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中国・音楽の旅

阿炳(ア-ピン)外伝・3:阿炳とその時代(1927年~1932年)
25、1932年(39歳)・阿炳と劉天華ふたたび
 
 このころ阿炳の生活に新たな光が生まれた。江陰県の農民寡婦である董彩娣と夫婦になったのである。董彩娣の前夫は貧しさの中で亡くなっており、互いに貧しいもの同士の中を取り持つ親切な人がいたのだろう。董彩娣はお茶好きの阿炳(一般的に無錫人はお茶が好きだと伝えられている)にいつもお茶を絶えさすことがなかったとも伝えられているが、暖かい心尽くしに阿炳は芸に専念できるようになった。

 街頭を流し生活する阿炳。彼の姿は無錫の中心街でよく見られた。夏でも冬でも、また昼でも夜でも阿炳は黒いサングラスをつけ、肩には粗末なズタ袋をかけている。そのズタ袋の前の部分には二胡を入れ、後ろには琵琶を差し、近所の子供に手を曳かせ茶館へ行ったりあるいは寺の前にたたずみ芸をする。

  阿炳にとってはお金を稼ぐ手段はこれしか残っていなかったが、阿炳は決して悲嘆もしなければあせりもしなかっただろう。確かに貧しい生活には変わりはないが、彼が街へ出てひとたび弾きはじめるといつの間にか客が集まるからである。何しろ「阿炳の芸は無錫一だ」と、民衆の中にはすでに伝説ともなりかけていたからである。

 父の跡を継いで道観の主宰として様々な行事を行ったこと、そしてそのために幼少のころから音楽の修行をしていたことは決して無駄ではなかったのである。自作の曲を演奏し、世相を取り上げて謡いにする。そんな市井のものごとを取り上げて同じ無錫弁で語る阿炳に、民衆は喜んで聞き耳を立てた。

 後世(つまり現代中国では)阿炳はこの街頭で「時代の病弊を批判し、社会の暗黒面を攻撃した」と、その語りが反軍閥、反日の姿勢で貫かれていたと歴史的な評価を与えられるのであるが、これはあくまで現政府から見た評価であるのはいうまでもない。
 
 阿炳の心には権力を誇示するいかなる組織であろうと批判と揶揄の対象であっただろうし、人民の代表などに祭り上げられるなぞは片腹痛いものだろう。芸の底にあるのは身近な生活から生まれた喜びを伝えることであり、その身近な生活(そして仲間である庶民)に悲しみをもたらす権力の姿に正直に怒りを覚えていただけだと考える方が現実的だ。

 そしてこの時期、中国民族音楽史上に大きく名を残す2人の人物と再び人生が交差するのである。1人は周少梅(1885~1938)、そしてもう1人は劉天華である。
                            

左:劉天華 中:阿炳 右:周少梅
  
  周少梅は江陰市の生まれで、父親が絲竹音楽の名手であったことから薫陶を受け、小さいころから二胡や琵琶を学んでいた。のち江南絲竹の大家として有名になり、各地から演奏や教えを請われるようになる。無錫第3師範学校や常州5中(現・常州中学)などの音楽教師になり、民族音楽の改革にも力を尽くしていくのである。

 劉天華は1917年~22年までこの周少梅に学んだと伝えられている。周少梅は二胡の演奏技法改革に先駆的な役割を果たしている。周少梅は民間芸人の“盲目の陸氏”に「中花六板」を学んだとされるが、当時この曲は音域が第2ポジションまでしかなったのを第3ポジションまで上げ、更に幾つかの装飾演奏を加えるうことで、曲の内容を豊かにしたとされる。

  周少梅また民族音楽の発展にも力を尽くした。1930年には江陰、無錫、常熟の国楽愛好者に呼びかけ香山絲竹社を結成し、曲の研究や技術交流に努めた。1935年には更に南京や常州の国楽愛好者も含め国楽研究会を成立させ、国楽の普及発展尽くした。

 そしてこの時期周少梅は阿炳とも交流し、二胡や琵琶の演奏技法について互いの技術を論じ合った。周少梅は阿炳の境遇に同情し、ある時などは阿炳が北大街の路上で唱いを始めるのを手伝ったとも伝えられている。
 
 しかし実は周少梅自身晩年の生活は恵まれなかった。1935年以降戦乱が激しくなると、音楽教師としていた常州中学を失職し故郷に帰らざるを得なくなる。悪いことは重なるもので故郷へ帰って半年もたたないうちに狭いながらも2間あった部屋が戦火で焼失し、同時に楽器や楽譜などの資料も燃えてしまった。周少梅は失意と貧困のうちに、1938年夏亡くなってしまう。享年53歳。

