○その弐
「笛の音がやっぱり好きなんだろう、毎日が笛だったよ」
陸さんの名前・春齢は、春のようにずっと若く、年を重ねても勉強するという意味だそうだ。若ければ仕事もたくさんできるしねと、年の話になるとさらにもまして饒舌になる。
「でも小名(幼名)があったんだよ。海根という名前だった。親が占い師にみてもらったところ、長生きして勉強するには水も足りない木も足りない(お金や力が足りないという意味か)。海は水、根は木に通じるということから、親がこういう名前を付けた」。
おもしろいもんだろうとにこやかに語る。で、その小さい頃、7歳から音楽を始めた。近所に住んでいた孫根涛という人が申劇いまの滬劇(上海劇)に出ていて、吹いたり弾いたり何でも楽器ができた。親も親戚も誰も楽器はできなかったけれど、なぜか孫さんにかわいがられて、それで自然に習うことになった。
「どうして笛を選んだかって?ふむ、手にもって一番軽かったからかな」。冗談っぽく言いながら、笛が持つ音色に惹かれたことを語る。もちろん小さい頃はそんな意識は余りなく、孫さんが得意にしていた楽器がそれだったのだろうし、また生活の周辺で比較的手に入りやすかったのが笛だったのだろう。 |
毎日が笛とともにあった(右・陸さん) |
「笛は低音部分が『深沈』、お寺の鐘がグワ〜ンとなるように響くし、高音は『清脆・潦疏』、つまり軽快で歯切れがよく、澄んできれいな音が出る。それが惹かれた理由かな」。
もう一つの理由はその表現力にあるという。笛は喜・怒・哀・楽の4つの表情を豊富に表現できる。もちろん基本的な技術を把握することが必要だが、その技術のうまさだけでは表現できないところがすばらしい。
楽譜をきちんと演奏してもかならずしも表現できるものでもない。楽譜から離れて我を忘れるくらいに入り込まないと喜怒哀楽の表現はできない。そんな時は聴衆も何も見えない、笛を吹いているのだという事も忘れてしまい、音楽の中だけに入り込んでしまう。 |
「曲だけを意識するんです。音楽の中に入りこんで聴衆を忘れるということはそれを無視するということではなく、聴衆もその中に入ってくるということです」。
小さいときから音楽に興味を持った陸さん、実は音楽専門学校にいっていない。学歴でいえば中華職業学校卒になる。「中専(日本でいう高等専門学校)だが、今の若い人は中華職業学校といってもわからないだろうなあ」。国語や英語が好きで勉強したがね、と陸さん。1930年代半ばの上海、戦争と革命時代のなかで大学へ行く人はまれである。
中華職業学校を卒業後、工員となる。上海では一番古くから大きな企業となっていた上海江南造船工場だった。いわゆる機械を操作する「車工」で、ナットやボルトを扱う旋盤の仕事を担当した。大きな機械1台に1人がついて毎日毎日いわばネジ作りだ。「音楽は業余時間を利用して続けていたが、生活もすごく貧しかったし、とにかく大変な時期だった」。 |