ホーム 新着情報 月下独酌 中国音楽フェスティバル 中国・音楽の旅  中国香港台湾催し案内
アジア音楽演奏会紹介 モモの音楽日記  アジアの微笑み 上海コレクション 演奏家の世界

中国・音楽の旅


阿炳(ア-ピン)外伝・3:阿炳とその時代B(1910年〜1918年)
 15、1917年〜1918年(24歳〜25歳)・阿炳と上海


 阿炳の失明は生活の乱れが原因だとする説が一般的だが、その悪習に染まる中で雷尊殿の経営は父から受け継いだ当初はまだうまくいっていた。

 無錫文化叢書・無錫民楽「阿炳、その人と足跡」(江蘇人民出版社2006年に)によると、「(父親である)華雪梅の名は殿外でも有名であったし阿炳も運営の天賦があり、父親が存命中は雷尊殿の管理は整然としていたので、雷尊殿の斎事は盛んであり参拝客も多くお布施も多かった。道士・王士賢の回想では、『阿炳は道院を主宰運営する立場を守り、客師はそれぞれの行事に目を配り注意深くつつしんでいた』」。

 しかし「雷尊殿の没落は阿炳がアヘンにはまり娼館通いの悪習から始まった。アヘンを吸い始めてから阿炳は斎事をサボり、娼館で性病に罹り、その感染後徐々に両目を失明した。経済的には収入不足で生活はだらしがなくめちゃめちゃになり、貧しさに病が加わり、雷尊殿の斎事はわずかになり、道院の法器を売ることで日々を過ごすことが始まり、最後には道院の財産を売り始めた」。

 阿炳が完全失明するのはまだ先で、また上記に言うように道院の財産を売る生活に陥るのは阿炳が30歳を過ぎるころと考えられるが、この24歳〜25歳ころには悪習にどっぷりとはまり始めていた時期と言えるだろう。何せまだ雷尊殿には参拝客が多く来るし、阿炳の音楽の評判も落ちてはいないと考えられるからである。

 だが時は容赦なく過ぎる。阿炳が内向きの生活に入り始めたこの時期、世界の情勢は大きく変化し、また無錫が常に影響を受けてきた上海でもさまざまな出来事が生まれるのである。


現在阿炳記念館の中にある阿炳故居への通り

 1917年9月、上海・北四川路の魏盛里という弄堂(横丁)の一角の家に、「内山書籍店」という小さな看板がかけられた。家の狭い土間に、空になったビール箱に古板で2段の棚を作り、80冊余りの聖書や賛美歌などキリスト教関係の本が並べられた。これが内山書店の出発である。書店を開いたのはのち魯迅(1881〜1936、本名:周樹人)などと交流を深めた内山完造(1885〜1959)である。

 内山完造は1913年参天堂製薬から目薬の宣伝販売員として上海へやって来た。28歳のときである。目薬の販売のため長江沿いの各地を訪ね歩き、家を留守にすることの多い内山は、妻のために何か気晴らしになる内職はないかと考え、自宅で本屋を開くことを思い立ったという。1924年には自宅の向かいにある空き家を買い求め、本格的な独立した書店となる。

 その前後から内山書店は在上海の日中文芸愛好家の溜まり場となり、やがて「文芸漫談会」というサロンになる。この漫談会には日本留学の経験のある中国人が多く集まり、田漢や欧陽予倩、鄭伯奇らがおり、のち郭沫若や郁達夫など、作家や政治家として名を残すメンバーがいた。

 そして1927年10月5日内山完造は魯迅と出会うのである。魯迅はこのころ広州から上海に移ってきたばかりであり、内山書店から歩いて10分ばかりのところに居を構えており、散歩がてら内山書店に来ては内山の配慮で書店の一角に設けてあった茶席で主人の内山と座談にふけっていたのである。内山と魯迅の関係は魯迅が亡くなるまで続く。魯迅は1920年代後半の国民党による左翼作家の弾圧の時期に、内山らの助力で上海・虹口の日本人街を転々とし隠れていた。

 内山は日本軍とつながりを持つ自警団からは中国に近いスパイ視されていたが、日中両国人わけ隔てなく付き合い、上海事変など戦火の下では炊き出しをするなど近隣の人々にも信頼されていた。1936年魯迅が亡くなったとき新聞に広告された「魯迅先生治喪委員会」の13人の中に2人の外国人の名前があったが、その1人が内山完造であった(もう1人はアメリカの女性ジャーナリストのアグネス・スメドレー)。