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 1932年のこの年6月8日、中国民族音楽の近代的な改革と発展に尽くした劉天華が亡くなる。1922年から北京の北京大学や北京女子高等師範学校、国立芸術専門学校などで二胡・琵琶そしてバイオリンの先生として生計を立てていた劉天華は、同時に1927年国楽改進社を作って入る。中国民族音楽に西洋的な演奏の技法を持ち込んで、特に二胡の近代的な発展をはかったが、一方で民衆の間で演奏され唄われる民間伝承の曲の採取にも熱心に取り組んでいた。(本欄「劉天華の巻」参照)

 北京で民間芸人達が集まる場所は天橋地区であった。楽器、唄いのほかにいわゆるサーカス芸などの芸人も集まり、とにかくありとあらゆる人間が集まっていた。劉天華はそんな中に民族のエネルギーの源を見たのだろうか、この天橋地区には時間ができると出かけていたが、この地で活動中に猖紅熱に罹り、それが原因で亡くなったのである。20世紀における中国の民族音楽の発展に尽くした劉天華はその後半生に阿炳と再び相間見えることはなかった。

 劉天華死去の話は少し遅れたにせよ当然阿炳にも伝わったはずだ。もちろん阿炳はその日も街頭に出ている。後年民族音楽の世界ではそれこそ歴史上に残る二大人物として時には対比して比べられるが、阿炳にとっては競争する意識もなかっただろう。地理的な距離はもちろんあるが、阿炳にわかっていたことは劉天華もまた自ら全身を音楽に打ち込んできた人物ということだ。

 そんな彼をただ尊敬する以外になにがあっただろう。阿炳にとっては、名声があって持ち上げられている音楽家であろうと老百姓(一般庶民)の中で彼らが喜ぶ唄いに徹している人物であろうと、ただ1つ、民衆の前にいればそれでいいのである。

 この年もまた変わらず阿炳が街頭に出ていたのである。 
                         

上海事変時の街の様子
  
 上海の街頭では庶民に悲劇が起こっていた。1932年1月18日、寒行のため共同租界東部にある三友タオル工場付近を回っていた日蓮宗の僧侶と信徒が中国人に襲われ1人が死亡し2人が重傷をおった。これに対して日本青年同志会が殴打した職工達の会社・三友実業社に押しかけ抗議し、その帰途に中国人警察官と衝突し双方に死傷者が出るという事件が起こった。

 この事件で日本側は上海市に犯人の逮捕処罰、抗日会の即時解散を要求するなど緊張が高まり、上海駐留の日本海軍陸戦隊と中国側の第19路軍が互いに陣地の構築を始めた。そして1月28日ついに戦端が開かれた。第1次上海事変の始まりである。

 実は事変の戦端となった日蓮宗僧侶襲撃事件は日本側が仕組んだ事件であったと、戦後の極東軍事裁判で明らかになった。事件は満州の関東軍の意向を受けて、満州事変後の中国東北地方の日本の動きに注がれている国際的な警戒の目をそらそうとして行われたものであった。

 上海の戦火は3月3日にようやくやむのであるが(停戦調停調印は5月5日)、日本軍も多くの死傷者(死者769人、負傷者2322人、満州事変の3倍である)を出し、国際的な厳しい目がさらに注がれることとなった。

 もちろん一番の被害者は上海に住む人々であった。家を焼かれ流れ弾に当たって死ぬ、孤児が増え食べるものもままならなくなる。中国人庶民だけでなく租界に住む日本人も結局逃げ惑わなければならなかった。満州事変についで上海事変が起こされたことで、日本と中国は長い果てしない戦いに入るわけである。

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 この年3月1日に満州国建国宣言が出され、3月9日には清朝最後の皇帝であった溥儀が満州国執政に就任した。国際的にはこの満州国に対して国際連盟のリットン調査団が入り、その正当性を調査したのである。

 日本国内では5月15日、海軍の青年将校と陸軍士官学校生徒らが首相官邸を襲う5・15事件を起こしている。襲われた犬養首相は銃撃され死亡した。事件を起こした将校たちは逮捕後裁判を受けたが、一国の首相を殺害したのにも関わらず禁固刑など比較的軽い刑で済まされ、これがのちの2・26事件を後押ししたとも言われている。

 いずれにせよこののち軍人内閣が成立するなど、日本国内においても暗い時代が続くことになるのである。
                                                         (11.12.27記)

24、1931年(38歳)・阿炳と迫り来る戦争の暗雲
 
  阿炳の生活にも大きく(まあ収入への影響は少しだったと考えられるが)影響した無錫の街の繁栄は、様々なものの消費という場で本領(?)を発揮した。庶民の生活に直結する食品なども豊かになっただろう。しかし目に見える形となったのは賑わう繁華街だった。レストランや茶館などには多くの客が出入りしたが、最も賑わったのは花柳界だった。

 辛亥革命以来の商工業の発達は金持ち層を増やした。いきおい消費に使うお金も増えた。無錫駅の前の大通りには旅館やレストラン、茶館やホテル、劇場などが建てられおり、交際路の一角には妓楼もあって、“長三堂子”と呼ばれたこのあたりでは女達が客を呼びそれに客が集まるといった具合ににぎやかな地域だった。
 
