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新・阿炳の旅

 新・阿炳の旅⑩ 2019年12月

  さて、再建された光復門を通り、古運河に架かる橋を渡ると無錫駅はもう目の前に見えてきます。

 前回の原稿で「市当局はこの古運河を利用した水辺公園構想を持っており」と記しましたが、高層ビルが次々に立ち並び商業施設がにぎわう中で、確かに運河の存在は大きいものがあります。かつての県城では物流は城内を縦横に走る水路によって担われましたが、それが埋め立てられ拡張された道路となり大量の車が走る市街地となりました。

 市街地内には大きな公園・緑地としては城中公園(公花園)や東林書院址(12世紀初北宋時代の創建)がありますが、やはり旧市街地をぐるりと取り巻く運河(水路)は市民の憩の場としても大きな価値があります。この光復門から古運河に架かる橋も、橋の真ん中上部に屋根付き建物を載せるなどその様式にも工夫がされています。

 歩いたのは土曜日の午後でしたが、運河べりにさほど遊歩客はいませんでした。ですので余計に空間が広く感じられました。そこに座って、頭の中で今あるコンクリートの護岸を消去し、1920年代、30年代の草土、樹木で覆われた護岸を想像し、阿炳が目が不自由でもその音楽的自信を発揮するかのように威風堂々と歩いている姿などを頭の中に思い浮かべるだけでも楽しいものです。


古運河べりの様子
 
 新・阿炳の旅もいよいよ終わりです。

 今回は日帰りの旅ということで市内の限られた区域しか回ることができませんでしたが、徒歩で巡るという目的は十分に達成できました。ただし無錫でも都市開発が急速に進みましたので、わずかに残っていた阿炳の時代の生活の面影(故居の周りの建物や公園の壁、大衆向けの食堂など)は完全にといっていいほど消滅しています。ですので残された過去の記録や記憶も動員しなければなりませんでした。

 過去の阿炳を訪ねる旅は、前々回が18年前、前回が13年前ということで、特に18年前に撮った写真が残っているのは幸いでした。今回撮った写真と照合することで、記憶がよみがえります。もちろん当時の阿炳の生活には触れることはできませんが、とにかく歴史に思いをはせることが今の私たちにできることです。
 

落ち着いた趣の無錫駅
 
 古運河に架かる橋を渡り、駅前広場へ向かいます。夕刻でしたが、駅前にはそんなに混雑していませんでした。過去の鉄道の列車運行情況と違って本数や種類も多く、また高速道路を走るバスもあちこちの都市と結ばれていますし、旧正月などの繁忙期以外では落ち着いているのでしょう。

 上海へ帰る新幹線は行きと同じように満員でした。40分の乗車で上海駅へ着きます。今回は夕食を友人と約束していたので、地下鉄に乗って市内中心部へ行きました。ここではよりいっそう大きな都会の喧騒に惑わされることになったのですが、頭の片隅には先ほどまで想いを馳せていた阿炳の思い出が残っていたような気がします。
                                                                                                                           (20.3.05記)
    
 新・阿炳の旅⑨ 2019年12月

 新・阿炳の旅もいよいよ終わりに近づいています。

 今回は阿炳の移動の足跡をたどるということで、無錫市中のかつて県城であった頃の繁華街や旧跡を歩きました。阿炳故居からはいずれも近く、当時の阿炳の生活範囲(行動範囲)がそれほど広くなかったことがよくわかります。

 旧県城内のかつての水路は全て埋め立てられ、今では縦横無尽に道路が走っていますが、盲目の阿炳にとって慌てず騒がず、住民たちとたわいもない話をし馴染みの茶館に出かけるには、むしろかつてのゆったりと歩ける街筋が身に合ってたはずです。

 とはいうものの、県城の周囲は高い城壁で囲まれていたのですから、城外の農村地域からも演奏の依頼もあったことでしょうし、移動はいささか不便であったかもしれません。何しろ城壁に囲まれていますので、出入りするには東西南北にある4つの門を通るしかなかったのです。ちなみに城壁は高さ7m、幅3mで、全長5.6㎞にわたっていましたが、1951年3月にすべてが撤去されました。


