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中国・音楽の旅

阿炳(ア-ピン)外伝・3:阿炳とその時代(1919年~1926年)
 20、1925年(32歳)~26年(33歳)・阿炳と新たに激動する中国社会

 街頭で芸を売る生活。“芸を売る”という響きは何か貧しい、媚びた様子を想像させるかもしれないが、阿炳にとっての街頭での芸とは庶民が素直に喜び楽しめる音楽や語りを提供することで、それは道士として道観で接してきたことと余り変わりはない、という実感ではなかっただろうか。

 自らの持つ芸の水準が高ければ街歩く人は足を止めてくれる、あるいはナンだ何か面白いことをやっているようだと顔を向けてくれる。その場合の芸の水準とはもちろん高度な音楽技術の発揮もあるだろうが、耳を傾けてくれる人が求めている“何か”を持つことではないのか。阿炳はそう感じ取れたはずだ。

 両目失明になるという恐れ、日々の糧の当てがない生活苦、などの絶望感に押しつぶされそうになる時もあるが、二胡を拉き琵琶を弾くというそれこそ体に染み付いた動作がそこから抜け出す支えとなった。心が落ち着いて体が動くようになると、“昔取った杵柄”ではないが自然と謡いに力がこもってくるようになる。

 街頭を歩きながら人々の“生活実態”をじっと見つめていた阿炳は、人々の娯楽に求めるものを理解するとともに、世の中の理不尽な仕組みにとらわれ苦しめられている人々の姿を肌で感じるようになった。喜怒哀楽は人間の生活に必要なものだが、喜や楽がなく苦しみの感情が多く顔面に現れる人々が多いのは一体どうしたことか。

 阿炳自身も喜や楽を少し忘れかけていたのかもしれない。自分の街頭芸に何が求められているのかを考えたとき頭の中に思い浮かんだのは、演奏し終えたとき、謡い終えたときに浮かぶ聴衆の破顔一笑の表情だ。それには聴衆が自分達の生活から生まれたままの感情移入ができる内容でなければならないと、自然に阿炳は感じ取っていったのだろう。

 そして無錫の街に阿炳の姿が現れると聴衆が足を止め、瞬く間に大きな集まりとなってくる。「阿炳さん、なさぬ恋の歌やってくださいな」、「おい阿炳、景気のいい曲を頼むぞ」。聴衆は勝手なもので自分が聞きたい曲や謡を求めてくる。苦笑しつつ阿炳は楽器を取り出しおもむろに手を振り上げ声をあげる。

 阿炳の不公正な社会に対する痛烈な批判は、こんな街頭での人々との言葉のやり取りの中から生まれたともいえる。

 そして中国社会はより大きく激動し、無錫に住む阿炳の生活にも大きな影響を与えていくのである。


無錫・錫恵公園入り口

 1925年3月北京で孫文(1866~1925)が亡くなった。中国同盟会を結成し辛亥革命の中心人物となるなど、清朝の打倒と国民政府の樹立に生涯をささげてきた孫文だが、その基盤となる国民党の勢力の弱さから軍閥割拠の状況を打破することは出来ず、生存中に新たな中国の統一を見ることは出来なかった。

 孫文は南京に葬られその墓は中山陵として今日なお多くの人が参拝している。孫文はその活動暦の中で外国に滞在することが多かったことから、具体的な活動を評価するというよりいわば「中国革命のシンボル」として歴史にその名が残っているといってもいいだろう。

 孫文は日本とも縁が深い。最近は特に梅屋庄吉(1868~1934)との関係が大きく紹介されている。孫文が日本に亡命していた時期に宋慶齢との結婚披露宴を主催するなど親しい関係にあった。梅屋は孫文の主張に共鳴し、その中国革命と孫文に対する援助は現在の貨幣価値になおすと1兆円に達するという試算もある。

 孫文の死後国民党は広東で国民政府を組織し、黄埔軍官学校の校長だった蒋介石(1887~1975)が国民革命軍総司令として権力を握り、翌年1926年7月1日北伐を開始。各地の軍閥を打破して政治の実権を握っていくのである。

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 さてその北伐に至るまで中国各地ではデモやストライキなど各地で様々な事件が起こっていた。また国共合作は維持されていたものの、国民党と共産党の勢力争いも各地で陰に陽に熾烈を極めるようになってきた。

 阿炳が住む無錫では1925年1月に中国共産党無錫支部委員会が設立されている。これは1923年9月に共産党上海地区委員会から張効良という人物が派遣されたことから始まった。張は無錫県立第1高等小学校の教師として来たもので、昼は授業をし夜になると街を歩き友人を訪ねあらゆる人と接触していったという。そして1924年冬までには組織作りを終え、無錫で旗揚げをしたのである。