 無錫の花柳界を叙述した書物によると、そこから少し行った控江門北側の運河に沿った地域には、王、謝、蒋、楊(を名乗る経営者)の4大妓楼があった。ここの妓女は派手な衣服・化粧で着飾り、また京劇の一節や流行歌も歌えるように教育されるなどし、交際路の妓楼より高級との評判をとっっていた。

 4大妓楼には豪華な部屋や客間のほか、“灯船”と呼ばれた美しく飾った遊覧船を備えていた。船の前部には2卓のテーブル、書室のごとく名画を飾った中央部はアヘンを吸うベッドやイスがある。ここでくつろぐのは地方の名士や官僚の子弟、業界の幹部などで、船の後部には厨房がある。妓女が付き添い、舟は外城から出て、近くは恵山、呉橋、遠くは梁渓河から五里湖に行き、黿頭渚で遊ぶ。春秋の気候のいい日、船中で美酒美食を楽しみ若い美しい女性とともに遊ぶことは、当時の金持ちの最大の娯楽であった、とのことである。

 これらの高級妓楼は“書寓”という美しい名前を掲げていた。これら書寓で女性を見初めた場合のルールがあったという。まず“做花頭”(金を使う)ことから始める。“打茶圍”(芸者相手に茶を飲む)、“叫堂差”“打牌”(マージャンをする)、“請客”などと呼ばれるもので、まず書寓に友人らが集まる。30分程度、5元程度の金で何度となく来るようにし、女が売れっ子で客が多いことをあらわす。

 ついで茶館で宴会のとき、“書付”で女に酒の酌をし歌を歌うように頼む。これは10分くらいで“出堂差”と呼ぶが、何回か行なった後、女のいる部屋でマージャをして客を招きさらに散財する。そのほか服を送ったり首飾りを送ったり、2ヶ月ほどしてから女の気持ちが傾いてきたら、やっと夜を過ごしなじみの客になるわけである。身受けするならおかみと交渉で金を渡す。

 妓楼はどこも同じようなシステムで、“書寓”で遊ぶというのは高尚なものと思われたが、実際は妓女を買うということだった。無錫の地方紙・新無錫の別刊に「茗辺(茶所)」一覧が、錫報・別刊には「北里花訊」欄があり、花柳界の動静が載せられていた。これを見て市外からの客もいろいろ楽しもうとしたわけである。

 しかし妓女の実態は悲惨なものであった。家が貧しいとか両親がいないと小さな子供が売られてきて女将に育てられ、妓女となり客を取るが、化粧を落とした体はボロボロ。衰えたら最後は街頭でこじきになったり、挙句は凍死したりと悲惨極まりないものとなったという。

 そういう華やかな表面と悲惨な裏側が表裏一体となっているという実態は決して花柳界だけでなく、工場でもそうであり、何より庶民は実際の生活で鋭くその反映の裏にある虚構というものを嗅ぎ当てていた。物価は高くなりつつあるし、老百姓(庶民)の口コミでは軍閥の争いに日本軍の圧力などがひしひしと迫っていることが感じられていた。
                            

参考:歓楽街の様子(20世紀初期の上海)
 
 阿炳は街頭を流していて妓楼から呼ばれることがある。お大人(たいじん)の金遣いの荒さを目の前で知ることができるし、毎日のように接する近所の人々から庶民の生活の大変さが伝わってくる。阿炳は現代中国の伝記では「権力に抵抗した」と伝えられることが多いが、それは決して抽象的な思想で評価されるものではない。現実の生活の実感こそ阿炳の音楽を生み出したもの、とごく素直に受け止めればいいのだろう。 

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 そんな生活に暗雲をもたらした歴史がこの時期から動き始まる。

 1931年9月18日。中国東北地方・奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖付近で満鉄路線が破壊され、この破壊が中国軍によるものだとして日本の関東軍が張学良軍を攻撃し、一挙に満鉄沿線の都市に攻め入ることとなった。満州事変の始まりである。今日ではこの爆破は関東軍の一部による謀略だったことがわかっている。

 長く満洲地域を支配していた張学良軍は中国国民党・蒋介石の指示もあり、さしたる抵抗もせず撤退したこともあり日本軍は各地に進撃した。9月21日には吉林を占領、11月には黒龍江省の省都チチハルも占領した。そして中国側と国境を接する(万里の長城線の)山海関をすぐそこに見る錦州を年のあらたまった(翌1932年1月3日)占領し、ここに関東軍による全満州の占領がなったのである。

 関東軍はその後満州国を樹立し、清朝最後の皇帝・溥儀を皇帝に据える満州帝国としてその体裁を整えていくのである。 

 満州という地は阿炳の住む無錫や上海から見ればはるか彼方の地であるといってもよい。中原地域における軍閥間の戦争による被害という直接的な体験の方がはるかに実感できただろう。まだまだこの時期には満州での出来事は他人事といった感が漂っていたのかもしれない。