別の場所で再建された光復門
 
 さて阿炳がいる時代、北門はその付近が北大街として商業街と化し賑わっていました。問題は東門でした。20世紀に入り上海・南京を結ぶ滬寧鉄道が敷設され無錫駅も設置されたのですが、駅がちょうど城壁の北東方面に作られたことから無錫駅から城内に入るのには遠回りをして東門から入らざるを得ませんでした

 これでは駅と城内との往来が不便だということで、1912年城壁の北角部分に新たに光復門が作られたのです。1912年は民国元年にあたり、要するに辛亥革命で「光復中華(中華を復興する)」というスローガンに合わせて命名されたというわけです。この光復門があったのは現在の園通路と解放北路の辺りで、当時城門外にあった吉祥橋を渡って城内に入って行ったとされています。

 同時に道路を拡張し、石を敷き詰めるなどして黄包車(人力車)が通れるようにするなど、より人や物の移動に便利になりました。阿炳も上海へ招かれ演奏に行ったという記録が残っていますが、きっとこの光復門を通って無錫駅に行ったのでしょう。
 

古運河が流れる上に橋
 
 もちろんこの光復門も城壁が撤去されたときになくなっていますが、2008年に別の場所で再建されたのです。元の位置からさらに東へ6,7分歩いた古運河の縁に建てられています。市当局はこの古運河を利用した水辺公園構想を持っており、その一環としての再建のようですが、確かに古色然とした様相は見るべきものがありますが、この門を目指して観光に来るという人はまだまだ少ない様子です。
                                                                                                                           (20.2.27記)
   
 新・阿炳の旅⑧ 2019年12月

 さて、阿炳記念館の見学が終わって足を延ばすのは、記念館の北側にある城中公園です。

 城中公園は清末期の1905年、民間からの資金も集め近代的な都市公園として建設されました。建設当時は今の無錫市が無錫県と金柜県に分かれていたので両方の名を取って「錫金公園」と名付けられましたが、一般には「公花園」という名称で呼ばれていたとのことです。新中国建国後に城中公園と改称されました。

 園内には池あり楼あり、古建築が樹木の間に残されていたり、緑化被覆率が60%と高く、老若男女が時間を忘れてのんびりと過ごすことのできる場所として人気があります。 

 もちろん中国の公園ですからその歴史的な意義も公園の沿革の中で紹介されています。例えば1925年1月公園の「多寿楼」付近で中国共産党無錫支部の党員会議が開かれ、ここが支部結成の記念すべき場所だと指定されています。建築当初から一般庶民が訪れるだけでなく、労働者などの集合場所としても利用されていたことが分かります。


城中公園の中の人工池
 
 この城中公園もかつては周囲を壁で囲まれていました。中国の一般的な公園は道路などから直接入れる開放的公園ではなく壁で囲まれており、入場料を払って入るという形式をとっていました。月極めの定期券などもあったりして、退職者や老人など近所の人は毎日でも通っていたという風景でした。

 公園内部でいつの間にか知り合いが集まり、静かに将棋やトランプを楽しむ一方で、体操やダンス、太極拳などのグループ活動がおこなわれるという情況は全国どこでも見られますね。以前ほどではないでしょうが、城中公園では二胡などの楽器の演奏に合わせて歌を披露するといったグループがありました。いまは観光客や親子連れが気軽に入れる開放的空間となっていますが、高齢者がゆっくりと漫歩する姿や腰かけてただじっと時間を過ごすといった様子は以前と変わりはないかもしれません。
 

昔も今も地元の老若男女がゆっくりと時間を過ごす場所だ
 
 阿炳は芸の披露は茶館の前や街頭が多かったので、住まいのごく近くにあったこの「公花園」で演奏をおこなったということはあまり文献などでは出てきません。阿炳の気持ちとしては、より多くの階層が集まる場所での芸の披露が、特に音楽を交えた時事放談は直接利害を持つ人間に響くように行うべきだ、と考えたのかも知れません。