 1945年日本の敗戦と共に内山書店は中国に接収される。その後しばらく中国機関で文化関係の仕事についていたが、1947年内山は日本に帰国。その後日本と中国の関係改善に尽力し、1959年訪問先の北京で客死した。74歳であった。遺骨は遺言に従い、上海の万国墓地に埋葬されている。


魯迅(左)と内山完造


 内山が書店を始めた1917年、長期化した第1次世界大戦は大戦参加国に大きな被害を与えていた。これまでの戦争と違い前線での兵士の戦いに終わらず、国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることになったのである。したがって引き起こされた人的物的被害は莫大なものになり、それが大戦参加国の国民の疲弊をもたらし、政府に対する不満も高まっていった。

 ロマノフ王朝のロシアでは1917年3月、大戦と前年の大寒波の影響で食糧不足に抗議する市民のデモが始まり、そこに兵士や社会主義活動を進める政党も含めて大きな運動となったため、時の皇帝ニコライ二世が退位し300年井及ぶロマノフ王朝が崩壊した。そしてレーニン(1870〜1924)が指導するボリシェビキが勢力を強め、戦争を継続する社会革命党への批判が高まるなか、11月に武装蜂起して首都ペテログラードの冬宮を占領し、ソヴィエトの成立を宣言した。いわゆるロシア11月革命(旧暦では10月革命)である。

 このロシア革命に対して影響を警戒した連合国(日本、イギリス、アメリカ、イタリア、フランスなど)は1918年8月シベリアに取り残されたチェコ軍救援を名目に出兵した。地理的に近い日本は最大の軍事力を動員(約7万人)を動員してウラジオストックからバイカル湖まで占領地を拡大した。列国は1920年に撤退したが日本軍は単独で駐留を続け、各国からも領土的野心を疑われ、また村や町を焼き払う蛮行に兵士の士気も低調であり、結局1922年に撤兵した

 同時期日本では寺内正毅内閣が成立しており、第1次世界大戦当初は戦争景気で工業生産額は飛躍的に伸び労働者の賃金も上がったが、好景気によるインフレーションで実質賃金は下がるようになった。このインフレ傾向と、上記のシベリア出兵をあてこんだ米商人の買占めや売り惜しみのため、1916年から18年にかけて米の値段が3倍に暴騰した。これに怒った富山県の主婦達の抗議運動から、1918年7月に全国的に米騒動が起こったのである。

 日本でも農民運動、労働運動がこれ以降大規模に起こることになるのである。


鄭覲文

 さてこの1918年に上海では鄭覲文(1872〜1935)が中国民族音楽史のうえで新たな活動を開始している。鄭覲文は江陰(劉天華の故郷でもある)の生まれ。小さいときから民族音楽を親しみ、琵琶や古琴を学び12歳の時には絲竹の腕前は相当なものであったという。特に古琴の腕は飛びぬけていた。

 1911年に上海に行き私立倉聖明智大学で古楽を教え始めた。上海で西洋文化に触れた鄭覲文は西洋の交響楽団のような民族楽団を作ることを思いをはせ、1918年に「国楽を整理し、楽器を作り、人材を育てる」楽会を作ることを呼びかけた。それが「琴瑟楽社」であり、1920年には上海申報館総経理の史量才や琵琶演奏家の汪c庭、昆曲の楊子咏等の支援も得て「大同楽会」と名前を変えて新たな出発をした。

 大同楽会は初期には各種古楽器の複製や楽譜の整理をよくし、1920年代から40年代にかけては規模が最も大きな民族楽団としての演奏も続けた。《春江花月夜》などの名曲の演奏は特に評判を得た。しかし1935年鄭覲文が亡くなると大同楽会の活動は徐々に停滞し、1937年以降は名前のみが重慶に移ることになった。しかし楽団ということに注目した鄭覲文の意思はその後さまざまな人に受け継がれていく。 

                                                          (09.12.15記)

 14、1916年(23歳)・阿炳と劉天華と周少梅


 前年の父の死の痛手からは抜け切れていないが、阿炳という跡取り息子がいるということで雷尊殿の経営はとりあえず平衡を保っていた。訪れる人も例年並だし収入も極端に減ることはない。阿炳にとってはとにかく日常の業務をこなすことが最優先で、或る意味淡々とした日常を送っていたのだろう。

 実はこの時期の阿炳についてはその動静が良くわかっていない。伝記(あるいは伝記らしきもの)にも20代前半の阿炳についてはほとんど触れられていない。日常業務をこなさなければならない阿炳は、酒楼で妓姑に入れあげるのではなく、道観で淡々と酒を飲んでいたのかもしれない。いずれにしてもこの数年がのちの失明につながっていたのは確実であり、その生活が乱れていたのかもしれない。

