿炳、劉天華、楊蔭瀏はよく知られているが、そのほか天韻社の呉宛卿(1847〜1926)、劉天華の二胡を引き継いだといわれる儲師竹(1901〜1955)がおり、そして民間芸人としては阿炳に遅れること9年、1902年に生まれた朱勤甫(1902〜1981)がいる。

  朱勤甫は“南鼓王”といわれた。字は順泉、幼名は阿南で、無錫・張郷朱巷の生まれである。幼いころに父を亡くし、おじの朱修亭に育てられた。朱修亭は職業道士で、道教の中の絲竹鼓楽に優れていて有名であった。朱勤甫は勉強をよくするとともに知らず知らず音楽にも影響されていった。

 8歳のときに朱修亭がある村に呼ばれ祭事(斎戒)を行なおうとしたとき、鼓手が一人足りなくて、朱勤甫が自ら望んで小道士として斎戒に加わった。彼はとても飲み込みがよく、《寿亭候》などわずか3日で習得してしまった。先輩道士にも学び技術が大いに進歩した、といわれている。彼は毎日朝から夜遅くまで熱心に学び、道教に使われる各種楽器、吹く、弾く、敲く、打つなど17歳ころにはすべてこなし、特に鼓を打つことには傑出していて、すでに名を成していた。

 このへんの音楽に対する努力と才能は阿炳によく似ているが、20歳のとき(1922年)朱勤甫は無錫城内に来て、雷尊殿にいた阿炳を尋ねた。彼らはすぐに旧知のように打ち解け、道教音楽を話し合った。阿炳は二胡、琵琶のほかに鼓もよくしたのでよき友人になった。

 鼓の歴史は長く民間音楽でも主要な位置にあったが、独奏というのはほとんどなかった。朱勤甫は大胆に刷新し、これまでの“法鼓三通”を鼓曲としてリズムに大きな変化をつけた。1921年8月アメリカボストン交響楽団が無錫の天韻社を訪ね、道教音楽の《十番鑼鼓》を聞いたが、このとき朱勤甫が鼓を担当しており、まるで奇跡の演奏だと認識された。8人の合奏で豊富多彩な鑼鼓音楽を奏でるのは前代未聞であった、と伝えられている。

 阿炳の歩む道に少しずつ直接間接に関わる人々が現れてくるのである。

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 さてこの時期、阿炳を取り巻く時代の状況はどうだったのか。

 日本社会は日清・日露の戦争をはさむ時期であり、経済的には大きな発展を遂げる。1897年には金本位制を実施し貿易が活発化することになるし、1901年には官営八幡製鉄所が操業を開始し、産業資本の確立期が始まることになるのである。

 日本の資本主義は政府の保護育成の本に形成され、その巨額の費用を投じてつくられた官営事業は政府と特権的に結びついていた政商に安い価格で払い下げられた。例えば鉱山が現在の三菱や三井といった会社に、造船所は三菱重工業や川崎重工業につながっているように、大きな利益をもたらしたのである。

 一方それに伴い、低賃金や長時間労働、非衛生的な環境で働かされる労働者からは社会・労働運動が起こるのである。1886年には記録に残る最初のストとして有名な甲府雨宮製糸工場のストがあり(賃金引下げ、長時間労働に女工達が反対)、1894年には大阪天満紡績工場でストが行われた。1901年には1891年に明らかになった栃木県・足尾銅山鉱毒事件に関連して田中正造が天皇に直訴した。

 1900年には治安警察法が公布され、1901年に社会民主党が結成されたが即日禁止となるなど政治面でも動きが激しくなる。この時期の明治政府は、1901年5月まで第4期伊藤博文内閣で、6月からは桂太郎が首相となり、1902年には日英同盟を締結し、さらに対外進出をもくろむことになる。



1900年前後の上海・南京路(「走在歴史的記憶里」上海科学技術出版社より)
 
 中国では義和団事件の後始末として1901年7月に清朝と列強との間で辛丑条約が締結され、清朝は賠償金4億5000万両を39年賦で払うことになった。支払いは中華民国に引き継がれ1940年にようやく完済したが、元利をあわせての支払いは10億両(約50兆円)にのぼった。同年11月李鴻章が亡くなっている。この李鴻章のあとを継いだのが袁世凱である。

