ホーム 新着情報 月下独酌 中国音楽フェスティバル 中国・音楽の旅  中国香港台湾催し案内
アジア音楽演奏会紹介 モモの音楽日記  アジアの微笑み 上海コレクション 演奏家の世界

 −−中国民族音楽演奏家の素顔−−

陸 春齢 −−年齢を越えた笛子の名手 (03年終了)
 ○その壱

「いつも元気な秘訣は、とにかく笛を吹くことさ」

 「そうかそうか、日本からわざわざ来たのか。それでは歓迎しなくてはね、ハッ、ハッ、ハッ」。陸春齢さんの第一声は元気な笑い声で始まった。上海市・衡山賓館のコーヒールームに現れた陸さんは、“会う人はみな友人”という雰囲気で接してくれる。
 
 もともとこちらから会いたいとお願いしたもの。こちらから出向きますと言ったものの、いやあウチは狭いからね、などとむしろ外へ出る方がいいということで衡山賓館で会うことが決まった。陸さんが住む呉興路からは近いし、上海音楽学院からも地下鉄で一駅の距離にあるところだ。

 まだコーヒールームの席に着いていないのに歩きながら日本の話が始まる。「日本には弟子や友人がたくさんいるよ。ほら京都の赤松紀彦に柴玲敏がそうだし(注:京都江南絲竹会のこと)、中国音楽が好きだった高橋って知っているかい?そうそう弁護士だった人だよ(注:高橋正毅弁護士・故人。中国で弁護士事務所を開設し、個人的にも中国民族音楽に興味を持ち日本に紹介していた)。ああ当然知っているだろう」
               快活に話をする陸春齢さん                 ひとしきり日本の話をしたあとようやく陸さんの話が始まる。ちゃきちゃきの上海人だよという陸さんは1921年9月14日の生まれ。今年81歳である。昔の習慣で年を数えで言うことも多いから、そんなときには82歳となる。

 上海音楽学院の東側、繁華街として有名な淮海路から一筋南の南昌路(以前は環龍路といった)で生まれた。南昌路は淮海路と比べても細い路で、ようやく新しいビルなんかも建っているが、今も市場などがあり昔ながらの生活が営まれている街だ。

  陸さんの快活な話し振りは、その日常生活における元気さから生まれている。
 こんな話をしてくれた。ある日陸さんがバスに乗った時、同じバス停から乗った人の髪が真っ白だったもので、席を譲られた。ちょうど陸さんがその人の横に立ったものだからしゃべり始めると、年の話になった。白髪の人が「私は72歳ですが、貴方は私より若いでしょう」と言ったので、陸さんが「う〜ん、ちょっとだけ上ですよ。81歳ですけれど」と答えたので、相手がびっくりした顔をしたとのことである。
 
 「今演奏するとね、陸さん81歳じゃないね、18歳だね、なんていわれるんだよ」と相好を崩す陸さん。年だけを聞いた人はその年で歩けるのかと心配するけれど冗談じゃないよ、ほら見てごらんこうやって100回でも200回でも足をあげることができるよ、と目の前でその動作をしようとする。

 健康の秘訣はやはり笛を吹きつづけていることかなあと語る。笛を吹くときは(体の中の)“気”を使う。でも体を鍛えて健康でないと“気”をうまく使えない。だから笛を吹くと体が丈夫になるし、体が丈夫で健康だからうまく“気”を使えて笛もうまくなる。そんな関係だよとにこやかに語る陸さん。毎日の練習の積み重ねが今を作るという当たり前のことを教えてくれる。 

 ○その弐

「笛の音がやっぱり好きなんだろう、毎日が笛だったよ」

  陸さんの名前・春齢は、春のようにずっと若く、年を重ねても勉強するという意味だそうだ。若ければ仕事もたくさんできるしねと、年の話になるとさらにもまして饒舌になる。

 「でも小名(幼名)があったんだよ。海根という名前だった。親が占い師にみてもらったところ、長生きして勉強するには水も足りない木も足りない(お金や力が足りないという意味か)。海は水、根は木に通じるということから、親がこういう名前を付けた」。