 しかし満州事変は日中間を(宣戦布告なしの)本格的な戦争状態にさせ、阿炳たちの周りにも戦火が広がっていくのである。
 
                                                         (11.9.20記)

23、1929年(36歳)~1930年(37歳)・阿炳と無錫の盛況
 
  時代は蒋介石による北伐が終了(1928年6月北京占領、12月張学良が合流)し、特に南京国民政府の支配下にある長江下流域は一定の政治的安定を得た。上海、南京という大都市を抱え、租界という異常な形ではあるが西洋の経済、文化の最先端の事物を経験するこの地域は、さらにいろいろな意味で“成熟”していくことになる。

 “小上海”とも称された無錫は30年代に入って商工業も発達し、にぎやかな街となっていった。阿炳は相変わらず街頭で音楽を語る生活をしていた。「盲目の阿炳」という名は盲目という障害によって貶められるのではなく、その楽器を扱う高度なテクニックと庶民生活に根ざした語りによってむしろ評判を高める名となっていた。

 しかし生活は貧しいままである。なかなか思い通りには食べられないとしたら、本人にとっては苦痛でしかないと考えるのが当たり前だろう。しかし当時の社会は日常的に戦乱と混乱の中にあったから、庶民というのはいわば貧しいのが当たり前で、その貧しさの中でどれだけたくましく生きられるかが人生を決定づけたといってもいいのだろう。

 阿炳の生涯についてはやはり後世の(つまり中華人民共和国成立後の社会意識からの)伝記的評価というのがどうしても表面に出てしまう。つまりは貧しさは当時の国民党や軍閥や西洋各国の収奪のせいであり、阿炳は貧しい庶民の代表としてこれらの権力に果敢に戦いを挑み、貧しいことを苦にするものではなかったというような評価である。

 しかしいつも貧しいことに平然としていられなかっただろう。貧しい者が貧しい者をだます、あるいは弱いものからさらに奪い取るといったことも日常なことだし、「金持ち=悪者、貧しいもの=善人」といった図式に当てはまらないのが現実の社会というものだ。

 後世作られた阿炳の貧乏物語はたぶんに教訓的な要素が残っている。しかしそれは阿炳個人というよりは貧しい庶民が、時代はいつであれまた政府がどういう装いをしていようと(つまり貧乏人の味方ですよなどと甘い言葉を掲げようとも)、常に持つ意地だと考えれば確かに今日的な意味も持つ。

 ということで現在発行されている書籍(無錫野史)に掲載されている「阿炳の4無貧」というのを紹介しよう。

『1、「貧しいけれど志は貧しくない」。阿炳は権力を恐れない。国民党軍閥・湯恩伯の第13夫人の誕生日に歌うよう求められたが、拒否したため殴られた。傷が癒えた後、湯恩伯を嘲弄しののしる歌を作った。
 
 2、「貧しいけれど口は貧しくない」。阿炳は無錫の街中を歩いたが、食べ物をねだったことはない。あるお金持ちの家で婚姻があり、その家の者が阿炳に食べ物を与えようとしたが阿炳は必ず断った。なぜかと人に問われると「冷飯はうまいが冷眼はいやなものだ」

 3、「貧しいけれど芸は貧しくない」。阿炳の芸はすばらしいもので、二胡、琵琶、三弦などなんでもできる。最も人を感心させたのは、阿炳が“琴語”ができることだ。彼は薬指を二胡の弦にあて、上下の移動でまるで2人の無錫人が対話しているようにする。男が「何をしているんだ」と聞くと女の声で「あなたが語りをするのを聞いているのよ」と答える、すると聴衆はあっはっはと笑うというところである。
 
 4、「貧しいけれど名は貧しくない」。二泉映月という曲は現実主義の色彩に彩られた傑作で、この曲により阿炳の名は世界に聞こえるようになった』

 さてさてどうだろう。阿炳が今日の中国で生きていたら、貧しいながらも権力の横暴や腐敗にやはり厳しく立ち向かうことだろう
                            

無錫の景勝地「天下第二泉」は今でも観光客が多い
  
 さて無錫である。阿炳らの生活はそう変わらなかったとしても、街は大きく変貌していく。

 1929年6月当時の無錫県長が江蘇省民政庁に、県制から無錫市になるよう要求したと歴史にある。すでに無錫全県で人口は94万人、市街区には19.4万人が住んでおり、工場は数百、労働者は12万人といわれていた。長江の物資の集散地にもなっており、交通が発達し商業都市として成り立っており、「小上海」とも呼ばれていることも自覚していたからである。

 そこで市制準備室を作り、29年10月には都市発展計画も打ち出し、城区は道路を碁盤の目、郊外は環状放射式を採用することを提案していた。しかし1930年4月、国民党政府として集権化を図ろうとする蒋介石に対して、自己の勢力を守ろうと反旗を翻した閻錫山、馮玉祥、李宗仁らの軍閥との中原大戦が勃発してこれらの計画は実らなかった。