 市井に関わるニュースでは、1902年1月に中国で始めての映画が北京で放映されたとある。あるアメリカ人が映写機を持ち込み、前門地区のとある場所で放映したとのことで、その内容は“美人が首を回して微笑したり、バレーをしたり”“黒人がスイカを食べたり”“自転車に乗っていたり”といったりした短い内容であったという。壁に光線から出た人が動くのを見た人は驚いたり怖がったり、あるいは喜んだりと反応は様々だった。

 またこの時期、自動車が中国にお目見えしている。袁世凱が「Duryea(ドゥーリエ兄弟が製作した車)」(1901年製)を慈禧太后(西太后)の66歳の誕生日にプレゼントしたとされ、また1902年3月には上海で自動車がハンガリー人によって持込され、街を走る最初の車(4輪怪物)となった、とある。
                                       (「旧中国大博覧」科学普及出版社より) 

 上海では清末最後の言論弾圧事件といわれる「蘇報事件」がおこっている。新聞「蘇報」はもともとは3流新聞だったが、1900年から経営者が変わり新思想を提唱して学生運動を支持したり、また愛国学社の蔡元培や章太炎、章士サらが文章を載せることになった。

 愛国学社は南洋公学という学校(教育内容は古臭かった)にいた蔡元培らが、学生の処分に反対する運動から学生200余人と南洋公学を退学し1902年11月に設立したもので、知識人らの中心として反清運動の論陣を張る場となった。そのため蘇報にも反清の革命を唱える文章が多くなったのである。

 1903年5月、日本にも留学したことのある19歳の鄒容が「革命軍」という文章を発表した。中国が清朝の束縛から脱しようとするなら革命しなければならない、と説く文章で、同じく6月の章太炎「康有為を駁し革命を論じる書」が蘇報に載せられたことから弾圧が始まったのである。蘇報社も愛国学社も租界内に会ったことから清朝は2人を直接逮捕することは出来ず、英、仏、米などの租界工部局に逮捕と引渡しを求めた。

 結局租界当局は引渡しは拒否したが裁判を行い、鄒容が2年、章太炎が3年の禁固刑と蘇報の発行禁止が言い渡された。鄒容は獄中で死亡したが、その死が逆に多くの知識人に影響を与え、初期の革命運動が盛り上がるのである。章太炎は1906年満期釈放とともに日本に渡り、日本における革命派の思想的指導者となるのである。

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 上海の日本人社会では在留者が1903年には2000人を越え、年を経るごとに増えていく。1901年には東亜同文書院が開校され、同じ年には日本海軍陸戦隊が上海に始めて上陸している。列強の清朝への侵出とともに、日本もじわりその勢力を広げていくのである。

                                (この稿「上海物語」丸山昇・著:講談社学術文庫、参照)                                                                                                                        (09.1.13記)

 8、1904年〜1905年(11歳〜12歳)・阿炳・修行が過酷に
 
 父・華梅雪の期待を担って阿炳の修行はますます激しくなっていく。11才の阿炳にとってはもちろん街中を駆け巡って悪ガキ達と遊びたかったかもしれないが、道院の環境がそれを許さなかった。

 阿炳が学ぶ道教は正一派だが、無錫正一派道士には2つの明らかな特徴がある、と銭鉄民は「阿炳と道教」という文の中で指摘している。つまり、「1、道士は小さいときから多くの時間を費やして芸を学ぶ。これらの芸を学ぶ方法や内容は代々伝えられてきたもので、近代劇団組織の教育・訓練とそれほど差はない。とりわけ重要視されるのは各種楽器を弾けるようになることで、そのため道士には多才多芸の者が多い。2、正一派の道教音楽は宗教儀式(齊事)のなかでは一貫性があり、音楽の形式内容は多様で豊富である」。

 そんな多様な音楽を身につけるためにも訓練は厳しかった。小道士は道院にはいると「鐃(にょう)ハチ」(西洋楽器のシンバルのようなもの)、「バツ」といった打楽器を敲くことから始める。そののち小鑼や木魚を学ぶ。そして道教音楽を知るにつれ笛を学ぶ。曲目はだいたい《歩歩高》、《清江引》、《酔仙劇》であった。