 1925年3月孫文が死去したとき、江蘇省立第3師範学校(現在の無錫師範学校)の学生自治会が追悼集会を行った。このとき演説したのが当時の中国社会主義青年団中央執行委員の惲代英であったという。青年、学生に与える影響は大きく、無錫でも青年運動が活発になっていく。

 1925年5月26日には製糸工場の女工がストライキを行い、2万人が参加したという。それまでは1日14時間労働で賃金が4角8分であったが、彼女達の要求は労働時間を12時間半とし賃金は1日5角2分にあげるようとの要求であった。当時の社会状況を反映してか、工場側は29日に要求を受け入れたとのことである。


内外棉工場内部(「日本僑民在上海」・上海辞書出版社より)

 そして労働運動の中心地であった上海でも、のちの北伐にもつながる事件が起こっている。

 1925年当時、上海市を南北に流れる黄浦江沿いにある楊樹浦地域には、内外棉など日本の紡績企業の巨大な工場が集中していた。長時間労働、低賃金に抗議して、2月ころから上海の紡績工場でストライキが続発していたが、5月15日内外棉第7工場でストライキ中の労働者と工場側の警備員が真っ向から衝突し、共産党員の労働者顧正紅が射殺されたほか労働者10数名が重軽傷を負うという事件がおこった。

 これに抗議する運動は上海中に広がり、5月30日共産党は1000人の労働者、学生を動員して上海の歴史上初めて共同租界の内部で抗議のデモを繰り広げたのである。当時の共同租界はイギリスを中心とする列国が軍隊も駐留させて支配していたのであり、このデモ隊に対してイギリスの警察隊は発砲し、死者13人、重軽傷者数10人という惨事に発展した。これが5・30事件といわれるものである。

 この事件は中国全土に憤激を起こし各地の租界でストやデモが行われ列国の警察部隊と衝突した。この事件は結局当時の中国の民族意識を高めるものとなり、北伐への素地を作ったのである。
 
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 この時期上海に住む日本人は(届出をしている者)2万人を超えていた。前稿にも書いたが、1923年2月に長崎・上海間の航路が確立し、長崎丸と上海丸の2隻が週2回の割合で往復したことも影響しているのだろう。工場関係者、サラリーマン、その家族などから、上海で一旗上げてやろうという人物まで様々な人間が来ることになる。

 作家や文化人も上海の“魅力”に取り付かれて海を渡るものも多かったが、1926年には金子光晴(1895~1975)が初めて上海にやって来た。金子は小説「どくろ杯」で、自らの上海での欲望と貧困の中の生活を描いている。

 上海の生活面では、1924年に共同租界でバスが登場したが、1926年にはフランス租界でトロリーバスが運航を開始している。生活は便利になり商品は豊かで、上海は巨大な都市に変身しつつあったが、その内部には貧困と強烈な民族意識、そして列強との対立のマグマも含まれていたのである。

 阿炳の生活とこれらの社会状況が無縁でいられるはずがない。新たな中国社会の変動は阿炳の生活も徐々に変えていくのである。
                                                           (10.9.13記)

 19、1923年(30歳)~24年(31歳)・阿炳と無錫・上海の街

 道門を離れ街頭で芸を売る生活を余儀なくされた阿炳だが、このころは比較的穏やかな生活だったのだろう。貧困生活には違いないが、両目はまだ完全に失明していないし、ある意味開き直ったような感じで音楽に取り組むようになった。

 とはいうもののこれからあと数年たって完全に盲目になり、街頭で様々な音楽芸を披露する中で、その芸に社会批判(というよりは理不尽な権力の行使や弱い者いじめに対する抗議と風刺)がより強くなっていって庶民から絶大な支持を得るという、それこそ伝記でもてはやされそうな姿ではなかったのではないか。

 無錫という街に生きてきた阿炳は、やはり無錫という郷土と無錫の人々が長年形作ってきた音楽に慣れ親しんでいたはずだ。たとえば《無錫景》のような江浙一体に流行した曲調で、旧時の無錫にあった茶館の1人の歌女が二胡の伴奏で優雅で清らかな歌声を聞かす。“私の気持ちを皆さんちょっと聞いてくださいな。無錫のいいところをご紹介。天下の泉は恵山のふもと、泉水は清らかで茶の香りが沸き立つ・・・”と客人の想像を煽り立てる。

