若いころは時間も無限にあると感じ、体からあふれるエネルギーはたとえ前日に深酒をしても毎日新たな活動の源を生み出してくれる。また未来は希望にあふれ、畏怖するものがあっても必ずそれを乗り越えられると信じる。物事が現実化することより、その可能性のすばらしさに浸るのである。
青年阿炳はまさに可能性そのものだった。 しかしこの年(1914年)阿炳の人生に最初の暗雲が漂う。父の華清和が死去したのである。雷尊殿の運営を引き受けその名声を高めていった華清和がいてこそ、阿炳の才能は育まれたといえるし、父の道観運営(経営といってもよい)の才能は経済的な基盤を生み出し、いわば阿炳は生活のことを心配することなく音楽に、遊びに打ち込めたといえる。
幼いころに母を亡くしている阿炳は父の厳しい教育に愛憎相持っていたが、心の底では父の存在の偉大さを認識していた。それだけに父の死は大きなショックだったが、雷尊殿の運営は待ったなしで進めなければならない。とりあえずは雷尊殿の財産を受け継ぎ、伯父の華伯陽と共同の責任者となりながら、阿炳は父の後を継いだのである。
信者がお参りする雷尊殿では線香などの収入も結構なものとなる。そのほか齊事など収入に関してはきっちり管理していかなければならない。一方でその才能を謳われた道教音楽も齊事の時だけでなく、信者の要望のあるところには出向くという阿炳自身が定めている活動もおこなっていく。そんなこんなの忙しい日々がこの時から始まったのである。
当初は運営も順調で収入も確保できていたが、何年かするうちにその身代は徐々に傾いていくのである。実は阿炳はこのころから目がかすむなど病魔にも侵され始めていた。30代に入って完全に盲目となるが、最初に右目、そして左目と徐々に悪くなっていったのである。妓楼詣でなど生活の悪習慣が体の抵抗力をうばっていったこともあったが、父の死という精神的なショック、そして雷尊殿を運営していかなければならないという重圧など、さまざまな要因が重なった。
いずれにしてもこの年から阿炳の人生は微妙に揺れていく。これから10数年のちには両眼とも完全に失明し、のちに“盲目の音楽師・阿炳”と呼ばれて街頭で日々の糧を稼ぐ生活になるのである。阿炳の後半生を決めてしまう年が、父・華清和の死去した年であったといえるだろう。
現在阿炳記念館の中にある阿炳故居への通り |
阿炳の身の上に大きな変化が起こったこの時期、世界的にも大きな事件が起こっている。第1次世界大戦(1914〜1918)である。1914年6月28日当時のボスニアの首都サラエヴォでオーストリア=ハンガリー帝国の世継フランツ・フェルディナント大公がセルビア人によって暗殺された事がきっかけになって、ドイツ、オーストリア、トルコの同盟国とイギリス、フランス、ロシアを中心とする連合国が交戦、のち日本、イタリア、アメリカも参戦するなど世界的規模の戦争になった。
日本は日英同盟を結んでいたことからドイツに宣戦布告をし、中国におけるドイツの根拠地である青島を攻撃、14年11月に占拠した。時に中国は袁世凱の独裁体制化にあり、中国政府は第1次世界大戦勃発に際して局外中立を宣言していた。日本はその隙間を狙ったこともあろうが、青島野その周辺の地域を占領し沿線の鉄道も占拠した。
そして翌年1915年1月、辛亥革命以来の中国問題を一挙に解決するために袁世凱政府に対して「21か条の要求」を提出した。その内容は@ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること、A旅順、大連などの租借期限を99年延長すること、B
漢冶萍公司(中国最大の製鉄会社)の日中合弁化、C中国沿岸部を他国に割譲しないこと、などであった。
強硬な日本の姿勢と軍事力を背景にした圧力に、袁世凱政府は翌年1915年5月に一部を除いてこの「21か条の要求」を認めざるを得なかった。この政府の姿勢は中国国内において大衆の大きな不満を生み出し、これがのちの五四運動へともつながっていくのである。
日本軍による青島入城(「旧中国大博覧」科学普及出版社より)
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そんな社会の動向は一度挫折したかに見えた大衆運動を再び盛り上げていくのであるが、西洋諸国の進出は一方で西洋文化の導入という結果ももたらした。
このころのエピソードとしては無錫での映画館の設立がある。1895年フランスで始まった映画は1896年上海に伝わった。無錫では上海から遅れ、1915年2月19日崇安寺第一茶楼で初めて無声映画が放映された。7月8日には楊なる人物が城中公園東広場に新影戯院をつくり無声映画を放映したが、これが無錫の歴史上初めての映画館だったという。
無錫においては城中公園が音楽や大衆芸能などのいわば拠点となっていたのだが、映画に関してもやはりその例に外れない。無錫市民にとっては新たな娯楽が来たということでそれは評判になっただろう。当時の映画館の入場料賀高かったことは想像できるが、一方また公園の空き地をゴザで囲い、銅元10枚で見せる屋外映画館があったとのことである。当たり前だが国産のフィルムは量産されていないことから、外国のドラマで、観客は多く皆立ち見で、雨の日や冬は営業が出来なかった。
そののち無錫において映画は多くの人々の人気を博す。1929年ころ園通路の北側に簡単な建物を建て、上海で作られた国産映画《荒江女侠》が放映された。そして1930年城中公園多寿楼北側の地に無錫大劇院が建設されたのである。座席数400で、上海で作られた国産映画を放映したが、開幕の日には女優の胡蝶が無錫に来て、彼女の主演映画《一個紅蛋》が放映された。
1932年には陳栄泉が映山河口に1000人余りの規模の中南劇院を建てた。ここでは上海聯華映画会社の進歩的な映画、《都会の早朝》《漁光曲》《新女性》《大路》などが放映された。そして抗日戦争期、無錫が陥落したときこの劇場は燃やされてしまった。無錫大劇院は幸い保存された。
一方スポーツの世界では1915年5月に上海・虹口公園で第2回極東オリンピックが開催されている。正式名は極東選手権競技大会で、日本、中国、フィリピンの3カ国が2年に1度持ちまわりで開催したものである。第1回は1913年にマニラ、17年の東京大会が日本で開かれた最初の本格的な国際スポーツ大会だとされている。競技は主に陸上で、そのほか水泳やサッカーなどがあった。
大会は1934年マニラ大会中に満州国参加に伴う憲章改正問題で日中が対立し、中国側の委員が総退場、極東体育協会および選手権大会は消滅した。なお現在のアジア競技大会は、本大会と1934年に1回だけ行われた西アジア競技大会を元に復興されたものであるとされている。
前述したように1915年5月といえば日本の「21か条の要求」を袁世凱政権が認めた時期にあたる。上海は文化芸術の都市であると共に、政治の先進国でもあったはずだから、上海市民は複雑な気持ちで競技を見つめていたのかもしれない。いずれにしても時代はさらに大きく動いていくのである。
(09.9.18記) |