 練習はつらかった。阿炳は笛を持つ姿勢を保つのに腕力を増強するため、練習時に笛の端にはかりの分銅をぶら下げた。汗が滴る真夏も寒さが厳しい真冬もなく、もし寒い冬であればこそさらに広々とした場所へ行き、風に逆らって吹く。手指はかじかむが練習のあと息を吹きかけて熱を与え、笛の端に氷がつくまで(笛を吹く息が冷やされて水になり、さらに凍結して氷になる)練習したものである。


バツ(「中国楽器紹介」人民音楽出版社より)

小鑼

 小道士は昼間は皆について精進し、夜になると戻ってきて再び練習を始める。眠くならないように長イスの上に登って吹く。竹笛を学び取ると続いて笙やスオナー、あるいは弦楽器の練習をする。父の華清和は阿炳が音楽に対して高い才能を持っていたのを知っていた。他の子どもがバツをうまく敲けないときに、阿炳はりズムに合わせて曲を最初から最後まで敲いたし、また他の子どもが工四尺の唱いも満足にできないときに阿炳は頭を振り振り《歩歩高》を声高らかに唱っていた。

 しかし華清和は依然として厳しくしつけ、阿炳がきちんと学ぶことを求めた。阿炳は鼓を練習するとき太鼓のバチの替わりに鉄の箸を用い、鼓の替わりに綿座布団の上にレンガを並べて行なったが、レンガは一個ずつ壊れていき、綿座布団は中心がへこみ四方が高く聳え立つ様子で、手が痛くてお椀も持てなくなっても練習を休もうとはしなかった、と伝えられている。胡琴(二胡)や琵琶の練習ではいつも指から出血するほどでも休憩もせず、竹笛の練習ではどれほど多く長いすに上ったか知れず、経書を覚え経を読むなど徹夜して眠ることはなかった。

 華清和に対する敬服もあり、またこの小道士が聡明で利発、記憶力の良いことをその目で見ているから、洞虚宮の老道楽師たちは阿炳をこよなくかわいがった。阿炳が教えを請うなら老師たちは何でも手をとり足を取りねんごろに諄々と教えた。阿炳は朱道士に従事して《串枝蓮》を学び、また繆道士に《将軍令》を学んだ。

 とまあ阿炳の修行は道院の実情に伴っておこなわれたが、他の子ども達より才能があって努力したことは確かだろう。しかし才能があるということは目端が聞くということでもあり、一番遊びたい年頃ということでもあり、父の目をぬすんで息抜きもしたはずだ。時代は20世紀に入り長江最下流の上海の文化興隆とともに、無錫も様々な新生事物が入ってきた。

 修行に明け暮れる阿炳にとって初めて目にするものがまた強烈な印象となって頭に焼きついたことだろう。のち盲目の阿炳として街中で市井の人や出来事、事物を唄い、語る生活を送るときに、この子ども時代の何にでも興味を示すという行動が素地になっていたのではないか。

 例えば人力車である。無錫に現れたのは1905年だと「無錫野史(中国社会出版社)」は伝える。

 清末中華民国にかけて交通手段は大きく変化していった。陸路では徒歩からまず轎(駕籠)に変化した。最も一般庶民はそう簡単に利用できるものではなく、官僚、医師や名士といった裕福層がよく利用し、また結婚式や葬式などでは一般家庭も利用した。無錫の歴史書によると、轎(駕籠)には花轎、中轎、小轎があり、花轎には8人で担ぐ駕籠や16人駕籠などがあり地方の大官や官僚が利用した。中轎は前後2人ずつ担ぎ、一般に葬儀の時に子孫が父母を敬うために位牌を抱いて座りその中心を表したという。小轎は高駕籠とも称し、前後1人ずつで担ぎ名士が利用したとのことである。


客を乗せた人力車
(「走在歴史的記憶里」上海科学技術出版社より)
 
 しかし駕籠は人力車が現れると没落していった。人力車は日本に居留していたアメリカ人宣教師が発明したとの説もあるが、日本では鈴木徳次郎(及び和泉要助、高山幸助)が1868年に発明したとされている。

