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上海万華鏡

    「歴史の再検討-上海史-」 05.12.8









 12月8日は歴史的には日本がアメリカと開戦した日(1941年12月8日の真珠湾攻撃)として記憶されているが、当時の日本は中国への侵略戦争の真っ只中といってよい状態だった。戦線は膠着しており、大都市では逆にいえば微妙な安定感が漂っていた時期だともいえる。

 上海は大都市でもあり欧米との交易も盛んであったことからやはり、「魔都」のイメージそのままに各国人と日本、中国の各政治勢力が暗躍する場だった。ただ第2次世界大戦が終了する時期になっても物資は豊富で、日本内地での食糧難や米軍の爆撃に晒されている状態からすると、上海在住の日本人は天国にいるようだったとも回想されている。

 要するに巨大都市の中では中途半端な力ではコントロールできない人々の営みが縷々続くと言うことなのだが、上海はまさにそれを体現できる都市としてうってつけなのかもしれない。そんな上海の歴史をちょっと顧みようというときに重宝なのが、この著作「上海史」(高橋孝助・古厩忠夫編、東方書店)である。

 1995年5月に発行と少し古いのだが、その前から新しい発展を始めようとしていた上海に注目していた研究者が上海史研究会を設立し(1990年)、その彼らが研究の成果として執筆したものである。

 「上海という都市の名を聞いてどのようなイメージを思い浮かべるだろうか。摩天楼、アール・デコ、オールド・ジャズ・バンド、自転車・人の波、あるいは戦前の暗黒街・・・。上海はきわめて多様な顔を持った都市である。最近では経済の急成長にともない、株に群がる人々、流入する出稼ぎ農民、といった新たなイメージがまき散らされている。この多様な上海の近・現代を概観した通史はというと最近までまとまったものはなかった。本書はそれを本格的にこころみたものである・・」

 この著作が出されてから10年、上海関係の本は飛躍的に増大した。特に日本人で滞在や仕事の経験を出版したり、リアルタイムに経済情報などを提供することももはや当たり前のこととなっている。

 そんな現在の情勢を理解するためにも「上海史」は重宝だ。上海の開港と近代都市の出発から、特に租界が広がるなかでの都市行政については丁寧に分析されている。どうしても欧米諸国や日本のいわば植民地経営に目が向きがちになるのだが、やはり上海を支えていたのは当の中国人。彼ら、特に社会的中間層と都市雑業層への重視は、これまでの「欧米資本によって築かれた上海」「プロレタリアートの街上海」というイメージを再検討することにつながっている。

 いずれにしてじっくり読んでも、必要な部分を調べるためにもちょっと離せない著作だ。
 



    「過去と現在の錯綜」 05.4.8









 人の生活に時間が流れていくように、都市にも過去、現在、未来がある。もちろん今そこに住む住民にとって、都市がどのように変化していくのかという未来に思いを馳せることのほうが多いかもしれない。特に短時間で面貌が一新する上海にあってはそうだろう。何しろちょっと油断するとビルや店が変わっており、過去の知識など通用しないことになるのだから。

 しかし上海の今の発展の内には過去から連綿と築かれたさまざまな事象があるはずだし、またその息吹を感じることのできるだけの歴史がある。個人的な過去の記憶に都市の歴史が重なるとき、よりいっそう街が身近に感じられる。

 そんな感覚をよりいっそう現実化するには街を自分の足で歩くことが一番だが、そのときに役に立つのが「上海・歴史ガイドマップ」(木ノ内誠・編著、大修館書店)である。上海の現在地図(1998年)に過去の地図を重ね合わせたものである。過去とはいっても近代上海市の歴史(19世紀後半〜)であるが、現在の道路や建物の上に過去の名称や説明が加えられている。

 しかも歴史的名称は1949年以前と以降に分けられているから、中華人民共和国建設前後の変化も知ることができる。例えば南京路はかつては大馬路と呼ばれていたことがわかるし、南京東路にある華聯商厦は1918年に永安公司として発足し、中華人民共和国成立後は上海市第10百貨店になっていたことがわかる。