 1929年10月9日には無錫国貨博覧会が公花園で開かれた。これは1928年11月に上海で博覧会が開かれ、続いて杭州で1929年6月「西湖博覧会」が成功したことが無錫の商工人士に刺激を与えたもので、、市当局や商工会、工業会など13団体が組織を作って進めた。展覧会は1ヶ月開かれ20万人余りが見学に訪れたという。国貨、つまり国産品を愛用して外国の商品を買うのを控えようという愛国運動の側面があったのである。

 住民の足としてはバス路線の設立が大都市を中心に進められてきたが、無錫では1929年8月に資金10万元で錫澄長途汽車公司(長距離バス会社)が設立され、1930年8月20日梨花庄で公共バス開通式典が行なわれた。8月25日から正式に運行が行なわれたが、当時は晴れで運行し雨が降れば休運という状態で、5台の道寄車と2台の乗用車で運行していた。バスの走る道路は小石で舗装してあり平らであった。錫澄バス路線が開いたということで、無錫地方の南北間の人や貨物の往来が多くなった。

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 そんな時代の華やかな(?)エピソードが1つ。「夜花園」――楊翰西という郷紳が謝文玉という妾のために広勤路に10ムー(約6667㎡)の土地で「野花園」を作った。楊翰西はさらにこの土地に遊芸場を作った。静かな野花園(大きな庭園)は色鮮やかな電灯がつるされことのほか美しくなったので、民衆はここを夜花園と呼んだ(「野」と「夜」の中国語の発音が同じ)。

 遊芸場が開かれると、あわせて無錫駅周辺一帯もにぎやかになり、春夏には夜になると園に灯がともされ、周山浜に市民が続々とやってくるようになった。人力車(黄包車)や車に乗って、クラクションがうるさく鳴り商店のネオンもが鮮やか。当時の周山浜の賑わいは“不夜城”のようで、茶屋や飲食店、バーもあり音楽隊が客を迎え、京劇、昆劇、マジックから無声映画と、それこそいろんなものがそろっていたという。

 そんな賑わいの場が一挙に増えていったのが1930年代初頭である。上海と南京という当時の大都市の間に挟まれ、また鉄道と長江の海運が使えるというという地の利があり、大金持だけでなく小金持もある意味で気軽に遊べるということで無錫をひいきにしていたのだろう。

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 しかし世界では資本主義を襲う大きな嵐が吹いていた。1929年10月24日、アメリカ・ニューヨークのウオール街で株式の大暴落があり、大恐慌が資本主義諸国を襲った。「暗黒の木曜日」と語られる日である。

 企業は生産制限を余儀なくされ、休業・倒産が続出。また人員整理で失業者が街にあふれた。各国はダメージをそれぞれの方法で回復していくことになるが、自国の利害を突出させる体制が出来上がると第1次世界大戦後に続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第2次世界大戦へとつながる要因となっていくのである。
                                                         (11.7.19記)

22、1928年(35歳)・阿炳と音楽
 
  街頭で音楽を“語る”楽しみは、阿炳にとって何より生活を支えるものになった。貧困は相変わらずだが、阿炳が歩けばどこからともなく声がかかる。無錫という街は国際都市として栄える上海、そして江南地方の歴史的都市である南京にはさまれ、また長江という水運の利便性があることから大きな経済繁栄の都市となっていた。

 「灯紅酒緑」。夜ともなれば繁華街に明かりがともり、太人たちが酒楼や妓楼に上る。みすぼらしいといわれる格好で阿炳は街を歩いているが、夜の席に結構声がかかる。見た目で毛嫌いする「老板」や「貴人」もいるが、地元で長く商売を続けている旦那衆にはその音楽の技量が伝わっている。

 阿炳もちゃんと音楽と語りを聞いてくれる座敷なら肩肘はらずに出かけていく。もちろん金を先にばら撒いて“何か弾け”という御仁のお座敷には出かけない。とまあこのように往時の阿炳の姿を書けないこともないが、実際はもっと無理をしない自然体だっただろう。

 そんな阿炳を無錫の無錫の老百姓(庶民)はこれも自然体で支える。金がないから芸に対して銭は払えないが、それならと自ら作った野菜や果物を持ってくる。ちょっとお待ちよ、と近所の奥さん連中が着物を繕ってくれることもままあった。

 その中で音楽面で支えていたのが華炳康という人物であった。当時の老北門内二下塘迎祥橋付近(現在の中山路600号)に中興楽器店という店を構えていた。背は低く太っていたことから人々は“三胖”と呼んでいた。小さいときから楽器を作っていて、店は間口一間の小さいものだが、奥に作業場があってそこで作る三弦、月琴、琵琶、二胡、京胡などは質がよいので有名で商売は繁盛しており、著名な音楽家の楊蔭瀏の使う楽器もここで作られていたのである。