 1874年に上海にいたフランス人メナードが日本から輸入し、工部局の許可を得て人力車による運輸業を始めた。人力車は力車、東洋車とも呼ばれたが、特に上海では1913年に胴体部に桐油か黄色の漆を塗るように規定されたために、ここから黄包車と呼ばれるようになった。

人力車の上海での導入に比べて無錫での登場はかなり遅れることになるが、他の“文明道具”はわりとすぐに伝えられた(地理的にも文化的にも近いところに位置している)のに比べるとやや遅いかもしれない。それは人力車の車輪部分がゴムタイヤになったのが1892年以降ということで、街の社会資本の整備がさすがに上海に比べると遅れていることもあり、利用が充分大衆的になってから伝わったとも考えられる。

 阿炳も子供心になんて速くて気持ちのよさそうな乗り物だろう、と思ったかもしれない。

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さて時代はますます動いていく。1904年には日露戦争が勃発している。日本とロシアの戦争といっても阿炳たち中国人に関係しないかというと全くその逆で、戦争の経緯やその後の事態はまさに当時の清朝の衰退と大きく関係していたのである。

 1894年に勃発した日清戦争は日本の一方的な勝利に終わり、大陸への侵出をもくろむ日本は講和条約で清から遼東半島、台湾、澎湖島を割譲することとなった。ところが清朝の弱体化を目の当たりにした列強各国は大陸の分捕り合戦に乗り出す。極東への侵出と不凍港獲得を目指すロシアがドイツ、フランスを誘い、日本政府に遼東半島の領有権を放棄すべきと迫ったのである。のちにいう三国干渉である。結局日本は遼東半島を放棄することになるが、これ以降ロシアが日本の大陸権益に直接ぶつかる相手となった。

 1902年にはロシアへの対抗上から日英同盟を結ぶ。それ以降ロシアの中国大陸、朝鮮半島との国境近くでの活動が活発化し、ついに1904年に日露戦争となるのである。旅順の戦い(203高地奪取)や日露陸軍がぶつかり合った奉天大会戦、そしてバルチック艦隊と連合艦隊による日本海海戦などでかろうじて勝利を得た日本は、1905年になるとアメリカ大統領ルーズベルトに講和の斡旋を依頼することになる。

 実はこのころの日本は兵力も予備軍、後備軍を召集する状況であり、財政的にも破綻寸前であったのである。一方ロシアは当時の世界最強の陸軍国で財政的にも戦争継続は出来たが、国内で革命機運が盛り上がっている(1905年1月9日、主とペテルブルグで平和なデモ行進に軍が発砲、1000人余りが死亡したといわれる「血の日曜日事件」がおこった)ことから戦争継続は得策でないと判断して、結局1905年9月5日にポーツマス条約が調印され講和がなったのである。日本はこれによって朝鮮半島の権益を確保し、さらに南満州に足場を築いたということで本格的に中国大陸侵出を図ることになるのである。


水師営の会見(「秘蔵写真日露戦争」新人物往来社より)
 
 日露戦争は日本とロシアの戦争であったが戦場はまさしく中国(清朝)領土であった。清朝は局外中立を宣告せざるを得なかったが、直接被害を受けたのは中国の民衆であった。戦争区域では砲火で建物を焼かれ、家畜や農作物は奪われ、そして理由もなく殺された民衆も多かった。戦争終結後は以前にまして列強の領土簒奪競争は強まり、それに対して既に腐敗していた清朝はなんら抵抗できなくなっていた。

 しかしこのころから中国の青年、知識人による革命運動が急激に盛り上がっていくのである。1897年から日本にいた孫文(1866〜1925)は、1905年8月20日東京・赤坂で中華同盟会結成大会を開いた。清朝打倒を目指す革命団体であった興中会や華興会、光復会が連合し、孫文を主席として革命運動を目指すもので、反清とともに民主し思想を宣伝する一大団体となり、それ以降会員達が次々と帰国し運動を拡大していくのである。

 中国への侵出を公にした日本という国の中で、当然将来清朝を打倒したのちは列強の侵出排除、中国独立という道を歩むはずの孫文ら中国革命家たちが大会を開いたという事実は、当時の日中関係を表していて面白い。

