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中国・音楽の旅 阿炳外伝@

「阿炳(ア-ピン)と楊蔭瀏」
1、楊蔭瀏と阿炳の出会い(08年5月12日)

 阿炳の伝記に必ず書かれているが、1950年夏、陽蔭瀏と曹安和の依頼で阿炳は後世に残る録音をすることになる。それによって二胡曲「二泉映月」「聴松」「寒春風曲」、そして琵琶曲「大浪淘沙」「昭君出塞」「龍船」の6曲が、今でも彼自身の演奏として聞くことができるのである。

 阿炳がその年の冬になくなったこと、そして1950年といえば49年に中華人民共和国が建国された翌年であり世相がまだ混乱していたことなどを考えると、阿炳を探し出し、ましてや直接録音を果たすことができたのは奇跡のような出来事だと思われるかもしれない。

 確かにこの録音の数年前から阿炳は楽器を手放していた状況だったから、通常の状況では不可能であっただろう。しかしとにかく中国が共産党政権×国民党政権の内戦を終え統一された時期だったこと、そして陽蔭瀏という人物がいたことが、その実現を可能にしたといえる(もちろんそこには音楽によって民族意識を高揚させようとする時の政治があったとしても)。

 逆に言えば陽蔭瀏でなければ不可能だったといえるかもしれない。とにもかくにも陽蔭瀏と阿炳は面識があるどころか、奇異な縁に結ばれていたのであるから。

 陽蔭瀏は1899年11月に無錫市・留芳声巷にある楊家の次男として生まれた。実は無錫市は音楽関係者が多く生まれている地域で、上述の曹安和もそうだし、大無錫市の範疇で言えば劉天華(劉3兄弟―江陰市生まれ)も入る。もともと同郷の士であったのである。



楊陰瀏(「無錫民楽」・江蘇人民出版社より)
 
  楊家は旧時の読書人の家柄(知識階級)であったようで、父親は兄弟に音楽教育も施した。陽蔭瀏は6歳で簫をよくしたと伝記に出てくる。毎日夕方には学校から帰ったきた兄と合奏した。

 父親の教育は厳しく、「社会の悪習に染まることのないよう、子供たちに外で遊びまわるようなことは許さなかった。それで近所に住んでいた道士の頴泉に頼んで家に来てもらい、子供たちに笙や簫、笛、二胡などを教えてもらうようにした」(曹安和・談)らしい。

  穎泉はなかなか音楽の素養のある楽手で、蔭瀏はまず《六板》、《三六》、《四合》などの絲竹楽曲から《万年歌》などの曲牌を会得し、工尺譜のような民間楽曲もすっかり書き取ることが出来た。11歳のとき穎泉が市外の道院へ移っため、この勉強は終わってしまった。

 のちに道士グループが家に法事に来たとき、兄弟は彼らに楽器の演奏技術を教えてくれと頼んだ。道士達は自分らの中で一番技量に優れていた華彦鈞(阿炳)を兄弟の教師に推薦した。このようにして楊蔭瀏は阿炳に琵琶と三弦を学ぶようになった、とのことである。

 もともと同郷でしかも音楽に縁のある2人であるからいずれはどこかで知り合っただろうが、少年楊蔭瀏にとって阿炳の印象はおそらく強烈だっただろう。もちろん当時の阿炳はまだ失明もしておらず、血気盛んな18歳の青年であり、楽器の演奏もノッテいたであろうと想像される。

 そんな2人の出会いであったが、実は2人の学習はそんなに長くは続かなかったのである。
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

2、楊蔭瀏が阿炳に学ぶ(08年5月19日)

 音楽に親しんだ楊蔭瀏が穎泉の次に学んだのが阿炳であった。阿炳は当時18歳で、既に無錫道教音楽会では名が通っており、本人の能力と努力もあって誰もが認める才能をきっとキラキラと発していたのだろう。11歳の少年楊蔭瀏もその噂は当然聞いていたに違いない。その結果楊蔭瀏は阿炳に琵琶と三弦を学ぶようになった。