 この時期阿炳を含んだ3人の民族音楽家が微妙に交差することになる。

 1人は劉天華である。劉天華は1911年の辛亥革命の後、兄の劉半農と共に上海へ赴き生活の道を図ることになる。上海で劉天華は開明劇社に職を得ることとなった。開明劇社はいわゆる中国の新文化運動で生まれた話劇団で、劇団は楽隊を持っており、劇の合間や休憩時に演奏をおこなっていた。もっぱら西洋楽器を使っていたので、劉天華はここで、管楽器やピアノ、バイオリンを学ぶこととなった。ここでの経験は劉天華に国楽(中国民族音楽)の重要性をあらためて認識せしめ、彼自身が国楽の地位向上のために尽力することを誓わせたのである。

 1914年に開明劇社が当局の圧力で解散し、劉天華も上海を離れて故郷・江陰に帰った。故郷では小学校の音楽教員となったが、1年で失業。1915年父親が亡くなったこともあって気落ちするが、ある時竹製の二胡を手に入れ、今までの学習を思い出すと共に西洋楽器で培った経験を生かし、二胡の練習に没頭することとなる。この中で生まれたのが「病中吟」である。病気や心の痛みということではなく、前途に対する悲観と何とかそれを乗り越えようとする強い意志が現れた曲であった。

 そして劉天華は1916年から22年まで7年間、常州第5中学校の音楽教員を勤めることとなる。北京に行く直前のこの時期が実は劉天華にとってものちに大きく才能が開花する素地となったのである。家庭的にはこの年に結婚したのであるが、自ら音楽の練習に没頭し、また学校では生徒達による軍楽隊を組織し、そして絲竹合奏団も作るなど生徒の才能を伸ばす教員として有名になっていったのである。



周少梅

この常州第5中学校に在籍していたときに師匠とも言える人物と知り合ったのである。その人物こそ周少梅(1885〜1938)である。周少梅は江陰・顧山鎮生まれ、「書香」、旧時の読書人の家柄である。江陰市内生まれの劉天華とは少し場所は離れているが同郷であり、読書人の家庭という共通項もあった。周少梅の父・周静梅は顧山鎮では有名な琵琶の名手であり、兄の周協卿も二胡と琵琶に造詣が深かった。そんな家庭に生まれた周少梅も小さいころから自然と民族音楽に親しみ、10数歳になるころには二胡と琵琶に精通していたのである。

20歳ころに無錫の実業家・華鋒之に呼ばれて「華氏鴻模高等小学校」で国楽指導に当たることになった。それ以降周少梅は無錫中学や無錫第3師範学校、武進女子師範などで20数の学校で国楽を教えることになるのであるが、常州第5中学もそのひとつであった。

周少梅は二胡演奏を技術的にも高めた人物であった。例えば《中花六板》の演奏でこれまでとは変えて、指で押さえる音階ポジションを第3把(第3ポジション)まで広げ、装飾音も加え、二胡の音色をより豊かにし楽曲そのものをきらびやかにしたのであった。周少梅の琵琶演奏もそれはすばらしいものであったという。伝えるところによると、劉天華はこの時期、無錫・鴻模高等小学校で週1回西洋吹奏楽を教えており、ある時無錫県での学校音楽祭に周少梅が第3師範学校の国楽団を率いてやって来た。劉天華は周少梅の演奏する琵琶曲《十面埋伏》にひきつけられ、師として学ぶようになったという。

 一方阿炳と周少梅が交流するのは劉天華が北平(今の北京)に行ってしまった後になる。2人の交流は大体1925年ころから1932年まで親密に続き、年齢も近いことがあり互いに二胡と琵琶の演奏技術を話し合い、晩年に時に阿炳が無錫の北大街で民衆を前に芸を披露し演奏するのを手伝ったという。

いずれにしても二胡そして琵琶の演奏技術を高め、そして名曲を生み出した3人が無錫の地を中心に、時代は少しずつずれながらも交わっていったのである。周少梅の晩年は不遇であった。国楽の大家でありながら生活苦にあえぎ、1938年閏7月亡くなってしまうのである。享年53歳であった。

       ―――――――――――――――――――――――――――――――

中国の政治状況はまた少し動いた。当時は袁世凱が中華民国大総統として権力を振るっていたが、その軍事力を背景とする専制や日本の「対華21か条要求」を認めた姿勢などから、批判勢力の運動が盛んになり始めていた。それを見た袁世凱は1915年12月帝政復活を宣布、1916年1月1日年号を洪憲と改めて皇帝に即位し、国号を中華帝国とした。