 そんな街中でよく聞かれる音楽に阿炳も馴染んでいたはずだ。阿炳自身茶屋はもちろん妓楼にはなじみがあったし、庶民が好む歌曲というものをよく知っていた。まずは道教音楽で培った技術、道観におまいりに来る信者をありがたい気分にさせた曲から細々と街頭芸の披露をはじめたのかもしれない。しかし阿炳はすぐに、目の前を行き過ぎる人の足を止めさせるにはどうしたらいいか、どういう曲をこの人々は求めているのか、そしてすぐに感情移入できる物事を求めているのか、ということに気付いたはずだ。

 このころの無錫は、列強が侵出している上海という大都市に近いということ、そして長江や太湖という経済物資の水運地であること、鉄道という近代の輸送手段の沿線地であるということで、第2の上海といわれるほど賑わいを始めていた。人が動けば金が動く、そして金が動けばまた人が動くという具合に、様々な階層の人々がどよめきあう街となりつつあった。


無錫・天下第二泉

 金持ちも貧乏人も、そして中間層もそれぞれの娯楽を求め街に出てきた。昼は昼の、夜は夜の楽しみ方をそれぞれが楽しむ。阿炳は街頭を歩きながらこれらの人々の“生態”をじっと見つめていたことだろう。自分の芸を披露するにしても人々はどういう楽しみに一番反応を示すのかということに集中してみていたのかもしれないし、あるいはにわか金持ちが芸人や貧乏人に示す横柄な振る舞いをあらためて見ていたのかもしれない。

道観を離れ街中で生活を始めて、道観時代でも感じていたであろう人々の喜怒哀楽がより確かなものとなって身近に感じられるようになった。そんな生活の中で阿炳は後半生への一歩を踏み出していったのである。

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 さて無錫に影響を与え続けている国際都市・上海に1923年、1人の青年がやって来た。四川省成都生まれ、のちに長編小説「家」など濃密な人間関係の小説を書く著名な作家となった巴金(本名: 李尭棠 1904~2005)である。3番目の兄と一緒に成都を出て重慶から船に乗って上海に着いた巴金は、キリスト教の伝道者の宿舎に入り、受験のための勉学に励んだ。
 
 そして南京の東南大学附属高校に入ったが体を壊して上海に戻る。このころに初めて作品を発表している。本人の言によるとこの間しきりにフランス文学を読み漁り、結局1927年1月パリに行き「滅亡」を完成。1927年12月に上海に戻り作家活動に励むことになる。巴金には故郷に家から離れられない長男がいた。巴金自身は上海という都会に出て作家活動に入ったが、故郷の兄は連綿と続く封建的な家族制度から自由ではなかった。そんな思いから代表作「家」が生まれるのである。


巴金

 巴金は1937年11月に日本を訪れている。上海から1昼夜かけて長崎に着き、約1年日本に滞在した。巴金も何事もなく作家生活を送ったのではない。1966年から始まった10年間の文化大革命の間は捕らえられ、書く自由を奪われていた。そんな経験のある彼は「文化大革命博物館」構想も提案していたのである。

 そんな巴金が乗ったという上海・長崎間の船であるが、1923年2月に日本郵船の航路として確立されたものである。長崎・上海間を長崎丸と上海丸の2隻が週2回の割合で往復し、3等運賃が18円ということでこれ以降上海に渡る日本人は増え続けることになる。

 1923年3月、就航したばかりの船で1人の日本人作家が上海に渡る。村松梢風(本名:村松義一1889~1961)である。混沌とした国際都市上海をつぶさに観察した村松は「不思議な都『上海』」を中央公論に発表、これが翌年「魔都」と改題されて出版される。上海を魔都と初めて呼んだのがこの村松梢風であった。村松はさらに「上海」(1927年)や「支那漫談」(1928年)などを相次いで発表し、その上海体験を深化させる。 彼は日本人が持ちがちな日本人の感覚で上海(中国)を見るということをいさめていた。

 こののち作家・文化人は陸続と上海に行くことになる。金子光晴は村松に遅れること3年で上海に上陸し、横光利一は1928年に上海を旅行している。

 この1923年9月1日は日本で関東大震災の被害があった。死者・行方不明者合わせて14万人余りの犠牲者がでた。全体の罹災者は340万人あまりという大災害であった。そしてこのときに警察・自警団による朝鮮人や労働運動活動家の虐殺事件も多く発生し、混乱を理由に労働運動も押さえつけられるのである。

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 1924年は中国の歴史がまた一つ動く年でもあった。1月20日に広州で、中国国民党第1回全国代表大会が開かれ、国民党と共産党との第1回目の国共合作が正式に発足したのである。共産党員が国民党に入党し、連ソ、容共、扶助工農の方針を明示し三民主義を是認した。
 