 阿炳にとって7歳年下の子供を教えることはどんな気持ちだっただろうか。もちろん今の時代の感覚で推し量っては間違うことがあるかもしれないが、自身才能がキラキラ輝いていた(と現在から想像するが)阿炳から見ても楊蔭瀏はまっすぐに向かってくる“弟子”であっただろう。

 当時阿炳の父親である華清和は健在で雷尊殿の主宰者であり、雷尊殿の斎事も盛んで経済的には困ってなかったはずである。父・華清和がなくなるのは1918年、阿炳が25,6歳のときであり、楊蔭瀏と知り合った時はつまりは音楽に専念できた時代なのである。もちろん血気盛んな青年時代であるから友人と遊びまわるということも当然あっただろうし、そのことも含めて音楽性が高められたはずだ。
 
 阿炳が楊蔭瀏にきっちりレッスンをしたのは当然だろう。しかし18歳の青年が音楽だけを教えたのではないだろうということは容易に想像できるのではないか。これが5歳や6歳の子供なら遊びに連れて行けないが、既に11歳になり世の中のことに興味を抱く年頃の子供を相手にするとき、音楽レッスンだけでは息が詰まってしまう。ということで阿炳はレッスンが終わったら、弟に対するように楊蔭瀏をにぎやかな街中に連れ出していた、と筆者は考える。

 また男同士の会話のなか音楽以外の下世話な話もあったと考えるのも自然だろう。そんなこんなで両人にとっては楽しかっただろうが、旧時の読書人の家柄であった楊家の父・楊鐘琳にとってはこの2人の交わりは我慢がならなかったようだ。

 「阿炳は傲慢、礼法に縛られない性格で、まさに何にでも反抗する年頃だった。楊蔭瀏の父はそれが目障りだったし、子供が楽手たちと交わるのを好まなかったので、楊蔭瀏は家から近くにある天韻社にやらされ、昆曲の名手である呉宛卿を師とした」(「無錫民楽」より。呉宛卿の宛の字は正しくは田ヘンに宛)。

 読書人階級(インテリ層)である楊蔭瀏の父にとって道教寺院の楽手たちは身分的には一段下にあるもので、大事な息子が勉強とは無関係の事柄に目を向けられていくのを我慢できなかったのかも知れない。また実際阿炳が直接父に余りにも普通に(つまりはいつも友人達と遊んでいるように)接したので、その屈託のない態度に激怒したのかもしれない。

 「天韵社で楊蔭瀏は呉宛卿の最も誇れる弟子となった。楊蔭瀏は昆曲90段、牌子曲(俗謡)10数段、琵琶小曲100曲近く、琵琶大曲13曲、琴曲《平沙落雁》、《漁歌》などから、いくつかの器楽合奏曲や鑼鼓曲を体得した。楊蔭瀏はこれ以後音楽を終生の仕事とするのであるが、このときの呉宛卿の指導があってなしえたとも言えるだろう」と評伝にも書かれているように、新たな出会いは彼の生涯を決定するものとなった。

 しかし短期間であっても阿炳と楊蔭瀏の師弟関係は呉宛卿とは別の影響を与えたと思う。音楽の修養だけでなく、無錫市に生きる人々の生き生きとした姿を、建前ではなく本音の姿が出る盛り場での出会いなどで体感したかもしれないからだ。むしろそう考えるほうが阿炳らしいといえるだろう。
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

3、楊蔭瀏、音楽修養を積む(08年5月26日)

 楊蔭瀏が阿炳に学んだのは1年にも満たない期間であったが、もともと音楽に強い興味を抱いていた楊蔭瀏にとって阿炳との出会いはその後の呉宛卿へ師事したことも含めて、道教音楽と江南絲竹音楽に対する目を開かせたものになった。

 楊蔭瀏はのち伝統音楽に対する様々な研究を深めることになり、特に道教音楽について意識的に資料を収集し整理を始めたのは1937年のことであると伝えられている。楊蔭瀏はこの時は北京にいたが無錫に一時戻り、道家の友人らの協力を得て蘇南民間音楽を数10集集めて研究し、それぞれの流派をまとめて《梵音譜》、《鑼鼓譜》の2つの手稿に整理した。