 租界があり旧日本人街があった虹口地区では当然のことながら日本人関連の名前が出てくる。内山完造宅や尾崎秀実宅、金子光晴寓所など文化人の旧居もこれでわかるが、一方で陸戦隊本部や日本海軍武官府などのように日本の上海占領時の軍関係の施設の多いことも明らかになる。
 
 日本を始め各国の租界があり、太平洋戦争後は完全に日本軍占領下にあった上海の過去は、今の上海人にとっても屈辱の歴史であるだろう。だから単純にああここにこんな建物があったんだ、という回顧趣味で読むだけでは著者に申し訳ないだろう。

 この「上海・歴史ガイドマップ」の後半部は人名や建物をはじめとした上海の昨日と今日を物語る823の項目が取り上げられて、その来歴と現状を記してある。つまりは今とつながる歴史がそこにはあるわけで、それらの変遷には当然多くの人々の血と汗が流されたはずである。

 地図を体感することとは、多分そんな街の歴史を知ることから始まるのだろう。いずれにしても生身の体で歩いてみること、体の感覚で街を味わうという楽しみはそこから生まれるのだろう。
 



    「地図と都市の発達」 05.1.20









 当たり前のことだが時間が経てば人も都市も発達する。手元に1985年8月第一版と記された上海市区交通図がある。いまから20年前の上海の姿がわかる地図である。値段は0.35元。

 その地図の解説によると上海は面積が6100平方キロ、12の区と10の県からなり、人口は約1200万人とのことである。20年後の現在では人口は1700万人弱、かつては県(中国では行政区として市の下に県がくる)であった地域はほとんどが市区内に取り組まれ、残っているのは崇明島がそのまま行政区となっている崇明県のみである。

 実はこの85年の地図と88年の地図を見比べてみても市街区域はほとんど変わらない。特に外灘(ワイタン)から黄浦江をはさんだ対岸の浦東地区は黄浦区の一部で、××新村と名づけられた地域が黄浦江沿いにあるだけで、浦東新区として見事に発展した今日の姿を予測させるものは何もない。

 しかし93年、94年ころの地図になると様相は一変する。高速道路の内環状線が地図上に記され、浦西と浦東を結ぶ2つの橋、楊浦大橋と南浦大橋が出来上がっている。浦東地区が新たな開発区として指定され、八佰伴(ヤオハン)がショッピングセンターとして浦東に開いている。

 90年代は改革・開放の時代で上海が大きく発展する基盤となった時代だが、21世紀にはいっても市域は広がる一方で、最近の地図では市街区域はデフォルメしないと1枚の地図には収め切れなくなっている。定価は5元。

 社会資本の整備が格段と進んだこともあり、交通手段も自家用車、タクシー、地下鉄と多様化した。路線バス一本のときは地図上に路線を表す数字が赤く記され、それをたどっで行けばほぼ目的地までの通路はわかった。しかし最新の地図では書き込む情報量が多く、路線バスの数字が読みにくくなっている。

 「ああ地図1枚があればどこへでも簡単に行けたのに」という感傷はやはりこの際不必要だろう。変化は当たりまえであり、過去を懐かしがってもそれは部外者の感情に過ぎない。弄堂(横丁長屋)から高層マンションへと地区での再開発など、実は地図に直接記載されない住民の感情や意識を汲み取るほうが大事ではないのか。

 都市の発展の後ろで住民の生活がよいほうにも悪いほうにも変化していく。そんな光と影にどれだけ近づけるのだろうか。
 


    「上海を舞台に若者を描写した書物 04.6.7









 上海では上海書城という大きな本屋さんが大盛況で、日本やアメリカを始め各国の書籍の翻訳本も数多く出ている。

 ひるがえって上海関係の中国語本の日本での紹介はどうだろうか。兪天白の「大上海沈没」や衛慧の「上海宝貝」などがその先鞭だろう。大上海沈没は「小説大上海」という書名で日本語翻訳され出版されている。80年代後半の上海を舞台に、改革開放政策に乗じる者や右往左往する者など、過去を引きずりながら格闘する人々を描いている。作者の兪天白は浙江省・義烏の生まれで、上海の中学で長く教鞭をとっており、農村と上海の両方の生活感覚で上海人の典型的な姿を描いている。

