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中国・音楽の旅
阿炳とその時代

阿炳(ア-ピン)外伝・3:番外編 

9、阿炳外伝・3 番外編⑨「阿炳生誕125周年の催し」:その2
 
 今年は阿炳生誕125周年の年ということで、生誕地・無錫では塑像の展覧会や、少年少女たちから老人まで参加した各地域での二胡演奏会の催しなどが様々な形で催されたことはお伝えしました。

 また今年は音楽会、演奏会のほかに歌劇「二泉」が天津大劇院や南京・江蘇大劇院など各地で各地で上演されたことも一つの話題でした。もちろんこの劇名は無錫市にある「天下第二泉」と阿炳のあまりにも有名な曲「二泉映月」二ちなんだものです。

 「二泉」は、2017年9月に無錫市歌舞劇院が始めた歌劇で、主演はテノール歌手の王宏偉です。彼は1971年生れ、解放軍芸術学院を卒業し、軍の歌舞団で活動を始めました。生れが新疆地域の自治州ということで、西部放歌や西部情歌、西部賛歌の<西部三部曲>に見られるように、地域色の濃い歌を歌っていました。


 この歌劇の主演をするにあたり、彼は酒とたばこを持って阿炳の墓に参ったと語っています。

 いずれにしても「二泉映月」は阿炳の遺作としても余りにも有名であり、二胡を学ぶ人にとっても10級(中国民族楽曲は1級~10級まで区分されていますが、最高級が10級)の曲ということで、たとえ難関ではあってもぜひ弾きたい曲の一つですね。


歌劇「二泉」
 
                                                             (18.12.19記)

8、阿炳外伝・3 番外編⑧「阿炳生誕125周年の催し」
 
 今年は阿炳生誕125周年の年です(阿炳の生年日については諸説ありますが、当欄では1893年とします)。

 そのため、阿炳の生誕地である無錫市では阿炳にちなんだ様々な催しが行われています。前回の欄で紹介した江南大学の教員であり、地元出身の彫刻家である徐誠一教授の作成した彫刻や絵画がいろんな形で展示されているのはもちろんですが、やはり阿炳といえばその作品を演奏するのが一番記念活動にふさわしいということになるでしょう。

 無錫日報によると、4月5日には市内の恵山・錫恵公園の「天下第二泉」の前で、無錫出身の二胡演奏家・鄭建棟と二胡芸術学校の生徒たちが《二泉映月》や《光明行》の演奏をおこなったとのことです。


鄭建棟と芸術学校生徒たちの演奏

 
 錫恵公園内にはもともと阿炳の墓と墓碑があり、また作品の《聴松》にちなんだ「聴松石」もあり、阿炳の生涯に深く関係してきた場所です。そして「天下第二泉」は文字通り、曲である《二泉映月》の舞台でもあります。

 市当局にしてみても、もちろん民族音楽の文化の継承という意味もありますが、街全体を文化にあふれる観光地としても作り上げていきたいという意図があるのでしょう。いずれにしても阿炳の名が広く伝わることが活動にも合致しているようです。

                                                             (18.5.16記)

7、阿炳外伝・3 番外編⑦「阿炳の塑像を作り続ける芸術家」
 
 阿炳の故郷である無錫市では、近年特に阿炳に関する行事が多く開かれている。演奏会だけでなく、地元の名士を賛美する多様な活動という意味である。

 17年9月、無錫新聞(ネット版)に載ったのは阿炳の塑像をこの10数年作ってきた芸術家の話だ。

 無錫市の西南部、太湖の近く、地下鉄1号線の終点近くに江南大学がある。この江南大学の教授であり、地元出身の彫刻家である徐誠一が、その人物だ。6月江南大学の卒業時に、徐教授とその学生が作成した阿炳の塑像や絵画が学内の設計学院で展示された。そしてそのあと徐教授の制作した彫像25点と生徒が作った100点余りの素描が市内の北倉門にある生活芸術センターに運び込まれ、全国から来た人々の公開されたのである。


徐誠一・教授(無錫新聞より)
 
 徐教授は10数年前から阿炳を題材とした塑像を作ってきた。当初の動機は単純で、「全国美術展に参加したい」ということだった。阿炳が二泉映月を演奏している姿を表現した《遠去之琴音》や阿炳が街頭で二胡を弾いている姿を素材にした《行走阿炳》などを制作したところ、全国の展覧会で賞を取ったのである。賞を取るようになって、やっぱり地元に立脚して地元の文化を高揚させなければと考えるようになり、無錫の芸術家として阿炳を題材にして塑像を作るようになったということである。

