新・阿炳の旅⑨ 2019年12月
新・阿炳の旅もいよいよ終わりに近づいています。
今回は阿炳の移動の足跡をたどるということで、無錫市中のかつて県城であった頃の繁華街や旧跡を歩きました。阿炳故居からはいずれも近く、当時の阿炳の生活範囲(行動範囲)がそれほど広くなかったことがよくわかります。
旧県城内のかつての水路は全て埋め立てられ、今では縦横無尽に道路が走っていますが、盲目の阿炳にとって慌てず騒がず、住民たちとたわいもない話をし馴染みの茶館に出かけるには、むしろかつてのゆったりと歩ける街筋が身に合ってたはずです。
とはいうものの、県城の周囲は高い城壁で囲まれていたのですから、城外の農村地域からも演奏の依頼もあったことでしょうし、移動はいささか不便であったかもしれません。何しろ城壁に囲まれていますので、出入りするには東西南北にある4つの門を通るしかなかったのです。ちなみに城壁は高さ7m、幅3mで、全長5.6㎞にわたっていましたが、1951年3月にすべてが撤去されました。
別の場所で再建された光復門 |
さて阿炳がいる時代、北門はその付近が北大街として商業街と化し賑わっていました。問題は東門でした。20世紀に入り上海・南京を結ぶ滬寧鉄道が敷設され無錫駅も設置されたのですが、駅がちょうど城壁の北東方面に作られたことから無錫駅から城内に入るのには遠回りをして東門から入らざるを得ませんでした
これでは駅と城内との往来が不便だということで、1912年城壁の北角部分に新たに光復門が作られたのです。1912年は民国元年にあたり、要するに辛亥革命で「光復中華(中華を復興する)」というスローガンに合わせて命名されたというわけです。この光復門があったのは現在の園通路と解放北路の辺りで、当時城門外にあった吉祥橋を渡って城内に入って行ったとされています。
同時に道路を拡張し、石を敷き詰めるなどして黄包車(人力車)が通れるようにするなど、より人や物の移動に便利になりました。阿炳も上海へ招かれ演奏に行ったという記録が残っていますが、きっとこの光復門を通って無錫駅に行ったのでしょう。
古運河が流れる上に橋 |
もちろんこの光復門も城壁が撤去されたときになくなっていますが、2008年に別の場所で再建されたのです。元の位置からさらに東へ6,7分歩いた古運河の縁に建てられています。市当局はこの古運河を利用した水辺公園構想を持っており、その一環としての再建のようですが、確かに古色然とした様相は見るべきものがありますが、この門を目指して観光に来るという人はまだまだ少ない様子です。
(20.2.27記) |