 国共合作は辛亥革命以後軍事力も脆弱で権力の奪取に至らない国民党が、軍閥と北京政府に対抗するために打ち出したもので、1927年まで続いた。この合作にあわせて黄埔軍官学校も同年6月に開校している。現代的な軍事学校として優秀な軍人を養成し、国民革命を遂行する目的でつくられたもので、第1期の生徒493人の内共産党員は10分の1を占めていた。

 校長は蒋介石で、政治部主任を周恩来が担当した。1927年蒋介石が上海で起こしたクーデターで国共が対立するまで、中国の将来を担う人材が育成されていったところであったともいえる。

 ただ国共両党の支配は広東など南の地域で、上海は奉天派と直隷派の軍閥が交戦し、この年10月には直隷派の孫伝芳軍が上海に入り実権を握った。上海周辺では(ということは無錫周辺でもそうだということだが)、戦争は日常となっており、租界ではイギリスを中心とした工部局が義勇兵を動員して租界防衛を打ち出すなど、発展の最中にあって外国勢力、軍閥、そして国民党や共産党の活動が入り乱れていたのである。

                                                           (10.7.5記)

 18、1922年(29歳)・阿炳と街頭生活

 1922年、満年齢でいえば29歳だが数え年では既に阿炳は30歳の年である。阿炳はこのころから道門を離れ街頭芸を披露する生活に入っていったのではないかといわれている。片目を失明してから雷尊殿での生活に行き止まりを感じていたことだろう。当時の中国社会に蔓延していた阿片の世界に溺れ、酒からも離れることが出来なかった

 道教音楽を始め音楽に関しては相変わらず評価は高いが、道観の日常的な仕事は結局どうにも馴染みの行かないままに終わってしまった。日常的な仕事といっても結局は信者が気に入るように悩みの相談にのったり道教の伝統行事をおこなったりと、いわば地元の民衆と交わりを持つことであったはず。そんなことは得意な阿炳のはずだが、肉体的なハンディが徐々にやる気を失わせて行ったのだろうか。

 また金銭的にも厳しくなってきた。結局道観の財産を切り売りする生活も行き詰まり、道観からは離れざるを得なくなった。阿炳に残るのは小さいときから身につけてきた音楽である。その音楽を使ってとにかく糊口をしのぐという生活を送らざるをえなくなったのである。

 阿炳は自らの才能を生かして生活するために街に出た。他人は自業自得というだろうが、本人にしてみれば道教のしがらみから離れることが出来て案外ほっとしていたのかもしれない。人間関係は崩れても、とにかく自分の世界を作ることだけはできるのだから。しかし苦しい生活には変わりがない。

 そしてこの同じ年に、中国民族音楽史上に輝くもう1人の人物である劉天華は、北京大学校長の蔡元培の招請によって北平(北京)に赴いた。もともとは劉天華が教えていた常州中学の学生が北京大学に合格し、蔡元培に会ったときに劉天華という素晴らしい先生がいると紹介し、それで北京大学の音楽伝習所の琵琶教師として招請されたのである。

 劉天華は新たな天地での活動を思い浮かべ喜んで赴いたが、音楽伝習所では彼をまるで学歴もない若造のように扱った。彼に与えられた仕事は琵琶を教えることだけでなく、伝習所での日常の事務仕事もしなければならなかったのである。劉天華はそれにめげず昼間は庶務仕事をこなし、夜に琵琶の練習をこなしていた。

 あるとき校長の蔡元培が伝習所に来たら、教室から劉天華が弾く琵琶の音が聞こえてきた。あれは誰で、なんでこんな時に琵琶を弾いているのかを訊ねたところ、劉天華が昼間は事務仕事に追われている事情がわかり、兼務してはその才能が生かされないとで、音楽を教えることに専念できたと伝えられている。

 そしてこれ以降劉天華は北京で亡くなるまで音楽生活を送るのである。北に生活の安定を得た劉天華、そして南で街頭芸を披露する生活に入った阿炳。2人の音楽生活はこれ以降全く交わらないままに、それぞれ独自の道を歩むのである。


阿炳

 さてこの1922年8月に阿炳と縁がある楊蔭瀏が一つの活動を行っている。アメリカのバイオリニストで作曲家のヘンリー・アイクハイム(1870~1942)が音楽研究で中国・北京を訪れた際、昆曲教師の紹介で無錫に来た。無錫で昆曲と絲竹を得意する天韵社が彼を迎え、彼の希望に沿ってキリスト教会で演奏会を行った。