 阿炳にとっても人ごとではなかった。これまでは本人が小さかったこともあり、また歴史に残る事件が遠くはなれた地で起きていることもあり、自分に関わるものとして実感できなかったのである。しかしこの年既に12歳。世の中のことを知ろうとするには遅すぎないし、また長江下流域は欧米各国の権益争いが激化しており、孫文らの影響を受けた革命運動があちこちで起こり始めた時期でもある。

 巷の噂話に耳ざとい阿炳だ。大人たちが噂する“革命運動”という言葉に意味がわからなくとも新鮮な響きを感じ取っただろう。道教の弟子として音楽修行が最も厳しくなる時期に、知らず知らずのうちに身についていった外の世界の知識は、のち音楽と融合して彼の行動を促す大きな動機ともなっていく。
                                                                                                                            (09.3.4記)

 9、1906年〜1907年(13歳〜14歳)・阿炳・世の中に目を向ける

 1906年、13歳になった阿炳の道教と音楽の修行は続く。その才能の素地があればこそ、この時期の柔軟な頭と体は水が砂に吸い込まれるように、道教と音楽の要素を吸収していく。もちろん阿炳なりの独特の修行も交えてである。

「阿炳、どこへ行くんだ
「ん、ちょっと公花園まで」
「今日は何があるんだい」
「はは、いつものオジさん連中が昆曲をうなっているのさ。なかなかいい節回しだよ」

 厳しい修行の合間に仲間はほっとしてしばしの休憩を取るけれども、阿炳は時間があると見るやすぐ裏手にある無錫公花園(現在の城中公園)に出かけた。公花園は前年の1905年に富裕層が資金を提供し、以前からあった私的な花園を集めて公園としたもので、たちまち庶民の人気を博した。散策はもちろんのこといつの間にか唄や踊りの輪ができ、それに琵琶、笛など楽器を持参する人も増え、いつも賑わうようになっていた。

 もともと近所の崇安寺の門前には毎日街頭芸人達が集まっていたのだが、当然人の集まる公花園にも来る事になり、素人の芸から皆をうならせる巧みな芸をする集団までそろい、まさに無錫のホットスポットになっていくのである。

 目ざとい阿炳がこれを見逃すはずはない。道観での修行は阿炳にとって街角での庶民の芸とあいまって初めて現実のものとなったのである。


道教音楽(「無錫民楽」江蘇人民出版社より)
 
 さて、道教とは端的に言えば「宇宙に満ちている“気”を操作して生命力を獲得する」ものである。気、つまり生命エネルギーを体内に取り入れ悪いところを治療もできる。修行活動の一つに導引がある。導引とは「気を導いて和らげ、体を引いて軟らかくする」ことを指すもので、まあいわば柔軟体操と呼吸法を組み合わせたようなものである。少年阿炳にとってはむしろ格好の息抜きであったろう。

 父の華清和は音楽の素養はもちろんだが、阿炳には自分の後をついで道観の主持になってほしいとの思いがあるから修行は厳しかったはずだが、阿炳にはむしろ音楽の才能があると感じていた父親は多少のことには目をつぶり、徐々に音楽の能力を伸ばすようにしていったと、筆者は考える。

 もともと無錫道教には音楽(というか芸術・芸事)に大きな特徴があったからである。阿炳の学習には無錫道教の3つの明らかな特徴が反映されていた。1つは、道士は芸事を習熟するのに多くの時間を使うがそのときの芸の伝授形式や学習内容は代々しきたりを踏襲する方法であり、いわば戯曲の組織的な伝授法に近く、そこで各楽器を学ぶことができるので、無錫の道士はそれぞれ多才多芸となる。2つ目は正統派の道場では常に道教音楽の形式多様性が貫かれ内容を更新している。そして3つ目は道教音楽の演奏技術が重要視され、無錫の道教では道士の良し悪しをはかるのに“做家主(演奏楽器)”が重要な位置を占め、それが宮観道院の名誉に直接影響するし、収入の多少を決定するからである。

 父親にとって阿炳が少々街へ出ようが、以前にはなかった自主性と積極性が出たことのほうが重要であった。

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 さて時代は清朝が倒れる前夜である。のちに中国共産党の政治史を飾る人物が何人も無錫から出ている。1906年に生まれたのは陸定一(1906〜1996)と潘漢年(1906〜1977)である。