 徐教授の研究室の壁には阿炳の塑像を作成するためのスケッチ図が所狭しと張られている。これまでに制作した塑像は25件で、それぞれ形が違う。「毎日夜12時になって、ラジオから流れる<二泉映月>を聞いてその日が終わるんだ」と、徐教授は阿炳に対する親近感を表している。

 これらの阿炳の塑像は、徐教授に全国各地の人々とのつながりをもたらした。電話や手紙で各地から徐教授へ展覧会を開いてくれとの要請も多く来た。彼はこの阿炳の塑像をきっかけとし、て新たな地元の文化の多様な形式での発展を図りたいと考えているとのことである。

                                                             (17.11.13記)

6、阿炳外伝・3 番外編⑥「阿炳の名がついた商売」
 
 阿炳の名を中国のネットサイト「百度」で探ると、もちろん阿炳自身の記事や映画、TVの紹介など様々な内容が示される。本人に関する記事がほとんどなのは当たり前だが、そのほかに幾つか食べ物の店や会社の名前に使われている記事が出てくるす。ということでここでは2つ紹介する。

 まず1つめが「阿炳湯包」である。名前からして食べ物の店ということは想像がつくが、そうす、上海市にある肉まんのチェーン店である。上海市浦東新区や虹口苦、青浦区など各区に12の店がある大きな企業になっている。肉まんだけでなく野菜まんなど種類も豊富で、基本的な値段は1・5元~1・8元(約24円~29円)で安いことも人気の秘密である。

 朝早くから夕方までお客さんが並び、しかも1人で10個も20個も買っていく人が多いのが特徴だ。TVのニュースでも取り上げられるなどして、行列ができるほどになった店もあるようだ。肉まんは当然人気だが、そのほかに薺菜包(ナズナの野菜まん)や香菇菜包(シイタケ野菜まん)、梅干菜包(からし菜まん)などが人気のようだ。


阿炳湯包
 
 しかし一体何故「阿炳」という名を店につけているのか。浦東新区に本社の住所地があるのだが、その会社そのものの情報が少ない。ということであれば、これは現地に行って調べなければ詳しい事情は分からないということになる。

 もう一つ紹介するのは「河南省阿炳健体有限公司」である。2007年12月に会社組織になったようだが、前身は「鄭州市阿炳健体推拿院」とのことである。鄭州市は河南省の省都だから、名前が市域から省域に大きくなったということになる。「健体」というのは、要するに「推拿」つまり按摩や指圧、マッサージをする店ということである。足ツボマッサージもその業務のうちに入っている。

 “中医学の伝統であるツボ医学を伝承し、そこに現代医学の手法を加えて科学的に改善し、保険サービス業として成立させている”と宣伝文句にはすごいものがある。すでに鄭州市内には数十の店があり、訪れたお客は累計で百万人を超え、すでにマッサージ界のブランドとなっている、と宣伝している。

 この「河南省阿炳健体有限公司」の企業文化スローガンは“孝順父母、愛護妻子”で、公益活動も不断に行い、顧客に万全のサービスをおこなっているとアピールしている。まあ、ここも本当に1度行ってみたいような店である。

                                                               (17.3.30記)

5、阿炳外伝・3 番外編⑤「現代の阿炳」
 
 阿炳に関するニュースをチェックしていたら、インターネット(中国寧波網)にこんな記事が載っていた。11月16日付の記事で、「“現代阿炳”の苦楽人生」というタイトルだった。

 まあ阿炳といえば失明していること、そして貧しい生活の中でも音楽を通じて近隣と接していた事など幾つかのキーワードが出るわけですが、「現代阿炳」の記事もやはり農村に住む盲目の住民の話でした。

 浙江省寧波市寧海県桑洲鎮鎮家村に住む住民、陳振台がその当人である。彼は1950年、鍛冶屋で生計を立てていた家に生まれる。3歳のころ突然高熱に襲われ目に異常が現れたのだが、当時のこととて病院もそばにはなくまた家も貧しかったことから、民間療法での懸命の治療もむなしく4歳になって失明してしまった。

 しかし、少年・陳振台は目が見えないことから道で倒れ血を流したり様々な生傷を負うなどしたにもかかわらず、強情な性格で耐えてきた。父母は陳振台少年の将来の生活のためには手に職を付けることが必要だと考え、木工の先生に弟子入りさせることにした。部屋や家具の修理を先生に付いて学ぶと共に、鑿(のみ)や鉋(かんな)など木工道具も手で触り形を覚え習得していった。一方で楽器の三弦も習得した。