阿炳の音楽は現代の少年に伝えられるか(無錫少年宮)
  
 阿炳とこの華炳康との出会いは伝記によるとこうなる。

 「あるとき阿炳が演奏しているときに二胡の弦が切れた。阿炳はまったく金がなく、立ち往生したのだが、そこがちょうど中興楽器店の前だった。店主の華炳康はそれを見て阿炳から二胡を取り上げ、阿炳を長いすに座らせると修理にかかり5分であらためて弦を張った。音調もぴったりで、華炳康は阿炳に向かって『これからも弦が切れたら来なさい。料金は要らないよ』。阿炳はこれを聞いて感動し、お礼として店の入口に座り二泉映月を演奏した。これが道行く人や隣人を引き寄せ店の前は人だかりになった。それ以来阿炳の二胡と琵琶や部品の修理はすべて華炳康が引き受け、それが30年にもわたった」(無錫夜史・中国社会出版社2001年)。

 まあこの様な演奏中に弦が切れて、しかもそれが店の前だったというのは出来すぎで、あとから作った話だろう。もともと阿炳の演奏の名声は無錫中に膾炙していた。華炳康も楽器店を経営している以上阿炳のことを知らないはずはなかった。だから普段から見かければ声をかけていたはずだ。自然と知り合いになっていたか、あるいはまだ目が悪くなる前から阿炳が楽器の相談に行っていたのかもしれない。

 いずれにせよ阿炳の音楽生活はこのような人々によって支えられていたのである。そして阿炳もそれらの市井の人々の声をよく聞き、その生活に密着した演奏と語りを繰り返し絶賛を浴びていくのである。

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 さて時代はさらに混沌としてきた。 前年に上海、南京と北上してきた蒋介石率いる国民革命軍は1928年4月再び北伐を開始した。そして5月北伐軍は山東出兵の日本軍と衝突する。済南事件といわれるもので、日本軍は済南を占領する。これに対して中国各地で日本製品ボイコット運動などが起こるのである。

 6月には国民革命軍との戦いに敗れ、北京から撤退しようとした満洲の統治者である張作霖の列車を日本軍が爆破するという「張作霖爆殺事件」が起こっている。

 そんな時代を体現する人物がこの都市上海にやって来た。朝日新聞上海通信部に赴任してきた尾崎秀実(おざき・ほつみ:1901~1944)である。尾崎はのちに「ゾルゲ事件」に連座し、1944年11月第2時世界大戦が終了する9ヶ月前にスパイ罪で、リヒアルト・ゾルゲとともに処刑された人物である。
 

尾崎秀実
 
 「ゾルゲ事件」で有名なリヒアルト・ゾルゲは第1次世界大戦でドイツ陸軍兵として戦争に参加し、そこで社会主義に目覚める。ドイツ共産党、そしてコミンテルンの一員として活動し、1930年1月に上海に赴き、中国革命を初め東アジア各国の情報を収集する活動を始める。尾崎秀実とはまもなく知り合い、日本の中国・満州での行動と、それがソ連に対するどの様な軍事行動になるのかを探った。

 尾崎は幼少期を父の赴任先の台湾・台北で過ごし、当時の日本植民地支配の実態を肌で感じ、民族問題に対する関心を持つこととなる。中国と当時の欧米列強との関係は、民族問題に関心がある尾崎にとってはまさに現実をその目で確かめる場所でもあった。上海に到着した尾崎は呉淞路義豊里210号に住むことになった。

 上海での尾崎は内山書店で多くの本を買い込むなど猛烈な読書家でもあった。当時の中国は28年6月に国民革命軍が北京に入城して政治の実験を握った時代であった。尾崎は国共分裂後の共産党の動きや農民運動の状況を追おうとしていた。日本では官憲の目を警戒してやめなくてはならない図書でも(つまり左翼関係の図書)上海では安心して読めたこともあった。上海は当時の世界情勢の縮図ともいえる国際都市であり、帝国主義列強の租界があり、中国で最も先進的な労働運動が展開された土地でもあり、尾崎はここで国際的な左翼組織に入っていくことになる。

 尾崎はゾルゲと月に2回か3回顔をあわせ情報を交換した。1932年に尾崎は社命で帰国せざるを得なくなるが、その後日本で情報収集活動を続けた。1941年夏の日本は北進してソ連を攻撃するか、南進して太平洋で米英と戦うのかという選択に迷っていた。ゾルゲとその諜報グループは政界や兵士達から情報を集め、日本の南進は確実との情報をソ連に送った。その結果ソ連は日本軍による後背の攻撃を気にすることなく、ドイツとの戦争に専念できるになったという。

 尾崎は上海にいる間アグネス・スメドレー(1892~1950)や魯迅とも交友し、日本と中国の関係について深く考察していくのである。

 この時期作家の横光利一も上海を始めて訪れている。のち、そのときの見聞を元に1932年小説「上海」を刊行する。

 またエドガー・スノー(1905~1972)も新聞記者として上海に来る。1930年代に入って彼は中国紅軍を取材した。のち、彼は外国人として始めて陝西省の紅軍ソビエト地区に入り、毛沢東や周恩来などの共産党の指導者と会っている。毛沢東について記した「中国の赤い星」は有名である。