 おもしろいもんだろうとにこやかに語る。で、その小さい頃、7歳から音楽を始めた。近所に住んでいた孫根涛という人が申劇いまの滬劇(上海劇)に出ていて、吹いたり弾いたり何でも楽器ができた。親も親戚も誰も楽器はできなかったけれど、なぜか孫さんにかわいがられて、それで自然に習うことになった。

 「どうして笛を選んだかって?ふむ、手にもって一番軽かったからかな」。冗談っぽく言いながら、笛が持つ音色に惹かれたことを語る。もちろん小さい頃はそんな意識は余りなく、孫さんが得意にしていた楽器がそれだったのだろうし、また生活の周辺で比較的手に入りやすかったのが笛だったのだろう。
     
毎日が笛とともにあった(右・陸さん)               
  「笛は低音部分が『深沈』、お寺の鐘がグワ〜ンとなるように響くし、高音は『清脆・潦疏』、つまり軽快で歯切れがよく、澄んできれいな音が出る。それが惹かれた理由かな」。

 もう一つの理由はその表現力にあるという。笛は喜・怒・哀・楽の4つの表情を豊富に表現できる。もちろん基本的な技術を把握することが必要だが、その技術のうまさだけでは表現できないところがすばらしい。

 楽譜をきちんと演奏してもかならずしも表現できるものでもない。楽譜から離れて我を忘れるくらいに入り込まないと喜怒哀楽の表現はできない。そんな時は聴衆も何も見えない、笛を吹いているのだという事も忘れてしまい、音楽の中だけに入り込んでしまう。
  「曲だけを意識するんです。音楽の中に入りこんで聴衆を忘れるということはそれを無視するということではなく、聴衆もその中に入ってくるということです」。

 小さいときから音楽に興味を持った陸さん、実は音楽専門学校にいっていない。学歴でいえば中華職業学校卒になる。「中専(日本でいう高等専門学校)だが、今の若い人は中華職業学校といってもわからないだろうなあ」。国語や英語が好きで勉強したがね、と陸さん。1930年代半ばの上海、戦争と革命時代のなかで大学へ行く人はまれである。

 中華職業学校を卒業後、工員となる。上海では一番古くから大きな企業となっていた上海江南造船工場だった。いわゆる機械を操作する「車工」で、ナットやボルトを扱う旋盤の仕事を担当した。大きな機械1台に1人がついて毎日毎日いわばネジ作りだ。「音楽は業余時間を利用して続けていたが、生活もすごく貧しかったし、とにかく大変な時期だった」。
 
 ○その参

「仕事をしながらでも、笛は離さなかったよ」

  陸さんが20歳のときが1941年。日本は1931年1月「第1次上海事変」、1937年8月「第2次上海事変」を起こし(37年からは中国全土で全面侵略を始めている)、江南地域を占領していた。そして41年12月の日米開戦によって上海市内の英仏米の租界を占領し、上海を全面的に支配することとなった。だから陸さんの多感な青春時代は日本の占領と重なるのである。

 「日本の占領時代には練習や演奏をするのもいろいろ困難なことがあったのではないんですか」とたずねると、「中国と日本は子々孫々まで友好を保つものだ。今の私には日本に多くの知り合いや生徒がいる。中国と日本は距離も近いし、似ているところも多いから仲良くしないとね」と、質問とはかけ離れた答えが返ってきた。

 短い時間内にすべては話せないし、たとえ話したとしても真意が的確に伝わるかどうかわからない、との判断もあったのだろうか。本当の苦労というものはそう簡単に口にはできないものだろう。あるいは日本人の気持ちをおもんばかって“過去のことはいいよ”と、さらっと流したのかもしれない。ただ「お金がなかったからね。生活の困難は多かったよ」と一言。
   
    陸さんが生まれたのは今の南昌路         
  さて陸さん、造船工場で何年か勤めたあと、祥生公司という会社でタクシードライバーになった。1949年中華人民共和国が成立した後、中国人民解放軍華東空軍衛生部に勤務して、過去の経歴を生かし部隊の救急車の運転を担当した。救急車を運転しながらそこでも笛を放さず、文化芸術活動を進めたというわけである。