 彼は村々を回り、生活は厳しかったけれどもその苦しさに耐え、村の中の盲人楽師となっていったのである。 


 20歳のころ、ラジオから二胡の優美な旋律が流れるのを聞いた時、その素晴らしさに感じいった。ラジオを聴きながら一生懸命に練習し、また何度も杖を突きながら何十キロも先の県城に行き音楽の先生に教えを請うこともした。ある時は一日中二胡を練習する事もあった。苦しい生活を送っていた時代、音楽は彼の中では疲れを癒すものだったのである。また二胡だけでなく京胡や越胡なども自らの努力で身につけていった。

 ある時、持っている楽器から自分が思うような音が出ていないことを感じ取った陳振台は、それならば自分で楽器を作ろうと思い立っただった。もちろんそれは簡単な事ではない。妻の李春蓮は今でも、その制作で陳振台の手がボロボロになっていた事を覚えている。しかし半月かけて楽器は完成、それから一本一本二胡や京胡、越胡を作っていったのだった。

 今では音楽は陳振台の生活に彩を添えるものだけでなく、村人達にとっても数少ない娯楽の一つになったという。夜になると近所の村人が陳振台家の庭に集まり、彼が弾き村人の誰かが歌うというようになっている。村人はそんな彼を「現代の阿炳だ」と呼んでいるのである。

 記事は以上のような内容で、最後には陳振台は妻がいたからこそ今の自分があると感謝している、という言葉で終わっている。

 確かにその生活の苦労と自らの努力は筆舌に尽くし難いものであったと想像される。もし阿炳がいれば“現代の阿炳”と称されることについて彼は何と言うだろうか。道教寺で酒を飲み、外へ出れば妓楼で遊んだ自らを思いおこし、「ワシなんかよりよほど苦労してしっかり音楽に親しんでいるわ」と言うのだろうか。

 いや、やはり「新時代になって何故ちゃんと医療が皆にいきわたらないのだ」「貧しいといわれる農村が何故そのままになっているのだ」と、二胡を弾きながら大声で語っていることだろうる。
                                                                                                                                                 (16.11.2記)

4、阿炳外伝・3 番外編④「阿炳と無錫」
 
 阿炳の故郷である無錫市には、無錫日報という新聞がある。ご多聞にもれず新聞一社だけでなく無錫日報報業集団という大きなマスコミ集団を作っているのだが、阿炳関連の情報を得るときに時々この無錫日報報業集団のHPなどを見る。

 過去記事には例えば、「阿炳故居二期修繕竣工」や「上海と無錫の老人二胡楽隊が阿炳の墓前で演奏」、「阿炳を記念して錫恵公園・二泉広場で二胡演奏会をもよおす」などがあり、写真入りで活動を紹介している。阿炳が死去してすでに65年以上経っており、阿炳その人の記事はほとんどないのだが、民族音楽を“国策”として盛り上げようとの当局の意向ががここ10年来明らかになってきているので、その関連の記事が多い。

 例えば先月(8月18日)には「無錫人として初めて民楽芸術終身貢献賞を受賞」という記事が載った。無錫管弦楽会会長の銭鉄民が、北京で中国民族音楽管弦楽学会が選ぶ民楽芸術終身貢献賞を受賞したという内容である。中国民族音楽管弦楽学会は1986年設立されたもので、5年ごとに代表大会を開いている。5年前の第5回大会で初めてこの民楽芸術終身貢献賞を創出したばかりなので、受賞者の数も少ない名誉ある賞だと記事は書いている。

 銭鉄民は1944年生まれ、南芸附中で琵琶を専攻し、解放軍文工団に入って以降、数十年に亘って民楽の指導をはじめその研究に尽くしてきており、5冊の専門書と50余編の論文を発表している。で、その中のひとつが「阿炳と道教」という文章である。「中国音楽学」という雑誌の1994年第4期の郷に発表された。


「今年は傑出した民間音楽家・阿炳生誕100周年である。旧時代に50年余り黙々と生き、山あり谷ありそして屈辱と貧困の中にいた民間芸人がこの世を去ったのち、彼の作品が個性にあふれ無限ともいえる深い情感があることが、国内外の音楽愛好家の知るところとなった。阿炳は巧みな構想、いききとした言語、簡単な形式で飾りけのない手法で楽曲を創作し、のちにだんだんと高い評価を受け、我が国民間音楽の中の最も生気あふれる最も生命力のあるものとして認められるようになった。中国現代音楽史を見ても阿炳に並びたてられるような民間音楽家はいないだろう」 と文章は始まる。