 陸定一はもともと旧時の読書人・学者の家柄の出であり、“実業救国”の考えの下に上海南洋大学(現在の上海交通大学)電気工学科に入学した。1925年に中国共産党に入党しそれ以降革命に従事することとなる。組織の中では宣伝担当になることが多く共産党中央宣伝部長なども歴任したが、その知識人としての素養が邪魔をしたのか組織上では役職を何度も罷免されるなど起伏の多い人生を送った。文化大革命では迫害を受け13年にわたって監禁され、1979年に名誉回復された。

 潘漢年も読書をよくし宜興凌霞学堂、彭城中学や無錫国学専修館などで学び、1925年上海に赴いて中国共産党に入党する。文学青年として才能あふれる潘漢年は文化方面の工作を担当する。1930年の左翼作家連盟の結成にも動き、また魯迅との対立・論争もあった。

 1931年以降彼は統一戦線工作に従事し、上海や香港での特務工作やモスクワに赴いての国民党との合作工作などにその才を発揮する。しかし地下活動は当然敵と目される人物や組織とも接触するし、金銭の扱いも桁が違う。そんな過去のためだろう1955年潘漢年は反革命分子として逮捕され、査問を受けるのである。

 江南地方出身者であり、また知識人という柔軟性を発揮したことが、結局共産党に貢献したものの圧迫も同時に受けることになった。彼らの共通点といえるものである。

 1907年には秦邦憲(1907〜1946)が生まれている。中国現代史を学習する人にとっては博古という別名のほうが有名かもしれない。秦邦憲も1925年上海大学社会学部に入学し、10月には中国共産党に入党している。1926年モスクワへ派遣されマルクスレーニン主義を学ぶが、ソ連共産党の組織思想を受け入れたことが帰国後毛沢東らと対立する原因となるのである。博古という名前はこのとき付けられたものである。

 帰国後共産党中央の責任者となるのであるが、彼の指導は左傾教条主義と批判され、いわゆる長征が始まったのち誤りを認めることになる。しかし任務には忠実であり1936年蒋介石が張学良に幽閉されるという西安事変の折には、周恩来とともに共産党代表団として事件の収束に力を尽くした。のち「解放日報」、新華通信社の社長をつとめ、新聞・マスコミ工作に携わった。1946年重慶で国民党との談判を終えて延安に変える途中飛行機が墜落して死亡した。


秋瑾
 
 この1907年には著名な女性革命家・秋瑾が処刑されている。秋瑾は1875年生まれ、原籍は紹興(そう、魯迅の生家があり紹興酒で有名な紹興である)だが、祖父が厦門の長官として赴任したために厦門で生まれている。秋瑾の母親は教養豊かな人であり、秋瑾は幼いころから詩や絵に親しみ、また乗馬や撃剣など武術も好み、豊かな感受性をはぐくむとともに社会への関心も高めていった。

 当時の習慣として父親の定めた相手と1895年結婚する。湖南省の豪商の息子であるが、学問を好む秋瑾とはそもそも性格が合わず、子どものために北京に住むことがその後の秋瑾の運命を決定づける。北京で政治の風に触れ、また京師大学堂(北京大学の前身)の教授だった服部宇之吉夫人・繁子の勧めもあって日本留学を決意する。

1904年来日、青山実践女子大学に入学し教育学や看護学を学びまた射撃の練習にも明け暮れた。05年孫文が率いる「中国同盟会」に参加、のち浙江省の革命団体「光復会」に入会し、革命活動に力を注ぐことになる。このころ清朝からの留学生に対する取締りが強化され、学生達は反対運動を起こすとともに帰国運動を進める。留学生たちの集会で秋瑾はいつも身につけていた短刀を机に突き刺し、退学に反対する留学生を威嚇した、というエピソードが残っている。

 帰国後は紹興に居を構え、大通学堂を開講して革命を目指す青年を教育し、また上海で「中国女報」を創刊するなど女性解放運動にも目を向けた。しかし1907年7月、安徽省で武装蜂起を計画した同志の徐錫麟が連絡不十分で先に行動を起こすもののたちまち鎮圧され、密告もあって秋瑾の浙江省でも蜂起計画も察知され、ついに逮捕される。逮捕から2日後の7月15日斬首される。享年31歳。「秋風秋雨、人を愁殺す」が遺句であり、後年多くの人の口に上った。