 「笛を一時も離すことがなかったなあ。仕事をしながらね、地域の楽団である中国国楽団(アマチュア)で演奏していたよ。まあ解放軍で仕事をしていたから、いろいろ音楽活動ができた」。
  そして陸さんは上海民族楽団の設立にも関与する。「周恩来首相が『上海は民族楽団が必要』と指示をだしたと聞いているが、その設立のために笛の私、二胡の許さん、もう一人は琵琶の林(林石城さんか?)さん、この3人に上海文化局の2人の幹部を合わせて5人で会議を開いた。それで52年に正式に設立された」。

 1951年上海市文化局が上海民族楽団設立のための会合を開いた。組織を準備するためのパーティにも招かれ、その設立のため3人が協力した。「それで最初10何人かの楽団員を募集した。このようにして専門的に音楽の仕事として始めたんだ」。

 (この項正確には民族楽隊の設立に関与したということかもしれない。中国音楽事典によると上海民族楽団の設立は1957年で、前身の上海民族楽団民族楽隊が拡大・再編成されたとしている。だから陸さんの言う楽団とは民族楽隊のことと考えられる)

 ○その肆

「笛を通じて多くの友人を作れたことがうれしい」

   本格的に音楽の仕事を始めた陸さんは、民族楽団とともに全国各地の農村や学校、工場などを回ったという。また新中国建設の息吹を伝える国策もあっただろうが、外国への演奏旅行も始まった。「1954年初めて外国へ行った。インド、インドネシア、ビルマ(現ミャンマー)などへね。インドネシアのスカルノ大統領に会ったり、インドのネール首相にも会ったりしてね、それは楽しかったよ」。

 近年も日本や欧米での演奏が多いが、「行く前に相手の人がこちらに来て打ち合わせで一緒に食事をするが、それは相手が私の体が丈夫かどうか、ちゃんと動くかどうか見るためなんだよ。見てからやっぱり元気な体で保険もいらないと納得する、大丈夫だと」。

 高齢の陸さんの健康を確認したいとのことだが、本人はいたって矍鑠(かくしゃく)としている。アメリカへ行った時も時差を感じなかったと言う。だからアメリカで時差があるから休んでくださいといわれても休まなかった。普段あまり昼寝もしないという陸さん、いつも夜は12時ころ寝て朝6時か6時半頃起きる生活だ。「6時間寝れば十分。シンガポールへ行ったときも、温度が高くてみんな寝てたけど、私は昼寝をしなかったよ」。
   
 アメリカ演奏旅行時の撮影(パンフより)        
 台湾に行った時は地震に遭った(昨年の5月)。「ホテルの10階の部屋でテレビを見ていたらとても揺れた。幸い大丈夫だったが、陸さんは「命大」、悪運が強いねえといわれましたよ」。

 これまで50数ヶ国を回った陸さん、外国での演奏ではやはり中国で演奏するときとは違うものがあると語る。演奏を通じて中国と中国文化を伝えること、そして新しい交流が始まるという意味で。また観客も熱心で、だらけた演奏はできないプレッシャーもある。

 しかし芸術交流を通じて互いに理解を深めると友人になれる。ある時は相手が上海に来て、ある時は私が行くという風に。 
  そして訪問した国の楽器や音楽に触れることは中国の民族音楽の改革にも役立っていると言う。「中国の音楽は感情を表現しやすいと思う。西洋の楽器はその辺が少し足りないかなあ。これは西洋の楽器が悪いということではなくて、中国の楽器のようにうまく表現できないということだと思うんですがね」。

 各民族にはそれぞれの楽器・音楽があり、そのは個性はその民族の特徴を良く表している。だから一緒に演奏すると音楽交流だけでなく人間的な交流ができる。交流によって楽器の改革もできるし、他の国の楽器の良いところを取り入れることができると。

 音楽交流の話になると陸さんの言葉はとどまることがない。 


○その伍


「練習に人間の性格というものは表れるものさ」


  民族楽団での演奏を楽しみながら、1954年からは上海音楽学院の講師も兼任した。自分の音楽を聞いてくれる人がいるならどこへでも行く。工場や学校だけでなく、外国との交流にも熱心だった陸さんの原点はラジオだったという。