 このとき英語の得意な楊蔭瀏がその案内を務め、天韵社の演奏とアイクハイムの演奏で2時間余りの演奏会を行った。アイクハイムは楽譜の採取も行い、また楽器店で三弦、二胡、琵琶、漁板を買って帰ったほど感動したという。アイクハイムは上海に帰ってから英文紙の《大陸報》の記者の取材に応え、天韵社とその絲竹音楽は優雅でとても素晴らしかったと述べ、一躍天韵社の名声が上ったのである。この記事は楊蔭瀏によって翻訳され、無錫の新聞《錫報》に掲載された。

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 中国国内はいまだに軍閥の支配と政争が続いていた。1922年4月第1次奉直戦争が始まる。直隷派と呼ばれる呉佩俘らと東北地方を拠点にする奉天派の張作霖らが覇権を争って対立したものである。この奉直戦争は1924年により規模を大きくして第2次戦争がおこなわれ奉天派が勝利、張作霖が政権を把握した。

 一方辛亥革命から国民革命をすすめている孫文らの勢力は広東省あたりの小勢力で、北方の勢力への対抗馬とはこの時期にはまだなっていない。国民革命として北伐を進めるのはもう少し先である。

 また共産党はこの年7月上海で第2回全国大会をおこない、反帝・反封建の基本綱領である「中国共産党宣言」を発表している。そしてロシアを盟主とする共産党の世界的な組織コミンテルンへの加入を決定した。

 この時期の歴史的なもう1人の“主役”である、清朝最後の皇帝・溥儀(1906~1967)が11月、紫禁城内で結婚大礼を開いている。満洲旗人の娘・婉容を皇后として、そして蒙古旗人の娘・淑妃を側室として迎えている。時代の波に逆らおうかという溥儀であるが、1924年には紫禁城から退去させられることになる。

 世界的にはワシントン海軍軍縮条約が2月に締結されている。前年21年11月からアメリカのワシントンで開かれていたワシントン会議のうち、英、米、日、仏、伊の海軍の軍艦保有について条約を結んだものである。艦艇トン数(排水量)の比率にして、英:米:日:仏:伊がそれぞれ、5:5:3:1.75:1.75の割り当てとしたものである。

 第1次世界大戦後の各国の軍備拡張路線が国家経済を圧迫したため軍縮をすすめることになったのだが、条約で制限された各国は排水量を維持しながら装甲と射撃能力を向上させることに注目したり、条約の枠外で補助艦とされた巡洋艦や駆逐艦の開発、建造が進められた。結局軍縮の名は形式だけで、各国とも条約をかいくぐる軍備拡張がむしろ激しくなって行くのである。
 
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上海・創立期のバス

 国際都市となっていた上海では、公利汽車公司が設立され、上海最初のバス路線、静安寺~兆豊公園(現在の中山公園)約4kmの運航を開始している。公利汽車公司は寧波商人の董杏生(1879~1954)が立ち上げたもので、このバス路線の維持に公司は上海の実権を握っている工部局に運営費や道路修理費など莫大な金額を寄付させられることになり、結局公司は数ヶ月で運営が出来なくなってしまった。

 しかしその影響は大きく、上海では国際都市にふさわしく市電のほかにこのバス路線が急激に拡充していくのである。

 この年、張石川(1890~1954)が「明星影片公司」を創立している。明星とはスターのことであり、中国人として影片つまり映画の撮影に本格的に乗り出していき、明星つまりスターを生み出していくことになる、張石川は翌年1923年から37年まで70本の映画を監督し、明星影片公司の名を上げるだけでなく、大衆に親しまれる作品を世に送り出していったのである。 
                                                          (10.5.24記)

 17、1920年(27歳)~21年(28歳)・阿炳と無錫民間音楽

 1920年代に入って阿炳自身は眼の調子もよくなるはずはなく、鬱々として暮していたのかもしれない。しかしいわゆる民間音楽にはいろいろな動きが続いていた。

 “1920年代初頭から30年代中期にかけて無錫城中公園の東に、名を「蘭簃(蘭書斎)」と呼ばれる3軒のこぎれいな家屋があった。毎日午後2時ころから一群の絲竹愛好者がここに来て琵琶、三弦、笛、笙、漁板などの楽器で演奏し、昆曲《西廂記》《牡丹亭》などを歌った。あたりには笛の音が響き歌声は艶やかに響き、まさにこれが誉れ高き無錫民間音楽社の天韻社であった”と、「無錫野史」(中国社会出版社)にも書かれている、無錫の音楽歴史の中でも大きな位置を占めた天韻社の話である。

 天韻社の起源は明代・天啓年間(1621~1627)にさかのぼる。もともとは「曲局」と称していたが、1911年の辛亥革命後に天韻社と改名した。清代道光、感豊年間には徐増寿から始まり弟子の陸振声、蒋暘谷、張敏斎、恵杏村、徐の子供の徐苹香などが活躍し、清末には数百人の社友がいたという。