 ただ朝の散歩に出かけたり、街頭芸で何やら悩むことがあった時にこの「公花園」に通ったかもしれません。郊外の太湖や梅園といった大きな自然風景とは違い人工的な庭園でしたが、少しの街頭のざわめきや人の話し声があったりして、むしろ演奏へのエネルギーを蓄えることができたのかもしれません。

 街頭芸をおこなうのと違う気持ちを持っていたとして、もし阿炳が「公花園」で演奏をおこなうなら、それは子供たちに聞かせる児童歌だったり、地元の曲調を生かして老人たちと一緒に歌うような歌曲を選んだのかもしれません。それも阿炳の一つの姿として想像しておきましょう。
                                                                                                                           (20.2.21記)
 
 新・阿炳の旅⑦ 2019年12月

  阿炳記念館は1号庁から5号庁まで5室に分かれています。

 もともとは雷尊殿に付随していた建物で、前後2列に分かれており、そのうち記念館では3号庁にあたる部屋が阿炳が生活していたところです。面積は約25㎡で、記念館ではありますがこの部屋に例えば「阿炳が使っていたベッド」などというものは展示されていません。

 記念館が開館した当初(2007年5月)は、当時の生活を再現しようとベッドや机、いす、様々な生活用品が配置されていました(と当時公開された写真で見ることができます)。ただそれは阿炳が直接使ったものではなく、当時の形に再現した模造品であったわけで、他の有名人の記念館にあるような「実際に使用したもの」はほとんど残されていないというのが正しいでしょう。 




阿炳故居3号庁にはほとんど備品がなかった
 
  というのも阿炳が1950年に亡くなって以降これらの部屋は一般の市民が住んでいたからです。民族音楽家として江南地域の音楽関係者には知られていたとしても、戦争と内乱を経て中華人民共和国創立、そして1960年代~70年代の文化大革命など無錫社会の変遷も激しかったでしょうし、阿炳とは全く縁もゆかりもない人々がこれらの建物に住み着いたとしても不思議はありません。もともと貧しかった阿炳ですから、余計に物は残っていなかったでしょう。

 阿炳関連の事物に対する関心が高まったのは90年代以降でした。ようやく1994年1月に、この図書館路30号にあった角の家が「無錫市人物保護単位」に認定されたのです。そしてその周辺20メートル以内が阿炳故居保護範囲として大きな建築物の建設が規制されたことから、周囲は近代的なビルが建ったものの、これらの古い民家がそのままの形で残ったのです。

 もちろんそこに住む人たちには生活がありましたから、例えば自転車修理屋さんが住んでいたり、夕暮れ時ともなると炊事の炎と煙が充満したり、前の道にイスを出して座り近所の住民がダベっていたりと、生活臭が漂っていたことでしょう。阿炳が住んでいた足跡はほとんど消え去って行ったでしょう。
 

記念館になる前の生活感漂う阿炳故居(一番奥)周辺
 
 そして21世紀に入り都市再開発がさらに進むとともに阿炳記念館構想が持ち上がり、現在のような形で建設されたのです。無錫市の文化人の足跡を伝える文化事業であったでしょうが、阿炳に関してはむしろ人々(庶民)の記憶に残ることでその人生をたどれる人物であったといった方がいいのかも知れません。

 この周辺はかつて崇安寺、公花園といった人が集まる場所であり、また茶館など誰もが気軽に入れる娯楽の場所も多かった地域です。阿炳も街頭へ出る前に茶館に行き、そこで交わされる会話や噂話、ゴシップなどを仕入れて、街頭でおこなう痛烈な時事批評のネタとしたといわれています。

 後半生は本当に貧乏な生活を送った阿炳ですが、物質的には恵まれなくとも近所づきあいの中から音楽や芸に関する示唆を得ていたと考えると、当時の多くの無錫人の評判を得ていたことがよくわかります。
                                                                                                                          (20.2.13記)
   