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 日本では1928年2月初の普通選挙がおこなわれている。25歳以上の男子に選挙権を与えたもので、これまでの財産や納税額による制限ではなく、一定の年齢に達したものに選挙権を与えるものである。これまで300万人程度の有権者が4倍の1200万人となった。とはいっても女性には選挙権は認められなかった。  

 そして普通選挙法によって反体制勢力が増えるのを防ごうと治安維持法を改正し、3月には共産党員の全国的な検挙、弾圧がおこなわれるのである。
                                                       (11.4.25記)

21、1927年(34歳)・阿炳と失明
 
 阿炳(華彦鈞)はこのころ完全に両目を失明したといわれる。既に何年もほぼ見えない状態で生活してきたのだから今さら生活は変わるまい、と周囲の人間には思われたかもしれないが、阿炳にとってやはり特別な時期であっただろうと推測される。

 小さいころから道教音楽そして無錫という江南の豊かな地域ではぐくまれてきた歌謡曲に親しんできた阿炳にとって、道観という宗教的な空間に自らを押し込めておくことはおそらく無理だっただろう。父親の華清和が道観運営に能力を発揮し、そのおかげで阿炳は音楽に親しむことができたともいえるのだが、父親の後をそのまま継ぐことは心の奥底では無理だと感じていただろう。

 それでは、20世紀前半の世界的には戦争と革命の時代といわれ、中国では2000年続いた王朝体制が倒れるというこれまで誰もが体験しなかった時代背景が、この阿炳の気持ちを決定づけたのだろうか。もちろん外的な環境が人の一生を決定することはあるし影響が全くないということはないが、阿炳に関してはもっと違う要素があっただろう。

 それは無錫という街の空気と生活する人々の息遣いだったと筆者は考える。こんな使い古されたような“わかったような表現”は禁句だと言われるかもしれないが、失明してからの阿炳が極貧にあえぎながらも街頭で毎日の生活から感じた事柄を馴染みの音楽を通して語る。そして聴く人々との反応と掛け合い、会話も楽しんでしまう。 

 それは人生の後半期に入った阿炳にとっても新たな新鮮な生活であっただろうし、自分が身につけてきた音楽がこれほど様々で直接的な反応(好反応であっても嫌悪感であっても)を示すことが、むしろ好ましいとも思っただろう。

 しかし貧しく苦しい生活には変わりがない。しかも時代はますます“戦争と革命の時代”の実相を示してきており、無錫もその中に当然巻き込まれていく。しかしこんな苦しい時代にあっても阿炳の楽観さは変わらない。それは楽しいときに音楽があって当然だが、苦しいときにも音楽は民衆が求めるものだという事が身に沁みてわかっていたからだ。

 そんな阿炳を逆に街の人々は支えていく。楽器を体に背負い、やや猫背で歩く阿炳に誰もが声をかける。「どうだい、阿炳、元気かい」「ちょっとうちの亭主のあほなところを聞いてやっておくれでないかい」「先の梅花楼の旦那が探していたよ」などなど。

 一方時代はますます大きく動いていた。


阿炳の姿はこうだったか(後世の塑像)
 
 1926年に国民革命軍は北伐を開始して順調に北へ北へと向かっていた。そしてついに中国最大の経済都市上海に進軍することになる。

 そして1927年4月12日、軍権を掌握していた国民党の蒋介石は上海でクーデターが起こす。上海は列強の特権と利害が交錯する都市であり、また中国の労働者階級がストライキを企てるなどその力を発揮しつつあった国際都市であった。1926年に始まった北伐は国民革命として国民の支持を得て大きな勢力となっており、北伐軍の進攻を控えて上海では共産党の武装組織や労働者が大規模なストライキやデモを行い上海に自治政府を作り権力を奪取していたのであった。

 北伐軍の総司令である蒋介石はこの共産党の台頭をおそれ、また浙江財閥など大財閥が共産党を排除して治安の回復を求めたこともあり、上海に入った蒋介石を総司令とする軍は青帮、紅帮など暴力団も使い中国共産党と労働者の弾圧に乗り出し、上海の実権を掌中に収めたのである。このクーデターでは数千人が殺害されたと言われ、周恩来も危うく難を逃れている。

 蒋介石は12月、宋美齢との結婚式を上海大華飯店で大々的におこない、その地位を内外に示した。 

 この蒋介石の上海でのクーデターを裏で支えたのは杜月笙((1888年~1951年)であった。上海・浦東地区小さな町・高橋の貧しい家庭に生まれた杜月笙は15歳のある日、黄浦江を西側に渡り大都会に行く。当時の上海は黄浦江をはさんでまるで別社会であった。東側の浦東地区は百姓、職人、貧民が住むきわめて貧しい地域であった。一方西側はあらゆる豊かさを提供してくれる大都会であった。