 陸振声は鼓板をよくし、蒋暘谷は長三弦を、張敏斎と恵杏村は笛、をよくした。陸振声には呉子芳と李朴斎2人の弟子がおり、ともに鼓板をよくした。鼓板は昆劇の中の主要な楽器で、曲は鼓板のリズムに会わせて動く。

 辛亥革命以後参加者は70名余りになり、西、北の両社に分かれた。呉宛卿(1847~1926) は徐増寿に詞曲を、蒋暘谷に長三弦を学び恵杏村とともに詞曲の研究を進めるなどして社友の注目を浴びていた。のち年長者が亡くなると人数は減り西、北の両者は合併した。呉宛卿が社長に推され、蘭簃を拠点として天韻社と名づけ、主に昆曲とその伴奏である絲竹を研究演奏することになった。以後、楊蔭瀏や王韻楼なども加わった。1927年以後は時局が不安で人心も安定せず、天韻社は徐々に衰退していった。しかしその名声は上海や寧波、蘇州、常州などにも広まっていたのであった。

 城中公園は阿炳の居住のすぐ隣である。また当然のことながら呉宛卿は音楽の先輩として接していただろうから、天韻社の動向には常に注目していたはずである。眼の調子が悪くとも天韻社の家屋の裏あたりにこっそりと座り、彼らのノドを楽しんでいたことも想像できる。


劉天華の故郷・江陰市天華芸術学校の生徒の演奏

 一方、劉天華は彼のいう“国楽”の確立と改善に取り組んでいた。琵琶、二胡を良くした劉天華は民族文化としての音楽を、西洋音楽文化の長所を取り入れて新たな音楽として確立しようとしていた。劉天華のこの活動は「国楽研究改善活動」と呼ばれ前後3回大きな活動をしている。

 その1回目が1921年で、劉天華は故郷の江陰で「暑期国楽研究会」を開いている。翌年彼は北京に赴くことになるのだが、それ以降1926年の夏季休みに江陰へ戻り第2回目の研究会を開いている。そしてそれらの成果を得て、1927年には北京で「国楽改進社」を設立し、大々的に活動を展開したのである。1932年に亡くなるまで劉天華の国楽にかける熱意は衰えなかった。

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さてこのころの中国には日本から多くの人間が来ているが(例えば1921年上海に居住している日本人は1万6000人を超えている)、この1920年から21年にかけて歴史的な人物が上海を訪れている。

 その1人は大杉栄(1885~1923)である。大杉栄といってもぴんと来ない人も多いかもしれないが、無政府主義者として知られ、1923年9月1日に起こった関東大震災の騒ぎに乗じた麹町憲兵隊によって逮捕・拘禁され、内縁の妻・伊藤野枝と甥の子どもとともに拷問を受けて虐殺されるのである。

 大杉は軍人の子として生まれ陸軍幼年学校に入学するが、その天衣無縫の活動から退校処分を受ける。そののち社会主義の思想に触れ活動を開始し、幾度も入獄される。社会運動の中でも個人の熱情と人間性を重んじ、教条的な共産党活動には批判的で、無政府主義者と呼ばれたのである。その大杉が1920年、極東社会主義者大会出席のため上海に着く。

 大杉には常に警察の尾行がついていたため、上海行きに関しては尾行をまくなど苦労したと「日本脱出記」に書いている。とはいうものの、その奔放な性格のままに行動したようだ。「上海へ着いた時には、あらかじめ電報を打っておいたのだから、だれか迎いにきているとおもった。が、だれもきていない。しかたなしに僕は、税関の前でしばらくうろうろしている間にしきりに進められる馬車の中に、腰を下ろした」

 「馬車は、まだ見たことがないが全くヨオロッパの街らしい所や、話に聞いているシナの街らしい所や、とにかくどこもかも人間で埋まっているようないろんな街を通って、目的のなんとか路なんとか里というのに着いた。僕はこのなんとか路なんとか里という町名だけシナ語で覚えてきたのだ」

 それからいろいろ訪ねまわって目的の人間会うわけだが、こんな行きあたりばったりで“革命”活動をよくできるものだと思う。本人にはその意識がなく、自己に忠実に活動をすることがとにかく運動だと思っていたのだろう。そして大杉は1922年にパリで開かれた国際アナーキスト大会に出席しようと、再び日本を脱出し上海へ、そしてパリへの密航の旅に出る。

 残念ながらこの時期の上海について大杉は描写していない。活動目的が違うからだったろうが、その自由奔放な精神で見たときの、列国の租界地が幅を利かせている上海がどのように映ったかを知りたいものだ。