 そして、「筆者は近年民族民間楽器を集める仕事に参与し、蘇南地区に伝わっている10番鼓曲、十番鑼鼓などの曲を保存収集整理する過程で、長老道士や民間芸術家と幅広く接触し、無錫地区の道教宮観の実地調査を行った。その状況を下記に述べることにし、阿炳本人へのと阿炳の作品への理解と彼の創作への研究に役立てていただきたい」とその研究を発表している。

 正一道派の小道士として父の華清和にも厳しく教育された阿炳の姿を、阿炳と同時の道士や無錫にかつてあった“華光民楽団”の老人を訪ね、また二泉映月を世に残す活動をした民族音楽家の黎松寿、曹安安和、祝世匡らに教えを請うなどしてまとめた、と本人は語っている。

 そんな無錫市と阿炳との関係だが、8月18日は諸説ある中での阿炳の誕生日のひとつということで、阿炳記念館には多くの市民や旅行客が訪れ、館の中に流れる「二泉映月」に聞き入っていたと報道されている。音楽家であれ旅行客であれ、阿炳との関わりを持つような活動を進めたいとの市当局の意向は折々の行事でよく表れている。

 ただ、阿炳の“業績”が“中華民族の光輝を示すもの”うんぬんという、宣伝臭の強いものとして利用されるのは願い下げである。銭鉄民も自著「阿炳と道教」の中でこう書いている。

「今日我々は、50年代のような作品と作者の階級的立場、政治的態度から世界観によって画するいわゆる三段論法や、階級成分から推しはかって人を記述するような態度は取らない。また阿炳がかつて身分を持った当家道士で、各種の悪習に染まり、無錫の民衆が言うところの“倒頭光(行き倒れ)”者であるからといって、傑出した民間音楽家の地位を貶めるものでもないし、また阿炳の作品が持つすばらしい内容を低めることはしない」 
                                                                                                                                                 (16.9.20記)

3、阿炳外伝・3 番外編③「阿炳の生年月日と出生」
 
 中国の新浪博客欄に「尚慈居士のブログ」という記事が連載されている。作者(男性)がどんな人物かよくわからないが、2013年9月に「阿炳出生年月和出生地之謎」という文章を書いている。阿炳(華彦鈞)の生年月日と出生(地)について論評したものなので、ここに紹介する。

 まず阿炳の生年月日について、楊蔭瀏の著作「阿炳小伝」では楊が阿炳から直接聞いたとして陰暦の(以下同様)1893年7月9日生まれとなっている。無錫市公安局の戸籍档案では1892年7月9日、阿炳の堂叔(父の父方のいとこ)の話によると1892年8月18日で、阿炳の位牌に似は同じく1892年8月18日と書いてある果たしてどれが正しいのか?尚慈居士は阿炳本人が1893年7月9日生まれと言っているのだからそれは間違いないだろうと断定している。

 そしてその生年月日と関係して出生の謎について論評を展開している。阿炳の母親がどのように父である華清和と知り合い、どのようにして阿炳が生まれたのかを以下のように紹介している。

 「1892年正月、無錫小河上(現在の崇寧路)にある秦章慶堂では結婚式がおこなわれていた。秦家には2人の息子がいたが長男は夭折し、次男が成人したが病気がちであったため“冲喜”として嫁を迎えることになった。冲喜というのは、『重病人に結婚式を挙げさせたりして厄払いをし、病気を回復させようとすること』で、旧時によくおこなわれていた。選ばれた相手が姓が呉という女性、当時20歳だった(注:昔は年齢は数え歳なので満でいえば18か19でしょう)。つまり阿炳の母である(注:以下呉氏と呼ぶ)」

 「しかし秦家の次男は薬石効無くその年の夏過ぎに逝去、呉氏は若くして寡婦となってしまった。秦家はお金持ちだったので大きな法事を行うこととなり、雷尊殿から道士を呼ぶこととなった。その時担当したのが華清和であった。華清和はまさに青年道士で眉目秀麗、経を唱える声も評判がよかった。慣例による秦家の法事の代表者が息子がいないことから未亡人の呉氏が当たることになり、そこで華清和と呉氏の2人は出会い、旧時の法要は“七七做、八八敲”として数日ごとの祭事がおこなわれたから接触する機会も多くなり、2人は惹かれあっていった。そして程なくして呉氏は妊娠。秦家はそのスキャンダルが外に漏れるのを恐れ隠していたが、1893年7月9日秦章慶堂のある一室で1人の男の子が誕生した。彼がつまり阿炳である」