 もう1人楊蔭瀏に音楽生活に関して大きな影響与えた人物がいる。それは音楽教養に優れ敬虔な宗教信仰家であったアメリカのシスター、Louise Strong Hammand 、中国名:カク(赤+おおざと)路義、であった。このシスター・ルイスから英語、そしてピアノと西洋音楽学理を学ぶのである。

 実は楊蔭瀏は1923年上海の聖約翰(セントジョン)大学に入学し、経済学、そして文学を学んでいるのである。上海・聖約翰大学はいわゆる教会学校として19世紀末につくられ、1905年に正式に大学として認定されました。華東政法大学(2007年3月華東政法学院から学名を変更)があるところで、上海・静安区の中山公園の北側、航渡路と蘇州河にはさまれたところである。



聖約翰大学の校門
 
 聖約翰大学は英語と宗教学以外に体育学にも力を入れていて、中国歴史上初めてのサッカーチームが出来たとその歴史の紹介にある。また校風を反映してか社会活動や学生運動も活発であり、五四運動など政治活動にも積極的に参加していたらしい。卒業生には、宋子文、宋子良、宋子安、栄毅仁、林語堂、などがいる。

 楊蔭瀏は1920年にキリスト教徒になったとその伝記にはある。もちろんそのきっかけにはシスタールイスとの出会いがあっただろう。実は楊蔭瀏が阿炳とそしてシスタールイスと出会ったのはほぼ同じころであり、その2人が運命的に師となっていくのである。

 聖約翰大学に入学した楊蔭瀏はもともと文科系だったにかかわらず、高等数学や物理も意欲的に学んでいく。それは琵琶の音律問題の研究に注意を向けるようになったからであり、また精密な楽理図を描くために楽器を画くことも学んだ。北京音楽研究所には楊蔭瀏が1950年代に描いた民族楽器図が百数十枚残っているとのことである。

 さらに楊蔭瀏は中国でのも賛美歌編集の仕事にも携わっていく。道教音楽とキリスト教音楽は楊蔭瀏にとってどちらも切り離すことの出来ないものであった。そんな熱心さが中国音楽史上に独特の詳細な研究として、多くの著作物となって結実するのである。
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

4、楊蔭瀏が再び阿炳にまみえる(08年6月2日)

 楊蔭瀏が上海の聖約翰(セントジョン)大学で学んで2年後、1925年に上海では「5.30事件」が発生する。1925年5月15日日本資本の紡績工場でストライキをおこなった労働者が警備員に射殺され、それに抗議する労働者や学生約2,000人が共同租界でデモ行進を行い、それにたいしてイギリスを中心とする工部局警察が発砲し死者が出た事件をいう。この事件以後反帝国主義運動が高まるのである。

  聖約翰大学で学ぶ学生や教師も運動に参加したが、学校当局に押さえられるとそれに反発して600名余りが新たに自分達で光華大学を設立する。楊蔭瀏も光華大学に移り、そこでは経済学を学んだという。

 このような推移があったが、聖約翰大学のような欧米の教会によって支援、運営される教会大学は中国の近代化や人材の養成、文化交流に大きな役目を果たした。

 ある資料によると「こうした教会大学は19世紀後半から現れ、20世紀初頭に大きな発展を遂げた。1920年代には中国側の教育権改修運動、教育宗教分離運動という衝撃のもとで徐々に土着化していき、1930年代に新しい発展期を迎えようとしていた。1931年時点で中国全国の高等教育機関108校のうち欧米系大学が22校あり、そのほとんどが教会大学の系統に属していた」

 「しかしこれらの教会大学はまもなく日中戦争の影響で破壊、閉校や移転を余儀なくされ、1945年以降は国共内戦を経験し、さらに新中国成立後その他の大学に合併され、完全に中国大陸から姿を消していった」とある。(「教会大学と日中戦争」王京・著)。

 楊蔭瀏の聖約翰大学での生活は教会大学が大きく影響力を伸ばしていたころの時代であり、彼にとって当時の西洋の知識と思想はまさに砂に水がしみこむように浸透していったことだろう。西洋音楽に対する目を開かれると共に、そのバックボーンとなる思想の学習には無駄ではなかった。