杭州・岳飛廟の前の芥川龍之介
(「特派員芥川龍之介」毎日新聞社より)

 1921年3月上海に上陸したのが芥川龍之介(1892~1927)である。大阪毎日新聞の海外視察員として中国に派遣されたのである。しかし上海上陸後すぐに、芥川は乾性肋膜炎で虹口区にあった里美病院に入院する羽目になるのである。実は芥川は日本を出発前から発熱しており、予定していた船に乗船することは出来なかったという経過があった。

 結局3週間余り入院し、そこから上海、杭州、蘇州、南京、そして長江を上り武漢、長沙を訪問。そして北京、朝鮮を経て1921年7月末に帰国している。その後8月から「上海游記」を大阪毎日新聞に連載したのである。広大なる自然、名所旧跡に触れることはもちろんだが、章炳麟、鄭考胥、李人傑の政治家・文化人とも会い、政治論議を戦わせている。

 章炳麟(1886~1936)は清朝末期の革命家で中華民国成立後は考証学に没頭し、近代屈指の学者とみなされるようになった。鄭考胥(1860~1938)はもともと儒学者で清朝の政治家であり、のち満州国の国務総理に担ぎ出されている。李人傑(1890~1927)はまたの名を李漢俊といい、日本留学の経験もあり、この年7月上海で開かれた中国共産党創立会議に上海代表として参加している政治家である。

 芥川のもともと高い社会意識はこれらの人と意見を交換する中で更に育っていったといえるだろうし、「上海游記」には中国各地の戦乱やストライキ、そしれ排日運動についてもきちんと書き留めている。彼の鋭い眼は確実に中国内部に会った混沌たる熱情を正しく見抜いていたのである。

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 そして上にも書いたように、1921年7月23日から31日まで上海のフランス租界で(上述の李人傑の家)、中国共産党設立会議が開かれるのである。各省代表13名と列席者60数名が参加したのであるが、この会議に参加したメンバーの中で中華人民共和国の時代まで生き残りかつ党員として生命を全うしたのは毛沢東と董必武の2名だけだった。

 この会議が開かれた建物は中共一大会議址として公開されていたが、現在では周辺が再開発され『新天地』と呼ばれる観光客向けのショッピング街として有名になっている。
                                                          (10.3.17記)

 16、1919年(26歳)・阿炳と社会運動

 このころ阿炳は片目を失明したとされている。残念ながら右目か左目か、細かい点は伝えられていない。何しろ阿炳の20代のころの動静は資料にもほとんど残っていないからだ。この「阿炳とその時代」の稿の、前回と前々回に書いた雷尊殿の経営をとにもかくにもおこなっていたということだけはわかっている。

 このころの音楽的な活動もまた定かではない。無錫音楽人士の間では小さいときから天才的な演奏家として知られ、数々のグループやあるいはいわゆる長老達の目にも留まって共に演奏を行うなど、活発な演奏活動があったと知られている。

 しかし父の死後雷尊殿の経営に関わっていく中で徐々にではあっただろうが、そんな活動から離れていったのかもしれない。理由は?忙しいかったから、と断定することは出来ない。雷尊殿に来る信者にとって阿炳が奏でる音楽はそれだけでありがたい“教えや厄払いのひとつ”となるのであるから、そんな信者の思いを無碍に断るわけにはいかなかっただろう。

 とどのつまり生活の糧とは別に自分自身の興味がほかへ向いてしまったという単純なものかもしれないし、また父との緊張関係の中で音楽修行をしてきた阿炳にとって父が亡くなったということはその緊張が解けることでもあり、逆に自然なことであったのかもしれない。

 いずれにしても阿炳の生活とは逆に社会はますます緊張し動き始めるのである。


五四運動・北京の学生のデモ行進

 1919年5月4日、北京の目抜き通りを数千人の学生がデモ行進した。いわゆる五四運動の始まりである。その直接的な背景としては第1次世界大戦が終了しパリ講和会議において、連合国側にたって参戦した日本が敗戦国ドイツが中国の山東省に持っていた権益を奪って引き継ぐ、という行為を列強が容認したことに対して、ベルサイユ条約反対などを訴えて活動を始めたことがある。

 もともと大戦中に日本から中国に対して対華21か条の要求がなされ、袁世凱政権がそのほとんどを受諾したことから中国では反日感情や反列強の意識が渦巻いていた。また大戦はロシアの帝政が倒れるロシア革命を生み出すなど世界的に民族運動や革命運動が紅葉していた時期にも当たっていた。