 新・阿炳の旅⑥ 2019年12月

  阿炳故居のある二泉広場です。正面に修復なった、白い壁が特徴の旧「無錫県図書館」が見えます。

 この無錫県図書館は1914年完成したもので、鐘楼を持つ中・西洋様式混合の3階建て、南北に門があり、1階と2階の部屋はそれぞれ回廊で結ばれています。阿炳生存当時の無錫県城内で最も高い建物であったとされ、周辺の建築物と比べてもさぞ迫力があったでしょうし、その鐘楼で鳴らされる鐘の音は県城一帯に響いたことでしょう。ごく近くに住む阿炳にとってはいささかうるさかったかもしれませんが(というような想像をするのは楽しいですね)。


阿炳の塑像
 
  そしてこの無錫県図書館の前、広場の真ん中に堂々と位置するのが阿炳の座像です。少し背を屈め、組んだ左足の上に胡琴を置き、右手に持った弓で曲を弾いている姿です。広場に入るところに二泉映月の楽譜を写した大きなオブジェクトがあることからすると、この二泉映月を弾いているイメージなんでしょう。

この阿炳像の前で記念写真を撮る観光客も多いのですが、無錫市の歴史的な人物として市がアピールするほど市民(や観光客)が阿炳の音楽家としての存在を周知しているかどうかはよくわかりません。というわけでこの広場の東側に位置する、阿炳故居を含めて関連した歴史物を保存した阿炳記念館に行くことになります。


原型を模した雷尊殿
 
 入口の手前に事務室があるのですが、そこで「入場券1枚ください。いくらですか」と聞くと「免費(無料)だよ。ささ、入って入って」という返事が返ってきました。そうなんです。記念館ですが無料なんですね。ということで中に入ると2つの区画に分かれています。

 入って左手に、阿炳と父親の華清和が主持をしていた雷尊殿が原型を模して建てられています。ここでの道教活動が阿炳の生活の糧であったし、また少年時代からの音楽修行と活動の拠点でもあったわけです。いかにも落ち着いた瓦屋根の木造建築で、阿炳の少年時代の生活の様相を想像するいい場所です。


阿炳記念館の案内
 
 そしてその更に東側に白壁の平屋が並んでいます。阿炳の生活の場であった、阿炳故居です。もともと居住していた部屋だけでなく、他の部屋にも展示物を並べて5つの部屋を記念館として公開しているのです。
                                                                                                                           (20.2.5記)
   
 新・阿炳の旅⑤ 2019年12月

 無錫旧市街の中心部、中山路と人民中路の交差点の北東側に阿炳故居があります。

 無錫駅から地下鉄で行く場合は、地下鉄1号線で2つ目の駅が三陽広場駅で、この駅がまさにこの中山路と人民中路の交差点にあります。この駅は地下鉄1号線と2号線が交差するところにあり、2号線にはこの駅で乗り換えることになります。

 三陽広場駅は単に乗り換え駅というだけでなく、駅名になっているように三陽広場という大きな空間になっています。実は地下に広がる商業店街として市民に利用されているのです。地下だけでなく、この地上の交差点の周辺には大東方百貨店や百盛(スーパー・パクソン)などのショッピングセンターもあり、地下と地上をつなぐ一大商圏を形成しているのです。

 さてこの三陽広場駅の14番出口が地上交差点のちょうど東北角の出口となります。出て人民中路を少し歩くと左手に黄色(金色?)の派手な装飾をした崇安閣が見えます。

 元々この辺りは崇安寺の境内でした。崇安寺は無錫最古の寺で、西暦364年晋の哀帝によって建てられ(当時の寺名は興寧寺、977年に崇安寺と改称)、清時代に幾度か廃改築があり、辛亥革命後は仏像が壊されたり、日中戦争時は日本軍によって大雄宝殿が燃やされ、また中華人民共和国建国後は多くの剰余建築物が取り壊されたりと、過去の栄華を極めた寺としての姿はなくなりました。