 楊蔭瀏は1926年故郷に戻り、いくつかの中学校で教鞭をとり、20年代末から中国での賛美歌の編纂事業に取り組むことになる。1932年には北京に行き燕京大学の劉廷労博士と共に賛美歌の編纂、雑誌の刊行など、いわゆるキリスト教音楽の研究に力を注ぐことになるのである。

 燕京大学もアメリカのキリスト教関係者によって1919年設立された教会大学で、今の北京大学の場所にあった。楊蔭瀏は1937年夏季休暇で無錫に帰るが、7月7日盧溝橋事件が起こり日中全面戦争となり、楊蔭瀏は北京に帰ることが出来なくなってしまう。

 楊蔭瀏によると「阿炳とは親密なつながりを持った期間がある。1回目は1911年(この項@回目A回目参照)で、阿炳に三弦と琵琶を習い、“三六”や“四合”とその他何曲か奏法を学んだ。2回目は1937年の春、彼は私に琵琶の指法を教えてくれ、“将軍令”の中の「撤鼓」という演奏方法を見せてくれた」(阿炳曲集より)とのことである。

 37年の春と夏では少し季節が合わないが(晩春=初夏というような意味か)、いずれにしてもしばらく合間見えることがなかった2人がこの時期に再び親密な交際をすることになる。少年時代に会った18歳の阿炳は未来が全て開かれていた様に見えた青年であったが、1937年の阿炳は既に失明し、いわゆる街頭芸人となっていたのである。
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

5、楊蔭瀏の研究成果(08年6月9日)

 1937年に再び阿炳と親密に交わったと述懐する楊蔭瀏だが、北京に行く前は地元で音楽指導や研究の仕事をしていたので、それ以前の阿炳の動静は知っていたはずだ。

 無錫の道教音楽の世界では「阿炳、この人あり」と謳われたほどの人物であって見れば、雷尊殿の没落から阿炳が両眼とも失明し、街頭で芸を売る生活に入ったことも当然耳に入る。当時の楊蔭瀏は20代から30代前半であり、知識人階級として阿炳ほど伎楼に出入りし酒を飲んでいたとは考えにくいが、それでも歓楽街をぶらついたり、飲み食いはしていたはずだ。

 何せ当時の無錫は上海には負けるけれども、上海と南京のほぼ中間にあって小上海といわれるほどに賑わっていた街であった。旧時の無錫の茶館では客人がお茶を飲んで憩うなかで、1人の歌女が二胡の伴奏で《無錫景》を唄う。「私の気持ちを皆さんちょっと聞いてください。無錫の景色をご案内、いろんな場所をご案内」と、優雅で清らかな声で客を楽しませる。

 「無錫に来るには汽車が便利。同雲橋のたもとは広く、建物もきれいに飾ってあり、街の賑やかさといったら上海にも負けない。春に行くには梅園が一番。ゆっくりのんびり船に乗って、梅園は太湖のほとりにその姿を見せ、全園梅の木で一杯、なんてすばらしい眺めでしょう」と、粋人が太湖の景色を楽しむのに美しさを添える。

 そんな街だからこそ、街頭で語り楽器を弾きこなす阿炳の芸は、粋人とは逆であっても無錫の庶民からは大人気を得た。いろいろな音楽がそれぞれの人の生活に関連し、特に下世話な話から権力者への鋭い批判まで展開する阿炳へは身近な存在としての投影があったのだろう。



今日でも市民生活に音楽がある(無錫・城中公園)
 
 さて、楊蔭瀏は音楽・楽器の音律や音准を科学的な問題として捉え、研究に励むことになる。特に鐘、馨(けい)から管、笛、簫など各種楽器の測音する研究で、「弦長を周波数と音分に換算する道具があればとても便利だと考えていた。そこでいつも“量音尺”をどのようにつくるかと思索していた」(無錫民楽より)。

 伝によると楊蔭瀏は1939年に中央機械工場が昆明(雲南省)に移るのに付いていき、1941年には重慶で仕事をしたとある。1937年以降日中全面戦争になり、北京や上海はもちろん中国沿海部は日本軍に占領されてしまう。当時の国民党政府は内陸部に次々と首都を移し、最後は重慶になる。
 