 「秦家では当初その子は1892年8月18日に生まれた次男の遺児である(うまい具合に1892年は閏6月があった)とごまかしていたが、生まれて2,3ヶ月の子を1歳とするのもうまくいかず、また大きくなってくると華清和に容貌が似てきたので、やむを得ず呉氏を追い出した。そこで華清和が呉氏の為に部屋を借り、息子(つまり阿炳)は東亭(注:地名)の伯母の所にやり育ててもらった」

 「しかし阿炳は東亭では周囲の親戚や近所の子供たちと肌合いが会わず、結局華清和が引き取り雷尊殿で一緒に住むことになった。呉氏は最後に秦家に引き取られたが、精神的なショックでまもなく病のため死去した。享年24歳だった」


阿炳像

 とまあ、以上のような内容だ。

 阿炳の生年月日についてはこの「阿炳伝」でも1893年としており、そのことは問題ない。問題は華清和と呉氏の出会いと阿炳が生まれた事情がこの通りなのかどうかだろう。何しろ100年以上前の事だし、当時のことを直接聞ける人もいない。秦家がそれなりの金持ちの名家ではあったはずなので、家に伝わる内部文書として何か残っていれば問題はないのだが、「尚慈居士のブログ」の通りであればスキャンダルなのであえて残すはずがない。だとするならば後は推測するしかない。

 ということであとは筆者の推測となる。華清和と呉氏の出会いについて、秦家の葬式とそれに続く祭事に呉氏が代表者となり何度も顔を合わせているうちに互いに好意を持ったとなっている。何か小説みたいだが果たしてどうだろうか。習慣として「應由亡人晩輩在経堂上礼拝和献供」(尚慈居士の原文より)で、親族で亡くなった人(この場合は秦家の次男)より下の者(例えば弟など)が祭事を代表する事になるだろうが、それに該当する者がいなかったので呉氏が担当したとなっているがどうだろうか。

 というのも当然当時は男尊女卑の時代であり(何しろ阿炳の母親も名前ではなく呉氏という姓だけで伝えられているように個人としての存在感はない)、何でも無理やりにでも男を祭事の代表者に据えるほうが自然ではないだろうか。もちろん呉氏はその場にいただろうが、あまり目立たせないようにひっそりとした存在として居たというほうが現実感がある。華清和もむしろ秦家から冷たい仕打ちを受けている呉氏に同情したことがきっかけだったかもしれない。或いは祭事中に知り合ったのが事実だとしても、祭事後に呉氏はひっそりと実家に帰された後に頻繁に会ったということも考えられる。

 また呉氏が妊娠した事が発覚したら、秦家としてはむしろ不埒だと縁を切り実家である呉家に強制的に返すのではないだろうか。ということで、祭事で知り合ったのは事実だとしても、祭事後に秦家からも呉家からも縁切り状態にあった呉氏に華清和が同情して世話をした、というのが真実に近いのではないだろうか。華清和ももちろん君子のような道士であったとは思われない。「青年道士で眉目秀麗、経を唱える声も評判がよかった」のならもてただろうし、当時の悪習(酒や阿片など)に全く無縁だったとも思えない(現に阿炳はこれらの悪習に染まってしまった)。

 ただいずれにしても阿炳はほとんど母親の呉氏のことは知らずに育っている。もちろんそれがどうだということではなく、道観という空間の中で道士として育った阿炳にとって、秦家も呉家も関係なく20世紀の前半の揺れ動く時代を生き抜くためには自らの音楽技量を高めるしかなかったのも事実である。阿炳が祭事に対して意外とちゃんと(?!)主宰したというのは、父・華清和の影響がやはり大きかったのかもしれない。
                                                                                                                                                 (16.3.2記)

2、阿炳外伝・3 番外編②「阿炳の死因は自殺だった?」
 
  この欄では阿炳の生涯について、いろいろ資料を探しつつ(といってもほとんどは中国で発行された伝記などだが)、筆者の個人的な歴史理解や歴史知識も含めて評価をしつつ参考にさせてもらっている。

 最近はネットで資料を探す事も容易になり数多くの資料も見つかるのだが、もちろんその中にはピンからキリまでというか、信頼に値しない資料もあるので、その取捨選択には慎重を要することになる。

 そんな中で最近(といっても作成されたのは少し前だが)ネットの文章で面白いものがあったので紹介しよう。カナダ・モントリオール市在住の作家・冬苗が「蘇州雑誌2010年第2期」に、「陸文夫一生的“阿炳情結”」という文章を載せている。

