街頭で芸を売る生活。“芸を売る”という響きは何か貧しい、媚びた様子を想像させるかもしれないが、阿炳にとっての街頭での芸とは庶民が素直に喜び楽しめる音楽や語りを提供することで、それは道士として道観で接してきたことと余り変わりはない、という実感ではなかっただろうか。
自らの持つ芸の水準が高ければ街歩く人は足を止めてくれる、あるいはナンだ何か面白いことをやっているようだと顔を向けてくれる。その場合の芸の水準とはもちろん高度な音楽技術の発揮もあるだろうが、耳を傾けてくれる人が求めている“何か”を持つことではないのか。阿炳はそう感じ取れたはずだ。
両目失明になるという恐れ、日々の糧の当てがない生活苦、などの絶望感に押しつぶされそうになる時もあるが、二胡を拉き琵琶を弾くというそれこそ体に染み付いた動作がそこから抜け出す支えとなった。心が落ち着いて体が動くようになると、“昔取った杵柄”ではないが自然と謡いに力がこもってくるようになる。
街頭を歩きながら人々の“生活実態”をじっと見つめていた阿炳は、人々の娯楽に求めるものを理解するとともに、世の中の理不尽な仕組みにとらわれ苦しめられている人々の姿を肌で感じるようになった。喜怒哀楽は人間の生活に必要なものだが、喜や楽がなく苦しみの感情が多く顔面に現れる人々が多いのは一体どうしたことか。
阿炳自身も喜や楽を少し忘れかけていたのかもしれない。自分の街頭芸に何が求められているのかを考えたとき頭の中に思い浮かんだのは、演奏し終えたとき、謡い終えたときに浮かぶ聴衆の破顔一笑の表情だ。それには聴衆が自分達の生活から生まれたままの感情移入ができる内容でなければならないと、自然に阿炳は感じ取っていったのだろう。
そして無錫の街に阿炳の姿が現れると聴衆が足を止め、瞬く間に大きな集まりとなってくる。「阿炳さん、なさぬ恋の歌やってくださいな」、「おい阿炳、景気のいい曲を頼むぞ」。聴衆は勝手なもので自分が聞きたい曲や謡を求めてくる。苦笑しつつ阿炳は楽器を取り出しおもむろに手を振り上げ声をあげる。
阿炳の不公正な社会に対する痛烈な批判は、こんな街頭での人々との言葉のやり取りの中から生まれたともいえる。
そして中国社会はより大きく激動し、無錫に住む阿炳の生活にも大きな影響を与えていくのである。
無錫・錫恵公園入り口 |
1925年3月北京で孫文(1866~1925)が亡くなった。中国同盟会を結成し辛亥革命の中心人物となるなど、清朝の打倒と国民政府の樹立に生涯をささげてきた孫文だが、その基盤となる国民党の勢力の弱さから軍閥割拠の状況を打破することは出来ず、生存中に新たな中国の統一を見ることは出来なかった。
孫文は南京に葬られその墓は中山陵として今日なお多くの人が参拝している。孫文はその活動暦の中で外国に滞在することが多かったことから、具体的な活動を評価するというよりいわば「中国革命のシンボル」として歴史にその名が残っているといってもいいだろう。
孫文は日本とも縁が深い。最近は特に梅屋庄吉(1868~1934)との関係が大きく紹介されている。孫文が日本に亡命していた時期に宋慶齢との結婚披露宴を主催するなど親しい関係にあった。梅屋は孫文の主張に共鳴し、その中国革命と孫文に対する援助は現在の貨幣価値になおすと1兆円に達するという試算もある。
孫文の死後国民党は広東で国民政府を組織し、黄埔軍官学校の校長だった蒋介石(1887~1975)が国民革命軍総司令として権力を握り、翌年1926年7月1日北伐を開始。各地の軍閥を打破して政治の実権を握っていくのである。
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さてその北伐に至るまで中国各地ではデモやストライキなど各地で様々な事件が起こっていた。また国共合作は維持されていたものの、国民党と共産党の勢力争いも各地で陰に陽に熾烈を極めるようになってきた。
阿炳が住む無錫では1925年1月に中国共産党無錫支部委員会が設立されている。これは1923年9月に共産党上海地区委員会から張効良という人物が派遣されたことから始まった。張は無錫県立第1高等小学校の教師として来たもので、昼は授業をし夜になると街を歩き友人を訪ねあらゆる人と接触していったという。そして1924年冬までには組織作りを終え、無錫で旗揚げをしたのである。
1925年3月孫文が死去したとき、江蘇省立第3師範学校(現在の無錫師範学校)の学生自治会が追悼集会を行った。このとき演説したのが当時の中国社会主義青年団中央執行委員の惲代英であったという。青年、学生に与える影響は大きく、無錫でも青年運動が活発になっていく。
1925年5月26日には製糸工場の女工がストライキを行い、2万人が参加したという。それまでは1日14時間労働で賃金が4角8分であったが、彼女達の要求は労働時間を12時間半とし賃金は1日5角2分にあげるようとの要求であった。当時の社会状況を反映してか、工場側は29日に要求を受け入れたとのことである。
内外棉工場内部(「日本僑民在上海」・上海辞書出版社より)
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そして労働運動の中心地であった上海でも、のちの北伐にもつながる事件が起こっている。
1925年当時、上海市を南北に流れる黄浦江沿いにある楊樹浦地域には、内外棉など日本の紡績企業の巨大な工場が集中していた。長時間労働、低賃金に抗議して、2月ころから上海の紡績工場でストライキが続発していたが、5月15日内外棉第7工場でストライキ中の労働者と工場側の警備員が真っ向から衝突し、共産党員の労働者顧正紅が射殺されたほか労働者10数名が重軽傷を負うという事件がおこった。
これに抗議する運動は上海中に広がり、5月30日共産党は1000人の労働者、学生を動員して上海の歴史上初めて共同租界の内部で抗議のデモを繰り広げたのである。当時の共同租界はイギリスを中心とする列国が軍隊も駐留させて支配していたのであり、このデモ隊に対してイギリスの警察隊は発砲し、死者13人、重軽傷者数10人という惨事に発展した。これが5・30事件といわれるものである。
この事件は中国全土に憤激を起こし各地の租界でストやデモが行われ列国の警察部隊と衝突した。この事件は結局当時の中国の民族意識を高めるものとなり、北伐への素地を作ったのである。
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この時期上海に住む日本人は(届出をしている者)2万人を超えていた。前稿にも書いたが、1923年2月に長崎・上海間の航路が確立し、長崎丸と上海丸の2隻が週2回の割合で往復したことも影響しているのだろう。工場関係者、サラリーマン、その家族などから、上海で一旗上げてやろうという人物まで様々な人間が来ることになる。
作家や文化人も上海の“魅力”に取り付かれて海を渡るものも多かったが、1926年には金子光晴(1895~1975)が初めて上海にやって来た。金子は小説「どくろ杯」で、自らの上海での欲望と貧困の中の生活を描いている。
上海の生活面では、1924年に共同租界でバスが登場したが、1926年にはフランス租界でトロリーバスが運航を開始している。生活は便利になり商品は豊かで、上海は巨大な都市に変身しつつあったが、その内部には貧困と強烈な民族意識、そして列強との対立のマグマも含まれていたのである。
阿炳の生活とこれらの社会状況が無縁でいられるはずがない。新たな中国社会の変動は阿炳の生活も徐々に変えていくのである。
(10.9.13記) |