しかし首都北京では学生らの反対デモが続き、地方の軍閥まで反旗を翻すなど全く四面楚歌となり、3月には退位。そして失意のうちに1916年6月に病死した。こののち中国は軍閥政府が割拠する時代に入る。
                                                          (09.10.28記)

 13、1914年〜1915年(21歳〜22歳)・阿炳と父・華清和の死


  若いころは時間も無限にあると感じ、体からあふれるエネルギーはたとえ前日に深酒をしても毎日新たな活動の源を生み出してくれる。また未来は希望にあふれ、畏怖するものがあっても必ずそれを乗り越えられると信じる。物事が現実化することより、その可能性のすばらしさに浸るのである。

 青年阿炳はまさに可能性そのものだった。 しかしこの年(1914年)阿炳の人生に最初の暗雲が漂う。父の華清和が死去したのである。雷尊殿の運営を引き受けその名声を高めていった華清和がいてこそ、阿炳の才能は育まれたといえるし、父の道観運営(経営といってもよい)の才能は経済的な基盤を生み出し、いわば阿炳は生活のことを心配することなく音楽に、遊びに打ち込めたといえる。

 幼いころに母を亡くしている阿炳は父の厳しい教育に愛憎相持っていたが、心の底では父の存在の偉大さを認識していた。それだけに父の死は大きなショックだったが、雷尊殿の運営は待ったなしで進めなければならない。とりあえずは雷尊殿の財産を受け継ぎ、伯父の華伯陽と共同の責任者となりながら、阿炳は父の後を継いだのである。

 信者がお参りする雷尊殿では線香などの収入も結構なものとなる。そのほか齊事など収入に関してはきっちり管理していかなければならない。一方でその才能を謳われた道教音楽も齊事の時だけでなく、信者の要望のあるところには出向くという阿炳自身が定めている活動もおこなっていく。そんなこんなの忙しい日々がこの時から始まったのである。

 当初は運営も順調で収入も確保できていたが、何年かするうちにその身代は徐々に傾いていくのである。実は阿炳はこのころから目がかすむなど病魔にも侵され始めていた。30代に入って完全に盲目となるが、最初に右目、そして左目と徐々に悪くなっていったのである。妓楼詣でなど生活の悪習慣が体の抵抗力をうばっていったこともあったが、父の死という精神的なショック、そして雷尊殿を運営していかなければならないという重圧など、さまざまな要因が重なった。

 いずれにしてもこの年から阿炳の人生は微妙に揺れていく。これから10数年のちには両眼とも完全に失明し、のちに“盲目の音楽師・阿炳”と呼ばれて街頭で日々の糧を稼ぐ生活になるのである。阿炳の後半生を決めてしまう年が、父・華清和の死去した年であったといえるだろう。


現在阿炳記念館の中にある阿炳故居への通り

阿炳の身の上に大きな変化が起こったこの時期、世界的にも大きな事件が起こっている。第1次世界大戦(1914〜1918)である。1914年6月28日当時のボスニアの首都サラエヴォでオーストリア=ハンガリー帝国の世継フランツ・フェルディナント大公がセルビア人によって暗殺された事がきっかけになって、ドイツ、オーストリア、トルコの同盟国とイギリス、フランス、ロシアを中心とする連合国が交戦、のち日本、イタリア、アメリカも参戦するなど世界的規模の戦争になった。

 日本は日英同盟を結んでいたことからドイツに宣戦布告をし、中国におけるドイツの根拠地である青島を攻撃、14年11月に占拠した。時に中国は袁世凱の独裁体制化にあり、中国政府は第1次世界大戦勃発に際して局外中立を宣言していた。日本はその隙間を狙ったこともあろうが、青島野その周辺の地域を占領し沿線の鉄道も占拠した。

 そして翌年1915年1月、辛亥革命以来の中国問題を一挙に解決するために袁世凱政府に対して「21か条の要求」を提出した。その内容は@ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること、A旅順、大連などの租借期限を99年延長すること、B 漢冶萍公司(中国最大の製鉄会社)の日中合弁化、C中国沿岸部を他国に割譲しないこと、などであった。

 強硬な日本の姿勢と軍事力を背景にした圧力に、袁世凱政府は翌年1915年5月に一部を除いてこの「21か条の要求」を認めざるを得なかった。この政府の姿勢は中国国内において大衆の大きな不満を生み出し、これがのちの五四運動へともつながっていくのである。
 