 前年1936年12月に張学良が蒋介石を監禁して「内戦停止、一致抗日」を求めた西安事変が起こっており、再び国共合作がなされて政治家や経済人はもちろん文化人も日本占領区を離れる人士が多かった。楊蔭瀏が国民党員であったのか共産党員であったのかなどは書かれていないが、一個人として昆明や重慶に移るというのは少し考えにくい。

 やはり何らかの文化的なグループなど組織的な活動に関係していたのかもしれない。してみると道教やキリスト教音楽に触れた楊蔭瀏には、自国の民族文化への探究心がより熱心になったということで、同時に歴史・思想などへの造詣は深かったのだろう。そんな民族心を阿炳と語り合ったのかは定かではない。

 いずれにしても《音准と量音尺述略》という書物を著し、その研究の成果としたのである。

                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

6、楊蔭瀏と三たび阿炳と交わる(08年6月16日)

 1人は高等教育を受け内外の音楽史に通暁し音律にも精通した民族音楽研究の教授、1人はずっと無錫を離れず道教道士として民族・民間音楽を表した市井の音楽詩人、その2人が3たび交わることになる。

 1947年の夏、当時上海文芸界の著名人士であった紅豆館主の溥西園(もと清の鎮国将軍、文化人でもあった)と上海銀行界の要請を受け、無錫道教会が道楽演奏隊を組織した。その顧問に楊蔭瀏が就任していて、上海で“十番銅鑼”と“十番太鼓”の演奏に行く前に彼らの練習を行うときに、阿炳に来てもらって聞いてもらった。

 阿炳は練習を聞いていった。「聞けば聞くほど皆と一緒に演奏したような気分になった。以前の楽しいことが頭に浮かんだ。本当に珍しいことだ」。このエピソードはたいていの阿炳伝に載っているが、このころ阿炳の生活はますます苦しくなっていた。

 既に54歳なっていた阿炳は生活の苦しさから余り街に出ることもなくなり、音楽に対する情熱も衰えていたようだ。以前の楽しいことが思い浮かぶということは、今はもうそんなに楽しいことがなくなったということだろうし、病にも冒されていた。

 このときの演奏隊は道教音楽で言えば阿炳の後輩に当たるメンバーばかりであった。阿炳自身が認めるように技量が巧みなメンバーばかりで(敢献之、朱勤甫、尤墨坪、趙錫均、王士賢、伍鼎初などのメンバーがいたと伝えられている)、たとえその当時音楽への楽しみがなくなっていても、演奏を聞くことによってまるで自分がその楽隊にいるように感じたことは想像できる。

 しかしこのことはますます阿炳に自分の境遇と音楽に対する情熱との差を感じさせただろう。「阿炳はもう街に出て芸をすることはなくなったが、1948年ころある日の昼下がりに多くの不幸なことに遭遇し、夜には鼠が胡琴の弓を食いちぎり胴部分の蛇皮にも穴をあけてしまった。これは不吉の前兆だとしてそれ以来演奏することをやめてしまった」(阿炳其人其事より)。

 1949年4月23日長江をわたってきた人民解放軍は無錫に進駐する。国民党政府の支配から中華人民共和国の世界に入るわけである。そのことが楊蔭瀏が最後に阿炳と親しく交わり、後世に貴重な音楽を残すことになるのである。

 しかしそれでも「以前のように楽しいことを思い浮かべた」47年の交わりから3年が経つのである。新時代が来たとおそらく感じただろう阿炳にとって、最後の1年間は時間の過ぎるのが早かっただろうか。それとも過去の様々な思いが去来して、それに浸ることが出来た貴重な時間だったといえるのだろうか。

                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

7、阿炳最後の演奏(08年6月23日)

 1950年夏、楊蔭瀏は天津から無錫に戻ってきていた。当時中央音楽学院の音楽研究所にいた楊蔭瀏は、一緒に仕事をしていた曹安和と帰郷して阿炳の演奏を録音しようと準備していたのである。