 上海宝貝は「上海ベイビー」という書名ですでに文庫本にもなっている。「大胆な性描写で注目され、中国で大ベストセラーになるも当局に発禁処分を受けた話題作」と宣伝された。衛慧は名門復旦大学を卒業した才媛で、記者や編集者を経て作家になったとのこと。自らの体験をもとに描いたということだが、現在の上海の若者のひとつの典型がモデルとあって、都市生活を謳歌する若者の旗手ともてはやされた。

 上海ベイビーで成功したからだろうか、若い作家による話題作として「上海キャンディ」や「上海ビート」など上海○○という本が続いて出版された。上海キャンディの著者棉棉は高校中退で、中国全土を放浪した後に執筆活動に入ったと語っている。「19歳の少女がセックス、ドラッグ、売春の果てに見つけた愛とは?」とこれもセンセーショナルに売り出されたのは記憶に新しい。

 上海ビートは82年生まれの韓寒が、17歳の目で捉えた中国の高校生の生活を描いた、と話題になったものだ。いずれも上海という大都会を舞台に、感覚的にも先端をいく若者による小説ということで、兪天白の小説とは大きく構成が違っている。

 どちらが上海人の姿や心を捉えているのだろうか。実は先端を行く若者も昔ながらの生活を送る労働者も混在しているのが上海なのであって、どちらも上海の姿を映し出しているといえるのだろう。つまりはそれほど上海という街がありとあらゆるものを飲み込んでいるということなのだろう。



    「上海と日本人−大杉栄A」 04.3.18

自由奔放な精神で生きた大杉栄の上海行き その2

  結局日本では大杉が1ヶ月近く行方不明だとされた。コミンテルン会議への出席はさておいて、当時の上海は大杉の目にはどう映ったのだろう。会議はフランス租界で行われたのであるから、北へ足を伸ばせば日本人が多くすむ虹口地区に行けるし、南へ向かえば中国人の街区に行き当たる。

 大杉の著作「日本脱出記」はフランス滞在記が主で、上海での日々のことはあまり書かれていない。金は出すがその内容について口をはさむというコミンテルンのおせっかいは許せない、と大杉らしい意気込みの話が中心だ。

 しかしいくつか当時の上海の描写もある(注:当時の慣習として大杉は中国をシナと表現している)。誰も迎えに来ていないので「税関の前でしばらくうろうろしている間にしきりに勧められる馬車の中に、腰をおろした。馬車は、まだ見たことがないがまったくヨオロッパの街らしい所や、話に聞いているシナの街らしいところや、とにかくどこもかも人間で埋まっているようないろんな街を通って、目的のなんとか路なんとか里というのに着いた」。

 そこで連絡員と会い、「案内されてあるホテルへ行った。そこはつい最近までイギリスのラッセルも泊まっていた、シナ人の経営している西洋式の一流のホテルだということであった。〔4字伏字〕の室といっても、ごくお粗末な汚い机一つといくつかの椅子と寝台一つのファニテュアで、敷物もなければカアテンもない、何の飾りっけもない貧弱極まりないものであった」。

 1922年フランスへ密航するため上海に2度目の上陸をした時に、1回目の様子を回顧して書いている部分がある。このときは日本政府の上海での警戒が厳重になったのでロシア人の下宿に泊まったとのことである。「上海では前に、3、4軒のホテルに10日ほど泊まった。同じホテルに長くいてはあぶないというので、そのたびに変名をつくっては、ほかのホテルへ移っていったのだ」。

 その変名の失敗談がある。友人にホテルの名前だけを伝えていたので、彼は大杉が何号室にいるか分からない。日本人はいないとホテルは言うので、旅客の名と部屋の番号とを書きつらねた板を見て(昔のホテルにそんなのがあったんですね)「はあ、これに違いない」とわかったそうだ。