日本軍による青島入城(「旧中国大博覧」科学普及出版社より)

 
 そんな社会の動向は一度挫折したかに見えた大衆運動を再び盛り上げていくのであるが、西洋諸国の進出は一方で西洋文化の導入という結果ももたらした。

 このころのエピソードとしては無錫での映画館の設立がある。1895年フランスで始まった映画は1896年上海に伝わった。無錫では上海から遅れ、1915年2月19日崇安寺第一茶楼で初めて無声映画が放映された。7月8日には楊なる人物が城中公園東広場に新影戯院をつくり無声映画を放映したが、これが無錫の歴史上初めての映画館だったという。

 無錫においては城中公園が音楽や大衆芸能などのいわば拠点となっていたのだが、映画に関してもやはりその例に外れない。無錫市民にとっては新たな娯楽が来たということでそれは評判になっただろう。当時の映画館の入場料賀高かったことは想像できるが、一方また公園の空き地をゴザで囲い、銅元10枚で見せる屋外映画館があったとのことである。当たり前だが国産のフィルムは量産されていないことから、外国のドラマで、観客は多く皆立ち見で、雨の日や冬は営業が出来なかった。

 そののち無錫において映画は多くの人々の人気を博す。1929年ころ園通路の北側に簡単な建物を建て、上海で作られた国産映画《荒江女侠》が放映された。そして1930年城中公園多寿楼北側の地に無錫大劇院が建設されたのである。座席数400で、上海で作られた国産映画を放映したが、開幕の日には女優の胡蝶が無錫に来て、彼女の主演映画《一個紅蛋》が放映された。

 1932年には陳栄泉が映山河口に1000人余りの規模の中南劇院を建てた。ここでは上海聯華映画会社の進歩的な映画、《都会の早朝》《漁光曲》《新女性》《大路》などが放映された。そして抗日戦争期、無錫が陥落したときこの劇場は燃やされてしまった。無錫大劇院は幸い保存された。

 一方スポーツの世界では1915年5月に上海・虹口公園で第2回極東オリンピックが開催されている。正式名は極東選手権競技大会で、日本、中国、フィリピンの3カ国が2年に1度持ちまわりで開催したものである。第1回は1913年にマニラ、17年の東京大会が日本で開かれた最初の本格的な国際スポーツ大会だとされている。競技は主に陸上で、そのほか水泳やサッカーなどがあった。

 大会は1934年マニラ大会中に満州国参加に伴う憲章改正問題で日中が対立し、中国側の委員が総退場、極東体育協会および選手権大会は消滅した。なお現在のアジア競技大会は、本大会と1934年に1回だけ行われた西アジア競技大会を元に復興されたものであるとされている。

 前述したように1915年5月といえば日本の「21か条の要求」を袁世凱政権が認めた時期にあたる。上海は文化芸術の都市であると共に、政治の先進国でもあったはずだから、上海市民は複雑な気持ちで競技を見つめていたのかもしれない。いずれにしても時代はさらに大きく動いていくのである。
 
                                                          (09.9.18記)

 12、1912年〜1913年(19歳〜20歳)・阿炳と無錫


 もうすっかり一人前の青年となった阿炳はそれこそこの世の春を謳歌していた。道教音楽では雷尊殿の道教音楽班を背負って立つほどに腕前が上がっていたし、無錫市内でも“雷尊殿の阿炳”といえば知らぬもののいないほどであった。

 道教音楽はもちろん道教の祭祀にとって欠かせないものであり、これが道観や祠廟に参拝に来る人にとっても心に響くほどのものであれば当然人気があがり、参拝客も増えるのである。優秀な道教音楽家を抱えていることはもちろん道観の運営にとっても“身入り”が増えることでもある。

 また何日もかけておこなわれる儀礼である「斎焦(さいしょう・正確には酉ヘンに焦)」ではさまざまな儀礼がおこなわれ、呪文を唱えまた道士が特異な動作を行い、天の神である玉皇上帝に感謝をささげ保護を祈るのである。信者からは多量の供物が寄せられるし、また霊符(御札)の持つ効果が信じられていたことから、優秀な道士だと見られれば信者は各地から集まってくる。

 阿炳は父に鍛えられたからだろうか、経文にもまた各種儀式にも習熟していたという。「歩コウ」という儀式ではアーピンは沈着冷静にてきぱきとおこなったという。歩コウとは北斗七星をかたどったステップを踏むことを意味し、邪を駆逐し汚れを払う作用があり、また道教において北斗七星が宇宙を制御する枢要と考えられるようになり、その作用を掌握すれば宇宙の神秘にも通ずることができるとされるようになったことから、その重要性が高まったという。