 1949年10月1日北京の天安門で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言してから1年もたたないうちに、阿炳の録音が始まったのである。楊蔭瀏にとっては音律や音准の研究に埋没はしていても、小さいころに身につけた民間音楽は決して忘れることは出来なかった。

 中央音楽学院はもともと華北大学文芸学院音楽系、東北魯迅芸術学院音楽系、南京国立音楽院、上海中華音楽学校、燕京大学音楽系などが合わさって1950年6月17日に天津で創立されたもので、1958年秋に天津から北京に移されている。今日でも音楽学院としては最も有名で、優秀な生徒は輩出する重点学校でもある。

 楊蔭瀏が天津から無錫に戻ってきて阿炳のもとを訪れ演奏を頼んだが、当初阿炳は演奏を躊躇した。既に数年前から演奏はやめたというのがその理由だった。貧困にさいなまれ生活苦にあえぐ阿炳にとって、たとえ“解放(旧社会から新社会への転換に使われた言葉)”の喜びを感じろといってもすぐには実感できなかったのかもしれない。

 またこれが党の中央文化局か何かの偉そうな人物が来て、民族心の高揚のために人民代表として弾いてくれといわれても阿炳は決して弾かなかったと思う。楊蔭瀏が来たときその研究者としての成長に喜ぶと共に、阿炳は自身が青年で楊蔭瀏が少年だったころの“師弟関係”を懐かしく思い出したのかもしれない。



阿炳の録音場所(「阿炳記念専集」より)
 
 ともあれ阿炳が演奏を承諾はしたものの楽器がない。そこで中山路にあった中興楽器店から胡琴(二胡)をかり、琵琶は曹安和が無錫でちょうど買った新品のを使うことになった。阿炳は楽器を手にすると「私は久しく練習していないので、練習のため3日くれ」と言って街中に消えていったという。

 3日後の夜、1950年9月2日、城中公園付近の「三聖閣」で阿炳の演奏の録音が行われた。そのとき立ちあったのは、楊蔭瀏、曹安和、黎松寿、祝世匡らである。そのときの様子は「阿炳のその人と足跡」(無錫民楽)によると以下のようになる。

 【録音前に楊蔭瀏は阿炳に「先に胡琴を弾きますか、それとも琵琶ですか?」とたずねたら、阿炳はすっきりと「先に胡琴にしよう」と答え、ひざの上に胡琴をおいて調弦して録音を始めた。最初に録音したのは《二泉映月》で続いて《聴松》、《寒春風曲》と録音した。楊蔭瀏、曹安和は天津から録音機を持ってきており、これは当時次非常に珍しい機械だったので録音が終わって再生したとき、阿炳は自分の演奏がそのまま流されることに信じられない気持ちで感激してこう言った。「神がかりだ」。3曲を録音し終わると11時近くになったので阿炳は疲れを感じ、翌日に琵琶曲を演奏することとなった。9月3日夜、曹安和の盛巷の実家で《大浪淘沙》、《龍船》、《昭君出塞》の3曲を録音した。黎松寿は用事で来られず、祝世匡は両日とも立ち会った】

 この演奏のあと楊蔭瀏はさらに何曲か弾いてもらおうと思ったが、阿炳は自分は久しく楽器を触っていないので手がいうことをきかない、君達のために演奏するのはうれしいことだから一つここは我慢して指が動くようになるまで待ってくれないかね、と語り、その年の冬か翌年の夏にあらためて録音しようということになった。

 しかしその機会は永遠にやってこなくなった。1950年12月阿炳は突然喀血して亡くなってしまったのである。
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

8、楊蔭瀏と阿炳の最後の交流(08年6月30日)

 二胡と琵琶曲6曲の録音のあと、阿炳からの申し入れで練習時間をとることにし、今後の録音は50年冬か51年夏に再び行うことが約束された。阿炳が自分の演奏に満足していなかったことは明らかで、楊蔭瀏、曹安和らの強い要望にもかかわらず、とにかく練習する時間がほしいと言い張った。