 「まだ子供だった13歳の時、ラジオに呼ばれてね。生まれて初めて私の演奏が流れたんだよ。たしか「中花六板」や「行街」、「三六」などを演奏したんだったかな」。

 そんな集大成が02年12月、上海大劇院での上海江南絲竹協会の演奏会にも表れている。上海江南絲竹協会は団体会員40、会員は800人いるとのことで、「頂級大師」と呼ばれている陸さんが小楽隊・大楽隊を率い指揮と演奏も兼ねた。「上海大劇院で今年5年目の演奏になるが、それは私一人ぐらいしかいない」、「今度自分で創作した曲に関した本も出す」と意気軒昂な陸さんの頭の中には楽器と練習が常にある。 

 
   
今も練習が第一と励む 
 
 笛、笙、それに雲南の巴烏(パーウー)、フルス。練習について尋ねると「一日中練習しているよ。今は昔より時間が短くなったが、必ず笛に触るよ」とにこやかに語る。練習方法はシンプルである。全曲全体を通した練習と、難しいところを選んで何回も練習する分段練習の繰り返しだ。

 「難しい段を重点にする方法でくりかえし練習するわけだね。で、達成する目標を決めて練習したあと、人に聞いてもらってちゃんとできたかどうか試し、それで意見を聞いてだめなところは直してまた練習する。そんなことをやっているよ」。

 実はその“そんなこと”が簡単なようで一番難しい。人に聞いてもらうことが苦痛でない。そんなところに陸さんの性格が現れているのだろう。
 
 
 また楽団や音楽学院で教える時にも、練習に対する性格と81年の人生経験が自然とにじみ出てくる。今陸さんが教えているのは若い生徒ではなく、ほとんどが音楽関係の先生や楽団の演奏員ということになる。

 陸さんは『徳芸双全』という言葉を教えるときに良く使うという。人間の“徳”と音楽の“芸”の両方の道を習得することが大切だ、という意味だ。「私は教えるとき、譜面を音にする演奏の方法だけでなく、感情をどう表すかということに注意する。そのためにそれぞれの人間が、どのように生きていくのかという事も教える。つまり人生観の教育ということかな」。
 

○その陸(最終回)

「ただいつまでも笛を吹いていくだけだよ」

  陸さんは練習とともに楽器を大切にする。もちろん笛の陸さんで有名だが、小さい頃にはいろいろな楽器にも触れている。だから「笛1本で『走天下』、つまり1本の笛で全世界を回ることにこだわってはいかんよ」という。中国でも56民族があり、それぞれに民族楽器があるから、それらの楽器のいいところや表現の仕方を吸収する必要がある。笛でなんでもやるのにこだわるな、ということである。

  また楽器の改良についても、民族はそれぞれの楽器を持っているから、変に改良するのは風格の破壊になるという。「改良はその楽器の民族特性を生かすようにする必要がある。わらの家の上に鉄を載せれば倒れるだろう。改革には合うものと合わないものがあるのさ。破壊するような改革は良くないと私は教えるね」。

 音楽に関して陸さんの話はとどまることを知らない。何より音楽そのものが好きだという気持ちが伝わってくる。そんな陸さんの家族もまた芸術に造詣が深く、陸さんを支える大きな力だ。

   
家族と友人と笛があれば 
陸さんには陸星毅さんと陸如安さんの2人の息子がいる。長男の星毅さんは芸術系といっても画家で、次男の如安さんが幼い頃から父について習った笛を生業としている。

 如安さんは16歳で部隊文芸団体に入り、のち上海歌劇院でソロ演奏家として活躍。現在は上海戯劇学院表現芸術系の教授で、作曲、指揮を専門としているそうである。

1999年10月上海大劇院で開かれた「陸春齢芸術生涯70年音楽会」にもプロデュース(一部演奏)として参加している。笛のほかに、笙や巴烏(パーウー)やフルス、けん(つちぶえ)もこなす。
  孫もまたそれぞれに芸術の道を歩んでいる。長男の息子は美術系で、次男の息子はピアノが堪能で自分のために伴奏もしてくれると、そのときはやはり相好が崩れる。いつまでも笛を吹いていくだけさ、と語る陸さんの周りに自然に人が集まるのだろう。

 「私の生徒の中にも日本人は多くいるよ。老人、中年、青年、少年、みんな熱心だ。私はそんなみんなが大好きなんだよ」。陸さんは最後ににこやかに語ってくれた。

                                              (この稿03年3月17日終了)

ページトップへ戻る

   

inserted by FC2 system