 あんな馬鹿な名前を付けるなと笑いこけるように言った彼に、大杉はわけがわからず真面目な顔で「なぜだい」と聞いたそうだ。それに対して彼の答え。「なぜって君、唐世民だろう。あれは唐の太宗のなので、日本でいえば豊臣秀吉とか徳川家康とかいうのと同じことじゃないか。が、おかげで僕は、それが君だってことがすぐわかったんだ。本当のシナ人でそんな馬鹿な名をつけるやつはいないからね」。
 
 結局大杉がどういう通りを歩き、どんな所に行ったのかということは著作からはわからない。しかし何事にも好奇心の強かった大杉のことだ、鋭い目で当時の上海を見ていたことだろう。すでに洋風建築が立ち並び活気あふれる埠頭としてにぎわっていた外灘の姿に目を見張ったか、租界を我が物顔に歩く各国の軍隊や自警団、警官の姿に支配のいびつさを感じたか。あるいは社会主義者でありながら自由奔放だった彼は、意外と競馬場にも通ったかもしれない。 

                                   (文中カッコの中は大杉栄・著「日本脱出記」より)



    「上海と日本人−大杉栄@」 04.2.18

    林倭衛「出獄の日のO(大杉栄)氏」
自由奔放な精神で生きた大杉栄の上海行き その1

  大杉栄も上海に行ったことがあると聞いて、ええっあの大杉栄がという人と、それがどうしたという人と2つに別れるかもしれない。つまり大杉栄という人物を歴史的に知らなければきっとそれがどうした、ということになるのだろう。

 アナキストとして自由奔放に生き、同時代の社会主義者に多大の影響を与えた思想家であり、何より行動をすることを重んじた大杉栄。1885年1月17日帝国軍人の子として生まれた大杉栄は1923年9月16日、関東大震災のドサクサにまぎれ日本軍国主義(東京憲兵隊)によって妻・伊藤野枝(28歳)、甥・橘宗一(6歳)とともに虐殺される。 
  「わずか39歳、軍部のテロルによって永遠に葬られた大杉栄の生涯は、短いながらも、日本の革命家としてはめずらしく、華のある、颯爽とした一生だった」と、鎌田慧はその著書「大杉栄・自由への疾走」で書いている。

 その大杉栄が上海へわたったのは1920年10月である。当時の中国は1911年に辛亥革命はおこったものの共和派の力は弱く、軍閥割拠の時代であった。一方国際的には第1次世界大戦が終わり、ロシアでは17年に革命が起き19年に第3インターナショナル(コミンテルン)が創設され、国際的な共産主義運動が展開されようとしていた。ヨーロッパが大戦によって疲弊をする中で日本が大陸に進出をもくろみ、その一方で植民地の争奪と独立運動、そしてロシア革命の影響を受けた共産主義運動が各国で活発になっていった時期である。

 中国共産党の成立は1921年であるからその前年である。大杉栄が上海に渡って出席したのはコミンテルンの「極東社会主義者会議」に出席するためだった。ロシア革命に勢いづいてアジアにも共産主義運動の拠点を作ろうという会議である。アナキストの大杉がボリシェヴィキの国際会議に日本代表として参加するのはおかしいようだが、このとき話をもちかけられた堺利彦と山川均という当時の社会主義者が尻込みしたから、お鉢が大杉にまわり、「よし行こう」とひと言であっさり引き受けたとのこと。彼の面目躍如である。

 いずれにしても当時警察の監視下にあった大杉だから、当局の目をごまかし、日本脱出という形で神戸から上海へ密航した。上海は欧米各国の租界が中心を占め、それに反発する中国人を含めた「国際都市」として政治・経済が活発に動き始めようとしていた時代である。1919年に五四運動がおこり中国人の反侵略の機運は高まっていた。当時の統計によると1920年に上海に居住していた日本人は約1万5000名(居住届けを出さないで出入りする日本人を入れると倍近くかもしれない)とある。有名な内山書店は1917年に店を開けている。



    「南京路に花吹雪」 03.8.11









 上海という言葉が入っている、あるいは上海に関係する書籍は山のようにあるといっても過言ではない。書店の検索システムを使えばそれこそ何百という表題が出てくる。

 もちろん横光利一の「上海」や芥川龍之介の「上海游記」など戦前のものから、近代上海を建築や都市論から論じた本、さらに戦争に参加した兵士達の手記など多種多様だ。最近ではやはり旅行とグルメの本だろうか。今の上海はそれが売りになっている。