 信者にも人気のある阿炳に父親の華清和も大得意だったろうし、道教界では雷尊殿はいい後継者を見つけたと皆考えていた。しかし青春の絶頂期にある阿炳は若者特有の好奇心と傲慢さを抑え切れなかった。音楽も儀式もそつなくこなせるし評判もいい、そこそこの収入があるなら自分のためにちょっと使ってもいいではないか。

 おそらくそんな軽い気持ちと、評判の阿炳に取り入ろうとする若者一群がいたからだろう、阿炳は飲み屋や娼館に通いだすようになる。まだ父の目が光っているからこっそりとだが、その面白さは一度知るとやめられない。昼間は熱心に道観でお勤めをするが、夕暮れになると心もそぞろになる。


妓女たち(「老上海」江蘇美術出版社より)

清代後期の無錫は周囲の農産物の集積を背景に、江蘇省のみならず周辺地域に米市場の相場の影響力を与えていたし、また紡績業や繊維産業が発達しており、無錫は「布碼頭(布の港)」と呼ばれるほどであった。そのほか食品業にも民族資本が形成され始めるなど経済が発展し、それに伴って文化の発展も急速に進んでいた。1912年生まれたばかりの中華民国は無錫県をここにおいた。大小の資本の本拠地となった無錫は「小上海」といわれるほどの繁栄を見ることになるのである

「小上海」となった無錫の歓楽街はしたがって阿炳ら若者が遊ぶには充分すぎるほどの多種多様な館(やかた)を持っていた。誘惑に長けた女性たちにいとも簡単に呼び込まれるのである。阿炳は鍛えられた音楽才能で妓女が唄う小唄なんぞに伴奏をつけ人気を博したのかもしれない。また道士として郷、村で儀式をおこなう修行を積んだとき農民らから聞いた生活に彩られた四方山話は、地方出身の妓女達にとって懐かしさと快さがあり、意外と口達者たっだのかもしれない。

 体力的にも充分に自身のある時期だった。疲れ知らずの阿炳は道観と盛り場を往復しただけではなく、大きく変化した中国社会の息吹を無錫の街角から感じ取り、社会のさまざまな矛盾にも目を向けていくのである。しかしこの時覚えたとされる悪習―阿片吸引は確実に阿炳の体を蝕んでいき、のちの失明につながっていくことになるのである。

       ―――――――――――――――――――――――――――――――

 さて中国国内事情である。1912年1月1日に孫文は南京に着く。辛亥革命の成功で、前年1911年の12月20日孫文は香港から広東に帰国、そして25日に上海についていた。29日には成立した中華民国の大総統に選挙で選ばれたことから、1912年1月1日10時に上海駅から列車に乗り、17時に南京着。その夜に大総統の就任式をおこなっている。

 とはいえ中華民国の基盤は不安定であり、北京では北洋軍を率いていて軍事力を保持していた袁世凱(1859〜1916)がその力で新政権に圧力をかけ、孫文は2月13日に辞任することとなる。そして2月15日袁世凱は第2代大総統となるのである。強力な中央の元首が力を振るわなければ中国は統治できないと考えていた袁世凱は議院内閣制など民主化を唱えていた国民党の指導者・宋教仁を暗殺するなど、強権政治をしいていくことになる。

 宋教仁(1882〜1913)は湖南省生まれ、排満革命思想で蜂起計画を立てるが失敗し、1904年日本に亡命する。ここで孫文と知り合い中国同盟会で活動を始めた。日本では宮崎滔天や北一輝と親交を深めるが、1910年に帰国、国内で運動を続けた。辛亥革命後国民党の党首として1912年12月の選挙では圧勝したが、対立する袁世凱が刺客を放ち、ついに1913年3月上海駅頭で射殺されてしまう。

 上海のこのできごとは当然無錫にも直ちに伝えられただろうし、噂の伝わるのが速い歓楽街に出入りしていた阿炳も間をおかず知ったことだろう。経済が無錫を豊かにすると共に、政治社会では新たな抗争が始まっており、早晩無錫もその影響を受けるであろうことは彼にも容易に想像できたはずである。

 阿炳にとって無錫で生きていくということはいやおうなしに社会の嵐を受けるということでもあったが、残念ながらまだこの時期にはそれに対する備えはまだ出来ていなかった。身近な範囲の活動からさらに一歩踏み出すにはいくつかの不幸を背負わなければならないのである。