崇安閣と商店街
 
 2003年にこの地に崇安寺の文化を示すシンボルとして崇安閣が建てられたということですが、まあ実際は歩行街、グルメ街として市民が多く集まる商業区域の分かりやすい目印(と言ったら失礼かも知れませんが)として目立っています。

 そしてこの区域のすぐ東隣が阿炳故居を含む二泉映月広場となっているのです。もともと崇安寺の東側に無錫道教最大の道観・洞虚宮がありました(1010年の創建から火災など5回以上の興廃があったといわれています)。1874年(阿炳が生まれる19年前)に洞虚宮は改めて再建され、5つの道院を持つことになりますが、阿炳の父親の華清和がそのうちの一つ雷尊殿の主持を務めていたことから、この地が阿炳の故居となったわけです。

 18世紀中ごろから20世紀初まで無錫では道教がすこぶる盛んであったと伝えられています。そして多くの活動が民間習俗と融合していったということで、雷尊殿もその例にもれず、例えば毎年農歴(旧暦)の6月には雷尊殿の香訊、いわゆる雷祖大帝を祀り精進料理を食べる“雷斎素”の時には善男信女が川が流れるように途切れることなく焼香拝殿に来ていたとのことです。参拝客の蝋燭銭や香銭は雷尊殿の大きな収入になりました。


阿炳故居がある二泉広場
 
 後年貧困生活に陥り街頭で芸を売る生活をおこなう阿炳ですが、幼少のころは雷尊殿の収入で家計にも余裕があり、そのため父親の華清和は阿炳に道教音楽を始め江南地方の音楽、楽器を徹底して教え込むとともに、私塾に通わせるなど教育にも熱心でした。阿炳本人の努力も当然あったでしょうが、厳しい訓練に耐えることで本人の音楽的才能が発揮され、阿炳は17.8歳になるころには全市で“小天師”として名前が聞こえていました。

 崇安寺の地は、阿炳が若くて父親と共に雷尊殿で活動していた時も、盲目となり生活のため琵琶と胡琴を背負って街へ出て、自作の曲を演奏し「説新聞(世相批評)」をおこなうど街頭芸人となった時も、離れられない原点の地でした。                                                                                                                                                                     (20.1.29記)
   
 新・阿炳の旅④ 2019年12月

 無錫駅から古運河にかかる工運橋を渡って市街地に向かって歩き、解放路との交差点を過ぎ更に南西に進むと、旧県城を南北に貫く中山路に出ます。ここを右に曲がって(つまり北へ向かって)2~3分歩くと、かつて県城の北門があった地点に着きます。もちろん今は車が多数通行する大きな交差点になっているのですが、この北門を挟んで南北に連なる地域が、往時繁華街としてにぎわった北大街です。

 特にこの北門からさらに数分の距離にある運河に架かる橋、蓮蓉橋付近には多くの商店が並んでいました。1930年出版の「無錫概覧」の記述によると、当時北大街には61の商店があり、そのうち絨毯業が10軒、百貨店(衣服・靴・帽子)業が10軒、金銀装飾品業が4軒、精肉業が4軒、そのほかに茶店、飲食店、煙草店、瓷器店、薬店、本屋など数多くの店があったようです。

 なぜこれほど賑やかな地域になったかというと、無錫がその地理的条件によって江南地方における米市場を形成し、多くの物資の集散地となっていたからです。現在の地図を見てもわかりますが、旧県城を挟んで鉄道(1908年に上海と南京を結ぶ「滬寧鉄道」として開通した)とは反対の側に「京杭運河」が流れています。かつては大小さまざまの運河やクリークがあり、水運が大いに発達していたのです。


無錫中心部地図
 
 他の文献、例えば1924年日本の外務省の中国での出先機関から本省への報告「無錫事情報告の件」(国立公文書館アジア歴史資料センターより)によると、「此地ノ商工業ハ近年異常ニ進歩発達シ俗ニ『小上海』ト称セラル程ニ紡織、製糸、製粉、メリヤス工業其他諸般ノ機器工場林立シ」と書かれています。