 北京の軍閥政府はこの学生の運動に対し多数を逮捕することで応じたが、これは事態の収拾にならず逆に国民的な反発として拡がってしまった。労働者もストライキを行うなど全国的な運動として発展したことから軍閥政府も学生達を釈放せざるを得なくなり、また6月28日に中国政府はベルサイユ条約調印を最終的に拒否することとなる。

 五四運動は政治運動にとどまらず、その広がりの過程において日貨排斥―日本製品不買運動の性格も持つようになり、反日感情が強く刺激されることになったのである。

 この運動は瞬く間に全国を席巻したが、阿炳の住む無錫でも早や5月9日に一つの活動が起こっている。「無錫野史」(中国社会出版社)によると、この5月9日は4年前に袁世凱が日本の対華21カ条条約を受け入れた国辱記念の日ということで、1919年のこの日、教育関係者を中心に日本製品不買運動が起こったようだ。

 中でも広勤路小学校教師の楊錫類が学生達を引き連れて無錫駅前に行き、そこに掛けられていた“人丹(仁丹)”の広告を倒し、中国製品を買うように呼びかけたという。

 仁丹(現在は森下仁丹)は桂皮や薄荷脳などの生薬を配合して丸めた丸薬(現在では口中清涼剤のイメージ)で、1905年に懐中薬として発売された。 仁丹は広告をうまく利用することで売り上げを伸ばした。新聞への広告はもちろん、大阪や東京に広告塔を設置(東京・上野の広告塔には仁丹の字に電球を配して夜でもわかるようにしたという)したのみならず、飛行機を使って空からビラも撒いたという。


仁丹の宣伝ポスター

 そんな仁丹だから早くに中国大陸に上陸していたらしい。仁丹については手持ちの書物でも偶然だがいくつか著述があるのを見つけた。共産党員として戦前・戦後を通じて活動した西里竜夫(1907~1987)はその自伝著「革命の上海で」(日中出版・1977年)の中で、1926年18歳で東亜同文書院に入学するために初めて中国・上海を訪れた時のことを以下のように書いている。

 “長崎から船に乗って、東シナ海から揚子江に入る。青い海の色が薄褐色に変わる河を進み、呉淞を左に旋回して黄浦江に入る。両岸の楊柳が緑の幕を引いたように美しかった。「ところがまず私の目にはいったのは、黄浦江の左岸に立っていた大きな『仁丹』の大看板だった。『ここが支那大陸か?』と、私は一瞬自分の眼を疑った。やがて両岸には大きな工場が見えてきたが、それらはほとんど日本やイギリスなど外国資本の工場だった」”

 1919年に無錫で仁丹の看板をめぐって行動があったのなら、上海には当然それ以前からあったはずだろう。1920年代には上海入りする人々に見えるような巨大な宣伝が行われていたということになる。

 もう一つは1人の兵卒として5年間中国戦線で戦い1946年になってやっと帰国した森金千秋の著書「華中戦記」(図書出版社・1976年)の中の記述である。森金は1941年福山の部隊の一員として湖北省に派遣されるが、その派遣途中で出来事である。

 “「孝感は湖北省の平均的県城で、城外には軍公路にそってひと筋の町があるだけであるが、漢口に近くまた鉄道駅の所在地だけにサイダーや日本の森永ミルクキャラメルを売る店があった。・・・さらにわれわれの眼を見はらせたのは軍公路ぞいの民家の城壁に森下仁丹の広告が何ヵ所も出してあったことで、こんな奥地にまで進出してきているのかと、日本商人の商魂のたくましさにおどろいた」”

 森金は日本商人の商魂のたくましさと驚いたが、この時代では現地の住民にとってはもはや日本製品ではなく中国製品だと理解されていたと考えるほうが自然だろう。ポスターも当然中国語で書かれており、医者に掛かることが出来ない住民にとって気軽な薬として利用されていただろう。

 いずれにしても1919年は日本あるいは日本製品に対する意識が変化してきた時代になるが、阿炳にとっては日本はまだ意識の埒外にあっただろう。日中戦争が激化し無錫が日本軍によって占領される時期、阿炳は既に街頭芸人になっていたが、街頭で日本軍に限らず強権的な支配に対する揶揄を披露していくことになる。
 
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 五四運動の影響は思わぬところで芸術家にも影響していた。京劇の名優・梅蘭芳(1894~1961)はこの年1919年4月から5月にかけて一座を率いて日本を訪問していた。しかし五四運動が起こったことから、日本に留学していた学生が“この時期に日本で公演するのは不適切ではないか”と 彼に手紙をよこした。そこで梅蘭芳は日程を切り上げ帰国したという。

 阿炳の心の中はどうあれ、様々な人と共同社会はドンドン動いていったのである。
                                                          (10.2.9記)

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