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書 籍 紹 介


 
「苦縁-東日本大震災 寄り添う宗教者たち」  
                    
村敏泰・著 (徳間書店・刊、1,900円
                                (著者プロフィール http://tkitamura.web.fc2.com/ )

 東日本大震災から2年が過ぎました。オフィス・エーでも「オフィス・エー便り」の欄でたびたび震災関係の話題を取り上げてきました。もっともそのほとんどはこの国の政府・官僚組織の不作為に対する批判や、本来現場にてその政府の不作為を厳しく批判し被災者の声を取り上げなければならないはずのマスコミの怠慢への非難でした。

 もとよりそれほどの批判や非難をなす資格がお前にあるのかと問われればなんとも言えません。しかし少なくとも震災復興関連の予算が平然と各省庁で流用されて無駄に使われていること、例えば国民が寄付した義捐金のその多くが被災者に直接・間接にせよ手渡されていないこと、あるいは福島第1原子力発電所でメルトダウンした核燃料棒の実態はまだ全く分かっていないこと、廃原発の撤去まで数十年どころではない年月がかかること、などなどは常に明らかにすべきことだと思っています。

 そして何より現地に住む人々の生活と発せられる声を丁寧に拾い上げ、それを政府の施策にぶつけていくことも必要だと思います。しかし今のマスコミはそんな厳しい声は取り上げません。記念日に良くある“家族のその後・・”的なルポで、何かしら現地の状況を伝えた気分になっているとしか、筆者には判断できません。

 そんな状況の中、心から現地の声を伝えるルポがうまれました。「タイトルの『苦縁』とは『苦』を契機に生まれた人と人のつながり、寄り添うという行いによって生じる、生活上の付き合いレベルを超えた心や魂の内奥にまで関わる双方向の連帯、という意味を込めて私が提示した言葉です」と語る著者・北村敏泰さんは、著作「苦縁ー東日本大震災 寄り添う宗教者たち」で、被災地での生活支援や心の支えに必死に働く人々の姿を描写しています。

 例えば自らの父や息子を津波で失いお寺も崩壊したものの、その悲しみの中で町民の葬儀や合同法要を行い、地元の人々とのつながりを深める僧侶。全校児童の7割が亡くなった石巻市立大川小学校の門前の祭壇には子をなくした親が、苦痛と悲しみの中で花を手向けています。そこに夕刻、一人現れた僧侶は毎日持参した線香を祭壇にあげて念仏を唱えます。「絶望的な悲嘆を前に、祈りや供養がどれほどの慰めになるか分からない。それでも来る日も来る日も読経に通うしかない」と僧侶は語ります。

                   

 突然の理不尽な死に向き合ったとき宗教者は人を支えられるのでしょうか。怒りをどのように表わせるのでしょうか。もとよりこれは宗教者だけの問題ではありません。しかし「人と向き合う」という規範を常に持ち続けるべきだと考えると、彼らにとって何よりその場に居続けることが必要だったのでしょう。

 著者の北村さんは宗教者ではないし、特定の信仰も持ってはいません。読売新聞で編集局部長を歴任、在職中から宗教、「いのち・心」、エンディング問題などをテーマに取材活動をしてきました。2011年に同社を定年退職。フリージャーナリストとして活動を続けながら、宗教・精神文化専門紙の「中外日報」(京都市)特別編集委員に就任し、活動を続けています。

 「苦」の現場の中の「縁」。言葉で説教するのではなく、何よりそこにいることで人々を支えました。宗教が持つ宗教性や信仰の具体性が、問われずとも表れるのです。もちろんこの縁は宗教だけのものではありません。自治体、共同体、自治会、隣近所・・、言葉は何でもいいのですが私たちの周りの生活にも存在しているはずです。

 さまざまな苦難に対抗して取り組む人々の姿を見るだけでなく、「なぜ取り組むべきなのか」、「なぜこの地で動くのか」と常に自己に問う彼らの行動にこそ注目すべきなのでしょう。私たちの生活のすぐ側に同じ問題があるのではないかと問うことにもなりますから。ぜひこの本を読んでください。

                                                                       中田勝美
 

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