 実はこれには歴史的な理由もあったといわれています。清朝時代の無錫県は政治経済的に特に注目される都市ではなく、境を接している蘇州や常州が経済的に発展していました。

 19世紀中頃の長髪賊の乱(太平天国の乱)の時に、蘇州や常州が太平天国軍と官軍が互いに争奪する目標となって非常な被害をこうむり、蘇州の特に巨万の富を擁していた穀物商が一時無錫に避難して仮の店舗を開きました。乱が平定されたのち、これらの商家がもとの場所に帰らずそのまま営業を続けたことから、米穀取引中心市場としての発展が始まった、というわけです。

 阿炳が住まいとしていた道教の洞虚宮・雷尊殿は中山路と観前路が交差する地域にあり、過去も現在も賑わう場所です。阿炳はこの雷尊殿から広場を挟んで西にある三万昌茶館で茶を飲み、ここに来る客達とも談笑しながら街頭でおこなう“時事放談”のネタを探していた、と言われています。

 阿炳の街頭演奏は当然人の多い盛り場で行われましたが、三万昌茶館から北大街までは歩いて15分~20分の距離です。盲目の身の阿炳にとっては誰かに手を引いてもらいゆっくり歩いていくことを考えれば30分以上かかったかもしれませんが、活動範囲であることは間違いないでしょう。


蓮蓉橋の碑と、橋のたもとにある古い建物
 
 今は普通のビルが建つ普通の街路となっていますが、商業の賑わいのある地で阿炳は何を演奏し語ったのでしょうか。個人商店の商売繁盛には“ウン、賑わっていい事だ”と目を細めたでしょうが、えげつない商売で富を重ねた一部の問屋や大店の前では、ひょっとしたらそのやり方を痛烈に批判する“時事放談”を目の前で行っていたかもしれません。

 中高年になってから貧しい生活を送らざるを得なくなった阿炳ですが、賑やかな場と人が集まる空間には喜んで行ったはずです。中国の1920年代30年代、戦争と混乱の時代であった当時はちろん貧困やそれが原因の犯罪など負のエネルギーが生活の場にもたらされたかしれませんが、一方で暴政の下でもしたたかに生きる庶民の屈託ない力がじっくりと溜まっていたはずです。

 二胡と琵琶を身体に付け、黒眼鏡をした阿炳が街頭で激しく演奏し高らかに唄いあげ、時事放談で鋭く社会を批判する。そんな音を声を耳にする無錫庶民の歓声が、阿炳の街頭活動をさらに支えていったのでしょう。
                                                                                                                                 (20.1.22記)
   
 新・阿炳の旅③ 2019年12月

 今回乗った高鉄列車(新幹線)は上海から40分余りで無錫に着きました。大きな揺れもなく、途中停車駅は蘇州だけというスムーズな移動です。

 座席は2等席(日本でいえば普通席ですね)で、チケット価格は59.5元(約900円)というもの。ちなみに同列車の1等席は94.5元、更にその上の特等席は109.5元でしたが、これくらいの移動では2等席で充分ですね。ただ直前になるとチケットは取れないことも多く、計画準備が必要です。

 さて、12年ぶりに降り立った無錫駅ですが、当然いろいろ様変わりしています。

 無錫では2014年に地下鉄が開通しています。1号線は無錫市内をほぼ南北に、2号線が東西にそれぞれ縦断・横断しており、無錫駅は1号線にあります。1号線と2号線が唯一交わる三陽広場駅は最も市内の中心駅ですが、無錫駅からは2駅先になります。以前は無錫駅の南側にバス停などもあったのですが、今は駅の北側に地下鉄の駅とバス停が集められています。ですのですぐ移動する旅客は北側に出ます。


無錫駅前
 
 筆者は徒歩で市内に入って行く予定だったので南側出口からぶらぶらと出ました。広場公園になっていましたが、土曜日というのにこの広場を歩く人は多くなく、ややのんびりといった風情でした。駅前広場から南西方向に向かいます。