中華民国臨時政府第1次内閣会議(「旧中国大博覧」科学普及出版社より)

 
  この時期日本では1912年7月に明治天皇が死去し、大正と改元されている。それとともに政党活動が盛んになり、尾崎行雄(1858〜1954)の立憲政友会、犬養毅</span>(1855〜1932:首相であった当時5・15事件で海軍将校に射殺される)の立憲国民党が憲政擁護運動を起こし、第3次桂太郎内閣打倒運動を進めた。第1次護憲運動といわれる。

 余談ではあるが犬養毅の孫(3男の次女)に安藤和津がいる。俳優奥田瑛二夫人である。
                                                          (09.7.27記)

 11、1910年〜1911年(17歳〜18歳)・阿炳と社会の転換期


 中国の歴史の中で根本的な変化が起こった時期である。連綿として続いてきた王朝が倒れ、混乱の中で20世紀の新たな動乱を迎える年となったこのころ、阿炳もまた17歳から18歳という青年期の始まりであり、社会の変化を微妙に受けつつ、自らのあふれるエネルギーをとにかく発散させることしかなかっただろう。

 辛亥革命である。1911年10月10日武昌での武装蜂起で始まった革命は瞬く間に全国に広がり、断末魔にあえぐ清朝を倒したのである。これは一つの政治的勝利という以上に中国の歴史的に最も大きい政治革命であった。古代から続く王朝-帝政・絶対権力を倒し、共和制に基づく中華民国を誕生させたのである。

 もちろん辛亥革命はこの1911年以前、19世紀末から長く続く政治活動があって生まれたもので、各地の革命組織が連合した中国同盟会によって実行された。そして多くの団体の支持を得た孫文が翌年(1912年)1月1日、南京にて初代大総統の地位につくのである。しかし成立したばかりの基盤の弱い中華民国は、清朝時代に利権を得ていた欧米各国が介入したことや、依然として軍事力を蓄えていた袁世凱ら清朝時代の実力者らによる圧迫も受け、早々に孫文が辞任することになる。そして袁世凱が中華民国第2代臨時大総統に就任する。袁世凱は1913年自らが皇帝になろうと策謀するがまもなく病死、それ以降中国は軍閥が割拠し、新たな動乱の時代となるのである。

 そんな中阿炳の生活はどうだったのだろうか。父親の華清和は自分の後継者になってもらうために厳しく阿炳に接した。もちろん阿炳は激しく反発したが、こと音楽に関する限りでは単なる反発を超えて、自らも熱心に学んだ。道院の中で先輩道士から学ぶ道教音楽はもちろんだが、肌が合ったのが当地で流行していた江南民間音楽や説唱芸などであった。これらの音楽人、旅芸人が集まった城中公園は阿炳が住む雷尊殿と目と鼻の先にあることから、とにかく毎日のように出没していた。
 
 たとえば“説書”。説書とは音曲とせりふを使い、時代・歴史物(例えば三国志や水滸伝など)を語るもので、日本でいえば講談・なにわ節みたいなものだが、阿炳は「他市から無錫に来た説書の琵琶がすばらしかったので聴き観ながらいろいろ研究もした」ことや「人情に厚い男女2人組を現すしゃべりや形態模写に興味津々であった」ということが伝えられている。

 最も好んだのが無錫灘簧である。灘簧とは、大道芸の一種で物語や時事などを韻文で述べる歌曲で、後年の阿炳の語りの原型と言ってもいいかもしれない。その中でも無錫灘簧は無錫東部の農村地帯で発達したもので、当初は地元の民歌で語りをおこなっていた“東郷調”と呼ばれていたが、のち曲芸形式の灘簧になった。農村で人気を得た演目は“対子劇”といわれ、その内容は男女の恋愛や結婚にまつわるメロドラマ風の物語だったので、清朝政府がこれを淫らなものとして取締りを始めた。

 それである者は無錫を離れた都市へ流れ散ったという。特に1908年に上海と南京を結ぶ鉄道が出来てからは、経済の交流が加速し、生活の安定を求めて豊かな都市・上海へ移り住む者も多かった。上海で特に無錫灘簧が有名になったのもそれが理由である。


道教音楽曲譜

さて、阿炳18歳の年に、のち最後の演奏を録音することになる楊蔭劉(1899〜1984)と最初の音楽的に濃い接触を果たすことになる(阿炳外伝・「阿炳と楊蔭劉」参照)。楊蔭瀏の父親が道士グループを通じて音楽の教師を求め、楊蔭瀏は阿炳に琵琶と三弦を学ぶようになったのである。しかし音楽だけではなく街中に出没しエネルギーを発散する場を求めていた阿炳は、もちろん楊蔭瀏の父親が求めていたような優等生的な教師ではなく、父親の意思で1年もたたないうちに師弟の関係は解消されてしまったのである。