 師弟関係にある楊蔭瀏にとってもできるならいい演奏を阿炳にしてもらいたかっただろうし、まだ時間はあるだろうと思っていたのだろう。貧しい生活環境が阿炳の体を徐徐に蝕んできたのは想像に難くないが、楽器を持った阿炳はまた別のエネルギーが出たのだろうか、楊蔭瀏に体のことについては何の不安も感じさせなかったのだろう。
 
 何せ楊蔭瀏は阿炳との4回の親密な交流の最後がこの1950年夏の録音のあとであったと語っているのである。楊蔭瀏の「阿炳小伝」(阿炳曲集より)によると、その最後の交流では阿炳と一緒に“三六”を演奏し、阿炳は二胡で、楊蔭瀏は琵琶でその演奏を後追いした、とある。

 「三六は弾撥合奏曲で、別名を《三落》《梅花三弄》といい、江南絲竹8大曲の一つである。旋律は華麗で清新、流暢で活発で、民間で慶事のあるときなどによく演奏され、楽しい祝日の雰囲気にあふれている」(音楽欣賞手帳・上海音楽出版社)とある。

 そんな楽しいひと時を師弟は過ごした。合奏は終わって阿炳はとても気持ちがよかったようで、「残念だけれど私達はなかなか会えないものだなあ」と語った。次ぎもまた録音の時に会えるという期待があったからこそ、ひと時の楽しい時間をすごしたのち約束をしなかったのだろうが、それ以降再び2人は会うことはなかったのである。

 楊蔭瀏は「我々の出会いは三六で始まり三十六で終わった」と最後に語るのみである。

 一つ残念なことというか楊蔭瀏が大きな間違いであったと語っているのが、阿炳の写真を撮らなかったことである。今阿炳の写真として流布しているのは、阿炳の身分証明書の写真である。当時蘇南行政公署・無錫音楽工作室で文化工作を担当していた谷洛は、「あれは50年代初めだっただろうか、阿炳の近所の人が阿炳の部屋の壁に戦争中の身分証がはさまっているのを見つけたのだ。そこに阿炳の写真が貼ってあったので私のところに送ってもらったのだ」と語っている(「阿炳その人と足跡」・無錫文化叢書)。その写真を複製印刷し、民族音楽研究所や関係者に送ったので、阿炳の貴重なイメージ資料として残ったとのことである。

 いずれにせよ楊蔭瀏は阿炳と写真を撮っていない。気心が知れていると本人達も思っていたからこそ、あらためて写真を撮ろうという行動が出来なかったのだろう。

 阿炳は1950年12月4日亡くなる。享年58歳。道士仲間が阿炳の魂が安らかになるよう祈りをささげ、阿炳は道士だけが埋葬される燦山の一和山房に埋葬された。音楽家・阿炳はその出自の道士として旅立った。

                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

9、楊蔭瀏の研究は続く(08年7月7日)

 楊蔭瀏らが録音した阿炳の6曲は幸いなことにレコードとして世に出された。当時の中国音楽家協会主席だった呂驥(1909年〜2002年)が阿炳の録音を聞いてこれはすばらしいと感じ、楊蔭瀏と相談して録音を借りていった。その後半年ほどしてから中央人民放送局が阿炳の音楽を流したので、レコード化されていたことがわかった、と楊蔭瀏と共に録音に立ち会った曹安和は回想している。

 呂驥は1935年中国共産党に入党、37年には延安に赴き、49年新中国成立後は中華全国音楽工作者協会主席に任命されるなど、早い段階から党の音楽方面での指導者だった。1950年から51年は新中国が成立してまだ間もないころで、国内的にも対外的にも“民族の団結”を図る必要があり、音楽特に民族音楽は国民の心を一つにさせる手段として効果的だったのだろう。

 阿炳は失明後貧困の中で生活してきており、その庶民性からいっても貴重だったし、その音楽には何より人の心を打つ音楽性があった。特に党の工作として利用されなくても結局は庶民の人気を博したと考えられるが、国家的なバックアップの中で中国民族音楽の代表として世に出される。