 で、ここに紹介する本は「南京路に花吹雪」。“なんきんみちに花吹雪”ではなく、“ナンキンロードに花吹雪”と読む。作者は森川久美。とくれば、そうコミックである。月刊ララに連載されたのを、1982年に花とゆめコミックス(白泉社)で単行本化された。花とゆめコミックスは絶版で、今は白泉社文庫全3巻で読むことができる。

 時は1936年、日本が中国への侵略を強めていた時代。上海は西洋列強の租界として日本、西洋各国の軍事・経済侵略とそれに対抗する中国との争いの舞台となっていた。新聞記者・本郷義明は日本でお上にたてつき上海に流れてきて、上海日報社の記者として日々を送ることになった。抗日戦争が激しいなか、日本人を父に中国人を母に持った謎の青年・黄子満や海軍陸戦隊の鬼怒川雷蔵大尉などと知り合う。
 
 個人の心情として日本と中国が平和に暮らしていけるようにと願い行動する本郷だが、時代はそれを許さず、上海駐留の小此木大佐の要望で中国や西洋各国の情報組織と対抗する影の組織で活動することになる。さまざまな陰謀に巻き込まれていく中で、葵文姫という女性と知り合う。葵文姫は中国共産党の地下組織に所属しており、二人は反発しながら惹かれていく。

 1930年代当時の歴史とそこに実在しなかった人物を交えながら、物語を進展させていく。実在しない人物とはいいながら、それに似た人物は当時の上海には恐らくいただろう。国家間の戦争と陰謀という大きな流れの中で個人の力は本当に非力だが、上海はなぜか個人の力を発揮させる都市の雰囲気を持っていた。

 最初にこれを読んだのは15年以上前だが、そのときは「南京路」という言葉に引かれた。上海の象徴ともいえる南京路だが、そのナンキンロードという語感と森川久美が描く主人公達(いずれも美形でカッコイイ)がなぜかうまくあっていたのだ。もちろんストーリーはきちんと日中の歴史をおさえ、なおかつ祖国や組織に裏切られ苦悩する姿がきちんと描かれていることが評価できる

 漫画とはいえ、上海を紹介するときにぜひ眼を通していただきたい本だ。
 



    「上海と日本人−高杉晋作A」 03.6.15

 西洋列強の脅威を目の当たりにした高杉晋作 その二
                              
 上海租界の始まりは1845年11月、清王朝の地方長官である上海道台と初代イギリス領事との間に結ばれた「土地章程」によるといわれる。イギリス商人の居留地として土地の租借を定めたものは、これは清朝側にして見ても外国人を隔離しようという意図にも合っていた。
 
 しかし太平天国の乱、それに上海での小刀会の武装蜂起で難民が租界に逃げ込み、外国人と中国人の隔離が崩れ、雑居になったことを理由に、イギリス、および米仏らは1854年「第二次土地章程」を公布した。ここで執行機関としての工部局が設置され、清朝の管轄から離れた独自の政府機能をもつことになり、それ以降租界が別世界として機能していくのである。

 清朝、中国人にとっては「屈辱的門戸開放」であり、「租界制度とは一種の植民地統治制度で、この制度の核心は中国の主権を踏みにじった非合法の政権機構を打ち立てることにあった」(上海100年・上海人民出版社)。そんな西洋列強の文明の名による圧迫が加わっていたちょうどそういう時代に、高杉晋作は上海に足を踏み入れたのである。

 「まことに上海の地は支那に属すと雖も、英仏の属地と謂ふも又可也。・・・豈宜ならんや、我が邦人と雖も心を須(もち)ゐざるべきなり。支那の事に非ざる也」。高杉晋作と上海の文献の中では必ずといっていいほど出てくる彼の日記の中の言葉である。帰国後、高杉は品川御殿山にあった英領事館を焼きうちするという行動に出るのであるが、そこには上海で見聞きした西洋列強とその圧迫のもとにあった清朝の姿が深く印象づいていたのだろう。