 「蘇州雑誌」は中国・蘇州市文芸芸術界連合会が2002年に創刊・編纂している隔月刊の雑誌で、蘇州の歴史や文化、人物をはじめ作家の回想など江南の伝統や文化を紹介する文芸誌である。最新の2015年第4期には、徐恵泉『名園雅集』、賀野『我仰望遥遠的星空』、譚金土『蘇人文末:清末蘇州法官的一?判詞』などが掲載されている(といっても筆者は読んでいないが)。

 冬苗は本名が董森、蘇州市生まれで1993年カナダに移住、現地の《華僑新報》の編集を長年担当してきたとのことである。そして陸文夫(1928~2005)は本名が陸紀貴、江蘇省・泰興生まれで、蘇州中学、蘇北塩城華中大学を卒業、新蘇州報の記者を経て1955年から文学者の道を歩んだ。小説、散文、文芸評論など幅広い活動を行い、蘇州文聯副主席、中国作家協会副主席なども歴任した。中編小説『美食家』は彼の名声を論壇内外に上げた著作だ。

 以下「陸文夫一生的“阿炳情結”」をもとに綴る。

 冬苗の文章は亡くなった陸文夫を偲びそして阿炳との縁を述べた内容で、「私は(冬苗のこと)陸文夫とは半世紀にわたる友人だった。実は陸はずっと阿炳の伝奇を書きたがったが、残念ながらそれは適わなかった」と始まる。陸文夫は革命運動に参加し解放軍と共に1949年蘇州に戻ってきて新蘇州報の記者になるが、その時に二胡曲《二泉映月》を聞き大変感動したそうで、これはぜひ演奏者の阿炳に会いに行かねばならないと決意する。

 そこで陸文夫は1950年の冬極寒の中、無錫に出向いた。しかし遅かった。阿炳は陸が無錫に行く半月前に亡くなっていたのである。阿炳の家には妻の董催弟がいて、夫の阿炳の慰霊していた、小さなテーブルの上には線香がたかれ錫箔が焼かれていた(錫箔:神仏を祭るときに焼く紙の一種で、表面にスズ箔薄く塗ってあり、焼く前に貨幣の形に作る)。遺影はなく、白木の牌に“華彦鈞之位”の文字が墨で書かれていたという。そこで陸文夫は董催弟から衝撃の告白を聞く事になる。

 以下、冬苗の文章である。「妻の董催弟は“阿炳は自殺した”と語った。阿炳は天津からの客人(中央音楽学院の楊蔭瀏と曹安和の2人が天津から来ていた)の為に《知心曲》などの曲を録音したが、1枚の銅銭さえ手に入らなかった。阿炳はまた三弦(家に唯一あったボロ三弦)を弾こうと思って取り出して触ると、なんとネズミが蛇皮を食って大きな穴が空いているではないか。ああなんと不運な事か。阿炳は思った。こんな寒い(旧暦)12月にネズミが出るはずがない、これはきっと天が自分に曲を弾かせようとしていないのだ、生かせようとしていないのだ、と。更にアヘン中毒の発作で鼻水が流れ涙が出てきた。家の中には食べるものとてなく、お金を貸してくれる当てもなく、飢えは耐え難いほどだった。董催弟が何とか食べるものを求めようと出かけたすきに、阿炳は上着の腰帯を柱の梁にかけ閻魔様に会いに行った」

 冬苗はこう書く。「盲目の阿炳は自殺した。しかし今日の『無錫市地方志』には病を得て亡くなったと書いてある」。

 陸文夫は翌年(1951年)再び董催弟を訪ねるが、彼女は阿炳に相次ぐように陸が行く前に亡くなっていた。その後陸は何度か無錫へ行き、崇安寺雷尊殿付近を訪ね、阿炳を良く知っていた友人知人に会い阿炳の事を機器に回る。それどころか自身、姜守良を師として二胡を学んだという。

 陸は阿炳の等身大の姿を記録したいと考えるが、すでに阿炳は国家から著名な二胡演奏家としてその人生の姿を形作られようとしていた。そして陸は文化大革命(1966年~1976年)時に右派とされ農村へ下放、労働改造に励む日々を送る事になる。文化大革命終了後蘇州に戻り創作を再開する事になるが、最早彼にも真実の阿炳の姿は書けなくなっていた。
「(冬苗は陸文夫に問いかける)君は今文芸界でも重要な位置にいるんだからに、何恐れることなく阿炳の真の姿を書けるだろう」