 かつて無錫県城はその名の通り城壁で囲まれていました。やや丸っこい菱型をしており、現在の繁華街はすべてこの中に入っています。清の時代から民国になっても基本的な構造は変わらず、ですので阿炳はこの城内でほとんどの人生を暮らしていたことになります。

 また城壁内の県城内部には河やクリークが縦横無尽に走っていました。中華人民共和国成立後これらの城壁は取り除かれ、また多くの河川・クリークが埋め立てられ道路となりました。埋め立てられた県城の外周は解放路と名づけられ、環状道路として市内の主要幹線となっています。

 阿炳の時代はもちろん基本は徒歩で、そして時には人力車に乗ったこともあるかもしれませんが、この城内を行き来していたはずです。そんな足跡を歩くことで確かめようと、筆者も今回はもっぱら徒歩での移動を心掛けました。


工雲橋
 
 駅前広場を突き抜け大通りを横切って工雲橋と命名されている橋を渡ります。戦前は「大洋橋」と名付けられていましたが、7、8分歩くと解放路との交差点に出ます。かつて城壁があったところですから、ここからが本当に旧市街に入ることになるわけです。
                                                                                                                                 (20.1.16記)
   
 新・阿炳の旅② 2019年12月

 12月7日の無錫への旅(というほど大げさなものではありませんが)は、朝地下鉄に乗って上海駅へ向かうことから始まりました。
 
 上海地下鉄は現在16路線あり、料金も3元(約47円)からということで移動には便利ですね。特に市内中心部をウロチョロする時は(バスに比べて駅間距離はありますが)1日券などを買うと楽です。ただし注意するのは、通勤時間帯のラッシュアワーをできれば避けることと、荷物検査ですかね。駅の改札口にX線による荷物検査器があり、リュックなどはその検査器を通さなければなりません。

 制服を着た若い男女が3~4人任務についていますが、X線荷物検査器の画像をまじめにじっと見ている係員もいれば、駅にもよりますが係員がだべっていて通り一遍の検査しかしていないことがわかるところもあります。改札前に一列に並んで検査を受けるのですから、ラッシュ時には混雑することが容易に予測できます。

 これらの検査はテロ対策に必要だという当局の理屈ですが、社会の治安維持という名目で形式的あっても統制を行うことでそれが日常となり、当局がおこなう社会的な規制に何の疑問も持たなくなることの方が怖いですね。

 さて、上海で仕事をしている友人に上海駅に行くなら1時間前くらいに着くように行った方がいいよ、と助言されていました。ええっ、チケットの時間が決まっている高速鉄道だからもちろん早めに行きますが、そんなに早く行く意味があるのかと当然思いますね。しかしこれには根拠があったのです。

 上海駅に行っても日本の駅のようにさっさと改札を通ってホームに上がる、ということはできません。まず駅内に入るための関門があるのです。駅舎の入り口へつながる通路に並んで順番を待ちます。というのも入り口で身分証とチケットのチェックがあるのです。中国人は自動チェック機で身分証を機会に照らして次々に構内に入っていきますが、外国人は係員のいる「工人通行」のゲートに向かいます。ここでパスポートとチケットをチェックされ、ようやく駅構内に入れます。しかしすぐ前に手荷物のX線検査と身体検査があります。空港と同じです。


上海駅検札入口
 
 今回は割とスムーズに入れましたが、これがラッシュ時などでは当然人も多く、また何かトラブルがあったら行列の進行はストップしますので、なるほどできるだけ早く行かないと構内にも入れずまた列車にも乗れないといったことことが現実になるのです。

 これが終わってようやく本当に駅に入れた、ということになります。エスカレーターに乗って待合室に行きますが、待合室は各列車ごとに例えば第3ゲートというように入り口が決まっています。しかしそのまますぐにゲートを抜けてプラットホームに自由に行けるかというとそうではありません。ゲートの入り口で切符の検札がおこなわれるのですが、それは列車の発車15分前からしか始まりませんし、また5分前には締め切られてしまうのです。