 青果店の丁稚からやがて賭博生活に入り、そして20歳のころ、杜月笙は秘密結社・青帮の会員となる。生来のすばしっこさと頭の回転のよさから組織の中でのし上がり、ついに黄金栄、張嘯林とともに。上海3大ボスのひとりとなり、1920年代から30年代にかけて上海に君臨した。その活動は暗黒街にとどまらず、国民党や上海市の要職も務め、銀行を設立するなど上海上流社会の名士となり、慈善活動も頻繁におこなった。

 1937年日中戦争が起こると一時香港に避難、そして香港が日本軍に占領されると国民政府がある重慶に逃れ、物資流通などで利益を上げたが、1949年国共内戦で国民党が共産党に敗れると香港に逃れ、長年のアヘンの吸引によって健康を害したこともありそこで亡くなった。

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 無錫では上海クーデターののち、11月9日に無錫共産党の組織が江南秋収蜂起を行なった。3000人余りの農民が赤い鉢巻を締め手に手に鎌や鋤、鍬、刀を携え集合し、地主の家へ向かって進軍した。3時間の内に13の主要な村を占領。借用書を焼き、土地を農民に分け与えると宣告、食料を貧しい人に分け与えた。しかしこの蜂起は勝算がおこなわれたのではなく、また当時の客観条件にも合わず国民党の弾圧を受けて成功せず、省党委員会委員・夏霖など7人の指導者が殺害された。しかしこれは無錫での最初の蜂起であり共産党の影響が現れた行動とみなされている。

 阿炳たち城内に住む住民達にとってはこの蜂起はあまり影響がなかった。むしろ北伐による経済の安定のほうが重要だったかもしれない。上海にごく近いという無錫の地理的条件は上海の経済発展を受けて生活改善をおこなっていくという側面の方が大きかったはずだったからである。
 

当時の上海外灘風景
 
 一方こんな話が伝わっている(「無錫野史」・中国社会出版社より)。無錫市の南に広がる太湖付近は封建統治時代に民衆が官僚や地主の圧迫を受けていたことから、義賊や義盗が多く輩出した。

 1927年には義盗、太保阿書が出現した。彼は若くて強く、200人余りの部下と20艘の舟を持ち、豪商や官僚から財物を奪って貧しいものに分けていた。当時国民党南京政府は太湖の治安を守るために江蘇省水警二区に専任署を作り、区長を担当してのは曹血侠だった。曹血侠の水上警察は太保阿書を捕まえようと躍起になっていたが、いつも太保阿書に出し抜かれていた。

 そこで曹血侠とその部下は一計を案じた。太保阿書は性格が剛毅で友情を重んじるという点を使い、彼と連絡を取って申し出た。二区水警の取り締まり範囲内で犯罪を犯すのでなければ、その行為は問わない、ただし互いに会ってその約束をすること、との申し出だった。太保阿書の部下はそれは罠だと訴えたが、太保阿書は相手を信じるといって、結局逮捕されてしまった。

 民衆はお金を出すから太保阿書を許してくれと曹血侠に頼んだが、曹血侠はお金を取ってから太保阿書を死刑にするよう政府に送るというあくどいことをおこなったった。民衆は恨み、仇を取ると誓った。曹血侠は翌年無錫に帰り、その金で東大街老県前に2階建ての大きな屋敷を立てそこに移ったが、夜になるとあちこちで声がして眠れず、また壁の上に太保阿書の顔が現れたりしたので、怖さの余りその屋敷を捨てたという。

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 10月3日に魯迅が妻の許広平とともに上海に着く。魯迅は1926年8月に北京を去り、厦門(アモイ)へ行き、厦門大学文化教授となった。しかし落ち着かず27年1月に広州に移り、中山大学文学院で文芸論を担当する。4.12クーデターの余波は広州にも波及し、中山大学でも学生が逮捕されるなどするなどし、魯迅は主任会議でその救出を訴えたが賛成を得られず職を辞する。

 暗澹とする気持ちを抱いて、魯迅は上海に移るのである。上海に着いた魯迅は東横浜路景雲里にすむが、数日して歩いて10分もかからない内山書店に赴き本を注文する。ここから魯迅と内山の交遊が始まるのである。

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 日本では1927年片岡蔵相の議会発言から一部銀行の経営状態が暴露され、各地の銀行には預金を引き出そうという民衆が殺到し、金融恐慌が始まった。のち田中義一内閣の3週間のモラトリアル(恐慌などの際に起こる金融の混乱を抑えるため、手形の決済、預金の払い戻しなどを一時的に猶予すること)の実施でひとまず収まったが、日本経済は恐慌に直面していくことになる。

 この年、日本初の地下鉄、東京―新橋間が12月に開通している。7月には作家、芥川龍之介が自殺している。
                                                         (11.2.14記)

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