 これに対し陸は苦笑いして言ったという。
「今は国内どこでも“阿炳熱”が充満している。彼について書かれた書物は私の手元に届いただけでも10数冊ある。無錫も南京もそう。遼寧では舞踊劇にもなり、北京では映画が撮られている。阿炳は今や高みに上げられ、その姿は色とりどりで目にも美しいものとなっている。中央の指導者がそれを見れば素晴らしいと声を上げ、いずれも政府最高賞に評価された」


阿炳の伝記は多くの書物に載っている(「無錫人傑」)

 結局、陸文夫はその思いにも関わらず、阿炳に関する文章は残さなかった。とまあこういう内容なのだが、冬苗はそれに加えて、“阿炳は女郎買いをして梅毒にかかって失明したのだ”“阿炳は博打が好きでアヘンを吸い、それで雷尊殿の経営を傾けた”“阿炳は結局は流浪芸人だ”“阿炳は胡琴を弾くのに熱心に蓮数もせず、同じ曲を弾いてもいつも異なり、即興性に頼っているだけだ”などなど、公式の評伝には載せないような事をずばずばと書いているのである。

                *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 とまあ冬苗の文章を紹介してきたわけだが、ある人物の『評伝』となると確かにこの様に相反する評価(表現)が出てくる。特にそれが一つの国家や社会が伝統や文化を語るときに重要な人物だと認定した場合にはより顕著に出てくる。阿炳を「民間芸術家」と称するのか、「街頭芸人」と称するかで世間の受け取り方はずいぶん違うからである。

 もちろんこの冬苗の文章でもいくつか腑に落ちないところはある。例えば陸文夫が1949年に蘇州に戻って二泉映月を聞いて感動したとあるが、その当時はまだ曲名が二泉映月ではなかったはずだし、阿炳のレコードもなかったはずだから他の演奏者が弾いていてもそれが同じ曲だとは分からなかったはずだが。また初めて会った人物に阿炳の妻の董催弟が簡単に「夫は自殺した」と言うのも不思議な話だ。もっともその時陸文夫は董催弟を食事に誘い別れるときに旧弊で8万元(現在の価値では8元。ただし幹部へは配給制があったので当時陸がもらう給与の半月分に相当したとの事である)手渡したとあるから、極貧にあえいでいた董催弟にとっては現実的に信頼できる人物だと思ったのかもしれないが。

 で、阿炳の自殺説についてであるが、結論から言って筆者は自殺説を採らない。理由は、例えばもし阿炳が生活苦を“天命”だと認識しても、逆にそれが天命ならその苦しさの中で生きていく選択をするしかないからである。また生活苦ではあっても妻の董催弟と送る日々は安らぎを与えてくれたものと解釈するからだ。そして楽器はボロボロになっても曲にも絶望しないはずだ。庶民の感情を表現する“芸”を糧としていた阿炳は、楽器がなければ手拍子や口笛でも何かを表現しようとしたと思うからだ。

 ただいずれにしても、阿炳の一生が“芸術にささげた”“常に国民党反動派や日本軍に抵抗していた”ようであったとするのは当然に無理がある。筆者も阿炳は女郎買いもし梅毒にかかった、博打が好きでアヘンを吸っていたというのは事実であると思うし、またこの欄で掲載してきた中にもそのことは書いてきた。
 
 そしてやはり後半生の街頭芸人こそ彼の真骨頂であったと思う。悪習に染まってしまう中で日々自分の周りで生活している庶民の感情を肌で感じ、毒々しくはあっても庶民の知恵として権力を持つもののおろかな行為をユーモアで包み込んで批判をする。庶民の日常生活の喜怒哀楽を巧みに表現する事に阿炳は満足感を得ていたはずだ。

 二泉映月という曲は現在では“暗黒の中での希望を求める曲だ”という解釈をする人も多いが、必ずしもそうではないだろう。力も金もない人間が絶望の中で暮らし絶望のままで死んで行くのが当時の庶民の生活の実態であったとするなら、やはりそれは絶望の曲であるし、怒りの曲でもある。水面に映る月はそれを見る者を水の中に誘い、現世の苦を一挙に解決してくれるかも知れない。そんな、後世の人間の甘っちょろい感慨など一顧だにしないような“透徹した目”がこの曲にあるのではないか。むしろ心してそのように弾けたら新たな現代の二胡曲になるのかもしれない。

                                                                                                                                                 (15.10.1記)