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さて、06年上海の日本人居住者(届け出人数である)は6000名近くになっていた。日露戦争後の状況を反映して大陸に足を踏み入れる日本人が増えてきており、もちろん上記人数以外にも様々な人がいたはずだ。

 日本は産業資本の確立期にはいっており、それにあわせて社会運動も激しさを増してきていた。1906年に日本社会党結成されたが、翌1907年2月禁止される。またこの1907年2月には足尾銅山の坑夫たちが賃上げを要求したが、会社側が組合幹部を逮捕するなどしたため会社に抗議。暴動事件となったが軍隊が鎮圧することになった。労働者の権利を守ろうとする活動に政・官・財が協力して押さえ込もうとする時代に入ったのである。
                                                                                                                                         (09.4.3記)

 10、1908年〜1909年(15歳〜16歳)・阿炳・楽器を習熟す

 1908年から09年にかけては阿炳にとって、その人生に一つの転機を迎えた年だったといってもいいだろう。幼いころから道士の修行をし道教音楽楽器を学んでいた阿炳は既に満16歳、数えでいえば17歳になっており、当時として大人の世界へ入る年齢であった。

 父の華清和にとっても道院の経営が上手くいくかどうかは、つまりは生活を安定させることにつながるから、息子が厳しい修行を耐え抜いたことには満足であった。もちろん信心と道教音楽への傾倒は本物であるが、父としてまた道院の経営にも心を砕かなければならなかった。

 父親の思いは別にして、阿炳はあるときは父親に反発を覚えながらも身につく音楽が心地よくて、結局は自分自身ものめりこんでいった。“音”は如実に努力と成長に反応してくれるし、技量が伸びれば自ら工夫も付け加えられる。幼年期に外を走り回り遊びを覚えていったのと同じような感覚で音楽に対する興味が高じていったのだろう。

 そんな努力が実ってこのころには既に評判を得て、無錫道教界では少年道士・阿炳は知られた存在になっていた。そのときのエピソードにこういうのがある。

 「ある鎮守の縁日の催しに太鼓楽隊を統べて演奏したこともあった。それは菩薩生誕を祝うということで、無錫の各道院でそれぞれ自分達の音楽の演奏を見せる活動だった。雷尊殿の道教音楽班は演奏する直前、1人のベテラン鼓手が病気の再発でたたけなくなり、困った華清和は音楽師と相談し、どうしようもないということで阿炳に太鼓を受け持たせた。華清和が思いもよらないことに、音楽が始まると阿炳は拍子もしっかり、緩急に味わいがあり、慫慂として穏やかで情があり、さわやかな音を出して敲き終わると、ともに演奏していた楽師たちは阿炳の打鼓技術に皆感服してしまった。“おやおや子供なのに。われわれは長年太鼓をたたいているが、これほどうまくはいかないよ”」

 まあ阿炳伝に載っている話なのでちょっとほめすぎかもしれないが、この時期いずれにしても阿炳の名前が知れたこと、そして仲間が一目置くほどに楽器に習熟していたことは事実のようである。阿炳の最初の人生の転機であったとも言える。

 後年、といってもこれからたった5,6年後のことだが、父が亡くなるとともに阿炳は遊びに精を出す(酒、女、阿片)ことになる。それが盲目になった原因ともいわれているのであるが、音楽への傾倒は変わらないまでも厳しい修行の時間を取り戻したいという気持ちや、父への内心の反発が阿炳の心のタガをはずしたといっても責められないであろう。

 しかし音楽に習熟した故の高慢ちきな鼻が高くなったというのも事実だろう。無錫の道教仲間に一目置かれたということは、若い阿炳にとって自慢以外の何者でもなかったし、父親へは彼なりの自尊心で対抗するところまできたということである。

 これから数年間、父が居る間はまだまだ修行の身として扱われるが、阿炳の精神は体の成長より一足早く世間に出て行ったというところだろう。自分でコントロールする術はもちろんまだ身についていなかったのである。