高鉄・車両の中
 
 ですので時間をきっちり守って並んで待つことになります。ここでも当然身分証の提示が必要になります。外国人の私はここでも係員のいるゲートを通りました。それでようやくホームへ向かえます。今回は4番線へ。通路を少し歩き階段を降り、指定の列車に到着です。

 列車は時間が来れば静かに発車です。耳をつんざくベルの音などはありません。40分余りで無錫に到着です。久しぶりに来た無錫。阿炳の故郷ですが、さて新たな発見はあるでしょうか。
                                                             (20.1.10記)
 
 新・阿炳の旅① 2019年12月

 12年ぶりの無錫訪問ということになりました。

 上海で開かれた「第15回長三角民族楽団展演(民族音楽フェスティバル)」への見学・参加の合間に、やはり阿炳の故郷への再訪を果たそうということでした。まあ阿炳記念館などの整備も図られているということでしたし、何よりも都市整備が急激に進む中国社会ですから、阿炳にまつわるかつての都市空間がどのように変化したのかも直接見たかったこともあります。

 無錫へは列車で行くことにしました。上海駅・無錫駅の改装とその変貌も気になるということで、本数も多く短時間で着ける高速鉄道(新幹線)を利用することにしました。

 まずはチケットを手に入れなければなりませんが、これが今の中国の社会を象徴している管理システムに複雑に巻き込まれてしまうのです。チケットを買うには本人確定で本名での取得が義務付けられていますので、本人を証明する証明書、つまり中国人であれば公民身分証、外国人であればパスポートが必要になります。しかし自動機械のチケット販売機は中国人の証明書は読み取るが外国人のパスポートは読み取らないので、外国人は駅に設置されている自動チケット販売機は使えません。

 チケット予約はネットで簡単にできて住所地に届けてもらうことが可能ですが、直前に中国入りしてホテルに泊まる外国人の場合はやはり駅の窓口で取りに行くのが確実です。結局は駅に取りに行くことになるなら当日買えばいいではないかとなりますが、時期や時間帯によっては長蛇の列ができるから、よほど余裕を持ってつかなければなりません。そのほかに市内に散在するチケット代理販売所でも手に入りますが(手数料が必要)、当該場所を探すのに一苦労することもあります。いずれにしてもチケットを手に入れるのにまず労力を使います。

 今回上海駅へ行く時刻の地下鉄のラッシュアワーを避けるということで9時ころ上海出発でいいと思っていたら、とんでもない。9時上海駅発、無錫行きの列車のチケットは前日で売り切れというではありませんか。無錫へ行くには上海虹橋駅発の列車もあるのですが、改装した上海駅に行くということにこだわりましたので、結局手に入ったのは上海駅10:00発―無錫駅10:42着のG7008号列車でした。南京行きの列車で、上海を出発して無錫までは蘇州駅に停車するだけの列車でした。


上海駅コンコース
 
 さて、このG7008号列車について少し説明が要りますね。高速鉄道の切符に記載されている列車番号にはGから始まるものとDから始まるものの2種類があります。Gは高鉄(ガオティエ)をあらわし、Dは動車(ドンチャー)を指します。

 その違いについて中国のマスコミでは以下のように説明されています。

 「動車は運行速度が時速200キロメートルから250キロメートルの鉄道を差し、高鉄は運行速度が時速300キロメートル以上に達する鉄道を指す。また乗車料金にも違いがって、運行速度が速く車内の座席に複数の等級がある高鉄のほうが料金は高い。また、動車と高鉄は車両の見た目では大差がないが、『高鉄の車両は動車よりも設計が優れているため、乗り心地が良く、振動を感じない』とし、動車は既存のレール上を高速で走行できるのに対し、高鉄はそれ専用に建設されたレール上を走行するという違いもある」

 さてチケットも手に入ったし、気楽な気持ちで列車に乗ろうとしても、実はまだ関門があるのです。

                                                             (19.12.25記)
 


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