1、阿炳外伝・3 番外編①「档案」
 
 阿炳の生涯についてはいくつかの書籍や文章が出ているが、その本人の姿や活動を実証する資料が実は残念ながらとても少ないのだ。死の直前の最後の録音前後はさまざまな人が関わったが故に詳しい事情は残されているが、自筆の書もないし、経歴を裏付ける文書もない。ましてや市井に生きた“民間芸人”である。残っているのは人々の記憶だけだ。

 そんな中で唯一公的資料として明らかにされているのが、無錫市にあった「档案」資料だ。档案とは中国の各機関が保存する文献や書類、調書のことで、個人の履歴や思想・言動についての記録を指す。この档案は単純な記録ではない。例えば档案に政治的な思想や立場が悪い(つまりは当局に抵抗するような経歴)と記録されていれば、職場や地域では出世が出来なくなったり監視の対象になったりするなど、自らの一生に付きまとう評価なのである。

 さて阿炳の档案である。無錫市の档案局と公安局が近年、阿炳の档案を見つけ出し整理したと報道された。少し古い記事になるが2012年10月13日に「揚子晩報」がこの档案に関する記事を載せている。

 その記事によると、档案には今では唯一残っている写真も付けられていた。阿炳の紹介に必ず添付される有名な写真で、帽子をかぶりサングラスをしている顔写真だが、ご存知のようにそのサングラスは左目のレンズが右目より明らかに高く歪んだ形になっている。この写真は1947年の「無錫県国民身分証底册(台帳)」に付けられていたもので、妻の写真もあり、そこに登記されている住所は「図書館路34号」となっており、阿炳の職業は「演奏」と記載されているとのことである。
 
 図書館路34号には、阿炳が最後に住んだ家屋―阿炳故居として保存されている―があり、今では二泉映月広場として周辺が整備されている、正にその住所地である。いまではかつての面影はない。

 もう一つ、1951年に作られた戸籍登記簿には、阿炳は「1892年7月9日出生、1950年12月死亡、私塾文化程度、失盲、職業は道士」と記載されている。その同じページには空白部分に元の字と違った墨色と筆跡で、「華阿炳為全国音楽芸人」と書かれてあったという。記事を書いた記者によると、阿炳がなくなってしばらくしないうちに档案登記人が記載したのではないかということである。



 記事の中からいくつかエピソードを選んでみよう。先ず“孫”の存在である。档案によると孫は女性で名前は「球娣」、1944年出生とある。実は阿炳が後年生涯を共にした妻の董催弟は前夫が亡くなって阿炳と一緒になったのであって、実際には球娣は董催弟の孫になるのである。阿炳は義理のおじいちゃんといったところか。その球娣は今は上海市に住んでいるというが、いずれにしても当時球娣が4歳になったころ(つまりは1947年か48年ころ)、父が住んでいた(現)江陰市から無錫にいた阿炳と董催弟(つまりじいちゃんとばあちゃん)のもとに送られてきたという。

 その球娣の回想によると、阿炳は1m70cmもの背丈があり、「じいちゃんは街へ演奏に出かけるとき、私に服を引っ張らせて道を歩いていった。公園や茶館、広場で楽器の演奏をして唱い芸を披露するが、その表演が終わると私はじいちゃんの帽子を持って周りで見ていた人のところに行き、お金をもらったものだ」

 この回想が正しければ1947年か48年以降の日々の出来事になるが、少々の疑問は残る。というのも阿炳は亡くなる数年前から体を壊して街頭に余り出てはいなかったと伝えられているからだ。球娣の記憶では自らの体験として街頭での活動が鮮明に残っているようだ。すると街の民衆に人気で阿炳自信も彼らと接することが楽しみであったことからすると、体の調子のいい日には街頭に出ていたかもしれない。

 記事にはそんな街の人々の記憶が記載されている。83歳(2012年当時)になる過泳華は当時阿炳と同じ街路に住んでいた。毎晩9時ころになると阿炳が街頭表演から帰ってくるが、その時過泳華の家の前を通り過ぎるので、ある時過泳華の父親が呼び止めて家に残っていた鍋巴(鍋底に出来る狐色のおこげ)を翌日の朝ごはんにと阿炳に渡したそうだ。すると阿炳は二胡を使って「ありがとう」とまるで人の声のように音を出し、感謝の意を表したそうだ。

 記録として文章に或いは映像に残ってはいないかもしれないが、阿炳の姿は同じ時代を生きた人々の記憶の中に鮮明に残っている。民衆の中で育ち民衆と共に喜怒哀楽を表現した阿炳にとってはそれが何よりの喜びかもしれない。
                                                                                                                                                 (14.6.25記)


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