 阿炳はしかし利発で熱心なこの少年を忘れることはなかった。後の世にわずかではあるが実際の演奏を残し、そして我々がそれを今自分達の耳で聴けるようになったのは、まさしく阿炳と楊蔭劉の音楽を通じた結びつきがあったからである。阿炳は楊蔭劉からの申し出があったから最後の録音を承諾したのである。

 この時代、阿炳と中国音楽界に並び称される劉天華はどうしていたのだろうか。辛亥革命が起こったとき劉天華は16歳、常州中学で学んでいた。革命運動の影響で学校は休みになるが、劉天華は兄の劉半農(1891〜1934)が革命軍に参加するや自らも“江陰反満青年団”に参加し、中学では楽隊にいたのでそこでラッパ手を担当した。清朝が倒れたのち反満青年団を離れ家に帰ったが、貧困だったこともあり勉強を続けられなかったので、兄の劉半農について上海で生活の道を図ろうとした。幸いラッパができたということもあって開明劇社の音楽隊に就職することになった。

 開明劇社は新文化運動をおこなおうとする劇団で、当時は幕間や休憩時に音楽を奏でていたので楽隊が必要だったのである。この開明劇社での体験が劉天華の一生を決めたといっても過言ではないだろう。楽隊は西洋楽器を使用していたから、ここで劉天華はピアノやバイオリンを同じ楽隊員に熱心に学んだ。そして音楽で生きていくことを誓ったのである。そこには辛亥革命によって社会が大きく変化し、また新しい文化運動が巻き起こったことも影響している。

 西洋音楽を学びつつ、中国音楽に深い憧憬を抱いていた劉天華は中国音楽の地位が低いことを嘆き、他の人が関わらないなら自らが提唱し工夫し、中国音楽の地位を高めていこうと決心したのである。

 そののち家庭や生活での多くの苦難がありつつも、劉天華は当初の目標にしたがって活動していくことになるのである。社会が大きく変化するこの時期、阿炳と劉天華という2人の音楽家は自らに課せられた運命を歩んでいくのである。


劉天華の故居(現在記念館)

 
 
さて、1910年〜1911年の日本の状況はどうだったのだろうか。社会的には大逆事件が起こっている。1910年5月信州の社会主義者・宮下太吉らが明治天皇暗殺を計画していたということで逮捕される。そしてこれ以降この事件を口実に当時の政府・警察が社会主義者や無政府主義者を根絶やしにする弾圧をおこなったもので、政治的にでっち上げ事件とされている。

 数百人が逮捕され26人が起訴され、異例の速さで裁判が進み、1911年1月18日に幸徳秋水ら24名に死刑が2名に有期刑の判決がなされ、1月24日と25日に12人が処刑されるなど、当局のでっちあげと弾圧の圧力は凄まじかった。このとき大杉栄や荒畑寒村、堺利彦、山川均ら当時からのちの社会主義運動に大きな影響を与えた者たちは獄中にいたから連座を免れたが、外にいれば確実に逮捕されていたはずである。大逆事件の影響は大きくこれ以降しばらく社会主義運動は冬の時代を迎えることになる。

 同時期の社会的な話題と言えば、白瀬中尉が南極探検に出帆したとか、雑誌「白樺」(志賀直哉、武者小路実篤ら)が発刊された、などがあるのだが、上記の政治的な弾圧に見られるとおり20世紀の列強国を目指す社会として着々と体制作りが進められていくのである。

 対外的には1910年8月に日韓併合条約が調印されている。「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」ことなどを規定したもので、日本はこの条約をたてに韓国を併合したのである。

日清戦争で清国の朝鮮半島下の影響力を排除し、そして日露戦争でロシアの圧力をとにもかくにも撥ね退けた日本は、自らが盟主となって新たな東アジアの秩序をつくろうと朝鮮半島に触手を伸ばしたのである。

日露戦争終結後の1905年11月に第2次日韓協約を結び、12月には韓国統監府を置いて外交権を支配下に置いた。1909年10月に初代統監であった伊藤博文が韓国の民族運動家の安重根によって暗殺されたこともあり、日本の世論は急速に韓国併合に傾いていったのである。そしてこれ以降日本は、中国大陸に侵出していくことになる。

                                                               (09.6.12記)

 

inserted by FC2 system