 日本にいて実感できなかった国際的視野を広げた結果が強烈な危機意識で、富国強兵と攘夷を痛感することになる。もちろん単純な攘夷意識ではなく、それは上海に滞在中足繁く書店に出入りして漢訳洋書を求めたり、現地の軍人と筆談で意見を交換したりと、客観的な情報を求めることを忘れていないことでもわかる。結果、長州藩は蒸気船や近代兵器の購入に積極的になっていく。

 しかし日本は明治維新の成功後、今度は自らが朝鮮半島、中国へと勢力を伸ばし、侵略・支配の道へと歩むことになる。上海という近代社会に生まれたいわば異質の空間での衝撃的な体験は、高杉らの思いとは別に国家意思を前面に出していく。

 そしてその国家意思にもとづいて日本人は20世紀にはいると上海の外国人社会では圧倒的な人数を誇るようになっていく。一方では国家とは別に「租界」という位置を逆手に取ったかのように、「自由な都市空間」にあこがれてさまざまな人々がこの地に渡航することになる



    「上海と日本人−高杉晋作@」 03.6.2


    高杉晋作
 西洋列強の脅威を目の当たりにした高杉晋作 その一

 ひなびた漁村でしかなかった上海は、1842年アヘン戦争に破れた清朝がイギリスに開港することで近代が始まり、その後欧米資本の手で街が形作られる。特に近代になれば上海は「魔都」と呼ばれ、「モダンを体現する都市」として資本家、商人だけではなく、革命家やスパイ、その他さまざまな人間が集まる一大都市となっていった。

 上海に最初に日本人が住み着いたのは1860年代といわれるが、その後1914年には1万人、1920年代には2万人を超えた。日本が当時の西洋列強に伍して中国への侵略を強化するのにあわせて日本人は多くなり、1932年に上海事変がおこると日本海軍陸戦隊が治安維持の前面に出る。そして1937年の日本軍による中国全面侵略と1941年の太平洋戦争の開始により、上海は日本軍政下に置かれることになる。この時代最盛期に日本人は10万人を越え、郵便物も長崎県上海市で届くようになる。
 
 それほど中国の中でも日本と上海のつながり(よい意味でも悪い意味でも)は強かった。名にしおう有名人から無名の者までそれぞれの抱負を抱いて上海を訪れた。

 1862年6月2日、日本の商船「千歳丸」が上海に入港した。千歳丸(せんざいまる)は徳川幕府がイギリスから買い上げた蒸気船で、清国への貿易視察という目的で派遣された。幕府の役人とその従者、長崎商人などを乗せていたが、幕末29歳の若さでなくなるまで疾風怒濤の活躍をした長州藩士・高杉晋作がその中にいた。高杉晋作はここ上海で、アジアに対する西洋諸国の侵略と脅威を目の当たりにする。

 青年志士たちは以後「脱亜・入欧」という意識を高めていくことになるのだが、当時ちょうど勃発していた太平天国の乱に対し討伐に行かんとする列強軍隊の武装力は確かに大きなショックを与えたのだろう。

 千歳丸は幕府の船であり、当時は従者として出入りの商人などから若者を連れて行ったらしいが、攘夷志士として長州藩でも知られていた高杉晋作がそんな船に乗り込むことができたのがおもしろい。いつ倒されるかわからない敵味方が同じ船に乗れたのだから、そのへんはまだ社会に余裕があったのかもしれない。もちろん上海行きは藩命であり、桂小五郎に勧められたこと、藩が随行員に物品を贈って(つまり賄賂を贈って)従者として潜入できたと、史書には残されている。

 高杉晋作(そのほか一行)は外灘の南の端、フランス租界にある「宏記洋行」というホテルに2ヶ月滞在する。上海の中心部、今の南京路を中心にしたあたりはイギリス租界で、当然この地区に商業の中心はあった。清政府の役人は上海懸城(豫園などがある旧市街区)にすんでおり、ここで高杉は半植民地となった国と人々の生活をその目で見て大きな衝撃を受けることになるのである。

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