阿炳故居
 
 阿炳が新しい転機を迎えたころ、中国社会もまた変化を迎えた。落日を迎えた清朝末期で半世紀にもわたって権力を保っていた西太后が亡くなるのである。それ以前に戊戌の政変(1898年)で光緒帝を幽閉し再び実権を握ってきた西太后であったが、1908年11月体調がすぐれず病床についた。既に光緒帝は長い間幽閉されていたために肺結核に罹り病状が悪化し、いつ亡くなっても不思議ではない状況であった。

 そこで西太后は光緒帝にとって甥にあたる溥儀を皇太子に指名した。光緒帝が亡くなった時点で幼子の太皇太后としてさらに実権を振るう予定だったといわれている。光緒帝は次期皇帝指名の翌日(1908年11月14日)亡くなった。しかし予想外だったのはその報を聞いた西太后自身も様態が悪化し、11月15日に亡くなってしまうのである。光緒帝は死は自身の余命を考えた西太后が暗殺させたためという噂がながれた。

 何れにせよ清朝は本当に最後の場面を迎えたのであった。“末代皇帝(最後の皇帝)・宣統帝”となった溥儀(1906〜1967)は、中華民国が成立してからは紫禁城内部で生活をし、そののち日本軍に担ぎ出されて満州国皇帝となり、第2次大戦後はソ連軍につかまり抑留されたのち中華人民共和国に身柄を移され政治犯収容所に収容されることになる。1959年に模範囚として釈放され、その後一市民としての生活を送った。その生涯は20世紀の歴史に翻弄される姿としてご存知の通りである。

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 政治が大きく動いていたこの時期、社会的には様々な新しい事物が登場した。阿炳の住む無錫は長江下流ということで、国際都市・上海から大きな影響を受けてきた。生活に関わる事物についても上海に導入されたものは時間をおかずに伝えられただろう。

 近代化の象徴といえば交通手段である。上海では1876年に上海市内部と呉淞を結ぶ淞滬(しょうこ)鉄道が英国資本によって敷かれたが、これは清朝政府に買収され取り壊された。1898年にあらためて淞滬鉄道は建設されたが、上海から無錫を通って南京にいたる311kmの滬寧(こねい)鉄道が1908年に開通した。また上海・杭州間の滬杭(ここう)鉄道も1908年に開通している(両方の鉄道の開通は1909年という文献もある)。

 人とモノの移動がよりスムーズになったわけで、特に無錫は上海と南京の中間点にあるという地理的条件をこれ以降生かすことになるのである。
  

路面電車(「旧中国大博覧」科学普及出版社より)


上海ではこのほか1908年3月のフランス租界で初めて路面電車の営業が始まった。外灘(バンド)〜静安寺約6キロの路線である。約1ヶ月遅れて共同租界でも運転が始まったが、巨大都市に大量輸送手段という新たな交通体系を持った上海はさらに近代化を加速するのである。

 路面電車にはいろいろなエピソードがあった。「乗ったら感電して死んでしまうぞ」というような流言もあったそうだが、当初の路面電車には1等と3等があり、1等には中国人は乗れないという差別もあったのである。また交通事故という新たな事物も生み出した。

 路面電車に対抗して、上海では1914年にトロリーバスが、1924年にバスが運行されることになる。市民の足として利用されてきた路面電車は、現代中国になると交通渋滞を起こすとの理由で撤去を余儀なくされ、上海の中心街南京路では1962年に撤去された。

また同じく1908年にはタクシー会社がアメリカ資本によって創設された。料金が高いためもっぱら外国商人を送り迎えするのに使われたが、タクシー業界が発展するのはもっと後のことである。

 そして1909年に内陸の大都市である重慶と上海を直接結ぶ長江で、汽船が往復する航路が開かれた。増水期には1000トン級の汽船が往復したという。内陸の四川省と沿岸諸都市を結ぶこの航路には、後年中華人民共和国の指導者となるケ小平(1904〜1997)がフランスへ勤工倹学という留学の旅に出るとき(1920年・16歳)乗船し、故郷を離れたのである。上海に出るまでの途中、長江沿いの景色を見ながら様々な思いが去来したのに違いないだろう。                  
                                  (この稿「上海職業さまざま」菊池敏夫・著:勉誠出版、参照)

                                                          (09.5.2記)
 

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