 “偉大な民族音楽家”などと余りに国家的な賛辞については、もし阿炳が生きていたならきっとそっぽを向いて「そんなのは役人が勝手に言うだけさ。おいらは好きなように音楽を弾くだけ。無錫のみんなに聞いてもらえばそれでいいのさ」と語るだろう(というのは筆者の勝手な思いかな?)。



今に残る阿炳の録音曲(「阿炳記念専集」より)
 
 ともあれ楊蔭瀏と阿炳の交流は1950年に終わった。楊蔭瀏はもちろんそれからも音楽研究者としての道を歩む。「道家音楽が楊蔭瀏を啓蒙した文化であったとしたら、キリスト教音楽は楊蔭瀏の本来の仕事であった。そして仏教音楽はこの中国音楽の泰斗にとっては音楽学で研究する対象であり存在であった」(無錫文化叢書「楊蔭瀏」より)。

 楊蔭瀏は仏教音楽の研究も進めた。1953年北京の智華寺で間近に仏教音楽に接し、その歴史と音楽形態の初歩的な研究を行った。1956年には中国でも初めてといわれる湖南省44県で湖南民間音楽の省全体調査をおこなった。内容は仏教音楽、道教音楽、巫教音楽、儒教音楽の4つに及び、特に仏教音楽については現場を訪問、現場録音を詳細に行った。

 楊蔭瀏自ら湖南仏教会3傑の1人である博明法師をを訪れ、詩や譜を写し、大量の文案を分析した。それらのまとめた「湖南音楽全体調査報告」は1960年音楽出版社から出版され、それ以降の中国民間音楽や楽器の全国的な範囲での資料の収集、整理、編集のモデルともなったのである。

 楊蔭瀏と阿炳との交流は個人としての音楽観の形成に大きな影響を与えただろうと思う。そして楊蔭瀏それを全国的、民族的な音楽観の形成、つまり音楽史の研究に全ての精力を注ぎ込むのである。

                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

10、楊蔭瀏の最後の研究(08年7月14日)

 陽蔭瀏の調査・研究はあくことなく進められたが、生涯でもっとも大きな仕事としたのが中国音楽史を編纂することである。各地に自ら赴いて実地で音楽にふれ、地の音楽奏者たちと親しく語ることが何より好きであった陽蔭瀏だが、阿炳と手ずから楽器演奏をする機会が永遠になくなった感じたときに、本当の意味で中国音楽史を完成せねばならなくなったのだろう。

 陽蔭瀏は中国音楽史の編纂にあたって3つのことに重点を置いた。1つは音楽史である。陽蔭瀏は“音楽史は音楽の中にあり、音楽からはなれることはできず、書の中にあるのではない”ことを銘として、必ず現地に足を踏み入れなければならないことを理解していた。

 2つ目は中国の音楽史を常に考えることである。当たり前であるが中国音楽を研究するには中国音楽の実際から出発してその中に現れる規則性を取り出し、そこから導華なければならないということである。3番目は古代音楽史である。



楊陰瀏(「無錫民楽」・江蘇人民出版社より)
 
  陽蔭瀏の足跡をたたえる評伝は「陽蔭瀏は音楽史を著述する際に、6〜7千に及ぶ学術カードを作り、話を聞きに訪れた民間芸人は数百人、描いた図は1000以上。また明、清両代の楽律書籍の中で誇張された陰陽五行問題をはっきりさせるために算命(占い)さえも学んだほどである」と語っている。

 上下2冊、65万字の《中国古代音楽史稿》は、1981年人民音楽出版社から出版された。陽蔭瀏は喜びに浸ったが、“私の音楽史はまだまだ「史稿」であり、決して説明は充分ではなく、完成品ではない”として、後世の研究者に期待も寄せたと伝えられている。

 日本の中国音楽愛好者にとってはなじみが薄い陽蔭瀏だが、阿炳というキーワードで考えれば陽蔭瀏がいなければ二胡や琵琶の曲に親しみを持てなかったともいえる。20世紀に2人の人生が短い期間であれ幾度となく交差したが、その2人ももはや歴史の人となっている。

 1984年2月25日、陽蔭瀏は北京で亡くなった。享年84歳。
                                                    (参考文献:「無錫民楽」)

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