1908年から09年にかけては阿炳にとって、その人生に一つの転機を迎えた年だったといってもいいだろう。幼いころから道士の修行をし道教音楽楽器を学んでいた阿炳は既に満16歳、数えでいえば17歳になっており、当時として大人の世界へ入る年齢であった。
父の華清和にとっても道院の経営が上手くいくかどうかは、つまりは生活を安定させることにつながるから、息子が厳しい修行を耐え抜いたことには満足であった。もちろん信心と道教音楽への傾倒は本物であるが、父としてまた道院の経営にも心を砕かなければならなかった。
父親の思いは別にして、阿炳はあるときは父親に反発を覚えながらも身につく音楽が心地よくて、結局は自分自身ものめりこんでいった。“音”は如実に努力と成長に反応してくれるし、技量が伸びれば自ら工夫も付け加えられる。幼年期に外を走り回り遊びを覚えていったのと同じような感覚で音楽に対する興味が高じていったのだろう。
そんな努力が実ってこのころには既に評判を得て、無錫道教界では少年道士・阿炳は知られた存在になっていた。そのときのエピソードにこういうのがある。
「ある鎮守の縁日の催しに太鼓楽隊を統べて演奏したこともあった。それは菩薩生誕を祝うということで、無錫の各道院でそれぞれ自分達の音楽の演奏を見せる活動だった。雷尊殿の道教音楽班は演奏する直前、1人のベテラン鼓手が病気の再発でたたけなくなり、困った華清和は音楽師と相談し、どうしようもないということで阿炳に太鼓を受け持たせた。華清和が思いもよらないことに、音楽が始まると阿炳は拍子もしっかり、緩急に味わいがあり、慫慂として穏やかで情があり、さわやかな音を出して敲き終わると、ともに演奏していた楽師たちは阿炳の打鼓技術に皆感服してしまった。“おやおや子供なのに。われわれは長年太鼓をたたいているが、これほどうまくはいかないよ”」
まあ阿炳伝に載っている話なのでちょっとほめすぎかもしれないが、この時期いずれにしても阿炳の名前が知れたこと、そして仲間が一目置くほどに楽器に習熟していたことは事実のようである。阿炳の最初の人生の転機であったとも言える。
後年、といってもこれからたった5,6年後のことだが、父が亡くなるとともに阿炳は遊びに精を出す(酒、女、阿片)ことになる。それが盲目になった原因ともいわれているのであるが、音楽への傾倒は変わらないまでも厳しい修行の時間を取り戻したいという気持ちや、父への内心の反発が阿炳の心のタガをはずしたといっても責められないであろう。
しかし音楽に習熟した故の高慢ちきな鼻が高くなったというのも事実だろう。無錫の道教仲間に一目置かれたということは、若い阿炳にとって自慢以外の何者でもなかったし、父親へは彼なりの自尊心で対抗するところまできたということである。
これから数年間、父が居る間はまだまだ修行の身として扱われるが、阿炳の精神は体の成長より一足早く世間に出て行ったというところだろう。自分でコントロールする術はもちろんまだ身についていなかったのである。
阿炳故居
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阿炳が新しい転機を迎えたころ、中国社会もまた変化を迎えた。落日を迎えた清朝末期で半世紀にもわたって権力を保っていた西太后が亡くなるのである。それ以前に戊戌の政変(1898年)で光緒帝を幽閉し再び実権を握ってきた西太后であったが、1908年11月体調がすぐれず病床についた。既に光緒帝は長い間幽閉されていたために肺結核に罹り病状が悪化し、いつ亡くなっても不思議ではない状況であった。
そこで西太后は光緒帝にとって甥にあたる溥儀を皇太子に指名した。光緒帝が亡くなった時点で幼子の太皇太后としてさらに実権を振るう予定だったといわれている。光緒帝は次期皇帝指名の翌日(1908年11月14日)亡くなった。しかし予想外だったのはその報を聞いた西太后自身も様態が悪化し、11月15日に亡くなってしまうのである。光緒帝は死は自身の余命を考えた西太后が暗殺させたためという噂がながれた。
何れにせよ清朝は本当に最後の場面を迎えたのであった。“末代皇帝(最後の皇帝)・宣統帝”となった溥儀(1906〜1967)は、中華民国が成立してからは紫禁城内部で生活をし、そののち日本軍に担ぎ出されて満州国皇帝となり、第2次大戦後はソ連軍につかまり抑留されたのち中華人民共和国に身柄を移され政治犯収容所に収容されることになる。1959年に模範囚として釈放され、その後一市民としての生活を送った。その生涯は20世紀の歴史に翻弄される姿としてご存知の通りである。
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政治が大きく動いていたこの時期、社会的には様々な新しい事物が登場した。阿炳の住む無錫は長江下流ということで、国際都市・上海から大きな影響を受けてきた。生活に関わる事物についても上海に導入されたものは時間をおかずに伝えられただろう。
近代化の象徴といえば交通手段である。上海では1876年に上海市内部と呉淞を結ぶ淞滬(しょうこ)鉄道が英国資本によって敷かれたが、これは清朝政府に買収され取り壊された。1898年にあらためて淞滬鉄道は建設されたが、上海から無錫を通って南京にいたる311kmの滬寧(こねい)鉄道が1908年に開通した。また上海・杭州間の滬杭(ここう)鉄道も1908年に開通している(両方の鉄道の開通は1909年という文献もある)。
人とモノの移動がよりスムーズになったわけで、特に無錫は上海と南京の中間点にあるという地理的条件をこれ以降生かすことになるのである。
路面電車(「旧中国大博覧」科学普及出版社より)
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上海ではこのほか1908年3月のフランス租界で初めて路面電車の営業が始まった。外灘(バンド)〜静安寺約6キロの路線である。約1ヶ月遅れて共同租界でも運転が始まったが、巨大都市に大量輸送手段という新たな交通体系を持った上海はさらに近代化を加速するのである。
路面電車にはいろいろなエピソードがあった。「乗ったら感電して死んでしまうぞ」というような流言もあったそうだが、当初の路面電車には1等と3等があり、1等には中国人は乗れないという差別もあったのである。また交通事故という新たな事物も生み出した。
路面電車に対抗して、上海では1914年にトロリーバスが、1924年にバスが運行されることになる。市民の足として利用されてきた路面電車は、現代中国になると交通渋滞を起こすとの理由で撤去を余儀なくされ、上海の中心街南京路では1962年に撤去された。
また同じく1908年にはタクシー会社がアメリカ資本によって創設された。料金が高いためもっぱら外国商人を送り迎えするのに使われたが、タクシー業界が発展するのはもっと後のことである。
そして1909年に内陸の大都市である重慶と上海を直接結ぶ長江で、汽船が往復する航路が開かれた。増水期には1000トン級の汽船が往復したという。内陸の四川省と沿岸諸都市を結ぶこの航路には、後年中華人民共和国の指導者となるケ小平(1904〜1997)がフランスへ勤工倹学という留学の旅に出るとき(1920年・16歳)乗船し、故郷を離れたのである。上海に出るまでの途中、長江沿いの景色を見ながら様々な思いが去来したのに違いないだろう。
(この稿「上海職業さまざま」菊池敏夫・著:勉誠出版、参照)
(09.5.2記)
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